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2. ゾーヤ

 翌朝も目に痛いほどにからりと晴れていた。小道を踏み均す必要はなかったが、アレクセイは身支度をして玄関へむかった。もしかしたらゾーヤにまた会えるかもしれないと考えた。

「暗くなる前に帰っておいで」

「うん、かあさん」

 風が吹き込まないように、外からぴったりと扉を閉める。

 時折立ち止まってはゾーヤの姿が見えないかとはるかな雪原を見渡した。


 イーゴリじいさんの家が近づいて、アレクセイの胸はどきどきする。玄関前に立ってみても、しんとしていて誰かを迎えている気配はない。

 家のまわりをぐるりと巡って窓に顔を近づける。イーゴリじいさんのほとんど真っ白な頭が見えた。床いっぱいに漁網を広げて、太い指でやぶれを直している。アレクセイがきょろきょろと目を動かしてみても、ほかに人は見えなかった。


 アレクセイはためらいがちに窓をたたいた。イーゴリじいさんは気づかない。もう一度、こんどはこぶしで強くたたいた。

 イーゴリじいさんの手が止まり、深く皺をきざんだ顔が窓を見る。

 大股でアレクセイに近寄ってバタンと窓を開けた。

「こんな時期にどうしたってんだ、ヤーコフの息子」

 ヤーコフはアレクセイの父の名前だ。イーゴリじいさんは漁師しか一人前の男と認めない。名を呼んでもらえるのは、誰の助けも借りずに船を操れるようになってからのこと。

「ゾーヤって子が来たでしょ? 今どこにいるの?」

「ああん?」

「ゾーヤって名前の、女の子」

 大声で言い直す。イーゴリじいさんはぐいと口元の皺を動かした。

「そんなにがならんでも、聞こえとるわ。ゾーヤなんちゅうのは来とらんな」

 アレクセイは目をまるくして言い募った。

「ほんとうに? 翠の目の、とってもきれいな女の子なんだ。おじいさんの孫じゃないの?」

「知らんもんは知らん。孫どころか、わしにゃ家族もおらん。おまえさんも知っとろうが」

 すっかり赤さが抜けなくなった丸鼻をこすってイーゴリじいさんが告げる。

「ここ数日はおまえさん以外に来たもんはねえ。さ、帰った帰った。こう寒くては骨身にこたえるわい」

 返事も待たずに窓が閉まった。

 アレクセイは首をかしげてはイーゴリじいさんの家を振り返り、また首をかしげて元きた道を戻っていった。


 きのうゾーヤと会ったあたりにさしかかる。思わずきょろきょろとしていたアレクセイの目が、無意識のうちになにかをとらえた。

「ゾーヤ!」

 姿が見える前に確信を持って呼ぶ。

「アリョーシャ」

 少女は声から現れたようだった。聴覚に導かれて雪景色にまばたきをすると、きのうと同じく白い衣服に身をつつんだゾーヤの輪郭がはっきりとする。きょうは襟巻も真っ白だった。その代わりか、外套の裾からゆるりと流れるスカートはほのかに菫の色。

「また会えたわね、アリョーシャ」

 したしげなほほえみが花開く。アレクセイはぎこちなく笑いかえした。

「ねえ、ゾーヤ……」

 言ってはみたものの、このあとなんと続ければよいのかがわからない。ゾーヤはまつげに下りた雪を落とすように大きくまばたきした。


 ことばを探しているあいだ、口が開いていた。強張ってしまった舌を動かす。

「きのう、イーゴリじいさんに会わなかったの?」

 翠の目が見開く。

「……どうして?」

 どうしてそのことを知っているの。どうしてかれと会わなかったことを気にかけるの。どちらの意図で発せられたのかはわからない。アレクセイは打ち上げられた魚のような気分だった。

