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人々に見捨てられ、崩壊の一途をたどる廃工場。落ちかかった屋根の隙間からは月の光が差し込んでいる。その冷たい光の中に一人の少女の姿が立っていた。
破れた窓のガラスから夜風が入り込み、少女の白髪をなびかせる。
少女が着飾っているのは純白のドレス。大きく開かれた背中からは、ドレスと同じように滑らかで真白い肌が薄く輝いている。
月明かりの下に立つ、全身を白く染め上げた少女の姿は、まるで神聖の天使のようであった。
……足元に、細切れになった死体が散乱していなければ、そのように比喩できたであろう。
「終わったよ。見えるかい?」
少女の澄んだ声色が、細かな埃が飛び交う廃工場の宙空に反響する。しかし、少女が放った声は虚無の空間に向けたものではなく、彼女の体内に組み込まれた通信機に向けたものである。
しばらくして、体内の通信機からノイズの混じった女性の声が返ってくる。
『お前の視覚共有デバイスは破損しているから、こっちからじゃ何も見えない』
「そういえばそうだったね」
『……プリムラ。お前が見る限り、そこに目ぼしいものはあるか?』
通信機の向こうにいる女性から『プリムラ』と呼ばれた少女は、周囲に溢れる廃材の山を意味も無く見渡し、地面に横たわる崩れかけの死体を素足で転がしながら、通信機に返答する。
「そんなものがあったなら、呑気に君とおしゃべりなんてしていないさ。ここにあるのは、僕に穴だらけにされてしまった、かわいそうな死体くんだけだよ」
プリムラが言うと、通信機からため息が聞こえてくる。
『……はあ。何も無いのなら直ぐに帰ってこい。あと、死体はちゃんと処理する事』
「了解したよ」
プリムラの返事の後、つんざくようなノイズが一瞬だけ鳴り喚き、通信機の接続が途切れた。
「さて、死体くん。……残念だけど、君とは短い関係になりそうだ」
足元の死体を見下ろしながら、プリムラは降り注ぐ月光に向けてしなやかに右手を掲げる。すると、青い光を纏った巨大な金属の塊が薄闇を切り裂くように現れ、少女の身体へ勢いよく吸い寄せられていった。
高速で迫りくる金属の塊は、プリムラの身体に触れる一歩手前で急激に速度を落とし、そのまま彼女の周囲を浮遊し、ゆっくりと旋回し始めた。
プリムラは細長い雫型をしたその無機質の塊に対して、恋人のように優しく寄り添い、愛おしく囁く。
「『オブコニカ』、このままでは死体くんは凍えてしまう。君の力で彼を暖めてあげよう」
オブコニカ。
彼女がその名を呼ぶと、周回する金属の塊は涼やかな音を響かせながら、雫の形を崩していき、黒々とした物々しい重火器へと変貌した。その巨大な兵器をプリムラは小さな手のひらで掴み取る。
破壊を撒き散らす黒い巨塊と可憐に微笑む白い少女。あまりにも歪な組み合わせだった。
「さようなら」
プリムラが別れの言葉を告げると、重火器の先端、大口径の銃口から群青色の炎が吐き出される。猛炎は横たわる死体を柔らかく包み込み、皮膚も、肉も、骨も、血の一滴すら黒い煤に変えた。
「お疲れ様、オブコニカ」
再び囁くプリムラ。炎を吐き出す恐ろしい兵器は、元の細長い雫の形に戻っていく。そして、少女の背後へと漂い動き、守護者のように張り付いた。
プリムラは屋根の隙間から降り注ぐ月光に手をかざし、何処か名残惜しそうに溜め息を漏らすと、廃工場の冷たい床をぺたぺたと歩き、出口を目指した。
▽
風化していく廃墟の群れから、青い空気が風に吹かれて巻き上がった。その神秘の青色は、生命に様々な病を引き起こす恐怖の象徴であり、数千年の歳月を掛けて築かれた文明を、一日にして滅ぼしかけた『ティフォン』と呼ばれる大量破壊兵器の残り香である。
この青く煌めく微小物の中を歩く方法は三つある。一つ目は防護服を着込む事。二つ目は人間をやめる事。三つ目は神に祈る事。
