火傷の痕と子守唄 ※琉球新報短編小説賞
生まれてから二日目。まだ名前すらついていない娘は、小さな口を精一杯あけて私の胸に吸い付いた。
まるで水槽に張り付くプレコという魚みたいだと思った。娘が乳を吸おうと唇をタクタクと動かすたびに、全身に鳥肌が立った。
気持ち悪い。
体の底から湧き上がる嫌悪感に驚いた。授乳ってこんなに気持ち悪いもの?
たしか妊婦教室では、授乳の刺激で母親の脳にホルモンが分泌され、子供への愛情が深まるということを言っていた気がする。
周りを見回す。薄いピンクの壁紙が貼られた授乳室はリラクゼーションオルゴールのCDがかけられ、私の他に二人の母親が新生児に乳を与えていた。それはとても穏やかな光景であり、彼女たちに戸惑う様子はない。
「佐久間さん、おっぱいあげてる時によそ見しないよー!ほら、赤ちゃんの鼻ふさいでるさー。ちゃんと赤ちゃんの顔見てあげて」
授乳を指導していた太田という看護師に注意された。
「はい。でも、なんか……くすぐったくて」
生まれたばかりの我が子への授乳が「気持ち悪い」とは言えず、言葉を選ぶ。
「初めはくすぐったいかもしれないけど、慣れるから大丈夫」
太田看護師は五十代くらいだろうか。いかにもベテランという雰囲気で、他の看護師は入院している母親達に敬語で話すが、彼女はいつもタメグチだ。出産前の妊婦教室で何度か顔を合わせているが「佐久間さん、あなたちょっと太り過ぎよー。赤ちゃんかわいそうでしょ」と人目もはばからず体重管理について言及したこの人が、私は苦手だった。妊婦の私よりも太い体の彼女には言われたくなかった。
「太田師長、ちょっと来てもらえますか」
タイミングよく、隣のナース室から若い看護師が呼んだ。ベテランだと思っていたら、どうやら師長らしい。
「赤ちゃんが飲み終わったら、さっき教えた通りちゃんとゲップさせてよー」
私にそう指示を出すと、彼女は早歩きで授乳室から出ていってしまった。
残された私は途方に暮れた。腕の中では相変わらず、小さくて温かい生き物が必死で乳首を吸っている。
妊娠中、大きくなったお腹をさすりながら想像していたのは、白くてふっくらしたマシュマロのような赤ちゃん。でも実際に対面を果たした我が子は、真っ赤で、くしゃくしゃで、まるで梅干しのようだった。
陣痛開始から丸二日。なかなか子宮口が開かず陣痛促進剤を二度も打って、苦しんだ末にやっと生まれてきた娘。この子の誕生をずっと楽しみにしてきたはずなのに。
腕に抱いた我が子を見る。はれぼったい目、おっぱいを求めて動く口。想像していたよりもずっと小さく、細い体。浅黒くて、たるんだ皮膚。
どうしよう。かわいいというよりは、弱々しくてちょっと怖い。それに、授乳がこんなに辛いなんて思わなかった。まさか、一生懸命乳を吸おうとする娘を今すぐ引き離したいと思うなんて。
もう一度、授乳室にいる他の母親達に目をやった。私がおかしいのだろうか。
こんなことではいけない。娘から視線をそらし、自分の右腕を見つめた。そこには茶色く丸いシミがある。古い火傷の痕だった。
娘には、こんな傷を残してはいけないと思った。頑張って良い母親にならなくては。
なんとか授乳を終え、ナース室にいた一番若い看護師を選んで声をかけた。
「すみません。佐久間ですが、赤ちゃん今日からお部屋に連れて行ってもいいですか?」
こうなったら、太田看護師に言われた通り、この小さな生き物に早く慣れるしかない。あと三日もすれば退院なので、それまでにできるだけ自分でお世話ができるようにしておきたかった。
「ああ、佐久間さん、母子同室希望されてましたよね。ちょっと待ってくださいね、師長に確認します」
そう言うと、ナース室の奥にいる太田看護師を呼んだ。せっかく人を選んで声をかけたのに、結局太田看護師が出てきた。いぶかし気な顔で私を見る。
「あなた、母子同室今日から始める?分娩の時出血が多かったし、ちょっと顔色も悪そうだけど大丈夫なの?赤ちゃんはもう少し新生児室で預かっててもいいんだけど」
ろくに授乳もできていなかったのに大丈夫なのと言われている気がした。あなたに赤ちゃんのお世話ができるのと。
「大丈夫です。おっぱいも出てるみたいだし、入院してるうちに頑張って慣れておきたいので」
