薫編・本編
ギャルゲーのシナリオですので、セリフが多いですが読んでいただけたら幸いです。
休日、街に買い物に行きたいのだが一人で出かけることは許されない。
「誰を誘うかな…まあ、どれを買うかも悩むだろうし」
とりあえず、台所で朝食の後かたずけをしていた麗華と薫の側に行く。
「薫、ちょっと街に買い物に行きたいから付き合ってくんない」
「オレでいいのか?」
「どうせばれないように着いてくるだろ」
「…………」
図星だったようで、薫は固まってしまう。
「まあダメならいいけど」
「行くよ。どうせ他の奴と行ってもばれないように着いていくからな」
どうやら開き直ったらしく、薫はいつもの調子に戻る。
「じゃあ準備できたら呼んでね。俺座ってるから」
それからしばらくして薫と家を出るのだった。
「何で行くんだ?」
向かうのはこの県で一番大きな駅のある街で、いろいろな店屋などがある。遠いわけではないが、電車かバスで30分以上はかかる。
「とりあえず電車かな。安いし」
「飛んで行ったほうが早いな」
「え?」
飛んでという薫の言葉に一瞬疑問を抱いたが、その意味をすぐに理解することになる。
「行くぞ」
「か、薫! ちょっと待っ―」
「却下!」
薫は背中から翼を出すと、俺の腕を掴んで飛び立つ。
「嘘-!!」
周りの人は気づいていないのか、人が飛んでいるのに無反応だ。そして高度は上がる。
「大丈夫だって、結界で周りの人には見えないし、ほとんど一瞬だから」
「一瞬て!?」
「行くぞ!」
刹那、凄まじいG(重力)を感じる。そして視界に移る風景はかなり早送りした映像のように通り過ぎていく。
「着いたぞ」
薫が降り立ったのは目的の駅前で、ほとんど一瞬で数キロの道を飛んできたようだ。
「い…生きてるよな」
正直、飛んでる時は生きた心地がしなかった。
「翔ちゃんだって翼もってるだろ。訓練すればこれくらいできるよ」
「翼って、襲われた時に薫が俺の背中に出した?」
正直、あれ以来俺の背中から翼が出たことはない。
「あれは最初から翔ちゃんの翼だよ。翼には加護の力があって限度はあるけど、どんな力も防いでくれる。だから普通じゃ無理な速度で飛んでも平気なんだ。現になんともないだろ?」
確かに生身では耐えきれない速度でここまで飛んできたのは間違いないが、体に変わった様子はない。激しく脈打つ心臓以外は。
「俺の翼ってことは、俺って天使の力持ってるのか?」
唐突に浮かんだ疑問だ。あんなことを言われれば思うのは当然だが。
「…………」
薫は俺の質問に凍りついてしまう。
「似て非なるものだよ。能力的には近いけど」
(似て非なる…似てるけど違うってことだよな)
「お願いだから、あまり考えないでくれ。さっきは俺が悪かった。翔ちゃんは今のままでいい。自分の力のことは知らなくていいんだ」
別に、薫を困らせるつもりはなかった。ただちょっとした興味本位で聞いただけだったのだが、薫に辛い顔をさせてしまった。
「ただ、俺が力を使えるようになったら、もう薫に迷惑かからな―」
「翔ちゃんは戦わなくていいんだ!」
まだ結界が張ってあるのか、周りの人は薫が怒鳴ったのが聞こえていないようだ。
「お願いだから、もうそんなこと考えないでくれ。翔ちゃんも麗ちゃんも、戦う必要なんてないんだ」
「薫…」
薫の叫びは悲痛でしかない。
「俺はただ、お前の―」
「存在理由を否定されては、平常心を保ってられないか」
「!!」
気づけば周りに一般人は誰もいない。仮面とマントを纏った者たちが二人を取り囲んでいた。
「八方天地結封、天術・死術『断界閉鎖』」
「これは!!」
突然光が薫を取り囲む。光が消えたあとには球体の中に閉じ込められた薫の姿がある。
「くっ! なんで、お前らがこの術を…これは、俺が天死神になって編み出した術だぞ!」
球体の中は苦しいのか、薫は辛そうにしている。
「自分の術を喰らう気分はどうだ? 苦しいか?」
「お前…洗脳されてないのか?」
一人、赤い鎌を持った仮面をつけた者が薫に近寄る。
「ああ、そうだな。別に洗脳はされていない。自由を奪われて、服従はさせられているが」
「なるほど、洗脳したコマじゃ戦力不足ってわけか」
「まあそうなるな。だが、今のお前では何もできんよ。その術の強さは編み出したお前が一番よくわかっているはずだ」
実際、薫は何もできないようで苦しむだけである。
「そこで、大切な者が消えるのを見ているといい。すでにお前の存在理由は否定されたのだしな。人生のすべてをこんな男に捧げると誓った、哀れな巫女よ」
「…巫女?」
すると敵はこちらに視線を向ける。
「本当に何も知らないのだな。こいつのことも、自分のことも」
「黙、れ。お前に、何がわかる」
「わかりたくもない。私は、与えられた役割を果たすだけ」
そしてゆっくりと赤い鎌をもった仮面の者はこちらに近づいてくる。しかし、逃げようにも周りには仮面の敵がいるので逃げられるとは思わない。
「ど、どうしたら」
「どうすることもできんよ。恨むなら自分の運命と、あそこの役立たずの巫女を恨むのだな」
「く、来るな!」
しかし、鎌をもった敵はどんどん近付いてくる。
(もう、ダメなのか。やっぱり俺はただの役立たずなのか)
絶体絶命。この状況をそう呼ぶのだろう。薫が戦えない以上、力のない俺にはなす術がない。
「…もういい、諦める」
「なんだ、もっと足掻くと思ってい―」
「例えもう2度と翔ちゃんの側にいられなくても、オレは…私は、翔ちゃんを守る」
「貴様!!」
「男でいることを諦めても、翔ちゃんが守れるならそれでいい」
球体のなかで薫は青白いオーラのようなものを出し、それが球体の中に満ちていく
「正気か! 殺されるぞ!」
敵が叫んでいるのに、薫は微笑んでいる。
「私は、翔ちゃんのためになら、命だって捧げる。それが巫女の定めだから」
「ピシッ! ピキッキ!」
球体の中が青白い光で見えなくなり、球体に亀裂が入り始める。
「かおるー!!」
「ピッシャーン!!!」
すごい音を出して球体ははじる。そしてあたりに青白いオーラが飛散する。
「ぎゃー!」
オーラのせいでよく見えないが、あたりから悲鳴や衝撃音が聞こえる。
「くそう!!」
鎌を持った敵が俺に手を伸ばしてくる。
「させない」
だが、敵の手が俺に届く刹那、誰かが俺の前に立ちはだかり敵の手を払う。
「…薫、なのか?」
俺の目の前に立っていたのは、巫女服をきた小さい女の子で、小学生でも通りそうなほど幼く見える。
「まさか、これほどの力を放出してまだ動けるとはな」
「言ったでしょう。翔ちゃんを守るためなら命だって捧げるって」
周囲の視界が回復した時、周りには先ほどまで俺たちを取り囲んでた敵が全員倒れていた。中には頭から地面にめり込んでいる敵も数人。
「あなたは奇襲しても無駄でしょうから、先に周りの方々を倒させてもらいました」
「どうしてそこまでしてその男を守る? お前の力があれば世界も救えるだろうに。その男を守って死ぬつもりなのか?」
敵の鎌が俺に向けられる。
「お前を失えば、サタンは誰にも止められないのだぞ」
しかし、薫は微笑んで見せる。
「私には、世界よりも翔ちゃんの方が大切なの。翔ちゃんがいない世界なら、私はいらない」
「お前は歴代最強で、歴代最低の巫女だな」
敵は鎌を消すと背を向けて歩き出す。
「今日は引く。…いずれお前はいなくなるのだから、その後でも問題はない」
「待ちなさい!」
しかし、敵は歩みを止めない。
「立っているのがやっとだろう。無理をするな。後片付けはしておいてやる。まあ、お前ならそんな状態でも私を倒せるかもしれんがな」
そして敵の姿は消えていく。すると周囲の景色が変わり、周りには一般の通行人などが現れる。代わりに敵の姿は消えていた。
「…薫?」
肩で息をしている少女に声をかける。いまだにこの少女が薫だとは信じられないでいる。
「ごめん、なさい」
薫はそう言うと一瞬その姿が消える。
「薫! ちょっと」
しかし、俺の声は薫に届かなかったようだ。だが結界が消えているようで、通行人には聞こえていたのだろう。周りの人々はこちらを見ている。
「…………」
どうしていいか分からず、とりあえずその場を離れることにした。そして薫の姿を探すのだった。
(あの状態じゃ遠くにはいけない…よな?)
