1. アレクセイ
ここから遠く、まだ遠く、北の最果て。はるばるとした雪原の隅に、瘤のようにうずくまる村がある。
村の名前はスレジナスカ。わずかばかりの春から秋には黒いほどに深い海に漁船を出し、長い冬には凍る海を見つめて過ごす。
いつ来るとも知れない魚群といつ去るとも知れない寒さが民に植えつけたものはふたつ。忍耐強さと迷信深さ。
これから語るのは、かつてスレジナスカで起きた、些細で愚かな物語。
アレクセイというのが物語をはじめたかれの名前だ。そのとき、かれはまだ少年だった。
子供らしく、スレジナスカにしみついた忍耐にも迷信にも、まだ染まっていなかった。
一年の半分以上を覆う冬。夜闇は雪とぐるになって人びとの隠れる屋根を押しひしぐ。
みしみしと軋む家のひとつにアレクセイは住んでいた。窓に息をはきかけては袖口でこすり、夜空を見上げていた。押しつけた鼻とおでこはつめたさに真っ赤になっている。窓枠に嵌まっている板はガラスか氷かわからない。たとえどちらであったにせよ、ここスレジナスカでは大した問題になりはしない。
「アリョーシャ、おやめ」
うしろから母の声。ぱちぱちと爆ぜる暖炉のそばで背を丸めている。年だけでいえばもうひとりふたり子供を産んでもおかしくない。けれどもスレジナスカの空気に震えつづけていたせいで肌のあちこちに皺をきざみ、頭には解けない霜を戴いている。
アレクセイは窓から顔を離した。母親は腕をひろげて、すっかり冷えたアレクセイを胸に迎える。
「またあれを見ようとしていたね、アリョーシャ」
答えないアレクセイの髪をなでる。
「今夜みたいなよく晴れた晩には死神が降りてくるのだからね。おまえが見つかってしまったらと思うと、おそろしいよ」
「でも、かあさん」
鼻をすすりながらアレクセイは口を開いた。
「あんなにきれいなんだよ。空いっぱいに色がひろがって、ゆらゆらひかるんだ」
「おお、アリョーシャ」
母親はかれを二度と離すまいとするかのように抱きしめる。
「長いこと生きているとね、死がむしょうに美しく見えることがあるもんだ」
あかあかと灯る暖炉に照らされて、母親は一度身震いをした。夫が海に落ちて死んだのは、この子が産まれて間もなくのことだった。
暗い水底から引き上げられたかれの表情を思いだす。これまでに負った全ての苦痛を忘れ去ったかのように白く安らかな。
「アリョーシャ」
まだ冷たさをのこす息子の指先をこすって温める。
「かあさんをひとりにしないでおくれ」
「うん、かあさん」
アレクセイはうなずいた。暖炉の熱が左の頬に当たってひりひりとした。
「さあ、もうおやすみ」
温かくかさついたキスを両の頬に受ける。母親におやすみを言って、小さなベッドに入った。
アレクセイは閉じた瞼の裏に以前見た情景を浮かべる。
とてつもなく深い夜に星がまたたく。粉雪が吹き上げられたまま落ちてくるのを忘れたよう。
その冷たいかがやきのあいだに、ふと緑白色の薄布がひらめく。しだいに空いっぱいに裾をたなびかせてその光はおどる。
その光景をはじめて見たときと同じように、アレクセイは深く息をついて見とれた。
だが、スレジナスカではその光は凶兆だった。緑や赤、ときには紫や白にひるがえる死神のマント。翌朝には村に死人が出る。
空を渡る死神に見つからないよう、夜空にちらりとでも炎のようなゆらめきが見えたら急いで屋内へ逃げ隠れるのがならわしだった。
その言い伝えを何度聞いても、それでもアレクセイは不思議な死神の舞の美しさを忘れることはできなかった。
翌朝にベッドから這い出たアレクセイを見て、母親は胸を撫で下ろした。
「おはよう、アリョーシャ。おまえが連れていかれていなくてよかったよ。おまえはこの村の子供たちのなかでも、一等かわいいのだからね」
