時は幕末、川越と江戸を結ぶ物流を担った新河岸川。その拠点の一つ上福岡の河岸にある裕福な商家に奉公に上がった少女ひさの悲恋の物語です。
1
敷石の化粧目地まできれいに掃いて、ひさはお店の表門をくぐった。門前を竹の箒で軽く清めると、下げてきた水桶に手を突っ込む。
「ひゃっけぇ」
と、思わず声をあげてしまった。
真冬の水拭きは手が冷たさに慣れるまでが、つらい。それでも黒い格子の引き戸を拭いていると、身体がほかほかと暖まってくる。
門前の小道はゆるい下り坂となっている。その先は船着き場。そして新河岸川の豊かな水がゆったりと流れている。
あたりはまだ暗い。だが川のはるか向こうの空が、薄いむらさき色に輝きはじめている。 雲間を縫って射し込むいく条かの光りが、揺れる川面に小さなきらめきを撒いている。
ひと息つきながら川面をみつめていたひさの耳に、かすかな歌声が聞こえてきた。
「――ハアー
船がついたや
藤乃屋の河岸に
はやくとれとれ
おもてもや――」
男の声にしてはややかん高い、朝もやに溶け入るような澄んだ声。ひさには聞きおぼえがある。上南畑村(現・富士見市)の持船船頭、源五郎に違いない。源五郎はそのいかつい容貌に似ず、美声で沿岸の河岸場にその名が通っていた。
甘酸っぱいような想いが、鳩尾のあたりに沸く。ひさはこくりと、唾を飲み込んだ。源五郎船には久助が若い衆として乗り組んでいる。
久助と最後に会ったのはいつのことか。ひさは思ってみる。それは考えるまでもないことだ。前の年の五月の晦日、一揆勢がこの福岡河岸(現・上福岡市)を襲う少し前のこと。もう半年を過ぎている。
(無事だったろうか……)
坂道を船着き場までかけ下りて行きたい気持ちを、ひさはようやく堪えた。
血の気の多い久助のこと。一揆勢に逆らって命を落としたり、もしや川越の大工衆と一緒になって一揆に加わっていたりはすまいか。岩鼻の代官所に一揆勢の主だった者たちが梟首せられた、などいう話を耳にすると、まさかとは思いつつも胸の奥がきりりと痛んだ。 源五郎船は藤乃屋の定雇いではないから、常に荷を扱うわけではない。番頭さんに尋けば判るだろうが、下女の分際でそんなことを尋くことはできなかった。
おもえば思うほど、まるで深井戸のほの暗い水底を覗きみるように、不安は募った。
甘い香りが鼻をくすぐった。小豆粥を炊いているのだ。
ひさは、はっとする。孕み箸に使うおっかどの小枝を束ねて、流しの脇へ立て掛けておいたことを思い出した。小正月の朝、子宝に恵まれるようにと若い嫁女は小豆粥を食う。その時に真ん中が膨れた、おっかどの小枝を箸にするのだ。
てるがおっかどを薪と間違えて、竈にくべてしまっているのではないか、と思った。てるの早合点には、これまで何度となく泣かされてきたひさである。
ひさは川面を見つめる。つうーと滑るようにして、ミヨセ(船首)から船が現れる。風を孕んだ一枚布の大きな帆が、朝の陽光をうけて朱く輝いていた。美しいと思った。
「――てる」
ふくの声だ。
(ああ、やっちまったべ)
ひさは後ろ髪を引かれる思いで、あたふたと表門をくぐった。
台所へ戻ると、てるがふくに叱られてべそをかいていた。但し、おっかどの枝は半分がた無事であった。二三本ばかりをくべたところで、ふくが気づいたのだ。
「ひさもひさだ。何でてるに言わねえかったんだ」
台所の敷居に足をかけたところで、ふくの舌鋒が飛ぶ。
「おれが気い付いたからえかったもののよお。てるがぜんぶ、おっくべてたらなんじょするつもりだったべ」
「……済まねえ」
ひさは頭を深く垂れた。消え入りそうな声で詫びた。てるは泣きじゃくりそうになるのを、下唇を強く噛んで堪えている。それでも吐息とともに、かすかな泣き声が漏れている。無理もない。てるはこの正月でようやく九つになったばかりだった。
ひさもてるも、新河岸川の西、下福岡郷の小前百姓の娘であった。貧しい百姓家では、子宝など望まずともやってくるものだった。そのせいでふたりともまだ幼いころから奉公に出された。もちろん口減らしのためである。
ひさも、この藤乃屋にやって来た当初は、孕み箸のことなど知らなかった。てるが知らないとて仕方のないことだ。