三つ目の方法を試した者は、しばしの歩みを堪能した後、皆死んだ。全身を巨大な腫瘍に蝕まれ、青い血液を垂れ流しながら死んでしまった。彼等が祈りを捧げた神とやらは、世界が炎に包まれた時に何処かに消えてしまったらしい。
少女プリムラは、廃工場の外、青い風の吹き荒ぶ荒野を二つ目の方法によって歩いている。彼女の精神は人間のそれだが、かつて肉体だった物は機械へとすり替わっている。
およそ人体と呼べる部分は眼球を除いた頭部だけで、あとは人の外見に似せた人工皮膚と機械肢、そして、機械肢と肉体の連結を可能にした青い血液で構成されている。
少女の身体に流れる青い血は、ティフォンが世界を焼いた後、突如として大地から湧き出し、滅びゆく人類の科学技術を急速に発展させた。人類にさらなる進化をもたらすと言われたこの神秘の血液は、古代神話の神の血に擬えられ、『イコル』と呼ばれた。
プリムラが火炎放射器に変形した金属の塊に触れると、同時に彼女の背中から青い光が放射状に浮かび、小さな身体がふわりと宙に舞い上がった。
少女の身体を宙に浮かべた金属の塊は強力な武器であると同時に、機械肢内のイコルを飛行に必要なエネルギーに変換する装置でもあった。それ故、彼女達はこの装置を『機械羽』と呼んだ。
機械羽によって浮遊するプリムラの身体は、そのまま空へと飛び立ち、雲を抜け、夜闇の彼方に見える市街地へと翔けていく。
月光に霞む夜空を切り裂くように、青色の光線が流れた。純白の少女の、美しき天の道行きである。
▽
毛細血管のようにヒビだらけになった外壁を、猥雑とした路地に晒す建物があった。その二階の歪みかけの窓を開けて、煙草をくゆらせながら、夜明けを待つ男が一人。
男の名前は『ウズ・コウゾウ』と言う。
ウズはかつて、隆盛を誇った大企業『アマバネ工業』の機械肢エンジニアだった。彼は仕事をそつなくこなす優秀な社員で、部下や上司からも多大な信頼を得ていた。そして、才色兼備な妻との仲も良好であった。
しかし、それは過去の話である。
最終戦争後、世界中にあった国家はティフォンの火によって消滅してしまった為、代わりに戦争被害の少ない土地に根付いていた大企業が各地の統治を行っていた。アマバネ工業もその企業の一つであり、ティフォンの被害を免れた本社の近隣都市を纏め上げ、『アマバネ市』という企業都市を創り上げた。
企業が各地を統治する体制は、生き残った民衆にも案外すんなりと受け入れられ、世界は復興への道を順調に進んでいた。
万能の青い血液『イコル』が発見されるまでは……。
イコルは汎ゆる自然科学に対して、革新的な反応を起こす物質であり、これを大量に獲得する事ができれば、食糧、医療、エネルギーなどの様々な分野における問題を手早く解消する事が可能になると言われた。
当然の如く、アマバネ工業もこの万能の血液の発掘に執心し、可能な限り多くの人材を使って、アマバネ市の周辺地域を徹底的に調査し、昼夜を問わずイコルを探させた。そして数年後、アマバネ工業の念願は叶い、イコルの発掘が成功する事となった。
イコルの発掘後、アマバネ市は他の追随を許さない圧倒的な成長を見せ、滅びかけの世界の中で最も繁栄した企業都市となった。しかし、この最盛の時代も一瞬にして潰える事になる。
新興複合企業『ソフィア』。
最終戦争から数年、突如として興ったその得体の知れない企業は、世界各地の企業都市を強大な武力によって制圧、吸収していった。アマバネ工業もこの謎の企業の勢いには警戒しており、いつか来るであろう両者の衝突に向けて、軍事力の増強に注力していた。
そして、直ぐにソフィアとの激突の日は訪れた。
アマバネ工業が砂漠地帯に発見したイコルを発掘している最中、ソフィアの尖兵が現れ、攻撃を仕掛けてきたのだ。かくして、アマバネ工業とソフィアのイコルを巡る企業間武力戦争が始まった。
戦況は、最初から最後までソフィアの優勢にあった。ソフィアがアマバネ工業の攻勢を一片たりとも許さなかった理由には、彼らが禁忌的な兵器を平然と使用した事にある。
