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記憶ですー
そう説明したのは、セルキヤだった。セルキヤは法王と同じ神職だったと語ったけれど、法王より穏やかな口調をしていた。
尖耳族のすべての記憶を持つカナン。それは身にあまるほど重いさだめだ。もしかしたら、それは地上から尖耳族の痕跡を消すためだったのかもしれない。
あれが、法皇の言っていた、コトシュの谷か。すり鉢のような谷底に、建物のあとらしきものが見えるよ。崩れかかった一本の塔。迎えの船は、塔に宿るように浮かんでいる。
足元に気をつけて。その身を一足飛びに谷までもっていければいいのに。小さな体で必死に岩にとりつくカナンを見ていると、そう思えてしかたない。
おれの心臓は二度と動かない。肉体から解放されると、こんなにも自由なのか。こうしてなんでも見ることができる。視界はとてつもなく広がる。
深く刻まれたビルカの峰。そのむこうには、噂たがわぬ広大な砂漠がある。大陸を半分に仕切るように流れるイム河を海まで下っていけば、肥沃な土地に多くの街や村がひらけている。
火の手が上がっている場所がある。
あれは覇王の軍か、それとも……。
ビルカへ行くなら北西に進路を取るべきだ。しかし、【セルキヤ】がどうしても一箇所だけよらなければならない村があると、言い張った。
「今でも住んでいるなんて、保証はあるのか」
「大丈夫です。他の部族とちがって彼らは時期がくるまで、クァナ村に住むと言っていましたから」
尖耳族は、七つにわかれて住んでいたと説明された。そして、『約束の日』にはクァナ村で合流しビルカへ向かうこと、としていたらしいのだが。
「いつの話だ?」
「かれこれ……八〇年ほど前でしょうか」
まるで、二・三日前といった口ぶりでさらりと話した。
「あてになるのかよ、そんな約束が」
そこで【セルキヤ】のカナンは、真顔できっぱりと言う。
「尖耳族は契約を何より重んじるのです。それをたがえるはずは、ありません」
めまいを覚えた。
ここ何日かで、カナンの奇行ー性格がころころ変わるーに少しは慣れたつもりだった。そして、いちばん話が通じやすいと思っていた【セルキヤ】のときですらこのざま。ビルカへのみちのりはまだ遠い。
「せめて馬があればな」
クァナまでなら馬を走らせれば、ものの半日でたどりつけるだろうが、おれたちは馬が買えるほど懐は豊かではなかった。
冷静になっていま考えると、おれはカナンを残り少なかった砂金をなげうって買ったことになる。
『安い買い物だったな』
そう言ったのは、大風呂敷の【カシャス】だ。どう考えても、大損だったとおもう。しかも、カナンの所持金たる宝石の大半は研磨されていない原石だった。
戦乱に明け暮れている今の時代、馬は高値で取引されている。いまさらそんな高級品を買えるはずがない。
『だいいち、わたしたちに乗馬の心得はありませんよ』
なとど、涼しい顔し【セルキヤ】。
『わたしは神官として神殿に勤めていました。移動の時には、己の足のみ。それに体の大きな馬には、山の細道を行くには適していませんでしたからね。そもそも馬を飼育していなかったのです』
そんなわけで、自分たちの足しか頼るものがないわけだ。
『まめが潰れた』
カナン本人は、なにかにつけて休む口実を作ろうとし、そのたびおれはカナンの尻をたたく……。ここ数日は、そんなことの繰り返しだ。
「おなかがへった」
ふいにカナンに戻ってそう言った。
「さっき朝食をすませたばかりだろう」
目のあたりが引きつるのを感じながら、カナンを見ずにおれは答えた。
「あんなんじゃ、たりない!」
なおもわめくカナンを無視して、歩みを速めた。カナンの不平不満にいちいち答えていたら、今日中にクァナまで着けやしない。
カナンはふて腐れたのか口を閉ざしておれの後をついて来た。長雨が終わったあと、強い日差しが照りつける季節に変わり始めている。じっとしていても汗ばむ。
額に浮かんだ汗をぬぐいながらカナンを見ると、またフードをずらしていた。
「フードをかぶっていろよ。じき村にぶつかるはずだ」
頬や首筋にかかる髪がうっとうしく、おれは後ろでひとつに縛った。ぱっとカナンの表情が明るくなる。
「クァナに? もう着くの」
「ちがう。ようやく半分ってとこかな」
とにかく、フードを直してやった。カナンはなにが嬉しいのか、笑顔のままだ。ここまで上機嫌なカナンは初めて見る。
「なにが嬉しいんだ。にやけて」
「だって、もうすぐ仲間に会えるのかと思うと……。初めてだから。同族に会うのは」
「おまえの村にいただろうが」
カナンは首を横に振った。
「じかに会ったことはないよ。いまは、この中に山ほどいるけどさ」
カナンは自分の頭をつついて見せると、珍しくおれをせかした。釈然としないまま、おれたちは、先を急いだ。