そのひさも、今年で十七になった。
藤乃屋は主人一家と番頭手代、小僧たち合わせるとゆうに十人を超える大所帯である。朝飯の支度、その合間に自分たちも麦飯をおこうこ(漬物)でかっこんで腹ごしらえをする。朝飯の後始末、母屋の二階の雑巾掛けが終わると客たちがやってくる。お茶の支度や茶うけのきんぴらや煮物、おこうこなどを用意しなければならない。客は荷を扱う川越をはじめ近郊の商人たちが主であったが、川越藩の役人たちも藤乃屋の客となった。誰も、よく茶を飲みよく喋った。長っ尻で、なかなか帰ろうとしない。
ようやく暇を見つけて船着き場へ降りたのは、もう九つ(正午ごろ)を回っていただろうか。
いく艘かの荷船が岸に横付けされている。その周りを荷を降ろしたり積み込んだりと、若い衆や小僧たちが忙しく駆け回っている。 船は荒川や利根川を通る高瀬船よりひと回りほど小さい。九十九曲がり、と言われるほどに新河岸川は蛇行し、川幅もいち様ではない。川底も浅かった。そこで船のシキ(底)を平らかにして、通行を容易にした船が造られたのであった。船はその形状からか「川越ヒラタ」と呼ばれていた。
ひさは源五郎船を見つけると、何げない風を装って近づいた。既に船は江戸からの上り荷を降ろし、今度は江戸へ運ぶ下り荷を積み込んでいた。上りは米ぬか、干鰯などの金肥や塩、瀬戸物のほか日用雑貨。下りは野方(新河岸川西岸の畑作地域)の甘薯などの農作物や炭が主であった。
船の周囲に、久助の姿はなかった。ひさはさらに船へ近づいていく。
セジ(居住所)のすぐ前のコベリ(船頭が棹を使う場所)に腰を下ろしている男がいる。丸に藤の字をあしらい、棹が掛からぬよう袖を詰めた印半天を羽織り、紺の腹掛けにぴったりした同色の股引きをはいている。男はゆったりとした所作で、キセルをくゆらせていた。 印半天を通しても肩の筋がよく張って盛りあがっているの判る。その上に四角ばった、赤銅色の大きな顔が乗っている。鼻は低く眼は額の皺と見まがうほどに、細い。黒下駄ともあだ名される、南畑村の源五郎であった。
「……あのう」
勇気を振り絞って、ひさは声をかけた。厚ぼったい瞼がゆっくりと上がる。気鬱げに中空をさ迷っていた視線がふと何事か覚ったかのように、止まった。
鳶色の瞳が、ひさを見つめた。
「久助の奴なら、もういねえよ」
源五郎はそっけなくそう言うと、船縁をキセルの頭でぽんと叩いた。キセルを仕舞い、コベリの上に立つ。ひさが見上げると、半天の短い裾を翻して源五郎はフナバリを軽くまたぎ、船尾へと歩いていく。鬢油の残り香が、つんとした。
2
ひさは新河岸川に架かる古市場橋(現・養老橋)を渡る。橋は船の通行の妨げとならぬよう中央部が高く盛り上がった太鼓橋であった。
坂本屋は福岡河岸の対岸、古市場河岸で船問屋を営んでいる。またその傍らで醤油醸造も行っていた。何千樽もの上本印醤油は新河岸川を下って江戸の人々の食卓を飾った。 その坂本屋は昨年慶応二年(一八六六)六月の武州大一揆で、福岡・古市場両河岸の船問屋で唯ひとつ打ち壊しにあってしまったのだ。一定の銭や米を差し出せという一揆勢の要求を撥ね付けたからだとか、もともと富裕で鳴る坂本屋が狙われていたのだ、とも言われる。いずれにせよ一揆勢は母屋の大黒柱を伐ってから、屋根の梁に荒縄をかけ、大人数でよってたかって引き倒した。さらには蔵の土壁を打ち破り、金銀銭を撒き散らしたのだ。 幸いに死人こそ出なかったが醤油の大樽は毀され、近ごろようやく仕込みが始められていた。
藤乃屋の隠居仙右衛門は同じく坂本屋の隠居加兵衛と囲碁敵きであったので、気散じにと三日と空けずに碁盤をかこんでいた。この日もひさに口上を託したのだ。
陽は西に傾いて、冷たい北風が頬を刺した。
「――ハアー
泣いてくれるなア
出船のときに
泣けばア、出船が
遅くなる――」
風が鳴る。その風に負けじと船頭が舟歌をうたう。だがそんなうた声も、ひさの耳には入らない。
(久助さんはどこへ行ってしまったんだべか……)