きっぱりと言うと、相手も強くは止められないようだった。
「そうねえ?じゃあ、何かあったらナースコールで呼んでよ。花城さん、オムツセットも持たせてあげて」
太田看護師からの許可がおり、晴れて赤ん坊を病室に連れて行けることになった。花城と呼ばれた若い看護師から、移動式ベビーベッドとオムツセットを受け取り、新生児室をあとにした。
太田看護師に顔色が悪いと言われた通り、産後の体はボロボロだった。会陰切開の傷の痛みと、後陣痛の疼くような痛み。さらにはお産の時のいきみによる全身の筋肉痛で思うように体が動かない。腰の曲がった老人が買い物カートを押しているみたいに、ゆっくりとベビーベッドを押して歩いた。
授乳室から病室までの廊下が長く感じられた。壁に等間隔に掛けられた絵やポスターを一つずつ眺めながら歩く。
私の病室の前には赤ん坊のキリストを抱く、聖母マリアの絵が掛けられていた。その表情は穏やかで、我が子を慈しむ母の愛を見せつけられている気がした。正しい母親の姿はこうですよ、と。
病室のドアを開けると、夫の佐久間健介が仕事帰りの作業着姿で待ち構えていた。日に焼けた顔をくしゃくしゃにして笑う。
「未華子、おつかれ!授乳室にいるって聞いて、部屋の前まで行ったんだけど、あの怖い看護師さんに病室で待ってろって追い払われちゃったよ」
おそらく、男子禁制の授乳室の前をウロウロしていて、太田看護師に怒られたのだろう。のんきな夫の姿を見て、ほっとした。今まで肩に力が入っていた自分に気付く。
「ちょっとクマちゃん、赤ちゃんがいるんだから、せめて着替えてから来てよ」
私は、恋人同士だった頃から夫のことを「クマちゃん」と呼んでいる。苗字の「サクマ」を略した呼び方であるが、ただ単純に彼の見た目が大きな熊のようだからでもある。きっと童謡の「森のくまさん」が人間だったらこんな感じだろう。
「そんな時間があったら娘ちゃんに早く会いたかったんだよ。大丈夫、腕までしっかり洗ってアルコール除菌もしたから」
彼はそう言うと、寝ていた娘をひょいと抱き上げた。小さく柔らかい体を、太い両腕でしっかりと支える。子供好きで、学生時代は保育のボランティアをした経験もあるという彼は、私よりも赤ん坊の扱いに慣れていた。にっこりと娘に笑いかける。
「かわいいなあ。昨日とはまた顔が変わっている。鼻の形が未華子に似ているね。眉は俺に似ているさあ。佐久間家の眉。女の子なのに毛深くて申し訳ないけど、遺伝だな。目はまだあいてないからどっちに似ているか分からないさあ」
太い眉毛をだらしなく下げながら、新生児の頭の先から足の指まで一通り愛でる。父親の腕の中が心地よいのか、赤ん坊は目を覚まさない。
「いつまでも“娘ちゃん”と呼んでいるわけにはいかないし、早く名前を決めないとね」
二人で名前の候補を考えていると、また来客があった。父と祖母だった。父の仕事が終わってから駆け付けたようだった。今年八十三歳になる祖母は病室に入ると、年齢を感じさせない俊敏な動きで赤ん坊に駆け寄った。子供八人を育て、母親の代わりに孫の私のことも育ててくれた祖母だ。すぐに赤ん坊を抱き上げる。
「あいやあ!かわいいぐわあさー!みかこー、よく頑張ったねー。はっさ、ジョートー赤ちゃんだねえ」
祖母の「上等」が飛び出した。彼女の褒め言葉の最上級は何に対してもすべて「上等」なのだ。ジョートー車、ジョートー洋服、ジョートー野菜。まさか曾孫にまでジョートーが使われるとは。
「母ちゃん、手洗ってから抱っこしなさい。だあ、今は俺が抱っこしとこう」
父も抱っこの順番待ちをしていたらしい。祖母は、しぶしぶ赤ん坊を明け渡すと、ハンドバックから祝儀袋を取り出した。受け取ろうとすると、私の手を止めて赤ん坊の産着の懐に差し込んだ。
「これはマースデーだから、こうやるんだよ」
「マースデー?何それ?」
「バースデーってことですか?」
聞きなれない言葉に戸惑う私と夫に、祖母はいたずらっ子のように金歯を見せて笑うだけだった。父が助け船を出す。
「母ちゃん、今の人にマースデーは伝わらないよ」現役で高校の教師をしている父から、詳しい説明がされた。
「お祝儀みたいなものだよ。赤ちゃんの健康祈願の意味も含まれているんだけど……」
