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3. イーゴリ

 冬が終わるまで、アレクセイは毎日のように外を出歩いてゾーヤをさがした。けれどもかのじょの言ったとおり、雪景色のなかからうつくしい少女があらわれることはなかった。

 太陽はあっという間に沈んでしまう。道は雪にくらく埋まる。アレクセイは肩を落とし、凍る風を体じゅうに感じていた。

 冴え冴えとした星明かりにあたたかみはなく、あたりの白さをいや増すばかり。

 つま先が踏み固められた氷雪を蹴り上げる。無感情な音だけがある。

 うつむいていた視界。そのはしに光の気配がよぎった。

 思わず顔を上げる。海から、ミルクのようになめらかな色がやってくる。上のほうはやさしく赤みがかっていて桃の実を思わせる。

 寒さも忘れてみとれていた。

 かがやきは見る間に空いっぱいにひろがり、ゆっくりと息をするようにゆらめいている。

 風になびいているんだ、とアレクセイは感じた。光をゆらす風はアレクセイの家へむかっている。


 肌には感じられないそよ吹きを背に受けてあるきだす。

 ひな鳥のようにやわらかい色あいが足下を照らしてくれた。アレクセイは空におどるマントを見上げ、彩りを吸いこんだ雪にしっくりと歩みの跡をのこした。


 家に着いたアレクセイを、母親は目をふせたままそそくさと迎え入れた。

 あの神秘的な空の焔が不吉に思われていることは知っていたから、アレクセイはなにも言わなかった。

 寝室の窓から見上げてみたけれど、もう死神はこの家を通りすぎたあとだった。

 窓辺にかざった白ばらがアレクセイのほおに口づける。花びらはゾーヤから受けとったときのみずみずしさをわずかにも失っていない。幾重にもかさなるそのひだに、夜空を覆うかがやきのかけらを思った。


 スレジナスカの民に春をつげるのは、水の音だ。屋根の雪が湿り気をおびてすべり落ちる。ひしめいていた流氷は海に還り、潮騒がよみがえる。鉛色の空から降るのは透明な雨粒。地中深くで眠る種子や虫、ちいさなけものたちを目覚めさせようとさかんに歌いたてる。

 人びとも長靴の底を水たまりに浸してはなつかしい隣人と顔を合わせる。たがいの家にまねき、まねかれ、バターをぬったパンケーキの塔を築いては崩して腹におさめる。太陽の黄金色のまるさを余すところなくわが身に取りいれようとするように。


 この春、とりわけ村民をよろこばせたのは、冬のうちに死者がひとりも出なかったことだ。

 厳しい寒さのなか、人間のいのちはたやすく潰える。

 病に冒され、暖炉に薪をたすことも外へ助けを求めることもできなくなって。

 ずぶりと雪にとらわれ、だれにも気づかれないまま白魔に抱かれて。

 重みにたえかねてひしゃげた屋根のしたじきとなって。

 春になって見つかるしかばねは死を迎えた瞬間のまま冷凍されている。

 雪解けのあとには生き延びたものを祝福し、旅立ったものを墓地へと送ってやるのが常のことだった。

 そのはずが、ことしはようすが異なっていた。交わす言葉はあかるいものばかり。足が地につかないような居心地の悪さを感じながらも知己と抱擁やキスであいさつする。

 小麦粉とたまご、牛乳、バターをまぜあわせてはフライパンにおとす。牧歌的な甘いにおいがスレジナスカを満たしていた。

 

 アレクセイは若木のように成長した。うららかな春の陽を浴びて母親の背を追い越し、三年もたたないうちにおとなの男たちと肩をならべるほどになった。

 家の力仕事をこなすかたわらに外を出歩き、おりよく配達人が来ていればゾーヤのことをたずねた。ナターシャねえさんやワーニャおじさんにも聞いてみた。それでも、アレクセイのほかにゾーヤのことを知るものはいなかった。

 白いばらだけが、ゾーヤに会ったことのあかしだった。ばらの花は相変わらずにしっとりとやわらかくたたずんでいる。

 清楚な表情が外からも見えるように。もしゾーヤがこの家をおとずれようとしたとき、迷わずに見つけられるように。アレクセイはばらを生けた一輪挿しを窓辺に置いていた。晴れた夜にははにかむ花弁に肩をよせて、空にゆれる焔のおとずれを待った。