源五郎船の小僧の茂八をつかまえて訊いてみたが、どうも要領を得ない。それでも、久助兄ィに十日夜(十月十日)のころに千住で鰻を食わしてもらい、翌朝から姿を見ていない、ということをようやく聞きだした。であれば居なくなったのは十月で、少なくとも一揆には関係がないようだった。福岡河岸に来なかったのも、上流の下新河岸(川越市)や下流の志木河岸(志木市)で仕事をしていたから、らしい。
それにしても源五郎旦那はなぜ久助と自分のことを知っていたのか……。
ひさはわずかに顔を赤らめた。静かな鳶色の瞳を思い出した。何もかも知られているようで、恥ずかしくまた恐ろしかった。
ひさはいつしか歩調を速めた。
桧の香りがすがすがしい新築なった隠居所でひさは加兵衛からの返事を承り、引き返した。
帰りは、ほんの少しだけ遠回りをした。
古市場橋のたもとを右へ折れる。そこは葦が茂る河原へと続くなだらかな坂で、大きな柳の樹が四、五本ばかり寒さにも枯れぬ枝を風に揺らしていた。
かつてはその柳の下に団子屋があって、醤油の焦げる香ばしい匂いをあたりに漂わせていた。久助と一本のみたらし団子を分けあって食べたもの。しかし昨年の大一揆で坂本屋のとばっちりを受け、打ち毀された。団子屋の方は老夫婦で切り盛りしていたためか、いまだ復旧のめどはたっていない様子であった。 あたりに人影はない。ひさは柳の間をゆっくりと歩いた。この辺には久助との思い出があちこちに落ちている。それをひとつずつ拾ってみたいような想いがした。
久助は南畑新田(現・富士見市)の小前百姓の三男であった。嘉永二年の生まれというから、ひさよりひとつ上である。ひさが藤乃屋に来たの同じころ、源五郎船の小僧となった。
「荷船の小僧は瘤と痣の絶えることがない」 と言われ、修行は厳しかった。言葉より先に親方船頭の棹が飛び、河へ投げ込まれた。そのうえ小僧は無給だった。多少の給金が貰えるようになるのは、操船をひと通りこなすことができる若い衆と言われるようになってから、であった。
だが、新河岸川の水で炊き上げた混ぜもののない白い飯を、日に四度も食うことができ、それが何よりの楽しみだった。
幼いころから親に捨てられたも同然の境遇だったふたりは、兄妹のように自由になる短い時間をこの柳の下でともに過ごした。兄妹が、やがて成長とともにその関係も形を変えて行ったのも当然であったのかも知れない。
最後の柳の隣には土蔵がひとつ、ぽつんと取り残されたようにあった。それは坂本屋の土蔵である。秋から冬場にかけて下り荷となる甘薯と炭俵で河岸の船着き場がいっぱいになってしまうため、それらの収納のためにある。
だがこれも一揆に毀されて、屋根が半ばまで落ち、土壁は焼け焦げている。残っていた炭俵に火がついて、長いこと燻っていたようだった。
幼いころ、出し入れの間にふたりしてこの蔵に入り、山積みになった俵に昇って遊んだことがあった。そして出る機会を失ったまま外から施錠されてしまったのだ。結局坂本屋の手代に見つかってしまい、ちょっとした騒ぎになってしまった。
「――おれがわりィんだ、おれが嫌がってるおひさを無理やり引っ張り込んだんだべ」
久助はそう叫んだ。蔵に入って遊ぼうと誘ったのは、本当はひさであった。
親方船頭の源五郎は久助を面相が変わるほどに棹で殴りつけ、冷たい新河岸川の流れへ叩き込んだ。
そして次にふたりしてその蔵に入ったのは、去年の五月の晦日だった。
どうしてふたりして入ることになったのかは、よく覚えていない。久助は千住の相模屋から注文があって、上本印の醤油二樽を坂本屋へ取りに行った。ひさは加兵衛に囲碁の誘い口上を伝えがてら、初茄子を届けに行ったような気がする。
連れだって戻るふたりは、少し脇道に逸れた。団子を二本買って柳の下で食べた。手代が閉める忘れたのか、土蔵の扉が少しばかり空いていた。ふたりは顔を見合わせて、笑った。いたずら心と幼い日の思い出を懐かしむ気持ちからか、ふたりは重厚な扉の隙間から身体を差し入れる。先に立ったのは、ひさだった。
土蔵の中は薄暗い。湿った土と、藁の匂いがした。ちょうど荷を運び出したところなのか、俵のひとつとてない。藁くずが散らばっていた。
そこでふたりは初めて抱きあった。といっても、ほんの短い時間である。
「おれ銭ためてよお、いつか持船船頭になる。だから……夫婦になるべえ」
