5. アンフィーサ
さらに日は過ぎて、今年初の汽車がやって来るまでひと月をのこすほどとなった。
「ねえ、ゾーイカをこんどうちに連れてきてもいい?」
明るい声で尋ねるアンフィーサ。
「もちろん。パンケーキを焼いて待っているわ」
「春にはまだ早いんじゃないかい」
オリガとアンフィーサは顔を見合わせて結託した。
「いいじゃないの」
「ねえ」
ませた表情でアンフィーサは笑った。
「パパはときどき、頭が古いわ」
「ふたりがいいなら、好きにしなさい」
アレクセイはグラスのコニャックをあおぎ、かっかと熱い息を一度吐いた。
つぎの朝はやくから、オリガは台所に立っていた。バケツのような大きさの鉢でパンケーキの材料を混ぜ合わせ、ふきんをかけて寝かせる。
アンフィーサは台所をのぞいてから晴れた空の下へ走った。雪のひとひらひとひらに白い日光がきらめいてまぶしいほどだった。
昼がすぎ、空気に桃や橙の色が交じる。厚く塗りつぶしたような地面も光の具合とともに彩りを変え、影を長くのばした。
「そろそろかしら」とオリガはフライパンを火にかけ、湯沸かしに水を入れた。
見る間に夜が空をいだいた。アレクセイは部屋の灯をふやした。
「カーテンを閉めようか」
「いいえ、フィーサが帰ってくるでしょう」
バターの溶ける甘いにおいが立ちこめ、まるいパンケーキがひらべったく皿に乗せられる。
「パパ、ママ、ただいま!」
アンフィーサが冷たい風をつれて帰ってきた。
「おかえり、フィーサ。友だちもいっしょかな」
「もちろんよ。ほら、ゾーイカ、入って」
「いらっしゃい。いつもアンフィーサから話を聞いてるわ」
火から離れてオリガが顔をだした。
踵の雪をとんとんと落としてから入ってきたのは、抜けるように白い肌と宝石のような緑の瞳をした少女だった。
「可愛い子と仲良くなったのね」
「ゾーイカは雪の国の女王様だもの。ねえゾーイカ。この人がわたしのママ。こっちがパパ」
アンフィーサにうながされて、少女はアレクセイに顔をむけた。そうしてまっすぐにかれを視線で射抜いた。
アレクセイは居心地悪く身じろぎをした。それでもかのじょは目をそらさなかった。
「その、なにか……?」
ぎこちない問いだった。かれを見上げる瞳には長い睫毛の影が落ちていた。
かのじょはあおざめて見える唇をしずかにうごかした。
「あなたは忘れてしまったのね、アレクセイ」
その声をアレクセイは知っていた。打ちのめされたかのような衝撃がかれを襲った。子どもの頃の記憶が奔流となってかれを飲み込んだ。アレクセイはただ目を見開いてあえいだ。
ゾーイカ――ゾーヤは二、三十年もの前からすがたを変えることなく、アレクセイの前に立っていた。そしていま、きっぱりとかれに背をむけて、凍てついた夜へ足を進める。
「待って、ゾーヤ……。ゾーヤ……!」
アレクセイはすべてを思いだしていた。かのじょと交わした約束。ふちだけがほのかに薄紅色をした白いばら。
せめてひとことだけでも謝りたかった。雪景色のなかの白い背中を必死で追った。いくら名を呼んでもゾーヤはふりむく気配すらみせなかった。
暗い風が吹く。かわいた雪が舞い上がり、波打ち、渦巻く。顔をそむけた一瞬の間に、ゾーヤを見失った。
かのじょの名は虚空に消えるばかり。アレクセイはがむしゃらに雪をかきわけ進んだ。
小高い雪の丘にたどりつく。足をかけたそばからたやすく崩れていく。それでもすこしでも視界を得ようとアレクセイは丘を上った。
村はやはり死んだように静まり返っていた。自分のあらい白息と雪を踏む音が聞こえるもののすべてだった。鼻の奥に氷のにおいを感じた。
遠すぎる星明かりをたよりに目をこらす。ゾーヤの痕跡はどこにもなかった。足跡ひとつつけずにかのじょは消え失せていた。
呆然としていたアレクセイは鋭い風に首を刺されて我にかえった。深々とため息を空にはなち、ほとんどすべり落ちるようにして丘を下りた。
びょうびょうと風がうなる。アレクセイの背中に、妖魔のつぶてのような無数の雪粒がぶつかった。