どうやら、昔の沖縄では食べ物に困らないようにと赤ちゃんの額に塩を乗せたり、贈ったりする風習があったらしく、その風習が薄れてからは「塩代」として祝儀を渡すようになったらしい。
父の解説に付け加えるように、祖母が言った。
「みかこー、赤ちゃんを初めて佐久間の家に連れて行く時は、何かうさげる物持って行くんだよ。ハチアッチーって言って初めて仏壇にウートートーさせるから先祖に挨拶しないと」
父と祖母のウチナーグチ講座の生徒と化した私と夫はマースデー、ハチアッチー、と声を揃えて復唱した。
「本当だったら、あんたのお母さんがこんなのも教えるんだけどね」
祖母の言葉に、一瞬気まずい空気が流れた。
すかさず、夫がとりなす。
「その代わりに、未華子にはオバアちゃんとお義父さんがいて良かったさあ。いつもありがとうございます。これからは娘ともどもよろしくお願いします」
夫が大きな体を折って、父と祖母に頭を下げた。夫のフォローに胸をなでおろす。新しい家族の誕生を祝う和やかなこの場で、母の話を持ち出したくはなかった。
面会時間の終了が近付き、三人は最後に交代で赤ん坊を抱っこしてから帰って行った。その間、赤ん坊は少し身じろぎするだけで、ちっとも目を覚まさなかった。
「この子は、お利巧さんだよ。ナチブーじゃないから育てやすいはずねー」祖母も帰り際にそう言っていた。
しかし、三人が帰り消灯時間が近付くと、娘は急に、火がついたように泣き出した。小さな体から驚くほどの大きな泣き声を絞り出している。きっとお腹が空いたのだろうと、夕方習ったばかりの授乳を試みる。
ちょっとひねったら、どこか壊れてしまいそうな頼りない体を胸に抱きよせ、乳首をその口に含ませる。娘はうまく吸うことができないらしく、口を大きく開けたままハフハフと息を荒くするだけで、また泣き出してしまった。泣かれると、こちらも焦ってしまう。ああでもないこうでもないと色々試す。
ようやく吸いやすい所を探りあてたらしく、赤ん坊が力強く乳を吸い始めた。
ホッとしたのも束の間、また例の嫌悪感が襲ってきた。しっかり娘に母乳を与えたいと思っているのに、気持ち悪くて、目まいがする。なぜこんな気持ちになるのか分からない。足の指に力を入れて必死で耐える。授乳が嫌だなんて、母性が足りないのだろうか。
病室の前に掛けられている聖母の絵を思い出した。その慈愛に満ちた表情を。かけ離れた自分の姿を思うと情けなくなった。
娘はそれから二十分もおっぱいを飲み、突然力尽きたように眠り始めた。慌てて抱き起こし、その頭を私の肩に乗せるようにして、小さな背中をポンポンと叩いた。新生児は母乳と一緒に空気を多く吸い込んでしまうので、授乳の後はゲップをさせなくてはならない。
強く叩いたら背骨が折れてしまうのではないかと思えるほど、その背中は頼りない。しばらく慎重に叩いていたが、結局ゲップを出させることはできず、赤ん坊は眠ってしまった。
力がぬけてぐったりとした赤ん坊をそっとベビーベッドに置く。目と口を引き結んだ顔を覗いてみるが、起きる気配はない。
時計を見ると、もう午後十時を過ぎていた。消灯時間になっていたことを思い出し、自分も寝ることにした。
慣れないベッドで何度も寝返りをうち、やっとウトウトし始めた頃、人の気配に気付いた。驚いて目を覚ますと、暗い病室に懐中電灯を持った若い看護師が立っていた。
「佐久間さん、起こしちゃってすみません。巡回です」
ああ、ここは病院だったと思い出す。看護師は「何か変わったことはないですか」と言うと、ベビーベッドにも電灯を向けた。
「あ、赤ちゃん吐いてる」
彼女の言葉に赤ん坊を見てみると、吐き戻した母乳で口元が汚れていた。ずいぶん前に吐いたらしく、本人は寝ている。慌ててお世話用のガーゼでふき取った。
「授乳後は、ちゃんとゲップさせてあげて下さいね。赤ちゃん苦しくて吐いちゃうんで。吐いたもので窒息しちゃったら大変なので気をつけて下さい」
ゲップしなかったんですという言葉を飲み込んで「すみません」とだけ答えた。
それからは一睡もできなかった。二時間毎に泣く赤ん坊に乳をあげる。ゲップをさせるために背中をトントン叩くがなかなか出ない。眠気で朦朧とした頭で、きっと胃はこの辺にあって空気が溜まっているから反対側の背骨のここから叩けば出るかもと試行錯誤するが、出ない。やっと出たと思ったら、母乳も一緒に吐き戻してしまう。