若い衆になってから、どこか気取ってまるで江戸もののように喋っていた久助だったが、この時は在所の言葉でそう言った。
ひさは黙って、頷いた。
抱き寄せられると鬢油の香りがほのかにした。それは甘く、どこか危なげでせつない香りだった。
――そう、江戸の香り。
そんなことを心のどこかで、ひさは思った。 あれから半年が経つ。武州大一揆があったりここいら辺も大騒動だったが、新しい年を迎えてどうやら落ち着いてきた。何やら上方では新しく水戸から来た公方さまおん自らが、薩長を向こうに戦さをされていると云う。だが新河岸川は変わることなく滔々と清流が豊かに流れ、多くの船が行き交って人や物を運んでいた。
「――おひさ」
ふと、自分を呼ぶ声がする。はっとして、ひさはあたりを見渡す。が、だれもいない。 もういちど、今度ははっきりと聞こえた。
「――おひさ、蔵の中」
押し殺しているが、久助の声に違いなかった。ひさは回り込んで、扉の前へ立つ。錠前がかかっている。重い扉が開くはずもない。久助恋しいさのあまり空耳を聞いたか、と思った時、またも久助の声。
「錠前は壊れているんだ」
憑かれたようにひさは錠前に手を延ばす。錠前は閂の部分がばかになっていて、指で押すと簡単に抜けた。手代は普段は使わぬ蔵の壊れた錠前を替える必要もないと思ったのだろう。
ひさは扉を開けた。いろんなものが焼け焦げて、饐えたようなひどい臭いがした。
何もない蔵の、土壁にもたれている男がいた。まるで大きな蓑虫のように薦をかぶって震えている。月代が伸び、眼が窪んでいた。 男は今にも泣き出しそうな表情で、言った。「おひさ……よう来てくれた」
3
「――そりゃあよ、声を出すなってえ方が無理だべよ」
ふくは黄色っぽい隙間のあいた前歯を見せて、げらげらと笑った。
母屋では小正月の祝いの膳が並んでいる。ふくもほんの少しだが燗酒のご相伴にあずかり、上機嫌だった。手代の勘次郎が台所に居座って、とっくりの酒を口に運んでいる。
「でもよお、囲炉裏の向こっぺたにはお父っつあん、おっ母さんと、妹もいてよお。旦那も耳元でよお、ふく、声出すでねえ、て言うんだ」
ふくは機嫌がよいと、死に別れた夫との話をよくした。それもだんだんと卑猥になっていく。ひさは顔を赤らめて俯いてしまうこともしばしばであった。
勘次郎はてらてらと朱く光る顔を手で拭って聞いている。
「で、どうしただ」
「それでよ、旦那に言ったさ。あんだの口でおれの口を塞いでくれって」
ふくは大声で笑う。普段なら気になって仕様がないふさの下品な冗談も、今夜ばかりは耳に入らない。
心はすでに橋向こうの土蔵へと飛んでいた。久助が無事でいてくれて、また会えたことの嬉しさもあった。がしかし久助が言ったことの重さが、ひさの胸を押し潰しそうだった。「五両ばかり、何とかなんねえか」
京へ行くのだ、という。京へ行き、新撰組へ入るのだ、と。
多摩郡の上石原村で近藤という人と幼なじみだったという男とある所で知り合いになったのだという。京へ行き、近藤という人にその男の名を言えば、必ず悪くはしない、と。
「新撰組の近藤さまと言やあ、お大名も同然のお方だ。それに新撰組は近々ご公儀直参になるらしい。とすりゃあ、お旗本よ。川越の芋侍なんざあ、眼じゃねえやい」
久助は江戸もののような喋り方で、一気にそうまくしたてた。
お旗本になる、などという夢物語りもひさの不安をかき立てたが、それより「五両ばかり」という感覚が信じられなかった。
五両といえば、ひさの年季の給金の何倍も多い。もちろんそんな大金がひさにあるはずもない。給金はすべて下福岡村の実家の親が受け取っている。
盗みでもしないかぎり、そんな大金を用立てることはできない。それを知らぬ久助でもないはずだった。
ひさは心の動揺を表情に出さぬように用心しながら、台所仕事に精を出した。そしてその夜、皆が寝静まるのを祈るような気持ちで、待った。
台所上の小部屋がひさたち女中の居室だった。ふくが微かな鼾をかいている。てるがひさの胸に顔を埋めていた。てるを引き離そうとする。
「あんねえ……」
てるが寝言をいう。てるにはひさと同年の姉がいて、普段でもよく間違えて「あんねえ(姉)、あんねえ」と言った。