とりあえず近場を探し回る。子供のころに一緒に行った店やゲームセンターなど、思いつくところをひたすらに。
「ここにもいないか」
ついたのは広い公園で、子供のころは家族ぐるみで遊びに来ていた思い出がある。中は広く茂みなどもあり、休日ということもあって親子やカップルの姿が多い。
「どこにいったんだよ…」
公園を一通り回ったが、薫の姿は見つけられない。人気のないベンチを見つけ、とりあえずそこに座り込む。
「薫は、いつもどこにいた?」
必死に薫の記憶を探る。しかし、浮かんでくるのは男の薫の姿ばかり。当り前なのだが、尊敬していた男が実は女性だったという事実が、今でも信じられない。
「薫は俺より背が高くて、料理も裁縫も何でもできて…」
『憧れだった』その一言が言えない。憧れていた薫の姿は偽りだったのだから。
「薫がいそうな場所なんてもうわかんねーよ」
混乱していて、思考がまとまらない。薫が、女だった。そのことが重くのしかかり、他の思考を鈍らせる。
「お前がわからくなったよ」
何でも知っていると、わかると思っていた。幼馴染で、いつでも頼れる兄のように助けてくれる。麗華と三人で、兄と姉がいるような感じで過ごしていたのに。
「お前のいそうなところなんて…」
(翔ちゃん)
ふと、頭に響いた声。
「カオちゃん…」
昔の薫の呼び方。まだ幼かった頃は薫をカオちゃんと呼んでいた。その頃から俺も翔ちゃんと呼ばれている。さすがに恥ずかしくなったので薫と呼ぶようになったが、薫も麗華も、何度言っても翔ちゃんと呼ぶのを止めてくれなかった。
「薫がいつもいるところ」
先ほどと違い、気持は落ち着いてきている。
「俺は、何を悩んでいたんだろう。あいつがいつもいる場所なんて二か所しかないのに」
一つは屋上。夜に姿が見えなくなっても寮の屋上で月を見ていたり、学園ではだいたい校舎の屋上に行けばいる。そしてもう一か所は…。
「薫、いるんだろ」
俺の側だ。どこに行くにも、何をするにもだいたい薫は俺の側にいた。俺が知らないだけで、ずっと近くで見守っていてもくれていたのだから。
「思い出したんだ。お前はいつも俺の側にいてくれたこと。俺を守るって言ってくれたんだ。近くにいないわけないだろ」
しばらく沈黙が流れ、木のざわめきが聞こえる。
「もう、私のことは忘れて」
ベンチの向いにある茂みから声が聞こえる。
「私はずっと翔ちゃんと麗ちゃんを騙していたの。おじさんやおばさんも。女なのに男として生きて、ずっと正体をかくしていたの。そんな私には、最初から二人の側にいる資格なんてなかったんだよ。だからもう忘れて。もう二度と二人の前には現れない。力が戻ったら二人から私の記憶も消すから」
何となく、目の前に見えない壁があるような気がする。
「嫌だよ。薫を忘れるなんて」
オレは何とかしてその壁を、壊したいと思った。
「そりゃ、薫が女だったのは驚いたけど、騙したかったわけじゃないだろ?」
「嘘をついていた事実は変わらないわ。実際、自分が女だって知ってから4年近く二人を騙していたんだもの」
「4年近くってことは…力に目覚めたって時に知ったのか?」
「…………」
再び沈黙が流れた。風のざわめき以外に音は聞こえない。
「何を言っても、言い訳でしかないのよ。話しても何も変わらないわ」
「それでも俺は、知りたいよ。なんで全部一人で背負おうとするんだ」
俺は食い下がるしかない。ここで薫がいなくなったら、もう一生会えない気がする。すると、薫が茂みから少しだけ姿を見せた。
「中学二年生の時、私がまだ男だった時に、麗ちゃんに告白したの。それが、すべての始まりだった」
「…え」
唐突な事実に、俺は言葉を失う。
「その時、麗ちゃんにはフラれたの。好きな人が他にいて、私とはずっと今までみたいに友達と居たいって。それだけならよかったのに、そのあとある人に告白されて、私はその人と付き合ったの。傷心してたとはいえ、好きでもない人と付き合うなんて最低…だよね」
薫の声は、どこか乾いている。
「でもね、始めての彼女だったから特別だったのよ。きっかけはともかく、私は彼女のことを心から好きになっていった。彼女のためならどんなことでもしたいって考えていたわ。でも、彼女酷い浮気症で、何度も裏切られた」
「…無理話さなくていいよ」
薫の声がだんだん震えてきているような気がしてきたのだ。
「それでも、私は好きだった。だからつい許してしまう。…違うわね、本当は失いたくなかっただけ。私が臆病だっただけ」
それでも薫は語り続ける。
「でも、浮気してた他の男性との間に子供ができたからどこかに行ってしまった。最後に『あなたとは遊びだった。本気じゃなかった』そう言って、消えたの」
中学校での噂を思い出した。一つ上の先輩で、子供を妊娠して不登校になった女子生徒の話。男癖が悪かったなどいろいろな噂が学校内に広まっていた。思いだせば、確かにその頃の薫は荒れていた。
「すべてを失った気分だったわ。たぶん、あのとき翔ちゃんが知る本当の私はこの世にいなくなった。…それが引き金になって、心が闇に染まった私は目覚めた。魂に刻まれた巫女の記憶と力が、私の中に流れ込んできたの。そしてすべてを知ったわ。自分の運命も…。でも、私は受け入れられなかった。私は女として生まれていたのに、秘術を使って体を男性に変えられて、それを指示したのが前世の私。巫女の運命に逆らって私を生かそうとした。そして18年前に神様がどうして亡くなったのか、カオスとは一体何なのか、そして今カオスの残留志念が取りついているサタンについても」
薫は少しずつ落ち着いてきているようだが、薫の話は俺には重い。
「すべてを知りながら、私は否定していた。私には関係ない。私は男なんだ。私は私なんだって。でも、私はやっぱり女だった。昔から、料理やお裁縫は大好きだった。お父さんは私がそういう事をするの嫌うから家ではしなかったけど、力に目覚めてからその訳が分かったし、自分の気持ちに嘘がつけなくなった。私は、麗ちゃんの事が大好きだった。もちろん、異性として。でも、同じ気持ちを翔ちゃんにも抱いてた。でも、自分が男だからって、ずっと違うと否定していた。でも自分が本当は女だって知ってわからなくなったの。自分はいったいどっちなんだろうって。二人の事が大好きで、どっちも失いたくない。でも、自分は男なのか女なのかわからない。だから二人と距離を開けるようになった。それに、自分の運命も受け入れられなかったし」
先ほどとは違い、薫の言葉には力がある。
「それからしばらくして、サタンがやってきた。多くの天使や死神たちを洗脳して従えて。そして翔ちゃん達の護衛をしていた天界や冥界の精鋭はあっという間に壊滅。町には結界も張られていて、動ける人は私しかいなくて。このままじゃ、援軍が来る前に翔ちゃんと麗ちゃんは連れていかれてしまう。大好きな二人を失ってしまう。それが怖かった。私が守らないと、大切な人達を失ってしまう。だから、私は戦った。敵や倒れていた精鋭の天使や死神から、私が持つ巫女の力『吸収』を使って、天使や死神の力を奪ったの。そして天死神の力を手に入れた。そして私はサタンを退けることができた。翔ちゃんと麗ちゃんを守ることができた。それからずっと私は二人を守るために生きている。それが私の運命だから」
「それで、薫は幸せなのか?」
とてもそうは思えない。薫の人生、尽くしてばかりに思う。
「二人を失うよりいいわ。もう、何も失いたくないの」