「さっきイーゴリじいさんちに行ったんだ。えっと、きみに会えるかなって思って。それで話を聞いて……」

 ゾーヤの表情がやわらいだ。

「そうだったのね。ええ、たしかに会わなかったわ。その必要はなかったから」

 アレクセイは口を閉じた。どういうことか訊こうかと迷っていると、ゾーヤが先んじて説明してくれた。

「家がわかればよかったの。つまりわたしは、ある種の配達人なのよ」

 配達人、とアレクセイは頭のなかで綴った。それなら納得がいく。イーゴリじいさんがかのじょを知らなかったのも、来客はなかったと言っていたのも。


「それじゃあゾーヤ。きのうの仕事はちゃんと済んだんだね」

「ええ、なにごともなく」

 言い終えてから、不意にアレクセイの目をのぞきこむ。アレクセイはむきだしの頬が熱くなるのを感じた。

「ねえ、アリョーシャ。お願いがあるのだけど」

「な……なに?」

「また教えてほしい家があるの。案内してくれるかしら」

 無邪気な小鳥の声。アレクセイは深くうなずいて、ゆるみそうな口元を外套の襟にかくした。


 ゾーヤの行き先はナターシャねえさんの家だった。ナターシャねえさんは裁縫の名手で、アリョーシャが海に出るときには厚いベストを拵えてくれると言っていた。

 きょうもきっと、ちょっと唇をとがらせた真剣な面持ちでエプロンの袖や裾に縫い取りをしたり、虹色に磨きあげた貝のボタンにうっとりと見入ったりしていることだろう。

 アレクセイは道すがらそんな話をゾーヤに聞かせた。寒さで口にこもりがちになる声を読み取ろうと、ゾーヤが大きな瞳を向けてくれるのがうれしかった。

 ゾーヤの耳はこんもりとした毛皮の帽子の下に潜んでいる。アレクセイは横目でかのじょをちらちらと見ながら、よくできたパン生地のように白くなめらかな耳を想像した。


 ナターシャねえさんは両親と兄と暮らしている。よく手入れされた家にむらなく降り積もった白雪はまるでおしろいのようだった。窓からの薄紅の光はあたたかさを外気に施していた。

「あそこだよ」

 指さして教えると、ゾーヤは前に進み出た。菫色のスカートの裾が一瞬遅れてつづいた。

 純白の背中が振り返る。繊細に色づいた頬や額がやわらかく笑った。

「ありがとう、アリョーシャ」

「う、うん」

 透明なまぶしさに思わず目をそらしてしまった。吐息や手の熱ではかなく消えてしまう結晶の絵姿。

 太陽の光を見上げるように少しずつゾーヤに目を戻す。かのじょは静かな足取りでナターシャねえさんの家の玄関へ歩き出していた。雪のなかでもひときわ清らかに白いうしろ姿を目に焼きつけて、アレクセイは家へと帰った。


 次にゾーヤに会ったのは、雪が何日か降りつづいたあとの風の強い日のことだった。ほろほろとした粉雪が巻き上げられてはアレクセイの顔やからだをたたいて去る。外套や帽子、それに髪に留まったひとひらひとひらは光の粒になった。

 ゾーヤは天使のように純白のよそおい。帽子の両側には薔薇色の房飾りがつぼみのように揺れている。その房飾りにも粉砂糖のように白さがまぶされていて、かのじょもアレクセイと同じように六花に飾られていることが知れた。

 

 きょうの行き先はワーニャおじさんの家だった。アレクセイは深みに足をとられ、いつもよりのろのろと進んではゾーヤが退屈しないように話を聞かせる。

 ワーニャおじさんは元漁師で、船の事故で足を悪くして以来陸に上がっていること。天候の知識は抜群で、海に出る男たちにあれこれと助言をしていること。ときどきアレクセイに星の読み方を教えてくれること。

「星がよく見える夜には死神が降りてくるから、なかなかゆっくり教えてはもらえないんだけど」

「死神?」

 横目に見ていたゾーヤの動きが止まった。凍みた地面に足をすべらせたのかとアレクセイはふりむいて手をさしのべる。ゾーヤは真綿のような雪の上にまっすぐに立っていた。いつもは春の陽光を思わせるその顔がほんのわずかに青ざめているように見えた。

 はじめて見る表情にアレクセイは慌てる。小さく首を振って言い足した。

「ごめん、きみを怖がらせようとしたんじゃないんだ。ときどき夜空をわたってくる、白や緑のゆらゆらした光、知ってる? あれ、死神のマントなんだって。連れていかれちゃうからあまり見ちゃいけないって言うんだけど、でも……」

 アレクセイは瞼を閉じて暗さのなかにゆらめく光を描いた。知らず知らずのうちに憧憬のほほえみをうかべていた。

「ぼく、一度だけ見たことがあるんだ。ほんとうに、息をするのもわすれちゃうくらいきれいでね。死神が地平線のむこうに見えなくなるまでずっと目がはなせなかったんだ」

 ゾーヤははじめ目をまるくして、それからやさしい、夢みるような顔つきになった。アレクセイはうれしくなった。この話をこんなふうに、語り手の自分とおなじ気持ちで聞いてくれる人なんて、今までいなかったものだから。


「かあさんは寝込んじゃうほど心配してたけど、でもだいじょうぶだったよ。あのときから背もうんと伸びたし、こうしてゾーヤにも会えて、おしゃべりもしてるんだし。ね?」

 目をあわせて笑いかけると、ゾーヤは口元に手をあててくすくすと表情をほぐした。

 

 アレクセイはできるだけのろのろと歩いていたかったが、ワーニャおじさんの家はもう目と鼻の先だ。

「そろそろかしら」

「あー、うん……。ほら、そこの家だよ」

 家の前には石畳の赤さが雪の下にうすく見える。ワーニャおじさんが転んでしまわないよう、奥さんが毎日雪を掃き清めているからだ。

「ありがとう、アリョーシャ」

 新雪よりもまぶしいその笑顔を見られるならなんだってする。そんな気持ちを胸のなかであたためて、アレクセイは「うん」とはにかんだ。


 アレクセイは毎日のように外へ出て、雪の白さのなかにゾーヤの姿をさがした。けれどもそれ以降ゾーヤに会うことはなく、肩を落として帰るばかりだった。

「そろそろ手紙も減るころだからね。時期が来れば、きっとまた会うこともあろうさ」

 母親はそう言ってアレクセイをなぐさめた。

「手紙?」

 アレクセイはココアの甘い湯気を顔に感じながら聞き返した。

「出稼ぎに行った男たちからの手紙だよ。その子、配達人なんだろう」

 まばたきをして、カップに口をつけてから「そうだね」とおざなりな返事をした。

 これまでにゾーヤが手紙の入った鞄を持っていたことなんて、一度もなかった。重いものなどなにひとつ手にしたことのないような出で立ちで、ぴたりと均整のとれた脚で雪道を軽やかに歩いていた。

