4. オリガ
結局、アレクセイは漁師にはならなかった。母親のたっての頼みだった。
「あんな思いは二度とごめんだよ、アリョーシャ。おまえが漁師になんてなったら、わたしは心配で気がおかしくなってしまうよ」
スレジナスカの村には、大の男が一年食いつないでいけるだけのほかの仕事はほとんどない。
アレクセイは雪のない時期にだけはしる汽車に乗り、ホラスグラートの街へ移った。
ホラスグラートではいつでも働き手をもとめていた。
逓信局に附属の倉庫がアレクセイの職場になった。鱗のように文字がひしめく帳簿をにらみ、上司の指示にしたがって小包を出し入れする。
漁にくらべれば難しいことも危ないこともなかった。牛のように丈夫で文句を言わずはたらくアレクセイは重宝された。
それでも一日じゅう腰をかがめてはのばし、階段を上り下り、低い天井のしたを行き来すれば、夕方六時の終業時には絞られた雑巾のようにくたくたになる。逓信局の裏口からあるいて二十分ほどの下宿にたどり着くやいなや朝日がのぼるまで眠りこむ。
道すがら空を見上げるような奇特な人間はホラスグラートにはいなかった。それでもアレクセイは思いだしたように帰り道に立ち止まっては、ぎしぎしいう腰をそらした。
歩行者や自動車、自転車、手押し車は昼夜を問わず目的地をもっていた。かれらは道路の血流をとどこおらせる田舎の青年をあからさまに邪険にした。
ほどなくアレクセイも都会流のせかせかしたあるきかたを身につけた。たとえ夜道に人っ子ひとりいなかったとしても、遅かれ早かれそうなっていただろう。
あかるいうちに吐きだされた工場の煙を吹き散らすには、ここの風はあまりにもひよわで、空はあまりにもせまかった。
目をこらしてようやく見つけられる一等星のにぶい輝きは、書き損じすぎた鉛筆の先のようだった。
故郷のスレジナスカであれほど忌み嫌われていた死神のマントも、ホラスグラートではほとんど気にも留められなかった。いまにも立ち消えそうなろうそくのようなゆらめきを偶然見つけたひとは、「おや、オーロラだな」とだけつぶやいて、机のうえのより大事なこと、たとえば原価や人件費を削って純利益を増す方法であるとか、子供が学校からもらってきた成績の数字であるとかにふたたびかかりきりになるのだった。
一度だけ、アレクセイはあの光にまつわる地元の言い伝えを同僚にはなしたことがあった。それを聞いたとたん、かれらはいっせいに笑いだした。
「ばか言うなよ、あれはれっきとした自然現象だぜ」
「おまえ、科学ってものを知らないのかい?」
アレクセイはみじめったらしく、精いっぱいにやついた。「べつに、信じちゃいないさ」とこたえて酒をあおった。
ホラスグラートの暮らしになじむにつれて、アレクセイは夜闇の暗さも、空に踊る光のおそろしさもうつくしさもわすれていった。
魚とはちがい、郵便物は季節を問わず陸地を駆けめぐっていた。休暇は自然からではなく上司からあたえられた。
アレクセイは夏に二週間の休暇を「割り当てられ」、汽車に乗ってスレジナスカへかえった。
母親は食べきれないほどのごちそうを作って待っていた。海に出さえしなければ息子はいつまでも健康体だと信じこんでいるようだった。交通事故も喘息も眼精疲労も、かのじょにはとんと縁のない言葉だった。
村の男たちには会わなかった。漁師にならなかった引け目と、村のだれより金を稼いでいるであろう優越感と、そう感じてしまう自身のいやしさとがないまぜになって、どのような顔をしていればいいのかわからなかったのだ。
休暇のなかで、アレクセイが息をつけるのは、母親の過干渉とおもたい潮のにおいから解放されたホラスグラート行きの汽車に乗ってからのことだった。