「それが自分の運命って決めつけて、それでいいのか」
「ちゃんはわからなくていいの。私がこの生き方を選んだ。後悔はないわ。例えそれで、二人の側に居られなくなっても、二人が生きていてさえくれればそれで」
薫との間にある壁がはっきり見えたような気がした。そして、自分がどうしたいのかも分かった気がした。
「俺は、薫が側にいないのは嫌だよ」
「え…」
【翔真】「俺だって薫が大切なんだ。だから、これからもずっと側にいてくれよ」
「でも私は女で、ずっと二人を騙してたんだよ」
「薫は薫だ! 男でも女でも、関係ない。どんな姿でも薫なんだ」
うまく言葉にできない。ただ、このままお別れは嫌だった。
「ずっと側にいてよ。また料理作ったり勉強教えてくたりしてくれ―」
「ダメなの!!」
俺の言葉をさえぎるようにつきつけられた言葉。再び沈黙が流れた。
「翔ちゃんは何もわかってないよ。…さっきたくさん力を使ったから、しばらくは男の姿には戻れないんだよ。それは、翔ちゃんが知ってる私じゃないんだよ! どんな姿でも私は私って言ってくれたけど、それは違う。私は、この姿じゃ翔ちゃんの側にはいられないの!」
先ほどより、壁が厚くなったような気がした。
「どうして?」
「そんなの、抑えきれないから…だよ」
「抑えきれないって、何を?」
何となく、麗華たちが側にいたら怒られそうな気がした。前に乙女心がわかってないと怒られたからだ。
「…ちゃんを……って気持ち」
「え?」
「翔ちゃんを! 好きって気持ちが抑えられなくなっちゃうの!!」
あたりに響いた言葉に、俺は思考が停止していた。
「男の姿なら、自分に男だからって言い聞かせることができたけど、この姿じゃそれができないの」
さっき薫が言っていたこと。麗華と同じように俺にも特別な感情を抱いている。てっきり、過去のことだと思っていた。
「だから翔ちゃんは、麗ちゃんの気持にも気付かないんだよ。翔ちゃんは本当に乙女心がわかってない。あれじゃ麗ちゃんが可哀想だよ」
「麗姉が?」
俺はどうしていいかわからなかった。薫だけじゃなく、麗華もそんな風に思っていたとは知らなかったからだ。
「でも、俺と麗姉は双子で、姉弟なんだぞ。そんなこと急に言われても…」
「問題ないって言ったら?」
薫の言葉に、あたりが凍りついく。
「さっき言えなかったけど、二人と距離をおいた本当の理由は、二人の邪魔をしないため。二人はね、結ばれる運命なんだよ」
「運命で?」
「二人が双子なのも、二人が想い合うのも全ては運命なんだよ」
「なんでわかるんだよ?」
「わかるよ。二人を双子として生まれるように仕向けたのは、先代の巫女。前世の私なんだから」
「…………」
何も言うことができない。運命というのがわからなくなった。
「前世の私は禁忌を犯した。翔ちゃんと麗ちゃんが決して離れる事がないように双子として生まれるように仕向け、二人を守るために、おじさんとおばさんの親友であるお父さんとお母さんの元に私が生まれるように、仕向けた。すべては前世の私が定めた運命なんだよ」
「そんなの、運命じゃない。運命じゃないよ」
薫は茂みから出てきて、真剣な目を俺に向けた。
「そうなることを望んだのが、前世の翔ちゃんだったとしても?」
とどめの一言が、胸の奥に突き刺さる。
「私のことはともかく、来世で一緒になりたいって望んだのは前世の翔ちゃんと麗ちゃんなんだよ。前世の私は、その願いを叶えただけ。それでも、翔ちゃんは否定するの?」
「…………」
言葉がでない。すべてが仕組まれていた。薫が自分を偽って男として生きているのも、すべてが前世の自分のせい。最初は前世の薫を恨もうとしていたが、その元凶は前世の自分にあったのだ。
「翔ちゃんは、麗ちゃんのことが好きでしょう? 気づいていないだけで、きっとそれは特別な好きなんだよ。だから、答えてあげて。私は、もう二人の邪魔はしないから」
そう言って薫は去ろうとする。
「…待ってよ」
俺の言葉に、薫は歩みを止めた。
「やっぱり、納得できないよ。俺、麗姉のことは大好きだよ。でも、同じくらい薫のことだって大好きだ。それに俺は俺だ、前世のことなんか関係ないよ」
「いずれ、わかるわよ。翔ちゃんは、私なんかよりももっと重い運命を背負っている。そして、麗ちゃんも似たような運命を背負ってる。私では、翔ちゃんと麗ちゃんの助にはなれない。私は二人を見守ることしかできない。…前世の私と同じように。それを知りながら今まで側に居つづけた。やっぱり、運命には逆らえないのよ」
「それでも側に居てほしいって、願っちゃダメなのか?」
俺はベンチから立ち上がり、まっすぐ薫を見つめる。
「どこにも行かないでよ」
運命とかそんなのわからない。わかるのは、薫に側にいてほしいってことだけ。
「私は今までみたいには居られないのよ? 自分を抑えきる自信なんかんかない。翔ちゃんの好きと、私の好きは違うの」
「どうして言い切れるんだ?」
俺の問いに、薫は顔を伏せた。
「翔ちゃんの好みは、麗ちゃんみたいに胸が大きいお姉さん。私は、胸もなければ見た目も子供。ずっと男の姿だったせいで、こっちの体はあまり成長してくれなった」
「薫だって綺麗だよ。すごく綺麗だ。髪は長くてサラサラで、肌は真っ白だし」
「世事なんていらない。だから、見せたくなかったのに…」
「好きになったら関係ないよ」
しかし、何かを押し殺すように薫は手を固く握っている。
「流されちゃダメだよ。その時の気持ちで動いちゃダメ。私みたいになっちゃダメなの。ちゃんとよく考えて、それでも好きって人じゃなきゃ、そう言うこと言っちゃいけないの」
まるで自分に言い聞かせるように薫は話している。
「じゃあ側にいてくれよ。本当に薫の事が好きだったときに、言えるように」
「!」
俺の言葉が、薫に届いてくれたようで、薫は身を震わせている。
「…ずるいよ」
薫の頬には涙が伝っている。
「そう言って、行かせる気ないのわかってるんだからね。引き止めてどうするのよ。私なんか邪魔なだけなのに、ずっと側にいられるわけじゃないのに」
「薫に、無理してほしくないだけだよ」
「! どうして、私なんかを…」
思わず、薫を抱きしめる。たぶん、自分が泣いたときにいつも誰かに抱きしめてもらっていたからだと思う。
「翔ちゃんはダメだよ。誰にでも優しくして、卑怯だよ。いつも無理しなくていいいって、優しい言葉なんてかけて、私、その言葉にどれだけ…」
腕の中で泣いている薫は、とても弱い女の子に感じた。いままで姿を偽り、小さな背中にどれほどの重さを背負っていたのか。このとき、俺は薫を守りたいと思った。弱い自分に何ができるかわからないが、もう薫を泣かせたくないと。
………
……
…
薫が泣きやむまで、ずっと薫を抱きしめていた。
「もう大丈夫?」
しかし、薫は頬を赤らめている。
「なんか恥ずかしい。何やってるんだろう、私。前まで甘えてくるのは翔ちゃんの方だったのに」
落ち着いたようで、頬を赤らめながら目をそむける。
「そうだね。…もう三時過ぎか」
腕時計を見ると、時計の針午後三時はを過ぎていた。
「買い物どうするかな」
たくさん泣いたので薫の眼は赤くなっている。それに服装は巫女服のままだ。男のときに着ていた服がどこにいったかなど疑問は多い。
「私なら大丈夫だよ」
視線に気づいた薫が、右手で両目を覆う。手を離すと、赤見は引いていた。
「あっち向いてて」
言われるがままに薫に背を向ける。