ひさは縋ろうとするてるの腕を布団のなかに優しく押し戻す。音を立てないように注意しながら、急な梯子段を降りる。下はすぐ台所であった。
笊や鍋を仕舞っておく戸棚から、こっそり茶碗に取り置いた麦飯を取り出す。塩を少しつけた手で握り、残りものの沢庵を付けて竹皮で包んだ。
慎重な手つきでしんばり棒を外し、そとへ出た。たちまち凍りつくような風に包まれた。 坂道をくだり、橋へと急ぐ。幸い月が出ていたので、足元に不安はなかった。
船着場のあたりには人かげもない。河岸の外れにある、この辺りでただ一つのお茶屋、浜屋の提灯がついていた。浜屋は酒と小料理なども出し、酌婦が何人かいる。金を出せば客と枕もともにすると聞いたが、詳しくは知らない。河岸の中でそこだけは、ひさに縁のない場所だった。
太鼓橋を渡り、土蔵へと急ぐ。久助は待ち侘びた様子で、ひさの腰が折れんばかりに抱き締めてから、飯にかぶりついた。
昼間は使いの途中だったので時間がなかったが、いまは十分だった。久助はこのふた月ばかりのことを、少しずつ話はじめた。
そもそもの始まりは、浪人どもに袋だたきに会っていた男を久助が救ったことだった。松尾某というその男は多摩郡の大百姓の跡取りだという。久助は近くにあった天秤棒で浪人たちを打ちのめした。久助たち川の男は、腕っ節と度胸だけは誰にも負けぬ、と自負している。棒さえあれば、たとえ侍であっても恐れはしなかった。
松尾は「君のような若者が船頭などで埋もれてしまうのはもったいない」と言って、くだんの近藤との経緯を話し、京へ行ったらどうか、と勧めた。
何日かして、結局久助は松尾の誘いを受け入れ、源五郎親方と話を付け、江戸を出たのだという。道中手形や路銀は松尾が用意した。
しかし二宮あたりで手形と路銀を盗まれて、それからというものひと月ばかり、食うや食わずでこの福岡河岸までようやくたどり着いたのだ、という。
すると久助は大正月のあたりから、この土蔵にいたことになる。あんなに心配していた久助が、実はこんなに近くにいたなんて……。ひさは拍子ぬけがした。
昼間は土蔵の中でじっとしていて、夜になると他の蔵に忍び込んで、芋などを盗んでは生で齧っていたらしい。
「源五郎親方に訳を話して、もういっかい若けえ衆として使ってもらったらいいべ」
久助は俯いたまま首を振る。
「……いんや、今さらそんなことはできねえ」 やっぱり京へ行くしかないのだ、という。そうして「五両ばかり……」と話は最初に戻ってしまうのだ。
「――おれに帳場の銭を盗んでこいって言うんかえ」
ひさは堪りかねて、吐き出すように言った。 久助は俯いたまま、ゆっくりと口を開く。
「盗むんじゃあねえ。借りるんだ。旗本になったら、何倍にもして返えすから」
「そんな――」
都合がいいことがあるもんか、という言葉をひさは飲み込んだ。
時はすぐに過ぎてしまう。ひさは立ち上がった。もう戻らなければならない。ふくがご不浄へ立つかも知れない。てるが泣いて目を覚ますかも知れない。
久助も立って、ひさを抱き寄せた。口を吸い、帯を解こうとする。ひさは驚いた。いつかこんな日が来るとは思っていた。相手も久助以外には考えられなかった。
でも……いまはだめだった。
「……やめて、後生だから」
久助はやめない。太い腕が鋼のようにひさの身体を締め付ける。荒々しい息が耳もとで遠い風音のように、恐ろしく聞こえた。
ひさは久助の胸を強く押した。
久助はようやく離れた。呆気にとられたような表情をしていた。何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。そのまま後ずさるようにして土蔵を出て、気づくと古市場橋に向かって駆けだしていた。
橋の袂に女がひとり、立っていた。
川を見ているのか、月明かりに薄い影が水面に落ちている。
居住まいを糺し、何げない素振りでひさは太鼓橋を下る。女は浜屋の酌婦のひとりだった。たしか、おこうとかいう名であったと記憶していた。もちろん口を利いたこともない。 おこうはじっと川を見つめている。
近づくにつれ、その表情が見えてくる。おこうの眼は川面というより、その下の川底を覗いているように見え、ぞっとした。