なんとかゲップが出たらオムツを交換し、寝かしつける。自分も少しでも寝ておこうと横になったら二回目の巡回で起こされ、やっとウトウトしかけた時には、次の授乳の時間になっていて赤ん坊が泣きだす。
何度か「もう無理」とナースコールに手を伸ばしかけたが、自分で母子同室を希望したのに一晩も経たずに音を上げるのが恥ずかしくて、なんとか思いとどまった。
「地獄かと思った……」
朝になり、出勤前に病室に寄ってくれた夫に昨晩の感想を述べた。一晩でやつれた私の言葉に、夫は笑えなかったらしい。
「大丈夫?未華子、出産で疲れてるんだから今日は娘ちゃん、預かっててもらったら?」
「うーん。でも、今から慣れておかないと家に帰った時大変だし……」
「家では俺もやるよ。オムツとか抱っこならできると思うし、未華子がいいなら母乳じゃなくて時々粉ミルクをあげればいいし」
優しい夫で良かったと思う反面、母親の自分のふがいなさが余計に際立つ気がした。
「母乳育児はできれば頑張りたいんだよね。あげてないと出なくなるって聞いたし。もちろん、クマちゃんパパを頼りにしてるよ。沐浴とかしばらくは無理だろうから。おっぱい以外はお願いすることも多いはず」
妊娠中は父親教室にも積極的に参加してくれた夫だった。
「そっか。俺もおっぱいが出ればいいんだけどね。いつも思うけど、男の乳首はなんでついてるんだろうね。もしかして、母性に目覚めたら出るのかな」
本気でそう思っているような夫の言葉に吹き出す。笑いながらも、私は女で母乳も出るのに授乳が気持ち悪くて悩んでいる、とは言えなかった。
「預かってもらっても、結局二時間毎の授乳の時間になったら呼び出されるし。この病室、授乳室から一番遠くて移動もキツイから。もうちょっと母子同室で頑張ってみる」
「そっか。でも本当に無理しないでよ。赤ちゃんも大事だけど、未華子がダウンしたら意味ないからね」
夫が手を握ってくれた。本当は、今日は仕事を休んでずっと病室にいてほしいと思った。娘と二人きりになるのが怖かった。
「佐久間さん、起きてますかー?先生の回診の時間でーす」
病室のドアが開き、看護師と娘を取り上げてくれた医師が入って来た。手を握っているところを見られ、夫と二人で赤くなる。
ベビーベッドで眠る娘を覗き込んだ看護師が「パパとママ、ラブラブだね~」と茶化す。
「朝から来てくれたんだね。良い旦那さんで良かったね」白髪頭の医師は聴診器を取り出しながら、笑った。
私は心臓の鼓動が早くならないよう深呼吸を繰り返し、夫は逃げるように仕事に出かけて行った。
産後三日目は土曜日だった。空港でシフト制の勤務をしている夫と違い、世の中は休みの人が多いらしい。出産の報告を聞きつけて、夫の両親を始め、職場の仲間や友人が次々とお見舞いに駆けつけてくれた。
産後で、さらに寝不足の体に来客対応は辛かったが、新生児と二人きりになるよりは気の置けない人達に囲まれている方が、気が楽だった。
なぜか他に人がいると寝てばかりいる娘を、みんな「かわいい」「良い子だね」と言ってくれた。お世辞と分かっていても、頑張って産んだ自分の子供が褒められるのは嬉しいものだった。
男性や子供のいない友人は恐る恐る赤ん坊に触れる。やっぱり慣れていないと新生児は怖いのだろう。
子育て経験のある人は反対に、抱っこしたがった。自分の子の赤ちゃんの頃を思い出すらしい。手際よくオムツを替えてくれる人もいた。娘は何をされても泣かず、授乳の時間以外はほとんど起きなかった。昨夜とは別の赤ちゃんじゃないかと思うほど大人しかった。
夕方六時を過ぎる頃、狭い病室のベッドの上は、お見舞いの品と差し入れの食べ物でいっぱいになった。
学生時代からの友人達と陣痛の辛さについて話しこんでいると、病室のドアが開いて太田看護師が入ってきた。
「はーい、みなさん。面会はここまでです。佐久間さんも疲れているのでまた今度にしてあげてくださーい」
そう言うと、友人達が部屋を出るまで腕組みをしてベッドの横に立ち続けた。その迫力に、おしゃべりな友人達も「長居しちゃってすみません」と、すぐに帰り支度を始めた。