「もういいよ」
背を向けて5秒とかからないうちに何かが終わったようだ。
「あれ?」
振り返ると、薫の服は巫女服ではなくなっていた。
「いつの間に?」
驚く俺をよそに、薫は髪を整える。そして、いつも腕にしていたヘアゴムで髪をまとめる。
「そのためのヘアゴムだったんだ」
「…翔ちゃんが、髪の長い好きだから」
確かにそうだが、薫の髪の長さは一メートルくらいある。
「でも重くないか?」
薫の背丈では太ももより下まで伸びているのだ。
「嫌なら切るよ」
「別に嫌なわけじゃないよ。むしろ嬉しいし」
普通、そこまで伸ばす女性は少ないし、手入れが大変そうだ。
「…髪くらいしか、翔ちゃんの好みにできなかったけどね」
長過ぎな気はするが、薫がそんなふうに思ってくれるのは素直に嬉しい。
「あ…」
せっかくなのでそっと薫の髪に触れてみる。薫は顔を赤らめてうつむいてしまうが、髪はサラサラで、とても柔らかい。ほのかに甘い香りもする。
「…帰りが遅くなっちゃうよ」
恥ずかしいなか、絞り出すようにつぶやく薫はとても可愛い。
「じゃあ急ぐか」
そう言って俺は薫の手を引く。
「しょ、翔ちゃん?」
「この方が早いだろう」
突然のことで驚く薫を気にしながらも街へと戻る。疲れて歩くのも大変そうな薫に気を配りながら、はぐれないように手に力を込めた。そしてふと、ゲームセンターの前で足を止める。
「翔ちゃん?」
「少しくらい寄り道してもいいかな?」
そしてゲームセンターの中のクレーンゲームを指さす。
「薫を誘ったのは久しぶりにやりたくてさ」
どうやら通じたようで、薫もクレーンゲームの方を見る。
「いつもの?」
「もちろん。審査員は今回、三人かな」
「荷物が増えちゃうよ。それに、今の私は飛べないし」
「荷物くらい、俺が持つよ」
そして手を引いて強引に薫を中に連れ込む。前はよく麗華もつれて三人で来ていたが、必ず俺と薫はある勝負をしていた。
「強引なんだから」
「まあまあ、じゃあやるよ」
クレーンゲームで同じ金額を使っていったいどれくらいの量と質の景品が取れるかと言うものである。そして審査員はいつも麗華がしていた。今回は愛とキスマにも参加してもらう。
「腕が鈍ってなきゃいいけど」
寮で暮らすようになってから街へ行くことはなく、もちろんゲームセンターにも行っていないのだ。薫の方に目をやると、真剣な顔でクレーンの台を見ている。勝負事になると、意外と薫は負けず嫌いなのだ。
「よし!」
とりあえず500円を投入して大きなぬいぐるみを確保できた。薫は何かキャラクターが描かれた弁当箱を狙っている。
「大丈夫みたいだな」
今はこんなことをしている状況でないのは分かっている。薫は恐らく今日はもう戦えない。最悪しばらくは戦えないのだろう。そんな状態の薫と二人きりがどれだけ危ないのかは理解しているつもりだった。それでも薫の笑顔が見たいのだ。
「取れた」
取った景品を見つめ、表情が緩む薫。その姿はやはり幼い少女のようで、薫は本当に女の子なんだという事実を突きつけられる。
「次は何をするかな」
とりあえず勝負は勝負なので、他の台を眺める。
「止めてください」
すると店内に薫の声が響いた。
「なんで? いいじゃない。お兄さんともっといいとこ行こうよ」
見れば、大学生くらいの青年が薫に迫っていた。手を掴まれているが、今の薫には振りほどく力がない。
「お願いだから放してください」
「大丈夫、楽しいよ」
「放せよ!」
慌てて薫と男の間に入り、男の手を薫から引き離す。
「なんだよお前?」
「こいつは俺の女だ!」
「ちっ」
すると男はその場を去って行く。
「薫、大丈夫か」
「うん、大丈夫」
「とりあえずもう行こうか」
俺は薫の手を引くと外へ連れ出す。
「ごんめんな」
「別に翔ちゃんは悪くないよ」
無理に微笑む薫。その笑顔に胸が痛くなった。見たいのは、そんな笑顔ではないからだ。
「早く用事済ませて帰ろう」
そして目的の店の前に立つ。店内は若い女性が大勢いる。
「…翔ちゃん、ここってファンシーショップだよね?」
「他に何に見えるんだよ」
そして薫の手を引いて入り口に向かう
「ここに私と来るつもりだったの?」
「え?」
質問の意味がわからない。
「今はこの姿だけど、男の私とここに来るつもりだったの?」
「ああ、それは…」
「麗ちゃんへのプレゼント?」
「いや、それは…」
薫の質問に、答えられない自分がいる。
「何を買いたいの?」
そんな俺を見て、口元を緩める薫。口調はとても優しい。でも、どこか悲しそうに見えてしまう。
「これなんて麗ちゃん喜ぶと思うよ」
そう言って薫はいろいろとアドバイスをくれる。
「これはどうかな?」
「髪留めか、麗ちゃんならイチゴの飾りよりこっちの―」
「薫にはどうかな?」
「…私に?」
薫は髪留めを見つめ、固まってしまう。
「私にはそういうの似合わないよ。普段は絶対につけないし」
普段というのは男の時のことだろう。そして薫は他の品に目を移す。
「薫、買う物決まったから会計してくるね」
「え、翔ちゃん」
そして俺は、薫には品物が見えないように会計を済ませ、それをプレゼント用に包んでもらう。そのとき薫の方を見ると、先ほどの髪留めを見ていた。
「行こう」
「…うん」
そして俺はまた薫の手を握る。薫は少し恥ずかしそうにするが、抵抗はない。そして駅まで行き、電車に乗り込んだ。
そして駅を出ると寮までの道を並んであるく。実は帰りに電車を選んだのは料金が安いからという理由ではない。
「薫、ちょっといいかな」
「何?」
寮まで歩く距離が長いからだ。
「誕生日、おめでとう」
そして俺は先ほどファンシーショップで買った物を差し出す。
「え…え?」
「自分の誕生日も忘れたのか? 今日は7月7日の七夕で、薫の18歳の誕生日だろ」
街のあちこちに七夕飾りが飾ってあったのに気付かなかったのだろうか。本当に驚いているようだ。
「じゃあ、今日出かけたのって」
「もちろん。薫のプレゼントを買うためだよ。麗華はもう用意してあるらしくてさ」
薫は困惑していてまだプレゼントを受け取ってくれない。
「本当は、ファンシーショップに行くつもりはなかったんだけどね。でも、今の姿が本当の薫なんだろ」
「翔ちゃん…」
薫の頬を大粒の涙が伝っている。
「開けてみてくれるかな」
そしてようやく薫はプレゼントを手に取ってくれた。そして、包みを開いていく。
「これって」
包みの中にあったのは、先ほど薫が見つめていたイチゴの飾りがついた髪留めである
「イチゴなんか子供っぽいかな? 可愛いなって思って、薫に似合う気がしたんだけど」
「あり、がと」
「私が子供にしか見えないってこと?」などと突っ込まれるかと思ったが、薫は目からは涙があふれていてうまく喋れないようだ。
「本当に、ありがとう」
その時、薫は笑ってくれた。頬から涙を流しながら嬉しそうに。俺は初めて薫の笑顔を見た気がした。本当の薫の笑顔を…。
………
……
…
寮に戻る頃には、すっかり空は暗くなっていた。そして寮に近づくにつれて薫の顔も暗くなっていく。
「どうしたんだ?」
さすがに心配になってきた。体調が悪いのかもしれない。
「別に大したことじゃないの」
「そうは見えないよ」
「だって…みんなになんて説明したらいいか。…特に、麗ちゃんに」
「済んでしまったことは仕方ありませんよ」
声の方を見ると向いの部屋の前に希美子が立っていた。