 そのことを言うのはどこか告げ口めいたものが感じられて、アレクセイはココアの底に息を沈めた。


 ようやく次にゾーヤに会えたとき、アレクセイはうれしさを隠そうともせずに小高い雪の丘に深々と足を突き立てて駆けた。

 ゾーヤはそのてっぺんに、手を後ろに組んでたたずんでいた。

「ゾーヤ!」

「アリョーシャ」

 色白の唇のはしを持ち上げる。きょうのかのじょの表情は、どこか自制的なものを感じさせた。

「きょうはだれの家に行くの?」

 控え目に首をふるゾーヤ。

「きょう……。きょうは、どこにも行かないわ。あなただけに会いにきたのよ、アリョーシャ」

「ほんとうに!?」

 それならきっと、太陽が沈むまで一緒にいられる。ここは寒いから、僕の家に行って、かあさんにゾーヤを紹介して、お茶とお菓子を用意して――。

 きらめく空想はゾーヤの浮かない顔にしぼんだ。

「……どうしたの?」

 煙のような吐息に声をにじませる。ゾーヤはためらいがちに答えた。

「おわかれを言いにきたの。きっともう会えないわ。……ごめんなさい、アリョーシャ」


 寒風が突き刺さる。長靴に守られた足が指先から冷えて感覚をなくしていく。それでもアレクセイは身動きもせずにゾーヤの瞳を見つめていた。

 ゾーヤのまつげが伏せられる。背に回していた手がぎこちなくアレクセイに差し出された。

 白い手袋。その手首をつつむ毛皮の金色はそれ自体が光を放っているようだった。

 手袋越しにもわかるすんなりとした指先が、細い緑色の茎をまっすぐに支えている。茎を上へたどり、ゾーヤのくちびると同じ高さ。まるで灯火のようにばらの花が咲いていた。

 ばらは絹のように白く、花びらのふちだけが、あるかなきかの薄紅に色づいている。

「これをあげるわ。大切にしてくれる?」

 アレクセイは手を出せなかった。受けとれば、ほんとうにゾーヤが消えてしまうような気がして。

 翠の目がものも言わずに懇願する。たやすく砕けてしまう霜柱に触れるように息をひそめて、ゾーヤはばらをかれに託した。

 アレクセイの指とゾーヤの指のあいだには、紙一枚よりも薄く、それでもたしかに、奇跡のようなすきまがあった。


 真剣なまなざし。

「アリョーシャ。約束してくれるかしら。私のこと忘れないって」

「もちろんさ」

 極寒を手で遮ってはかなげな花を守る。

 とつぜん別れを告げられたことはもちろん悲しい。けれどもアレクセイにとっては、ゾーヤが寂しく痛々しい表情をすることのほうが、ずっとつらかった。

「きみのこと、ぜったいに忘れたりなんかするもんか。ずっと、ずっと覚えてるにきまってる。だから……」

 つづきは口に出せなかった。泣かないで、と言おうとしていたアレクセイも涙の気配に鼻がつんとしていたから。

 やさしい声がアレクセイを呼んだ。

「あなたが善い人たちにかこまれて、その胸の中に果たすべき約束があるかぎり、あなたを連れていったりしないわ。だから、これからも夜空を見上げていて」

 アレクセイはばらの茎を握りしめてこくこくとうなずいた。それでゾーヤの気が休まるならば、なにを言われたってうなずいていただろう。


 やっとゾーヤの顔にほほえみが浮かんだ。温かな血がアレクセイの体をめぐった。

「もう行かなくちゃ。アリョーシャ、約束を守ってね。おねがいよ」

 返事を待たずにゾーヤはかれに背をむけた。

「ゾーヤ、まって……」

 かのじょを追おうと踏みだしたとたん、深い雪に足をとられる。その一瞬目を離したすきに、ゾーヤの姿はもう、まっさらな銀世界にまぎれて見えなくなってしまっていた。


 なんどもなんども、大声でゾーヤの名を呼んだ。極寒の風がアレクセイの喉へ襲いかかり、かれを内側から凍りつかせようとする。アレクセイは腹の底から熱い声を吐いた。

 返事どころか、動くものはなにひとつない。

 最後に白ばらにむけてかのじょの名をささやきかけ、声をおさえて泣きながら家路についた。

 涙が目元にはりついてぴりぴりと痛んだ。

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