 体も分厚く、肩幅もひろくなったアレクセイはついに漁船に乗せてもらえることとなった。

 約束通りにナターシャねえさんに作ってもらったベストを着込んで、晴れがましい気分でいっぱいだった。

 船出の前夜、母親は泣きそうな顔でアレクセイに何度もキスをした。

「アリョーシャ、おお、アリョーシャ……」

 不吉な言葉を出すまいと、ただ息子の名前だけを呼ぶ。

「大丈夫さ、かあさん。このところはこんなにいい気候なんだし、波もおだやかにちがいないよ」

 母親はなにも言わなかった。

「今晩はもう寝るよ。あすに備えないとならないからね。おやすみ、かあさん」

 最後にアレクセイの両の頬にしっかりとくちびるをくっつけて、母親はかれを送りだした。口の中でしきりにつぶやいていたことばは、アレクセイには聞こえなかった。


 翌朝はやく、涼しい空気が鼻につんとする。アレクセイは港に走った。幾隻もの船が鷹揚に波にゆられている。

「よう。来たな、ヤーコフの息子」

 甲板のイーゴリじいさんが立ち上がる。並の男ならとっくに引退していてもおかしくない年だが、微塵も衰えていない鋭い眼光とがらがら声でいまでも漁師たちを率いていた。

 太陽はまだ東の低いところからこちらをうかがっている。海ははちきれんばかりの恵みと底知れぬおそろしさをはらんでゆっくりと呼吸している。

 アレクセイはねっとりとした潮のにおいを胸いっぱい吸いこんだ。


 まわりでは男たちがあわただしく出航の支度を進めている。

 とぐろを巻く網。くろぐろと濡れた木箱。魚を締める大振りの手鉤。

 胸をはずませてそれらに見入った。ほれぼれとしているアレクセイの後ろから息を切らせてやってくる人影。

「アリョーシャ、ああ、アリョーシャ」

 アレクセイはきまりわるさに顔をしかめた。港の荒っぽいせわしなさとは正反対に、母親が弱々しく立っていた。

「かあさん」

 来ないでほしいと言い置いていたのに。母親は船上のイーゴリじいさんにむけてひれ伏さんばかりに身を低くした。

「イーゴリ、どうか、どうか息子をたのむよ。きっと無事に帰しておくれね」

「おう、まかせとけい」

 すっかりいたたまれなくて、ぎいぎいと動く船と波との境目に目をそらした。

 

 舫が解かれ、船が沖合へと揺れながら滑りだす。朝日のまばゆさは水面の照り返しで何倍にもふくれあがった。

 しおからく重みのある風を切る。はてしない大海原を掌中におさめたかのような興奮に、叫びだしたくなる気持ちをけんめいに抑えた。

 陸地を振りかえると母親が波止場の先の先でうずくまっているのが見えた。きっと祈りをとなえているのだろう。

 母親がこちらへ伸ばす不安の糸を断ち切るように顔をそむけた。視界いっぱいの空と海。足の下には、地に立つことの重苦しさも知らない魚たちが泳ぎ遊んでいることだろう。

「どうだ、はじめての海は」 

 漁師のひとり、グリゴリィが声を張り上げる。アレクセイははればれとした笑顔を見せた。

「すごいや、カモメみたいに自由だ!」


 網を下ろし、漁がはじまってからは、アレクセイはてんで役に立たなかった。つぎつぎと加わる魚の重みで船は大きくかたむき、立っているのもやっとだった。

 水音やうろこのうねり、ごうごうと鳴りたてるエンジンや風に負けじと怒鳴り声が行き交う。

 あばれるマスを抱えてはよたよたと木箱に放りこむ。食用にならないぐにゃぐにゃした生き物のぬめりに怖気をふるいながら海に投げ返す。

 気づけば全身がぐっしょりと濡れ、生臭さがしみわたっていた。


 重くなった漁船がゆっくりとスレジナスカの港に帰る。

 太陽は西の空からほの赤い光を落とす。

 アレクセイは甲板にじかに座って、魚のにおいのする空気を肺にさかんに送りこんでいた。

「まだ一仕事残っとるぞ、ヤーコフの息子」

 息切れひとつ見せずにイーゴリじいさんが無愛想に告げる。

「う、うん……」

 立ち上がれるかすらもあやしく思えたが、アレクセイはうなずいた。


 波止場にくろい小枝がたっている。ちかづくにつれてそれはアレクセイの母親のすがたに変わった。海にむかって一心に祈りをささげている。

 波音に顔を上げたかのじょは、潮風に髪を吹き流すアレクセイに目を見開いた。そのひざが折れる。アレクセイはおもわず船べりに手をついて身を乗りだした。

 漁船をいそぎ桟橋につける。

「おまえはおっかさんのとこに行ってやれ」

 イーゴリじいさんのことばにしたがってもつれる足をうごかした。ひさしぶりの大地はぐにゃぐにゃと揺れていた。

「かあさん……」

 うずくまるその背から嗚咽がきこえる。

「アリョーシャ、おまえ……、アリョーシャかい」

「そうだよ、ぼくだ、アレクセイだよ」

 組んだ指を額にめりこむほどに押しあてて、母親は泣く。

 背後ではさかんに荷をつむ怒号や鼓騒。手伝えないことが気が気でなかったが、アレクセイは母親のとなりにつきそっていた。

 潮の遠鳴りにもかくれてしまいそうな震える声。

「あのひとが……。海のむこうから、あのひとが、帰ってきたように見えたんだよ……」

 ほとんど顔も知らない父親を思う。じぶんとおなじ髪をして、漁師だった父。


 その日の夕食は獲れたてのマスのスープだった。家のなかまでがねばりけのある海のにおいになった。

 疲れきっていたおかげでアレクセイはすぐに深い眠りにしずんだ。壁をへだてた先で、母親が目を腫らしてすすり泣いているのにも気づかなかった。

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