「麗華さんは説明が必要ですけど、私たち学園の者は大丈夫です。もともと貴女が巫女だというのを知っていますから」
「それと、悪いとは思いましたけど、ずっと見させてもらいました」
希美子が薫に歩み寄る。
「街の方から強い力を感じて何かと思いましたよ。麗華さんに聞いたら、二人で出かけたと聞いて、もしかしてと思って行ってみたら」
希美子は薫の頭を撫でる。
「公園を出るあたりから近くにいるのは感じてました」
どうやら、希美子はずっと護衛として近くにいてくれていたようだ。
「最後まで見守ってくださってありがとうございます」
「お互い様です。私も何度か助けられていますから」
「それは先生が特別だからですよ。私の眼は人の内面も見せてくれますから」
「見たくて見ているわけじゃないから仕方ないですよ」
「!」
すると希美子が突然、薫を抱きしめる。
「これからは、もう無理をしなくていいですよ。私に内面は見えないけど、感じることはできるんですからね」
「ありがとう、ございます」
「じゃあ、入りましょうか」
「え?」
希美子は薫から離れると、生徒会が使っている寮のドアを開け、薫に微笑みかける。
「きっと、大丈夫だよ。…ね?」
『きっと、大丈夫だよ』それは、薫の口癖だ。最近では聞くことがなかったが、俺がみんなに無理するなと言うのと同じ、自分に言い聞かせている言葉なのだ。
「入ろう薫、大丈夫だよ」
「うん」
■寮のリビング
そして、ようやく薫は中へと入ってくれた。
「パンッパン」
「お誕生日おめでとう!!」
「え…え?」
部屋に入ると、クラッカーの音とともに麗華とキスマが出迎えてくれた。もちろん、メインは薫だ。
「…あれ? 薫ちゃんは? それとこの子は?」
いきなりのことで驚いている薫、そして状況を理解できていない麗華が見つめあう。
「えーと薫、なんでその姿に? あんなに女の子になるの嫌がってたのに」
「え! 薫ちゃんなの!?」
麗華が驚くのも無理はないと思う。たぶん俺も、薫がいきなりこの姿で現れたらわからないだろう。
「もしかして、危なかった? 強い力を感じたから、気にはなってたんだけど」
「そのことについては後でちゃんと話すから、ここでは」
薫がキスマを見つめ、その視線で察したのだろう。キスマは聞くのをやめる。おそらく、麗華に心配をかけないようにだろう。状況がわからない麗華は混乱している。
「麗ちゃん、ごめんなさい」
薫は麗華を見つめたあと、頭を下げる。
「ずっと隠してたけど、これが私なの。本当の私は…男じゃないの」
「…………」
しばらく沈黙が流れる。薫は不安そうに顔をあげ、麗華は言葉を探しているようだ。
「そうなんだ。…びっくりしたけど、納得できた」
「薫ちゃん、昔から女の子みたいだったし、高校に入ってから翔ちゃんのこと意識してたから」
「そ、そんなことないよ。だって、私はその時…男だったし」
しかし、麗華は微笑みながら薫を見つめた。
「見てればわかるよ。だって薫ちゃん、翔ちゃんと同じで分かりやすいもん。気づいてないのは鈍感な翔ちゃんくらいよ」
「で、でも私、麗ちゃんのことだって」
「それもちゃんとわかってる」
最初は驚いていたのに、今の麗華は落ち着いているようだ。そして、そっと薫を抱きしめる。
「私も、薫ちゃんが大好きだよ。翔ちゃんと同じくらい。だからもう、謝らなくていいの。男の子でも女の子でも薫ちゃんは薫ちゃんなんだから」
双子だからなのか、麗華も薫に同じことを言っている。性別なんて、俺たちには関係ないのだ。
「麗ちゃん、ありがとう」
「何も泣くことなんてないんだよ」
麗華の腕の中でなく薫。麗華はまるで母親のように優しく頭をなでていた。
「もう大丈夫みたいですね」
俺の後ろで見守っていた希美子の顔にも、笑顔がある。
「薫が、他に隠してることってないですか?」
「…気になる?」
俺の質問に、希美子の顔が曇った。それは、他にも何かあるということだろう。
「薫ちゃん、落ち着いた?」
「うん」
薫は落ち着いたのか、すっきりとした顔をしている。いろいろな重荷が下りたからだろう。
「じゃああらためて、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
薫のほほ笑む顔を見て、麗華も笑顔になる。テーブルには麗華とキスマが用意していたケーキや御馳走があり、すぐにパーティが始まった。結局そのあと希美子に質問する暇はなかったが、薫が笑顔でいるのでとりあえず安心できたのだ。
その日はなぜか早く目が覚める。時計の針を見ると、いつもより30分早い起床だ。
『トントン カチ』
その音が気になって、パジャマのままで部屋を出る。そして台所に立っていたのは、体に合わない大きなエプロンをつけた薫だった。
「おはよう、薫?」
「! お、おはよう、翔ちゃん」
驚きながら振り向く薫。よく見ると、エプロンは安全ピンで長さなどを調整しているようだ。それでも男だった時と比べると、エプロンがかなり大きく見えてしまう。
「今日は早いんだね」
俺の視線を意識してか、薫が恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「今日は一人なの? 麗姉とキスマは?」
「キスマは昨日、はしゃいで疲れたみたいで。それに、パーティの準備大変だったみたいで、麗ちゃんもまだ寝てるの」
「そっか。…ん?」
テーブルを見てみると朝食のおかずの他に、いろいろなデザインの弁当箱が置かれている。その中には麗華やキスマが普段使っている物も。
「全員分の弁当作る気なのか?」
「うん。そしたらみんなもう少し寝ていられるでしょ。翔ちゃんももう少し寝てていいよ」
つい『お前が寝ろよ』とツッコミたくなったが、楽しそうに料理をしている薫の姿を見ていると、何も言えなくなってしまう。昔から周りに尽くしてしまう性格。たまに無理をしているようにも見えた。そんな薫を見ていると、辛くなる。
「しょ、翔ちゃん?」
そして、つい薫を抱きしめてしまった。薫の顔は見る見る赤く染まる。
「何度も言ってるけどさ、そんなに無理しなくていいんだぞ」
「大丈夫だよ。…だっていま私、幸せなんだよ」
そう言って、薫は俺に体を預けるように寄りかかってきた。
「翔ちゃんにこうしてもらうの、ずっと夢だったんだから」
顔を赤らめながらも、薫は本当に幸せそうに微笑んでいる。
「このくらい、いつでもしてあげるよ」
「昨日も言ったけど、あんまりこういうことされると本当に我慢できなくなっちゃうよ。もっともっとしてほしくなっちゃうから」
「だからいいって。…決めたんだ。俺は薫を守るって」
「それって…」
「俺は弱いし、守るって言ってもまだ何もできないけど、薫には側にいてほしい」
少し、薫を強く抱きしめる。
「でも私が女だって知ったのは昨日のことで、そんないきなり、あの、その」
「初めて薫のその姿を見たとき、一目ぼれしちゃたんだよ」
「そ、それはきっと吊り橋状態的な感じの錯覚だよ。そう、錯覚! 敵に囲まれて襲われそうな極限状態できっと―」
「それでも、薫を好きだって気持ちは本当だよ」
「ん!」
顔を真っ赤にしながら慌てている薫に顔を近づけ、唇を重ねる。
「…翔、ちゃん」
取り乱していた薫は急におとなしくなった。相変わらず顔は真っ赤だ。
「…もう、限界」
「薫?」
すると急に薫は、しがみつくように抱きついてきた。
「好き。大好き。離れたくない! ずっと、こうしていたい」