服に付いた粉雪を払って立ち上がる。見おぼえのないうつろな景色だった。じぶんの通ってきた足跡をさがそうと身をかがめる。たしかに残してきたはずのくぼみは風に均されて影もかたちもなくなっていた。
愕然としたのも束の間、刃物のような冷気がアレクセイを追い立てる。あわてて立ち上がり、深みに足をとられた。
悪態をつきながら体を起こす。とにかく星を見て、方角を失わなければ知っている場所に出られるはずだ。
こびりつく雪をはらっておおきくのけぞった。
「ああ……」
空に星はひとつも見えなかった。ぼんやりした乳白色の光が一面に夜空をおおっていた。
緑や紫がにじんだ帯をえがく。
アレクセイは気づかないうちに地面にあおむけになっていた。やわらかな雪はかれのかたちを受けとめた。
ゆるやかに舞う裾を駆けのぼるように、霜柱のような赤い光の群れが雪原のむこうからやって来た。
耳元でちりちりとかがやきが聞こえる。アレクセイはオーロラに見とれた。子どものとき以来だった。
軽やかにステップを踏んでいた光は太く、重くなりながら天頂へ近づいた。耳に聞こえる音はいっそう甲高く響いた。赤い霜柱はしずかな白い絹布をはしからかじりはじめた。
つめたい乱痴気騒ぎがアレクセイの真上に至る。オーロラはもはや獰猛な氷柱さながらに空をつらぬき、ぎらつく突端を何度も振り下ろしていた。
冬の夜空はちっぽけなアレクセイをあざわらっていた。かれは横たわったまま目を釘付けにされていた。
死神がマントの裾ものこさずに立ち去り、ささやかな星たちの静寂がもどった。
アレクセイはのろのろと頭を起こした。背には雪がびっしりとくっついてきた。
ため息をついてから立ち上がった。体は芯から凍えきっていて吐いた息にも色はなかった。
一歩、一歩、空と地面とを交互に見ながら慎重に足を進めた。どこまでもなだらかで色彩のない世界。じぶんの歩幅の大きさや、いちばん近い人家までの道のりといった感覚がしだいに失われていった。
ようやくアレクセイはわが家に帰りついた。ひどく時間がかかったように思えた。じっさい、かれはずいぶんと近づくまで家に気がつかなかった。あたたかく橙色の灯をともしていたはずのかれの家は暗闇のなかに息を殺してひそんでいた。
アレクセイは開けはなたれたままのとびらを越えた。足をおろすとぱりりと薄氷が割れた。
室内は外よりもいちだんと暗く冷え、アレクセイの背や腕に無数の鳥肌をつくらせた。
「……オーリャ? フィーサ?」
しぜんとささやきになった。かれの声は肌にしみるほどの沈黙をかえって強調するだけだった。
ほとんど手さぐりで進む。ふれるものはすべてが冷えきっていた。雪の結晶の棘が肌に食い込んだ。氷をかさねたような床はつるつるとしてアレクセイに歩かれることを拒んだ。
霜をはりつけた窓からわずかばかりの星明かりと雪明かりが入る。ようやくおぼろげながらようすが見えるようになってきた。
全身の感覚から無意識のうちに思い描いていたのと寸分違わないながめがあった。妻や娘が立っているのではないかという淡い期待もくだかれた。
あらゆるものが凍りついていた。生きているものはなにひとつなかった。
ソファやカーテンのやわらかさはすっかりと失われていた。水桶をたたいてみてもさざ波ひとつ立たなかった。台所の食物は恒久的に白く褪せていた。アレクセイはなにひとつ動かすことができなかった。
目にしたものを受け入れられないまま家のなかをめぐり、ふたたび居間へ戻ってきた。縋るものもなくまわりを見回した。
暖炉の炎さえ凍っていた。冴え冴えとした水晶のような薪のうえで、燃え盛るかたちもそのままに、青白く動きを止めていた。暖炉にはてしない夜空を見た。
純粋な硬さと冷たさに支配された陋屋。アレクセイは天をあおいだ。膝をついた。音はなにひとつ生まれなかった。
流氷に隔てられた海のかなたでは、地上のあらゆる悲しみにも増して深く蒼い波が、くりかえしくりかえし、尽きせぬ嘆きを詠じていた。