窓の外ではかわいた雪が一心に地面を目指していた。鉛色の空からとめどなく光のかけらがこぼれ落ち、重々しい純白と化して積もる。
アレクセイは片耳に母親の昔話を聞きながら、色彩のない風景をぼんやりとながめていた。
次の日には空は透明な青さを取りもどしていた。アレクセイは刺すような外気に飛びだしていく。
裏手の納屋からそりを引いて、家の前からのびる小道をいく。雪の降った翌日にはこうして歩いてやらないと道は簡単に途絶えてしまう。轍のように窪んだ小道は青みがかってどこまでも続く。
その窪みを外れれば見えるものは一面のまぶしさばかり。
アレクセイの体はまだ軽いものだったけど、それでも足首近くまで雪にうずまる。白い息を吐いてはひとあしひとあし、青い小道を進んでいく。
どのくらいまで来ただろうと背中を伸ばす。ぴゅうと風が吹いて首をすくめた。もうそろそろアーニャおばさんの家が見えてもいいころだ。銀世界に人家の気配をさがす。
そのとき視界のはしでひらりと踊るものがあった。
思わず首をめぐらせる。なにも見えない。よくよく目をこらすと、雪のうえでふたたび、ふわり。今度は色が見えた。雪ににじみ出ていきそうな淡い淡い緑色。
アレクセイは小道の脇にそりを置いた。新雪を踏む。ぎゅっ、ぎゅっ、と足跡の作られる音が鳴る。
視線の先でまたなにかが動いた。こんどはわかった。見渡すかぎりの雪原の真ん中に、だれかが立っている。外套も長靴も帽子も白い。ひらりひらりと揺れていたのは両端を長く垂らした襟巻だった。
「おおーい」
アレクセイは呼んでみた。それからまた歩きだす。白い外套を着たそのひとは、ひろびろとしたどこから声が来たのだろうと見渡してアレクセイに気がついた。軽い足取りで近づいてくる。
やがて眉と目の表情がはっきりと読み取れるほどになった。
アレクセイが出会ったのは、このあたりでは見たことのない少女だった。
輝く翠のひとみ。透けそうに白い肌。小さな唇は寒さに色を薄くしてつぐまれている。アレクセイはしばらくものも言えなかった。
「え、えーと……、こんにちは」
やっとのことで言葉になった。ほとんど口を開けない、この地の者に特有の喋りかたで。
少女はなめらかな頬に笑みをうかべて「こんにちは」と応えた。カミツレの咲く春の野にいるような屈託のないあかるさだった。
どぎまぎしているアレクセイにむかって、かのじょは「ねえ、イーゴリ・ヴィクトロヴィチ・ウシャコフさんの家ってどこかしら」と訊いた。
一瞬だけぽかんとしたものの、すぐに思い当たった。
「イーゴリじいさん? それならあっち、道ぞいにあるいて……」
アレクセイはかなたを指さして気づいた。昨晩降った雪のせいで、道はかすかにしか見えなくなっている。
小首をかしげる少女に提案した。
「案内してあげる。ついてきて」
自分の足跡をさかのぼって小道に戻りついた。
そりにつないだ綱を手にして「乗る?」と尋ねてみる。少女はくすりと笑って首を振った。アレクセイのとなりに立って、白い手袋で綱をにぎる。
青くしんとした小道を歩きながら話をした。少女はゾーヤと名乗った。
ゾーヤは凍った地面を危なげのない足取りで進む。スレジナスカに来るのははじめてでも、雪道には慣れているようだった。
「アリョーシャ」
ゾーヤがアレクセイの名を呼んだ。母親に呼ばれるときとはまったくちがった響きに聞こえた。
「かれはどんなひとかしら」
アレクセイはすこし考えて教えた。村でいちばん熟練の漁師であること。父を海で亡くしたアレクセイの家をいつも気にかけてくれていること。漁師仲間の話によると、陸にいるよりも海にいるときのほうが生き生きとして見えること。
「それに、ぼくがもっと大きくなったら船に乗せてくれるって言うんだ。ニシンやマスがどっさり獲れるんだって」
静かにまつげを揺らしてゾーヤがたずねた。
「あなたは……海がこわくはないの?」