逓信局の倉庫で働きはじめて何年かが経ち、アレクセイはひとりの女性に恋をした。かのじょはオリガ・ユーリエヴナ・リシチキナといって、逓信局の電話交換手をしていた。両親を亡くしていて、年のはなれた弟がいる。「いいわね」というのが口癖で、そのときにはくちびるをちょっと持ちあげる。
アレクセイはオリガになにか贈り物をしたかった。ただ、ホラスグラートで手に入るもののことなら、かのじょのほうがよほどよく知っている。その夏の休暇にすこしでも魚くさくない贈り物を血眼になってさがした。
帰りの汽車まで三日を残すばかりとなっても、オリガに喜んでもらえそうなものは見つからない。アレクセイは自室のベッドにどさりと寝そべった。休暇がもっと長ければよいと思ったのははじめてだった。
古ぼけた天井を見て、くもった窓ガラスを見て、ペンキのはげた桟をたどる。目を見開いて飛び起きた。
真新しい清冽な白。花びらのふちは頬を染めたような薄紅色。こんなにみごとなばらの花はホラスグラートにだってそうそうはない。
これしかない、と雷に打たれたような気分だった。
アレクセイはいそいそとスレジナスカを後にし、休暇が終わるのとほとんど同時にばらをオリガに手渡した。
包装もないむきだしの一輪の花を不器用に差しだすアレクセイに、オリガは目を円くした。それから吹きだした。可憐なばらとたくましいアレクセイの取りあわせはまるでちぐはぐだった。ただ、そのちぐはぐさを、オリガはむしょうに愛しく感じた。
かのじょはアレクセイのごつごつした手を両手でにぎりしめた。
「いいわね。とても……、すてきだわ」
アレクセイはオリガと結婚し、ホラスグラートのより大きな家へと引っ越した。給料もあがってすこしずつ高価なものを買う余裕もでてきた。
一緒に住みはじめてわかったことだが、オリガは頭痛もちだった。明かりを見ると痛むと言って、電灯もつけずにソファに横たわっていることもあった。
「オーロラが出るときは特にひどいの」
頭をふってかのじょはつぶやいた。
「光がちらちらするせいかしら」
アレクセイは余分なまぶしさがかのじょをわずらわせないように、ぴったりとカーテンを閉めきった。
やがてオリガとのあいだに女の子が産まれた。その子はアンフィーサと名付けられた。両親が逓信局に勤めていたことも影響してか、アンフィーサは郵便屋さんごっこをするのが好きだった。アレクセイとオリガのあいだを行ったり来たりしては、ささいなメモやおもちゃをせっせと届けにくる。
「ゆうびんです、アリョーシャさん」
せいいっぱいかっこうをつけてアンフィーサはふたつ折りの紙を差しだす。「はい、ご苦労」と受けとって、ちいさな手のひらに指先でサインを書きつけてやる。
「おてがみはありませんか?」
幼い配達員は立ち去ろうとしない。アレクセイは笑いながら「これをオーリャに」と人形をわたした。
「はあい」
人形をしっかりと抱いてアンフィーサがぱたぱたと走る。すぐに「ゆうびんです」と張りあげる声が聞こえた。
アンフィーサが初等教育にもなじんできたころ、アレクセイの母親が亡くなった。晩秋のことだった。
アレクセイは急ぎ、一冬の休暇を申請した。
「きみの故郷では、四か月も葬式をやるのかね」
「冬のあいだは汽車がないんですよ。みんな雪に埋まるし、車のエンジンだって凍っちまいます」
上司は眉を上げて申請書を承認した。
冬のスレジナスカはおよそ十五年ぶりだった。まばらに立つ家が強風をじっと堪えしのんでいる。アンフィーサは海のにおいをはじめて嗅ぎ、鼻に皺をよせた。
灰色のうらぶれた景色に、アレクセイは深くため息をついて肩を落とした。
「アリョーシャ、しっかり……」
オリガの手が背に添えられる。
「……こっちだ」
母親の家へと歩きだした。途中から粉雪がこぼれるように舞った。