友人達がそそくさと退散すると、太田看護師の尋問が始まった。
「あなた、朝も昼もあんまり食事とれてないみたいだけど。疲れてるんじゃない?体は大丈夫なの?」
「体調は大丈夫です。後陣痛はまだありますけど。ちょっと食欲出なくて……」まさか残した食事の量まで管理されているとは思わなかった。
「昨日は眠れた?」
「……眠れませんでした」
「夜眠れなかったなら、昼に赤ちゃんと一緒に眠らないともたないよ。お見舞いよりも赤ちゃんと自分の体調を優先しないと。今日の夜は赤ちゃん、新生児室で預かろうか?」
自分の楽しみを優先して、母親失格だと言われている気がした。
「大丈夫です。今日も母子同室にします」
「無理しないでよ。今日は私が夜勤だから何かあったらすぐ呼んで。いつでも預かるから。もし今日も眠れなかったら、明日からのお見舞いは断りなさいね」
今夜はこの人が巡回に来るのかと思うと、気が滅入った。
西側の病室の窓からは、すでに夏の夕陽が差していた。また恐怖の夜が来る。
昨日と同じ、消灯前に娘は泣き出した。乳を与えゲップをさせてオムツを替える。回数をこなしている分、昨日よりだいぶ手際よくできるようになった。横抱きにして、寝かしつける。揺らすと早く眠ることが分かった。
しかし、ここからが昨日とは違っていた。昨日は眠った娘をそのままベビーベッドに置くことができたのだが、今日の娘はベッドに置くと目を覚ましてしまうのだった。
そこからまた泣き出してしまう。抱っこして揺らすとまた眠る。しばらく抱っこして、腕が痺れてきた頃にそっと降ろすのだが、まだ熟睡していなかったらしく泣き出してしまった。
これを何度か繰り返しているうちに、赤ん坊が口をハフハフとさせる。時計を見ると深夜だった。すでに次の授乳時間になっていた。
産後で体力もなく、昨日も寝ていないので頭がぼんやりしてくる。赤ん坊もどうやらうまく眠れなくて泣いているようだった。
「眠いなら寝たらいいのに……」
そんなことを生後三日の娘に言っても分からない。仕方なく、また授乳から始める。もう何度も授乳しているので、不快感にもだいぶ慣れた。授乳しながらつい目を閉じてウトウトしてしまう。気付けば乳を飲み終わった娘は寝息を立てていた。そっとベビーベッドに寝かせてみる。目を覚まさなかったので、自分も横になることにした。ベッドに入って目をつぶった瞬間、また娘が泣きだした。
「お願い、眠って……」
疲れて眠るかもしれないと、しばらく放って、寝たふりをしてみた。娘の泣き声は大きくなり、やがてしゃくり上げて息を止めるような泣き方になった。さすがにこれはまずい。
抱き起こすと、体を強張らせてさらに強く泣き出した。もう揺らしても泣きやまない。縦抱きにして、背中をトントンと叩いてやるが、おさまる気配すらない。耳元で大きな声で泣かれ頭がキンキンと痛んだ。
目をかたく閉じ、顔を真っ赤にして泣き続ける娘に、私の中の何かが限界を迎えた。
「もう!いい加減にしてよ!」ヒステリックに叫ぶ。
赤ん坊は大きな声に驚いていったん泣きやんだ。そして次の瞬間、飲んだ母乳を吐き戻した。
娘の産着と私のパジャマが汚れた。
眠気と疲れで朦朧とした頭にシグナルが鳴り響いた。もう無理だ。私には無理だ。
泣きわめく赤ん坊をベッドに置いて、顔を上げた。暗い病室の窓に、自分の顔が映っていることに気が付く。髪を振り乱し、目を見開いた女の顔。記憶の中の、恐ろしい母の顔がよみがえった。右腕の古い火傷の痕がうずく。
決めていたのに。
私は良い母親になろうと。決して、自分の母のようにはならないと。
涙と嗚咽が同時に溢れ出し、娘の産着に涙がこぼれた。小さな病室に娘と二人、閉じ込められている気分だった。
その時、眩しい光が私の顔を照らした。
「ちょっと、どうしたの?」
涙でにじむ視界に、あの太田看護師の顔が映る。巡回の懐中電灯の光だった。
「あいやー、泣いてるの?あなた大丈夫ねえ?」
熱い手が肩に置かれる。まずい相手に見つかったと思った。けれど、その顔は心配そうで、白衣に包まれた太い体はやけに頼もしく見えた。