身投げをしようとしている人のように思える。
すれ違いざま、おこうはひさを見た。そして、にっと笑った。
白粉を塗った首が月明かりに青白く輝いて、まるで首だけになって生きている恐ろしい化け物のようにも見えた。
ひさは目を逸らす。そのまま藤乃屋の勝手口まで走った。
4
その夜もひさは皆が寝静まるのを待って、梯子段を下りた。
台所は母屋と廊下でつながっている。床板を軋ませないように、息を殺してゆっくりと歩いた。店へ続く長い廊下につきあたる。すぐ右側は仏間で、その先は主夫婦が休んでいる奥の間。
ひさはすり足で、一歩いっぽ確かめるように足を繰り出している。廊下は土間で直角に折れている。
昼間は馬方や船頭、荷主などでごったがえすお店の土間も、今は静まり返って広さだけが目だった。ひさは引き戸の前に両膝をついた。引き戸をに手をかける。
この戸の向こうは、帳場だった。
低い格子の結界の中には帳場机があり、その下にはあたり箱(すずり箱)と銭箱が置いてあるはずだった。
ひさは息を飲んだ。心の臓がまるで自分と無関係の生き物のように、激しく脈打っていた。
闇がひさの身体を圧迫し、深い水底にでもいるようだった。
(何をしようとしているか、判っているのか) と、心の中で別の自分がしきりに叫んでいる。また一方で、
「借りるだけ、借りるだけだ。後で何倍にもして返す」
という久助の言葉が何かのまじないのように、何度もこだましていた。
引き戸にかけた指に力を込める。戸が、こんなにも重いものかと、不思議に感じた。戸が滑りだすと思われたその瞬間だった。
「……あんねえ」
みぞおちに冷たい刃を刺し込まれたような感覚がした。
振り返る。
てるが直角に曲がった廊下の切っ先に立っていた。両目をしきりに擦っている。
「――てる」
ひさは駆け寄った。てるを抱いた。あんねえ、と言いながらてるは身体の隙間を埋めるようにくっついてくる。
(ああ、おれはてるに救われたんだ……)
そう思った。
と、次の瞬間、中の間の引き戸ががらりと開いた。
「どうした」
中年すぎの男が顔を出して、野太い声で訊いた。主の仙蔵であった。
「旦那様すんません。てるが寝ぼけちまって」
ひさはてるの手を引いて、台所へと戻る。
その後、てるを寝かしつけたひさは再び梯子段をおりる。
握り飯をもって外へ出た。太鼓橋を渡って、久助のいる土蔵へ急いだ。
ひさが久助に気づいて五日ばかりが経っていた。夜毎に通ううち、久助の言葉を信じるようになっていたのかも知れない。
京に行きたければ、行けばよい。お旗本になれるなら、なったらいい。
でも、盗みはだめだ。
人さまの、ご主人さまのお金に手をつけてはならない。
今日こそはきちんと久助に話をしよう。源五郎親方にきちんと詫びを入れ、もう一度船に乗せてもらうように。それこそまた小僧から始めてもよいではないか。そのくらいの気構えで親方に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
そう思った。
柳の向こうに土蔵が見える。
最初、何か妙な感じがした。それが何か、すぐにはわからなかった。
明かりがついているのだ。ほんのりと提灯のあかりが。
土蔵の小窓から中を覗く。息を飲んだ。
裸の男と女が絡み合っている。提灯の明かりに照らされて、ふたりの顔が見えた。久助とそして、おこうだった。
信じられない。が、それは目の前で起きている。どうしたらよいか、わからなかった。 風が吹き付ける。凍てつくような寒さのはずだが、感じなかった。
声がした。おこうのかん高い、さかりのついた雌猫のような声。その声を聞いていると、急に憎しみが沸いてきた。
(……おれは盗みまでしようとしたのに。それなのに……)
おこうの笑った顔がよぎる。化け物のような、あの顔。
(そうか、あのときから……)
おこうは知っていたのだ。
ひさは怒りで自分がどにかなってしまうのではないか、と思った。おこうが憎かった。(汚らしい女め。このままじゃあ、済まさねえ)
土蔵の入り口に回り込もうとした時、後ろから腕を掴まれた。
「こんただことだと思ったべ」
ふくだった。
(今夜は何ということだべ。さっきはてるに救われ、今度はまたふくが……)