必死にしがみついてくる薫。その姿は何かに怯えているようにも見える。
「ずっと側にいて。ずっとずっと、俺の側に…ね」
そう言って薫の頭を撫でる。
「ありがとう、もう大丈夫だから」
落ち着いたのか、薫は離れる。そしてそのことを残念に感じる自分がいた。
「もういいのか?」
「うん。もう時間だし、それに」
「ドアのところで聞き耳を立ててる“人達”がいるから」
「うそ!」
俺は慌ててドアの方を向く。するとドアが開いた。
「あはは、気づかれてたか」
「全く、朝っぱらから何をやっている」
「べ、別に盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「麗姉まで…」
「希美子先生もですよ」
すると、廊下の方のドアが開く。
「ご、ごめんなさい。入るに入れない状態だったから」
「先生もですか」
この四人にさっきの会話を聞かれていたかと思うと、恥ずかしくて火が出そうだった。
「麗ちゃん、ごめんなさい。私…」
「なんで謝るの? これで薫ちゃんは私の本当の義妹になったんだよ」
「麗姉、気が早いって!」
麗華は微笑んでいるが、薫はうつむいてしまっている。その薫の姿をみて、麗華は歩み寄る。
「私は、相手が薫ちゃんでよかったよ」
「それでも麗ちゃんは翔ちゃんのう―」
「運命なんて関係ないよ」
「! 麗ちゃん、知って…」
「ごめん、俺が教えたんだ。パーティの後、部屋に戻ったときにメールで。麗華にも知る権利はあると思ったから」
麗華は薫の前世ことを知っている。そのことで薫はどうしていいか戸惑っているように見える。
「麗ちゃんは、それでいいの?」
「翔ちゃんは薫ちゃんが好きなんだよ。良いも悪いもないでしょ」
「もう前世のことになんか囚われなくていいの。薫ちゃんの人生なんだよ。前世のことは関係ない。薫ちゃんは自由に生きていいの」
こんなことで薫の心の闇が晴れるとは思わない。いままで四年間もずっと一人で抱え込んでいるのだから。
「えーと、水をさすようで悪いのですけど、学校に遅れないように…」
「そうだな、生徒会が遅刻はダメだ。…薫、よかったな」
そう言って愛はテーブルの朝食を食べだす。しかし、顔は明らかに不機嫌であった。
「薫、何とかなるから、とりあえず学校いこ」
「心配かけてごめんね」
「いつまでも悩むな。どうせ何も変わらん」
希美子のおかげで暗い空気は薄まり、みんな学校に遅れないように食事をとったり身支度を始めている。そして愛はいつものように一番に最初に部屋を出ようとしている。俺も着替えなどは終わっていたが、薫と麗華を待っていた。
「来い」
だが突然、愛に腕を掴まれて外に連れていかれる。そして玄関のドアが閉まった。
「貴様のせいだ!」
「え? 痛!」
するといきなり愛に壁に押し付けられる。愛の眼は真っ赤になっている。そして力も、とても人のもとは思えない。
「私は、お前を許さない! お前のせいで薫は!」
何がどうしたのかわからないが、愛が俺に激怒している。そのことは間違いないようだ。
「会長、何で怒ってるんですか」
「…っち!」
その問を聞いてかはわからないが、愛は俺から手を放して離れる。
「近いうちに知ることになるさ。…そのとき私はお前を絶対に、絶対に許さない」
そう言って愛は行ってしまう。訳が分からず、俺はただ立ち尽くしていた。
「翔ちゃん、大丈夫?」
気づけば、薫と麗華とキスマが部屋から出てきていた。
「息が上がってるけど、何かあった?」
どうやら愛の行動を見てはいないようだ。
「麗ちゃん、何でもないよ。…翔ちゃんも、気にしないでね」
薫以外はだが、麗華とキスマは首をかしげていた。
「遅刻すると悪いから早くいこう」
愛の言葉が気になったが、薫が微笑んでいるのを見て何となく怒りやモヤモヤは消えていった。
………
……
…
昼休み。何とか午前中が終わったことにホッとする。なぜなら薫が女の姿で登校したからである。男の姿になれないのだから仕方ないのだが、制服もちゃんと用意してあり、戸惑いながらも薫はちゃんとみんなの質問などに答えていた。それが気がきでなく、気疲れしたのだ。
「薫、どこ行くんだ?」
席を立った薫の手にはお弁当があり、どこかに行こうとしている。
「生徒会の仕事ってみんなに言って解放してもらったから、教室には居づらくて」
たしかに、薫を囲んでいたヤジ馬は消えている。
「屋上でお弁当食べてそのまま生徒会の仕事するから、翔ちゃん達は教室でゆっくりしてて」
「俺も行くよ。ダメか?」
「ダ、ダメじゃないよ。その、いいの?」
「何が? 薫と一緒に居たいだけだよ。麗華はどうする」
すると麗華もお弁当を持ってどこかに行こうとしていた。
「私はキスマちゃんと食べてくるから二人でどうぞ。邪魔しちゃ悪いし」
「そんな、邪魔じゃないよ」
薫は少し寂しそうな顔をする。前まで、自分が同じようなことをしていたのに。
「まあまあ、お昼休みくらい二人っきりになったって罰は当たらないよ」
そう言って麗華は行ってしまう。
「行こう、薫」
「うん」
麗華のことで少し寂しそうな顔をしたが、俺の後ろを嬉しそうについてきてくれる。
「あ、会長」
「…………」
廊下で愛とすれ違うが、完全に無視された。
「…俺が何したってんだよ」
愛の態度に少し腹が立つ。しかし、愛の背中はこちらを振り向くことなく消えてしまう。
「怒っちゃダメだよ翔ちゃん。誰かを憎んだりしちゃ絶対ダメ」
薫は優しくそう言うと、小さな手で俺の手を握ってくる。それだけで、心が安らかになり、優しくなれる気がした。
「ありがと、大丈夫だよ」
そう言って俺も薫の手を握り返す。そして手をつないだまま屋上へ向かうのだった。屋上には誰も居らず、薫と二人っきりになる。そしていつものフェンスの側に行く。すると薫はどこに持っていたのかビニールシートを広げる。
「なんでビニールシート? それにどこに持ってたの?」
【薫】「え? …秘密。なんて、スカートだからやっぱりね。 女の子が胡坐かくのちょっと」
そして敷き終えるとその上に正座して座る。
「そんなにかしこまらなくていいんじゃないか?」
「でも、女の子はちゃんとしてないと」
「…それも言い聞かせ?」
「うん。…女の子ならこう。男の子ならこう。そうやって自分を分けてたから、癖になったちゃって」
つまり、今の薫は自分が理想とする女性の姿なのだろう。
(白い肌に、長い黒髪、そして清楚で凛とした顔立ち…これって、絶滅種の)
黙って座っている薫の姿は大和撫子を思わせる。
「どうかしたの?」
「いや、別に。…ん?」
ふと、薫の膝にある弁当箱が目に入った。
「薫、その弁当箱って」
「うん、昨日のクレーンゲームで取ったやつだよ」
何のキャラクターかはわからないが、可愛いデザインのイラストが描かれている。朝は袋に包まれていたので気付かなかったのだ。
「とりあえず、食べよう」
「ああ、いただきます」
そう言って弁当の蓋をあける。しかしその中身をみて、俺は固まってしまう。
「ごめん、嫌だった?」
「嫌じゃないよ。ただその、嬉しくて」
中にはハートの形に焼かれた卵焼きが入っていたのだ。薫の弁当には見当たらないので、おそらく俺だけにだろう…たぶん。
「大変じゃなかったか? かなり手がこってるけど」
「そんなことないよ。だって型使って焼いただけだもん」