「赤ちゃんが……泣きやまなくて。何してもダメで。私……もう無理です。できません。お母さんなのに泣きやますこともできなくて赤ちゃんに大きい声を出しちゃって、そしたら、赤ちゃんが吐いちゃって……」
転んで泣いている子供のような言葉しか出なかった。声が震えて、嗚咽が混じった。もう恥も外聞もなかった。とにかく看護師に伝えたかった。自分がどんなにダメな母親であるかを。
叱られると思った。母親失格だと言われると思った。しかし太田看護師は、小さな子供をなだめるように、私の背中をさすっただけだった。
「大丈夫よ。上手にできなくて当たり前。お母さんになってから、あなたはまだ三日しか経ってないんだから」
「でも、他のお母さん達はみんなちゃんと授乳ができるのに、私はできなくって」
「授乳?あなた、ちゃんとやってたさ」
「気持ち悪いんです。赤ちゃんにおっぱい吸われると。なんだかムカムカして、引き離したくなるんです」
「ああ。たまにいるのよ。おっぱい吸われると気分が悪くなる人。昨日も言ったさ。慣れるから大丈夫って。授乳してるうちに落ち着くよ。不快性射乳反射っていってホルモンのバランスのせいだから」
「シャニュウ?私に母性がないとかそういうことじゃなくて?」
「あなたそんなこと考えてたの?そんなことで不安にならなくていいんだよ。母性なんて目に見えないもの、有るか無いかなんて誰がどうやって測るの」
「それより今はちょっと落ち着きましょう」
そう言うと、ナースコールに手を伸ばした。
「ああ、花城さん?そっちに一人残して、あなたちょっと来てもらえる?」
私はまだ涙が止まらず、娘も大きな声で泣いているままだった。
「あなた達は親子揃ってナチブーみたいだねえ」
太田看護師は左腕で赤ん坊を抱き、右手で私の背中をさすりながら、静かに歌い始めた。
「ねんねんこ、よしよしよし
ねんねんこ、よしよしよし」
初めて聞く歌だった。歌のリズムに合わせて赤ん坊を揺らし、私の背中をさする。
懐かしいリズムだと思った。心を落ち着けようと目を閉じる。昔、祖母に歌ってもらった子守唄を思い出した。母と離れ父と祖母と暮らし始めた頃、寂しくてよく泣いていた私に歌ってくれた歌だった。
太田看護師の歌は続く。
「ナチブーナチブーかわいい赤ちゃん
おっぱい飲んだら、ねんねんよ
涙そうそうは、また明日」
なんだかゆかいな歌だった。思わず笑顔になる。娘はまだ泣いていたけれど、不思議と気持ちが落ち着いた。
何事かと病室に飛んできた花城看護師に娘を預けた。太田看護師に誘われるまま病棟の中庭に出る。娘の泣き声は廊下にまで響いていたが、中庭のガラス戸を閉めると聞こえなくなった。代わりに盛大な虫の鳴き声と夏の夜のムッとした湿気が私を包んだ。
病院は緑に囲まれた丘の上にあり、市街の喧騒から離れていた。その代わり、風の音と、虫や蛙の鳴き声がよく聞こえた。
昼間は直射日光が当たるので出ている人を見かけなかったが、なかなか手入れの行き届いた中庭だった。中央に草花が植わっていてベンチが周りを囲っている。庭を眺めながら休めるようになっていた。月明かりと設置された販売機の明かりだけが夜の庭を照らしていた。
「ちょっと頑張りすぎたんだよ。育児には息抜きが必要よ。赤ちゃんは花城さんに任せて、少し話をしましょう」
彼女はそう言って、販売機で缶コーヒーを二つ買った。一つを私に差し出し、ベンチに座る。
「おごるさ。飲んで」
受け取って、彼女の隣のベンチに座る。プルタブを開けて一口飲むと甘さと冷たさが口いっぱいに広がった。
「甘い。でもおいしい。加糖のコーヒー久しぶりに飲みました。て言うか、コーヒー自体久しぶり。大好きだけど控えてたんです」
カフェインは赤ちゃんに良くないと聞いて妊娠中はずっと我慢していた。
「コーヒーを一、二杯は大丈夫だって妊婦教室でも言ってるのに、なぜかみんな控えるのよね。体重管理はどんなに口酸っぱく言ってもダメなのに不思議よね」
体重管理ができずに、十五キロも増やしてしまった私は肩をすくめる。
「授乳中も一、二杯は大丈夫だからね。まあ煙草とかは絶対ダメだけどね。吸いたいなら、粉ミルクにしてね」
こんなところでも妊婦教室のようなことを言ってしまう。そう言って、彼女は缶コーヒーに口をつけた。沈黙が続く。私が話始めるのを待っているのだと気付いた。