すでに家じゅうの鏡には覆いがかけられ、教会への連絡もすんでいた。あわただしく神父と話しあい、葬儀の準備をととのえる。オリガは家の掃除や食事の用意をてつだった。アンフィーサは部屋のすみでじっとしていた。
翌日に母を埋葬し、参列者と食事をとる。スレジナスカの住民と顔を合わせるのもずいぶんとひさしぶりだった。色あせて継ぎのあたったかれらの服とくらべると、アレクセイの黒い服はまるで皇帝の衣装のようだった。
四十日をむかえるころには、外はすっかり白さが積もった。母親の遺品の整理もあらかた終えた。
雪が解けて業者が村をおとずれるまでアレクセイたちは母親の家で過ごすことになっていた。
アンフィーサは雪に閉じこめられるのに早々に飽き、ぐずついた。アレクセイはかのじょのために納屋からむかし使っていたそりを出してやった。大のおとなになったかれが力いっぱい体重をかけても、そりはびくともしなかった。
このあたらしいおもちゃを気に入って、アンフィーサは銀世界を子犬のように転げまわった。
「あんまりとおくに行っちゃだめよ、フィーサ! かえってこられるところで遊びなさい」
オリガは窓から身を乗りだして、白い息とともに声を張りあげた。アンフィーサの青い手袋が返事をした。
「あのね、おともだちができたわ」
数日がたった夕食の席で、アンフィーサが言った。
「いいわね」とオリガが笑む。
「なんていう子だい」
内心で首をかしげながらアレクセイは訊いた。母の葬列におとずれた村人のなかに、子供のすがたはなかった。
ぱちぱちとまばたきをしてアンフィーサは「知らない。きかなかったもの」とこたえた。
「でもこんどきくわ。また遊ぼうってやくそくしたもの」
それからかのじょはまるい頬をぴかぴかとひからせてあたらしい友だちのことを両親に話した。スレジナスカに来てからはじめてのことだった。
アンフィーサは毎日のようにそりを引きずって外へ駆けだしていくようになった。そのようすにつられてアレクセイも身を切るような外気に出た。キツネのようにまっすぐに足跡をのこす娘を見送り、痛々しさに似たなつかしさを胸に故郷の地を見晴らす。
点在する古い人家。記憶よりもその数は減っていた。視界がしろく煙って、じぶんがため息をついていたことに気づいた。
流氷と雪は海と大地とをへだてる水平線すらもおぼろにしてしまう。アレクセイは見えない足もとへ目を落とした。深い雪は、すべてのものの境界をあいまいにする力を持っている。
日が落ちても帰ってこないアンフィーサをむかえるため、アレクセイはランプを手にふたたび外へ出た。扉を閉め、振りかえり、まぶしさに目をつぶった。ランプを顔から遠ざけて薄目をあける。
ようやく顔をあげたアレクセイは、眼前に広がる光景に立ち尽くした。
空のすみずみに無数の星がひしめく。くっきりとした月は太陽のようにまるく誇らしげに浮かぶ。一面の雪原はそれらの光を照り返す天然のシャンデリアとなって、こまかく透明にきらめいていた。
その明るさは人間というものをまったく必要としていなかった。
はっとしてランプを掲げ、娘の名をよぶ。昼につけられたちいさな足跡はあざやかな影となってながく伸びていた。
五分も歩かないうちにアンフィーサの声。蹴り上げる雪と吐く息の白さにつつまれて帰ってきた。
「遅かったじゃないか」
「ごめんなさい、パパ。ゾーイカと遊んでたの」
灯をたずさえて家までの道をあるく。
「ゾーイカというのがその子の名前なんだね?」
「そう。わたしよりちょっと年上なの」
うしろから風が吹きつけ、アンフィーサはそこで首をすくめた。立ち止まって雪風の出所をさがすように振りかえる。
「わあ、見て、パパ」
はずんだ声に首をめぐらせるアレクセイ。
夜空の端からゆらゆらと赤い光が立ちのぼっていた。無花果を割ったようなその色合いに、唐突にむかし母親から聞いた言い伝えを思いだした。