薫はそう言うが、卵焼きの他にも、タコやカニなどの形をしたウインナーや肉詰めやレンコンのきんぴらなど、薫の勝負料理と呼べるものが詰まっている。そして、俺が食べるのを薫は待っているようだ。
「じゃあ、食べるね」
「うん」
とりあえず、ハートの卵焼きを口へと運ぶ。それを不安と期待の入り混じったような顔で薫は見つめてくる。
「すごくおいしいよ」
「よかった」
今まで何度もあったやりとり、でもとても新鮮に感じられた。それに味も美味しく、腹は十分満たされたが、それよりも心が温かい気持ちでいっぱいに満ちている。それくらい、幸せな一時だった。
「ごちそうさま」
「おそまつさまです」
弁当を食べ終え、空を見上げながら幸せの余韻に浸る。
「翔ちゃん、ちょっといいかな?」
「ん? どうしたの」
薫の声が少し沈んでいるので、気になった。
「放課後にちょっとでいいんだけど、飛ぶ練習しない?」
「それって、俺の翼で?」
「うん。だって…その、私を守るって言ってくれたから」
昨日あれほど嫌がっていた薫の方から、そんなことを言われるとは思わなかった。
「やるよ。絶対やる。薫を守れる力になるなら何でもする」
「じゃあ今日から放課後に屋上でしよう。校長先生と会長には許可をもらってあるから」
その後、薫はいつものように生徒会の仕事をしている。眼の力は使えるようで、仕事に支障はなさそうである。そして昼休みが終わり、二人で教室へともどったのだ。
………
……
…
放課後になり、俺と薫は屋上に来ていた。もちろん、飛ぶ練習。とうより自分の翼を使いこなすための特訓だ。
「まずは高さに慣れてね」
「薫、こんな状態でそんなこと言われても」
今の俺は薫に後ろから抱きかかえられながら、下を眺めているもちろん、薫は空を飛んでいる。
「やっぱり怖い? たまにいるの、高所恐怖症で空を飛べない天使が」
「天使なのに高いところが苦手って」
確かに屋上から足は離れ、屋上よりしたがよく見えるので恐怖感はもちろんある。だが、薫が側にいてくれるからか、取り乱すほどではない。
「薫がついててくれるからかな。俺はそんなに酷くはないよ」
「そう? じゃあもっと高度上げてみようか?」
「そ、それは」
「行くよ」
結局、雲が近くに見えるくらいの高度まで上がっていた。足が地につかない状態で、下を見下ろすというのは正直怖い。でも、それ以上に感動を覚える。
「これが、いつも薫が見てる景色なんだね。町が全部見えるよ」
小さくなった学園や自分の家を見ながら少し興奮していた。
「翔ちゃんなら大丈夫だね。飛べるようになったらきっと楽しくなるよ。大変だから滅多に行かないんだけど、いいもの見せてあげる」
「もっとすごいものがあるのか?」
「ちょっと目を閉じてて、絶対に開けちゃダメだよ」
とりあえず言われるがままに眼を閉じた。
「大丈夫だから、ちょっと我慢してね」
「俺は薫を信じてるよ」
そして、体に物凄いG(重力)がかかるのを感じる。この間よりも重いが、薫に言われた通り、眼を開けないように耐える。そして数十秒が経つ。
「もう開けてもいいよ」
薫の許しが出たので、俺はゆっくりと目を開く。
「これって……」
言葉を失う。その表現がまさにぴったりだった。言葉が出てこない。なぜなら目の前に青く広がる地球があるのだから
「人間界でここに来れるのは私だけなんだよ。天使や死神、悪魔にも絶対に来ることはできない。もし、私の他に来れるとしたら女神様くらい。死神の力で強化された私の翼は天界で最速。その浮力と強化された加護の力があって初めて宇宙空間でも生きていられるの」
俺の顔を見ながら、薫は嬉しそうにしている。その笑顔は、地球と同じくらい…いや、それ以上に綺麗だった。その後、地球へと落ちる。大気圏突入も、加護の力があれば何でもないようだ。そしてそのまま寮へと戻った。
………
……
…
地球を見た感動から、その日はあまり寝付けなかった。気づけばもう日が昇ってきている。そして、台所からはいつものように薫と麗華が料理をする音が聞こえる。
「夢じゃないんだよな」
地球を見たという感動から興奮していただろう。そのせいか地球と一緒に、薫の笑顔がまぶたに焼き付いてた。寝ようとするたびにその笑顔が浮かび、目が冴えてしまうので寝付けなかったのである。
「起きるかな」
このまま待っていても寝付けないと思ったので、着替えをして部屋を出た。
「あ、翔ちゃんおはよう」
「おはよう、翔ちゃん」
「おはよ」
部屋を出ると台所から麗華と薫が迎えてくれる。その光景が、いつまでも続いて欲しい。密かにそう願う。
「朝から何をやっている」
そして部屋から出てきた愛の声に俺は我に返り、朝食を食べて学園へと向かった。学園では男女合同の体育の授業があり、薫はジャージを用意していなかったようで、ぶかぶかのジャージに着られていたり、黒板の上に手が届かなくなっていたり、昨日はなかった授業風景を見れた。昼休みはまた二人きりで屋上へ行き、そうこうしているうちにあっという間に放課後になる。
「何ニヤニヤしてるのよ」
薫の授業風景を思い出して笑う俺に、薫は拗ねたように顔をそむける。
「今日は翼を出す練習。意識して自分で出してみて」
それでも、することはきちんとする。それでこそ薫だ。
「意識してって急に言われても、よくわかんないよ」
「大丈夫。落ち着いて、自分の翼をイメージして」
練習が始まれば、先ほどの拗ねていた顔はもうなく、真剣に俺を見つめてくる。
「うーん。………」
「そしてその翼で何をしたいかも具体的に」
とにかく、言われるがままに想像してみる。白くて大きい翼、それを広げて飛び立つように。
「翔ちゃん、翼の色と大きさは」
「え…白くて大きいけど」
「じゃあその翼が背中から生えてくるように願って。その翼は、自分の一部だって」
しかし、翼は出てこない。いったい何が足りないのかもわからないのだ。
「とりあえず、今日は私が出してあげる。毎日やっていれば、そのうち出てくるようになるよ」
そう言って薫が近づいてくる。そして、薫の手が背中に触れるのを感じた。
「痛みとかはない?」
「え!」
振り返ったとき、先ほどまではなかった大きな翼がある。重みをかんじなかったので、ほとんど感じなかった。
「飛ぶ練習には関係ないから実体化はさせてないの。実体化させちゃうと服が破けたりするし」
重みがないのは実体がないからということだろう。現に手で触れることができない。
「まずは閉じたり広げたり動かしてみて」
言われるがままに動かそうとしてみるが、全く反応しない。
「動かない…。俺って才能ないんだな」
「この翼は手足と一緒だよ。意識して動かすものじゃないから。だから慌てなくていいの」
薫はそう言うが、まったく動かないことに内心ショックだった。結局その日はそのまま終わってしまう。
「きっと、何かきっかけがあればすぐ動かせるようになるわよ」
日の落ちた空の下。屋上で薫に励まされている。
「薫は、最初から動かせたの?」
「私? …私の翼は、翔ちゃんのとは違うから」
すると、薫は自分の翼を出す。そして翼は腕のように動き、近くにあったカバンを持ち上げる。羽が指のように動いたのだ。
「この翼を持つのは私だけ。翼であり、手足のように扱える。だからついた名は『翼手』 この翼は女神に並ぶ加護をもたらし、閻魔に匹敵する技を可能にし、魔王に劣らぬ力を有している。この翼のおかげで、私は4年前にカオスから翔ちゃんと麗ちゃんを守ることができた。もちろん、それは巫女としての私があってのことだけど」