「私、煙草は吸いません」この人に、聞いてもらおうと思った。
「子供の頃、母に火のついた煙草を押し付けられたことがあるんです」
他人に母の話をするのは、初めてだった。
「私がいけなかったんです。うちは母子家庭で、母が夜働かないといけないのは知ってたのに。その日は私の誕生日だったから寂しくて、出勤準備をしている母に行かないでってしつこくまとわりついたんです」
二人で暮らしていたアパートには西日が差し込んでいた。小さなちゃぶ台の上に手鏡を置いて化粧をする母は、迫る出勤時間とぐずる私に苛立っていたようだった。煙草に火をつけ、くわえながら眉墨をひいていた。
そんな母を引き止めたくて「やっぱり今日は休もうかな」と言ってほしくて、私は母の腕にぶら下がって甘えて見せた。
「ねえ、マーマー。マーマーってばー」
煙草から火のついた灰が落ちた。母の白いスーツに一瞬小さな赤い火が付き、すぐに消えて黒い焦げを作った。
母の目の色が変わった。
ああ、いけないと思った。母は怒ると、いつも激しく私を折檻した。強く右腕を引っ張られる。頬をぶたれると思って、左腕で顔をかばった。しかし、母の平手は振ってこなかった。代わりに持っていた煙草を右腕に押し付けられたのだ。
煙草の先が触れた瞬間は、なぜか冷たいと感じた。あとから熱さが来て、切られたように痛くなり、体全部が心臓になったように脈打った。
痛くて、怖くて、悲しかった。そんなことをした母が恐ろしかった。
「イーバーヤサ!あんたが言うこと聞かないからヤーチューされるんだよ」
母はそう言い捨てると、泣き続ける私を置いてそのまま仕事に出かけてしまった。
「それから母は私の目を見なくなって、だんだん家に帰ってこなくなって、最後はそのまま男の人と蒸発しちゃいました。私が育児放棄されていることに気付いた大家さんが警察に通報してくれたそうです」
それから私は、父に引き取られ、母とはもう二十年以上会っていない。右腕に残った火傷の痕を見る度にあの日の母を思い出す。
「夫と結婚して、子供がほしいねってなった時、私は絶対に母みたいにはならないって誓ったんです。優しいお母さんになるんだ、自分の子供にはたくさん愛情を与えて育てるんだって」
妊娠中、私の頭に浮かんでいたのはまさに聖母マリアのような母親像だった。
それなのに、たった三日でもう不安になってしまっている。子供に愛情が湧かない。苛立ちを抑えきれない。病室の窓に映った自分はあの日の母と同じ顔をしていた。
「赤ちゃんが泣きやまなくて、イライラする自分が怖くなったんです。自分が母のようになってしまいそうで怖いんです」
太田看護師は、溜息を吐いた。
「何があっても、絶対に赤ちゃんを叩いたり、強く揺さぶってはダメよ。もし、すごくイライラしたら今みたいにちょっと赤ちゃんと離れたらいいよ。赤ちゃんが泣いてても、安全な所に寝かせていたら、しばらくは大丈夫だから」
うつむく私に、太田看護師は一言ずつ噛みしめるように言った。
「私には子供はいないけど、この病院で生まれた子はみんな自分の子供のつもりでお世話しているよ。他人の子供だけど、お世話しているうちにだんだん情が湧いてくるし、すくすく幸せに育ってほしいっていつも願ってる。あなたのお母さんみたいに、自分のお腹を痛めた子供でも、虐待してしまう親がたくさんいることは知ってる。だから母性とか無償の愛とかそういうのはよく分からないけど……あなたは大丈夫だと思うよ」
「なんでですか?私、自信ないです。私もお母さんみたいになって、娘を傷つけちゃうかもしれない」
「そう思ってる限りは、大丈夫だと思うよ。自分の弱さを知って、子供のことを考えられる限りは。それに、あなたには優しい家族がいるでしょ」真っ先に夫の顔が浮かんだ。それから父の顔、祖母の顔。佐久間の両親の顔も。私がダメになってしまっても、きっと私達親子を支えてくれる人達。
「お見舞いに来てくれたお友達だって、あなたに何かあれば手を貸してくれるでしょ。要は誰かに頼ればいいわけさあ。私達看護師でもあなたが疲れた時に、赤ちゃんを抱っこしておくくらいのことはできるんだから。その間にコーヒー一杯でも飲んで落ち着けばまた頑張れるさあ」