たどり着いた村は静けさに包まれたところだった。陽が照りつけ、しらっ茶けた砂ぼこりが舞い、動いているのは子どもばかり。大人たちは日影で日光をやり過ごしているようにみえた。よく見ると働き手の男たち姿は無く、子供と老人ばかり目立つ。
ここで一休み、とまではいかないが、小休憩することにした。先日の悶着で欠けた剣を直さなければならなかったからだ。
「覇王の軍なら、八日まえにここを通って行ったよ」
鍛冶屋の老人は、柄の紋章を一瞥するとおれのほうには目もくれず、一心に剣を打ち直し始めた。その姿は、全身でおれを拒否しているようにも思えた。
軍の話を聞いて、にわかにおれは落ち着きを失った。
「どこへ向かったか知らないか」
できるだけさりげなく質問した。老人は視線を手元から移さずに、重たげに口を開いた。
「隣のクァナ村の尖耳族を討ったあと、キュリガの街へ向かったって話だ」
それ以上の無駄口はたたかなかった。老人は仕事に専念する。
肩の力を抜いた。とりあえず軍は近くにはいないだろう。しかし、尖耳族の村を討った……となると、七つの部落のうち、覇王に落ちていない村はいくつだろう。頭の中で、静かに計算してみた。
……もしかすると、尖耳族の村はひとつも残っていないのではないか。
どれほどカナンが仲間と会うことを切望しても、ビルカをめざしている尖耳族はカナンひとりなのかもしれない。
おとなしく店の前の木陰で待っているカナンの後ろ姿を見ながらこの考えに及んだとき、おれは殺気立った視線を背中に感じた。
振り返ると、老人が研ぎ終わった剣をもって立っていた。
「ああ、ありがとう。代金はこれでいいか?」
金の指輪を無言で受け取りながらも、老人の表情には険しいものがあった。無気味なものを感じ、即刻ここから立ち去ったほうがいいように感じられた。
「カナン! 行くぞ」
ついさっきまで、店の前にいたはずのカナンは、一軒の食堂の前に立っていた。手をひこうとしたおれの顔を、ねめつけるような真剣なまなざしでみつめた。
「いい匂いがする」
そういったきり、その場から動こうとしない。無言のまま押し問答になったが、そこへ食堂の女将がふいに声をかけてきた。
「いらっしゃい。もう準備はできてるよ」
明るい笑顔につられて、カナンの手を引き店の中へ入った。昼にはまだ少し早く、客はおれたち二人だけだった。
「食事をたのむよ。二人分」
前金で勘定をすませて、できるだけ目立たないよう奥の壁際の席をえらんだ。カナンは、あきらかに興奮ぎみで、頬を紅潮させしきりと店の中をみわたしている。
店は小さく古かったが、手入れがゆきとどいていた。さりげなく花を飾り、床や柱も黒光りするほどみがかれ、独特の風格をもっている。
ほどなく料理が運ばれてきた。
卵入りの焼飯、野菜を煮込んだスープ、大皿に盛られた汁のしたたる肉の串焼き。小皿には野菜の酢漬け。そしておれには葡萄酒と、カナンには果物を付けてくれた。
卓のうえに所せましと並べられた料理を前にして、カナンは戸惑いを見せた。なかなか料理に手をつけようとしない。
「どうした。うまいぞ」
さっそく肉にかじりつきながら、カナンに声をかけた。
「食べられるものがないよ。見たことないのばっかり……」
そうしながらも、よほど腹を空かせているらしく目は料理に釘づけだ。
「じゃあ、よこせよ。おれが食ってやるから」
おれが皿に手を伸ばしかけたとたん、カナンは意を決したように焼飯を口に運んだ。よせていた眉が一気に下がった。
「どうだ。うまいだろう」
もう返事はなかった。答えは聞くまでもなかった。カナンは皿に顔を突っ込むようにして一心不乱に食べ始めたのだから。
あらかたの料理をたいらげ、満足げに果物を手に取ってカナンが言った。
「おいしかった。トールが作るのよりもずっと!」
「悪かったな。料理は苦手だ」
葡萄酒の残りを一気に飲み干しながら、果物を嬉しげにながめるカナンを見た。
「それだったな、確か。おまえが盗んだやつは」
カナンがうなずいた。果汁がたっぷりの紅玉のようなざくろだ。
「あんまりきれいな色だから、欲しくなったんだ」
「そうだな……おまえの髪の色によく似ている」
そういうとカナンは、はにかむように笑った。……あまり考えたことはなかった。なにがきれいとか、美しいとか。いつも身を置いていた戦場は、記憶の中では色をもたない。
常に暗雲がたちこめた殺伐とした情景。それがおれの知っている世界の総てだった。いや、生まれた村が失われるまでは、鮮やかな色のなかにいたはずなのに。
カナンといると腹の立つことも多いが、たまに不思議と心が安らぐときもある。
「あんたたち、どこまで行くんだい」
女将が食器をさげながら声をかけて来た。ほかに働き手がいないらしく、おれたちが食事をしている間もきびきびと働いていた。
「クァナ村まで」
「あそこの村に何の用だい」