「そりゃこわいよ。でもそれより、漁師はみんな強くてかっこいいんだ」
紺碧と潮騒を背景に、山積みにされた魚がぎらぎら銀色に光る。荒々しい喧噪にむっとする魚の血肉や潮のにおい。行き交う木箱。海の男たちはスレジナスカの短い夏の輝ける主役だった。
熱っぽく村の漁師のようすを語るアレクセイ。ゾーヤはうなずきながらそれを聞いていた。
はっとアレクセイが顔を上げる。
「ほら、あそこがイーゴリじいさんちだ」
指さした先には不機嫌そうな灰色の石で固められた小さな家。
「ありがとう。もうここでだいじょうぶ」
白い手袋がそりの綱から離れる。
「じゃあね、ゾーヤ。……また会える?」
かのじょに近づこうと思わず一歩前に出ていた。
「ええ、きっと」
ゾーヤは最後にほほえんでイーゴリじいさんの家へ歩いていった。どこもかしこも真白いなかに、淡い緑の襟巻が歩みにあわせて印象深くゆらめいた。
小道の薄い雪を踏み踏み、アレクセイは家路につく。引きずるそりがずいぶんと重く感じられた。
日が傾いて雪原が淡紫に色を変える。影が伸びて世界の陰影がくっきりと際立った。
冬にはめったに外に出ない母親が玄関先に立っていた。アレクセイの姿を認め、足を小刻みに動かして駆け寄る。
「おお、おかえりアリョーシャ。遅かったじゃないの」
冷たい手のひらがアレクセイの頬をつつんだ。
「そりを片付けてくるよ、かあさん」
アレクセイが納屋から戻ると、茶器がしゅんしゅんと音を立てていた。
母親が湯気の立つ紅茶をカップに注ぎ、ジャムや砂糖、それに菓子をたっぷりと用意する。
「さあさあ、おあがり」
勧められるままにアレクセイは暖炉の近くの椅子に腰を下ろした。カップの温度を指先でたしかめる。薪のはぜる音を五回ほど聞いてから、やけどしそうに熱い茶をすすった。
口にする甘さが体の芯をとかしていく。肺にわずかに残っていた冷たい空気を吐ききってしまうと、とろりと瞼が重くなった。
「夕飯まで休んでいるかい、アリョーシャ」
めざとく母親の声。じぶんが子供っぽく思えて、アレクセイは首を振った。
「だいじょうぶだよ、かあさん」
ジャムをひとさじ、舌の上にのせてゆっくりとゆるめる。喉にじわじわと熱さを感じる。紅茶をひとくち飲んでその熱を腹に送った。
食器が触れあう。粉砂糖をまぶした焼き菓子をかじる。薪がぱちぱちと鳴る。それらの音に滑りこませるように「かあさん」と呟いた。
「なんだい、アリョーシャ」
母親は慈愛の目でアレクセイを見つめた。
「きょう、女の子に会ったんだ。知らない子で、イーゴリじいさんの家をさがしてた」
「へえ、じいさんの孫娘かね。こんな真冬にねえ」
「うん。それでぼく、その子を案内してたんだ」
「おまえは優しい子だね、アリョーシャ」
父親譲りのくせのある髪から、深海の色の目、丸みののこる頬、まだ華奢な印象の肩を通り過ぎて、カップに触れる赤い指先まで。母親はなにひとつ欠点など見当たらないという満足げな笑みをわが子にむけた。
「あの子、しばらく村にいるのかな」
アレクセイは窓のむこう、イーゴリじいさんの家の方角を見やった。
「どうだろうねえ。イーゴリじいさんに家族がいたなんて、とんと聞いていなかったけど」
母親はもう一杯、自分のために茶を注ぎながらつぶやいた。
「なんにせよ、春になれば事情はみんなわかるはずさ」
海がよみがえり、草木が芽生える季節。春がくれば凝り固まったあれこれの厄介事がすべて氷解するというのが母親の信条だった。すくなくともアレクセイにはそのように見えていた。
その晩、アレクセイは窓に近よることすら許されずに早々と寝かしつけられた。
「こんな夜には死神が降りてくるに決まってるよ。見つからないようにもうベッドへおいき」
雪の小道を歩いてすっかりと疲れていたアレクセイはおとなしく母のことばに従った。眠りに落ちる間際、ゾーヤの瞳を思いだした。