父との結婚生活を、自身の不貞で投げ出したという母は、実家からも縁を切られたと聞いた。一人で私を育てていた母には、支えてくれる人がいなかったのかもしれない。
太田看護師が缶コーヒーを一口飲む。私も一口飲んで、ふうと息を吐いた。気持ちが落ち着いてくると、大泣きしたことが急に気恥ずかしくなってきた。素直にそう伝えると、太田看護師は笑った。
「あなただけじゃないから大丈夫よー。初めは泣いちゃう人多いわけよ。母乳が出ないとか、育児が不安とか。母子同室で頑張ろうとするお母さんは特にね。みんなまじめな良いお母さんなんだよね。まあ、最初からそんなに力んでたら続かないんだけどねー」
母子同室を希望した私に、何度も大丈夫かと念押ししてきたのは、そんな母親達を見守ってきた経験があったからなのだろう。さすがベテラン。案の定だったわけだ。
「さっきの子守唄、初めて聞いたんですけどなんて歌なんですか?ねんねんこ、よしよしよしってやつ」
「ああ、あの歌?」太田看護師は少し恥ずかしそうに言った。
「あれは作詞作曲、私だよ。毎日赤ちゃんあやす時に適当に歌ってたら定番になっちゃって。三番まであるのよ。すごいでしょ。赤ちゃんは歌が大好きだから、あなたも、あなたの好きな歌を子守唄にしてあげたらいいよ」
廊下に面したガラス戸が開く音がして、赤ん坊の泣き声が夜空に響いた。振り返ると娘を抱いた若い看護師が、困り顔でこちらを見ていた。
「太田師長すみません。佐久間さんの赤ちゃん哺乳瓶受け付けないんです。お母さんのおっぱいがいいんじゃないかな」
「あいやー。コーヒー一杯飲む時間もないねえ」太田看護師は笑った。
私は半分ほど残っていたコーヒーをいっきに喉に流し込んで立ち上がった。
「もう、大丈夫です。今行きます」
部屋に戻ると、太田看護師の指導のもと「添い乳」をすることになった。泣き続ける赤ん坊を私のベッドに横向きに寝かせる。タオルでその背中を支え、私も添い寝した。横になりながら授乳する。
泣き過ぎて声の枯れた娘の口に、乳首をくわえさせる。しばらくするとやっと泣きやんで、目を閉じて乳を吸いはじめた。
「おっぱい飲んでたら落ち着いてそのまま寝るはずだから、あなたもそのまま添い寝したらいいよ。お母さんが添い寝してたら赤ちゃんも安心して起きないはずだから。赤ちゃんをつぶさないように気を付けてね」太田看護師はそう言ってドアを閉めた。
今度は娘と二人きりで不安だとは思わなかった。
さっきも授乳は充分にしたはずなのに、娘は一心に乳を吸っている。お腹が空いていて吸い付いているのではないんだろうなと思った。
不安になって泣き疲れ、やっと母親に抱きしめてもらえて、もう離すまいとくっついているのだろう。こんなにも純粋に自分を必要としてくれる存在を愛しく思った。
「ごめんね。こんなママなのに」
声に出して気付いた。娘にこんな風に話しかけたのは初めてだった。
ひとしきり乳を飲んで落ち着いたのか、娘の口の動きが止まった。
「もうおしまい?もっと飲んでいいんだよ」
意識して優しく話しかけてみる。ふと、娘が目を開けた。新生児の視力は弱いので、はっきりと見えてはいないはずだが、濡れた瞳で私を見ようとしているようだった。
「ママの声が分かるのかな」
耳は胎児の時から聞こえているはずなので、私の声に反応してくれているのかもしれない。
子守唄を歌おうと思った。
この子が不安がって泣くのなら、落ち着くまで寄り添ってあげよう。大変だろうけど、きっといつかは泣きやんでくれる。
火傷の痕はもう見ない。
「ねんねんこ、よしよしよし
ねんねんこ、よしよしよし」
太田看護師の子守唄を覚えている所だけ口ずさんでみる。腕の中の娘は、耳をすまして聞いているようだった。
琉球新報社提供
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平成30年1月12日付の琉球新報に掲載されました。
虐待、子供の貧困、ワンオペ育児……母と子を取り巻く辛いニュースを毎日目にしていて、子育て中の自分だから書けるものがあると思い、生後三ヶ月の息子を抱きながら書き上げた作品です。
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