村に死をもたらそうと翻るマント。おそろしい存在は頭上からこちらを窺っている。
くだらない田舎の迷信だとアレクセイはくちびるをゆがめた。体の内側からの寒気には見て見ぬふりをした。
「わたし、こんなきれいなオーロラ見たのはじめて」
アンフィーサが無邪気に言う。アレクセイは柔らかい声音をつくって呼びかけた。
「帰ろう、フィーサ。オーリャが待っている」
襟巻を首元に押さえて、アンフィーサはかれを見上げた。
「ゾーイカね、パパのこと知ってたわ」
アレクセイはわずかに眉を寄せて訝しんだ。
「その子のとうさんかかあさんかと知り合いだったかもしれないな」
年のちかい何人かの顔を思い浮かべる。葬儀に来ていたものも、来ていなかったものも。
家のなかは薄暗かった。オリガは明かりを灯すのもそこそこに、ソファに身を沈めていた。
「あら、おかえり」
「ただいま、ママ。ゾーイカと遊んでたの」
オリガは手をあげてかのじょの言葉を押し止めた。
「頭が痛いの。あした聞くわ」
ゆっくりと立ち上がり、寝室へ入ってしまう。
「おやすみ」とつぶやいてアンフィーサはこんどは父にむけて話しだした。
「あのね、ゾーイカが雪の国の女王様で、わたしがお妃様なの。きれいな氷のお城に住んで、まっしろのアイスクリームを食べるのよ」
アレクセイはその頭にやさしく手を置いた。細い髪の毛はしっとりとしていた。
「女王様にはお妃はいないよ。でも楽しかったようでよかったね」
幼い娘はつまらなそうにくちびるをとがらせたものの、なにも言わなかった。
その後もアンフィーサは雪のなか、友人と遊びつづけていた。ただ、なにをしているのか両親に伝えることはなくなった。尋ねてみても「いろいろよ」とみょうに大人びた仕草で肩をすくめるだけだった。
雪の降りしきった翌日に、かのじょは一輪の花を持ち帰ってきた。
「ゾーイカにもらったの。パパに見せて、だって」
アレクセイは鼻先に突き出された白いばらを見た。暖かな部屋のなかに氷霜がかたちをとったようだった。冷えたちいさな手をこすってやりながら言った。
「ああ、きれいだね。オーリャにも見せておいで」
「うん」
妻と娘が笑い交わすのをゆったりと眺める。窓の外には相変わらず寒々とした村がひろがっていたが、アレクセイの胸には温かな気持ちが満ち足りていた。
その晩アンフィーサが寝付いてから、アレクセイとオリガはひっそりと声を交わした。
「寂しい思いをさせてしまうかと思ったけど、いい友だちができたみたいでよかったわ。……ねえ、あの白いばら、村のどこで育てているの?」
「ここでは花なんか作らないよ。ずっと昔から魚を獲るだけだ」
怪訝な声につづいて考えごとをする低いうなり。「前に……」とオリガは一語ずつかたりかけた。
「きょうフィーサが持って帰ってきた花は、結婚する前にあなたがくれたばらによく似ているわ」
すこしの間記憶をたどってみたが、アレクセイはそれを思いだすことはできなかった。
「そんなこともあったかな。我々ももう寝ようじゃないか、かわいいオーリャ」
ちいさなため息。
「あなたはきっと、わたしたちのことも忘れてしまうのね」
「どういうことだい」
答えはなかった。代わりにオリガは「おやすみなさい、アリョーシャ」と一足先に夢のなかへ隠れてしまった。
暖炉の上に生けたばらの花は日の昇るころにはしおれてしまっていた。熾火に温められ、薄茶色く項垂れていた。
アンフィーサは手を伸ばしてはその顔をあおむけようとした。花びらがむなしくぱらりぱらりと落ちるばかりだった。
「ゾーイカががっかりするかしら」
白ばらが息絶えたことと同じかそれ以上に、かのじょはそれをくれた友人を案じていた。
「仕方のないことだよ。花は枯れるものだから」
色あせた花びらをもう一枚散らしてアンフィーサはわずかにうなずいた。