『インカーネイト・イコライザ』。人体に大量のイコルを注入し、骨格や筋力を強化した人間兵器である。
イコルは単純な肉体強化を促すだけに留まらず、摂取者に不死に近い生命力を与え、特異な能力を発現させた。また、イコルを人体へ注入する際、摂取者の性質や思考を意のままに制御する洗脳方法をソフィアは編み出していた。
軍力増強の為の人体へのイコル注入。非人道的な悍ましい行為であると世界各地の企業からも非難されたが、これによりソフィアは、只の凡人を不死身の肉体と屈強な精神を持った最強の兵士に作り変えた。
アマバネ工業はインカーネイト・イコライザに対抗する為、人体と機械肢を複合的に組み合わせた『メカニカル・イコライザ』の開発を急いだ。しかし、時既に遅く、アマバネ工業はソフィアとの戦争に敗北、各組織は解体、もしくはソフィアに吸収された。
アマバネ工業の崩壊は、社員や企業都市であったアマバネ市の人々に多大な影響を与えた。多くの人々が、イコルの実験の為にソフィアの研究機関に移送された。
しかし、メカニカル・イコライザの開発に携わっていた一部の社員達は、アマバネ市外へと逃げ去り、アマバネ工業の復興と、ソフィアからのアマバネ市民の解放を目論んでいた。
ウズ・コウゾウもその一人であった。妻と離別してしまった彼は、既に開発が終了していたメカニカル・イコライザの内の一人を回収し、アマバネ市外の北東にある、企業に属していない小さな街に身を潜めていた。
一本目の煙草を吸い終わったウズは、日の出と同時に新しい煙草に火を付けた。すると、二階の窓だと言うのに、顎の真下からするりと白い腕が伸び、か細い指の間に挟まる何者かの煙草が火を貰いに来た。ウズはその煙草に火が着くまで、身体の動きをじっと抑える。
「プリムラか」
紫煙を吐きながら呟くと、ウズは真下へ視線を向ける。そこには、純白に染め上げられた少女が巨大な金属の塊を椅子代わりにして浮かんでいた。
「やあ、コウゾウ。アネモネの調子はどうだい?」
プリムラは煙草を咥えながら、ウズと同じ高さまで浮上した。
「あまり良いとは言えない。相変わらず肉体と機械肢間のイコルの循環率が悪い。今のままでは下手に機械羽を動かしても、無駄にイコルを消費するだけだ」
ウズは淡々と語った。それに対してプリムラは無表情に彼の顔を黙視するだけだった。呆れ、怒り、どちらとも言えない感情を持った少女の視線が、ウズの心中を悩ませる。
「コウゾウは冷たい奴だね。アネモネが可哀想だ」
しばしの沈黙の後、プリムラの発声デバイスから紫煙と共に放たれた言葉だった。なんと答えていいか分からず、ウズは眉間に皺を寄せた。困り果てるウズを見て、プリムラはほくそ笑む。
「……それにしても、この煙草は旨いね。コウゾウは冷たい奴だけれど、煙草を選ぶセンスだけは認めてやってもいい」
「そいつはどうも。……いつも思うんだが、煙草の味、分かってるのか?」
ウズが尋ねると、プリムラはとぼけた顔をした。
「実はさっぱり分からないんだ。でも、なんとなく気分が良くなる」
プリムラはそう言って、酸素を取り入れる為の機械の肺に、煙を入れた。
「あまり深く吸い込むと、メンテナンスの時にマキバにバレるぞ。口臭は隠せても、肺のフィルターには臭いが染み付くからな」
「いいじゃないか、スリルがあって。コウゾウはそういう経験無い?」
「……無いな」
ウズは煙草の火を消して、窓の外へ投げ捨てた。くしゃくしゃになった煙草は風に流され、街の外に広がる荒野へ吹き飛ばされた。
「プリムラ。それを吸い終わったら、さっさとマキバの部屋に行けよ。随分と心配していたからな」
「愛される者は辛いね」
「……頼むぞ」
くすりと笑うプリムラを見て、ウズは渋い顔をしながら窓際を立ち去った。プリムラは彼の言葉通り、煙草を吸い終えると、彼女の専属エンジニアである『マキバ・ヒナカ』の元へ向かった。