ふくは窓からちらりと中を覗いた。
「ありま、お楽しみだこと」
小声でそういうと、ひさの手を引っ張った。そして、どんとんと土蔵から遠ざかって行った。惚けたように、ひさは従った。
もういいと思ったか、橋の近くでふくは手を離した。
「ありゃあ源五郎船の久助だね」
ひさは頷いた。
「あの男はもうだめだべ。あきらめるこったあ」
ふくはまったく簡単にそう言った。
ひさは顔を上げた。何と言っていいか判からなかった。心の中は、言葉にならぬ感情で煮えくりかえっていた。
「久助さが、悪いんじゃねえ。あのおなごが、おこうが悪りいんだ」
吃って、突っ掛かりながらやっとそれだけのことを言った。言いながら涙が溢れ出ているのに、ようやく気づいた。
ふくは先に立って橋を上っていく。
「おめえには言わねえかったが……」
ふくはあたりを見回した。人影はない。川音が、低く聞こえた。
「番頭さんに聞いたんだが、源五郎船の若い衆がセジから船頭の金を十両も盗んで逃げたそうだわ。なんでもそいつは江戸で鉄火場(博打場)に出入りするようになって、借金をこさえたらしい」
ひさは目眩がした。欄干に辛うじて掴まった。あの土蔵での思い出がよぎる。
――鬢油の香り、江戸の匂い。
「同じ村の出だしよお、源五郎旦那は番所へ届けなかったそうだよ。十両盗んだと言やあ、三尺高けえところへ、首が乗っちまうからなあ」
「……でも久助さは、京に行くって。新鮮組に入ってお旗本になるんだって」
「なあにを呆うけたことを。いっぱしの船頭にもなれん男が、なんでお侍なんぞになれるものかね」
ひさは橋の上、ちょうど太鼓のてっぺんでへたり込んでしまった。もう何も言えなかった。
このまま新河岸川へ飛び込んで、水底に沈んだまま誰にも気づかれずに、消えてしまいたかった。
5
「土左衛門だあ、土左衛門があがったぞおい」
船頭の野太い叫び声が、新河岸川に響いた。 朝飯の支度の前に水を汲もうと瓶を持って井戸へ行き、ちょうど釣瓶を引き上げた時だった。
「ああ、おなごもおるわ。心中だあ」
ひさは、はっとして水が入ったままの桶を井戸へ取り落とした。
滑車がからからと音を立てた。が、それには構わずひさは勝手口から外へと駆け出していく。
「心中だあ」
各店から人々がこぼれるように出でて、福岡河岸へ集まっていく。
古市場橋の袂に人だかりができている。
人垣を縫って、ひさは橋へ近づいた。
「浜屋のおこうじゃねえかよう」
誰かが言った。
ひさは息が止まった。口がからからに乾いた。
「男の方はだれだあ」
「まあだ、若けえのによお」
ひさの前にいた男が屈んだ拍子に、前が見えた。筵の上に男と女が並んで横たわっていた。
久助はまるで阿呆のようにぽかんと口を開き、仰向けに寝転んでいた。赤ん坊のように縮めた両手を胸の前で開き、両足はやや曲がったまま固まっている。
開いたままの眼が、青い空を写していた。 その瞳からは、ここ何日かのせっぱ詰まった様子は感じられず、以前の男らしく優しい久助に戻ったようであった。
ひさはその顔をじっとみつめていた。
こころの中では言葉にも、感情にすらならぬ想いが沸き上がっていた。あの手に何度引かれて、この橋を上ってだろうか。あの背に、おぶわれたこともあった。
そしてあの腕に、抱かれたときの嬉しかったこと……。
いろいろな思い出が、浮かんでは消えていく。きっと自分もふくのように、死んだ想い人の記憶を胸にこれからずっと生きていくのだろう、と思った。
そして、おこうが憎かった。
あの時の笑い顔がよぎる。
(あのおなごは、もともと死ぬつもりだったべ。久助さを道連れにしやがったんだ)
そう思うと、死んでも夫婦のように並んで横たわっている姿が口惜しい。
どろどろと、ひさの中で心というものが溶けていくような、思いがした。
それからひさは、藤乃屋の台所へ戻り、いつも通りの仕事をこなした。
水を汲みなおし、拭き掃除をし、麦飯を炊き、漬物を出し、客にお茶と茶受けを出した。「辛かったら、休んでもいいぞ」
と言ってくれたが、ひさは首を振った。
「そっだな。こんな時は身体動かした方がええべ」
夕方になり、夕食の支度を始めた。沢庵をまな板に乗せ、包丁を入れていく。ふと、包丁を持つ手がこそばゆい。