口調が急に厳しいものになった。疑うような目つきでおれたちを交互に睨んだ。そんなことにも気がつかないのか、カナンが明るい声で答えた。
「仲間に会うんだ」
「そんなはずは……まさか!」
止める間もなく女将はカナンのフードに手をかけ布をはねのけた。
「ほんとに尖耳族なんだね」
女将は目頭をおさえ、泣き出すのをこらえているようにみえた。思いがけない動揺に、おれもカナンもまごつくばかりだ。
「あの村のに尖耳族はもう一人もいないよ。覇王が総て焼き払ってしまった」
カナンの手からざくろが滑り落ちた。前掛けの裾で涙をぬぐいながら女将は続けた。
「覇王はなんであの人たちを狩るんだろう。私たちはうまくやってたさ。同じ物を作り育て、行き来も盛んだった」
「おれの村もそうだった……」
思わず答えてしまった。女将が顔を上げ、しげしげと内心あせっているおれを見た。
「……だからこの娘に付き添ってるんだね」
ひとり合点したらしく、おれや村のことを深く追及せずに終わり、また話を続けた。
カナンは蒼白になっていた。卓上の手が細かく震えている。おれと女将のやりとりなどまるで耳に届いていないようだ。
「尖耳族とわたしらは近しくしていた。そのことを知っていたんだね、覇王はここの村人が尖耳族に加勢できないように、クァナを襲う前にあらかじめ男たちを兵にとって行っちまった」
老人と女子どもしかいない村。覇王は……容赦しないのだ。尖耳族を狩ることに関して。
『わたしの言葉が覇王に多くの血を流させるの』
幕屋にいた彼女を思い出す。悲しみに顔を曇らせばかりの彼女の声を。
「今年は約束の時だ。みんな喜んでいたんだよ。ようやく御使いが訪れるって。明日はビルカに旅立つという日にいきなり軍が……」
「そんなはずない!」
カナンは気丈にも反発した。けれど、あきらかに平静さを失っている。口の中で絶えず聖句らしいものを唱たままだ。
「落ち着けカナン。クァナには寄らずにまっすぐビルカに行こう。もしかすると、軍の手から逃れた仲間に会えるかも知れない」
気休めにしかならないとはわかっているが、今はこれしか言えなかった。
「すぐ出発しなきゃ」
「待て、もう少し休んでから……」
しかしカナンはおれの言葉に耳を貸さなかった。おれが言い終わらないうちに震える危なげな足で立ち上がり、いきなり外へ駆け出した。
慌てて後を追い外へ飛び出したおれは、立ちすくむカナンをみつけた。
全員と思われる村人がそこにいたのだ。老人たちは手に鋤や鍬といった農具や手近にあったらしい棒などを持ち、子供らは石を握りしめている。ただならぬ雰囲気だった。剣呑な瞳でおれたちを凝視しているのだ。
とっさにカナンを後ろにかばい、おれは訳もわからず群衆と対峙した。
「どうしたんだい、一体」
後ろから女将の声がした。先頭に立つ目立屋の老人が、おれを指さして叫んだ。
「そいつは軍人だ!」
悲鳴をあげた女将が、カナンを店のなかへ引き戻した。それが合図になったように、群衆は一斉におれに襲いかかった。
剣を抜く間もなかった。憎しみのすべてを込めるように、老婆が思い切り鍬を振る。それをよけることができても、相手は数十人にも及ぶ。
痛みは初めの一撃だけで、あとは防戦に無我夢中だった。
子どもの投げた石が額を割り、足がふらつく。その隙を見逃さず、群衆が雪崩かかる。袋だたきの状態だ。息が出来ないほど体じゅうを痛めつけられた。おれが倒れて動けなくなっても、攻撃は一向に止むことがなかった。それだけ、軍への恨みの深さが知れた。
絶えず打ちつけられる棒から身を守ることもできずに、意識が遠のき始めた。……ここで死ぬのかもしれない。軍の追っ手ではなくこの村人に。
視界が朱に染まり、鬼のような形相をした人間が見えるばかり。もう指一本動かすことも出来なかった。
「止めないか!」
頭上で声が響いた。聞き覚えのある声だが思い出せない。彼女なのか?
『あなたの手で終わらせて……お願い』
攻撃が止むと同時に誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「トール!」
「タチアナ……?」
口をついて出たのは、彼女の名前だった。
「これは我に従う者。軍とはかかわりがない。我は最後の法皇カシャスの血を引く一族の巫女、カナン。これを見よ」
なんとか薄目を開けて見ると、おれを取り囲んだまま人々は一様にひざまずいている。そして、すぐ傍らにはカナンがいた。胸元から宝珠をとりだし、高く掲げた。
とたんに強烈な光が宝珠からほとばしる。どよめきとともに村人はひれ伏した。それとは逆におれは光りにひきつけられるように、体を起こした。
「意外とだらしがないな。ひとの事をとやかく言えるほど強くないな」
カナンと名乗っておきながら、どうやらカシャスらしい。いつもの冷徹な目でおれを見下ろした。
「ぬかせ……不意打ちだからだ‥…」
そう答えるのがやっとだった。記憶はいったん、そこで途切れた。