見ると、手の項が濡れている。怪訝に思って頬を触ると、やはり濡れている。
「ひさねえ、泣いてるの」
てるが不安げに脇から見上げた。
自分が泣いているのだ、ということにひさはようやく気づいた。
顔を上げる。窓格子の向こうに夕陽を浴びた新河岸川が、まるで赤銅色大蛇のようにのたうっている姿が目に入った。
今まで蓋をして、仕舞い込んであった悲しみが、急に溢れだしてくるのを感じた。その想いには、どうにも堪えきれなかった。
久助が死んでしまったのは、自分のせいだと思った。
あのとき久助を拒まなければ、おこうとのこともなかったかも知れない。
久助があの土蔵に潜んでいることを、旦那さまに申し上げれば、何とかして下さったかも知れない。
ふたりで一所懸命に働けば、盗んだ十両は返せたかも知れない。
――少なくとも、一緒に死んであげられたかも知れない。
悲しい想いは後から後から溢れてくる。
ひさは包丁をまな板の上にほうり出した。
両手で顔を覆った。胸が、まるでひき千切れるように、苦しい。
ひさは台所の土間から外へ飛び出した。
「――ひさねえ」
てるが叫んだ。
てるの声を振り払うように、ひさは駆けていく。
船着き場を右に、坂道を上る。そのまま新河岸川に沿って少し歩く。すると川は緩やかに北へ湾曲している。
(現在は河川改修がされ、川筋は真っすぐになっている)
そのあたりが水量も多く、流れも速いことを、ひさは知っていた。そして何より、この辺りは河岸から見えないのだ。
木立を縫って、ひさは川岸へ近づいていく。
すると急に景色が開ける。新河岸川が夕陽を写し、揺れる川面がきらきらと光って見えた。
水までは四、五尺はあろうか。切り立った斜面には背の高い葦が密生している。地を蹴って飛ぼうとした時、何かが両足に絡みついた。
「やめれ、やめてくれ」
ふくだった。ふくが両足に組みついたのだ。 ふたりはそのまま葦の斜面をずるずると滑って行く。
腰のあたりまで川に浸かったところで、ようやく止まった。ふくが片腕でひさを抱き、もう一方の腕で葦をひっ掴かんでいる。葦が抜ければ、ふたりして川へ流されてしまう。
「おれが悪りいんだ。おれが久助さを死なせてしまった」
そう言ってひさは泣いた。声を上げて、泣いた。
ふくはしばらく黙っていた。そしてぽつりと、泣け、と言った。
「おれはよお、皆には死に別れたと言ってるが、本当は生き別れよ」
ふくは、まるで関係のない物語りでもするように、ゆっくりと話した。
「旦那の儀助さはよ、お父う、お母っかあがいたうちはまだよかったべ。二親がいねえようになると、急に悪さしだしてよお。酒ばかり飲むわ、働かねえわでよ。そのうち別な女さ家へ入れて、おれは三下り半をもらって追い出されたわ。乳飲み子おいてよ。これがどんなにか辛れえか、おめえにはわからねえだろうよ」
ふくはひと息入れるように、深く息をした。
「でもよお、おれはおっ死んでねえべ。生きてるべ」
ひさはふくの顔を見上げた。ふくは穏やかにほほ笑んで見せた。
「どうしてだが、わかるか。何でおれが生きていられるか」
ひさは俯いた。涙が零れる。
「それはよお、たくさん泣いたからよお。おなご衆はよ、ほんとはおとこ衆より強ええんだ。そりゃあ、大きな声で泣けるからよ」
ふくはひさを抱き寄せる。ひさは幼い子供のように、泣いた。
「みいんなこの川に流しちまえ。この川は、きっと大昔から何千、何万というおんな衆の涙をそうやって流してきたんだ」
ひさは川面を眺めた。
いま落ちようとする夕陽が、新河岸川の川面にきらめく無数の小さな船をちりばめたように見えた。
ようっこ(やまめの稚魚)が撥ねる。
ひとしきり泣くと、ひさは深く息を吸った。それはまるで生まれて初めてする呼吸のように、からだ中に清らかな空気が回っていく心持ちがした。
江戸時代の中頃から川越と江戸を流通を支えた新河岸川の舟運は、鉄道が開通した明治の末ころから衰微した
。大正の末には川筋の改修工事がすすみ、九十九曲がりといわれた川は水量を保てなくなり、船頭とともに姿を消していった。
現在はその沿岸に、新河岸、古市場、扇河岸などいった地名にその面影を残すのみである。
(了)