「薫…」
薫は遠い眼をして空の月を見つめている。
「翔ちゃんの翼は闘う翼ではなくて、守る翼。だから私のようにはならないで。翔ちゃんには人を傷つける力なんていらないの。私の知る、優しい翔ちゃんのままでいて」
今、いったい何を考えているのだろう。月光を背に微笑む薫の笑顔は、どこかさびしそうに見える。何か言おうにも、言葉が見つからない。不謹慎だと思うが、そんな薫の笑顔も、綺麗だと思ってしまうのだ。結局その日の練習は終り、二人で夜道を帰った。
数日が経ったが、相変わらず自分の意思で翼を出すことはできないでいる。翼自体は動かすことができ、ふらふらながらも数メートルは飛べるようになった。
「早く行こう」
「そんなに慌てなくても」
今日は生徒会の仕事がなく、授業も早く終わったので久しぶりに薫と二人で買い物に出ていた。まだ力が戻っていないので、遠くで生徒会の誰かが尾行しているようだが、それでも最近は翼を扱う練習ばかりで薫も料理をしていない。
「何が食べたい? 久し振りだから張り切っちゃうよ」
「おいおい、麗姉じゃないんだから」
「そんなこと言うと翔ちゃんが嫌いなもの作っちゃうわよ」
「じゃあ、肉じゃが」
「了解」
とても楽しそうにしている薫。しかし、なんだかそれが怖かった。
「翔ちゃんの好きな煮付けも作ろうか」
とても無理をしている。または何かを隠している。そう疑ってしまうくらいに、薫は明るいのだ。そして、俺の好物ばかりをいくつも作る気でいる。倹約をしている薫にしてはおかしいのだ。
「楽しくない?」
「そんなことないよ。荷物持ちがんばるから気にしないで買い物していいよ」
すでに一つの籠はいっぱいになり、二つ目を持っている。心配になりながらも、楽しそうな薫の笑顔を壊したくはなかった。
「私は大丈夫だから。お願い、笑って」
おそらく暗い顔をしていたのだろう。薫を困らせてしまっている。
「ごめん、俺も大丈夫だから。早く帰って薫の作ったご馳走食べたいな」
「うん、じゃあロールキャベツも追加ね」
薫がこうなった理由は何となくわかっていた。それは荷物を置きにいったん寮に戻ったとき、薫宛に茶封筒がきていて、その中にあった手紙を見てからだ。封筒の裏の送り主のところには『姫巫女』と書いてあったので、その時は気にしていなかったが、その手紙を見てから薫は明るくなった。
(きっと、何か良いことがあったんだろ)
明るい薫が嫌なわけではない。むしろ、いつもこれくらい笑っていてほしい。だから気にするのは止めて、今を楽しむことにした。たとえこの先何があってもいいように。
………
……
…
夕飯は結局薫がすべて一人で作っていた。すべてが俺の好きなメニューで、しかも品数はかなり多い。テーブルには乗りきらないのではないかというほどだ。まるで何かのお祝いのように豪勢で、普段なら文句を言うであろう愛も何も言わない。
「冷めないうちに食べてね」
「いただきます」
少し空気が重く感じたが、それを気にしないほど薫が楽しそうにしている。品数はあったが、量が多くなかったので料理はすべてなくなり、満足そうにしている俺の顔を見て、薫は幸せそうに微笑んでいた。
そして夜も遅くなり、愛やキスマは寝室に向かったので俺と麗華も部屋に戻る。それから布団に入り、眠ろうとしていた。
『コンコン』
弱々しくドアが叩かれる。他の人に聞こえないようにだろう。
「翔ちゃん、まだ起きてる?」
「薫? どうしたの」
すると、できるだけ音をたてないようにゆっくりと薫が入っきた。見ると、いつも薫が使っている大きな枕を持っている。
「その…ちょっとお願いがあって」
「お願い?」
気のせいだろうか、薫は恥ずかしそうにしている。
「今日、一緒に寝てもいいかな?」
「一緒に!」
いきなりのことで驚いてしまう。だが、思い返して見れば告白してからまだキスもしていない。
「そ、それって、あの…つまり」
「翔ちゃんがしたいならいいよ」
なんでもお見通しといった感じで、薫は恥ずかしがりながらも微笑んでいる。
「でも、そのやっぱりそういうのはさ」
「添い寝だけでもいいし、翔ちゃんの好きにしていいからダメかな? …今日は、一緒に居たいの」
嫌なわけではないが、自分を抑えていられる自信はない。理性が必死に何かと戦っていた。
「そのさ、俺も男であって、いいと言われてもいけない気が―」
すると、薫が近寄ってくる。
「翔ちゃん、お願い」
その時、理性が何かに負けてしまった。いや、理性が許してしまった。なぜなら、薫がお願いをしてくるなんて中学に入ってからは一度もなかった気がするからだ。それほど、薫はいつも背負い込んでばかりいる。それに、薫は俺のお願いを拒んだことはなかったからだ。
「どうなっても、知らないよ」
「翔ちゃんになら何されてもいいよ」
そういって薫はベットの中に入ってきた。
「翔ちゃんの匂いがする」
嬉しそうにしている薫。その姿がとても愛おしい。
「薫、大好きだよ」
「え、さっそく」
そして思わず抱きしめてしまう。だが、薫の体は震えていた。
「…ごめん、嫌だったよね」
薫から離れようとしたら、薫が腕を回して離れられない。
「嫌じゃないの。別に翔ちゃんが怖いとかそういうのじゃないの」
「何にそんなに怯えてるんだ?」
ずっと、無理をしていたんだと思う。腕の中で震える薫は、普通の少女と何も変わらない。
「一人で背負わなくていい。俺が側にいるから。だから、もう無理しなくていい」
「…翔ちゃん、ありがとう」
「お礼なんていいよ。俺がずっと側にいるから、嫌ならもう闘わなくていいし、男の姿に戻らなくてもいいし、自由でいいんだ」
少しずつ、薫の震えは納まってきた。落ち着いてきたようで、顔の強張りも引いている。
「ありがとう。翔ちゃん」
「気にしなくていいよ。今の俺にはこれくらいしかできないから」
「そんなことないよ。翔ちゃんがいてくれるだけで、私は強くなれるから。…今の私は、空を飛ぶくらいの力しかないけど」
「いや、薫は料理を作ってくれたり、地球を見せてくれたりいろいろしてくれたよ」
すると薫は体を起して覆いかぶさってきた。
「ありがとう、翔ちゃん。…でも、もうひとつできることがあるよ」
「え? かお―」
そのまま薫は唇を重ねてくる。
「私の初めて、もらってね」
………
……
…
まだ日が昇らない朝。薄暗い中でうっすらと意識があり、腕の中にあるぬくもりを感じていた。
「翔ちゃん、ありがとう。」
何かが頬に触れるのを感じる。
「愛してるよ」
そして何か柔らかいもが唇に触れた。すると、微かな意識は闇の中に落ちていくのだった。
眼を覚ますと、そこに薫の姿はなかった。ただ薫の枕があるので昨日のことは夢ではないだろう。
「…薫?」
時計を見るともうすぐ起きる時間だが、台所からいつもの包丁を使ったりしている音が聞こえない。俺は服を着替えて部屋を出る。だが、そこには誰もいない。テーブルには弁当と朝食の用意が4人分されていた。
「おはよう、翔ちゃん」
「おはよう。…薫知らないか?」
声をかけてきたのは麗華で、ちょうど部屋から出てきたところだったようだ。
「え? 一緒じゃないの?」
「麗姉、それはどういう意味?」
「…えーと、別に翔ちゃんが大人になったのを知ってるからって訳じゃないよ」
「ちょっと、麗姉! 何でそれを!?」
よく見ると麗華の頬が少し赤らんでいる。
「その、薫ちゃんが部屋に入るの見ちゃったから。…それで何もないわけないでしょう?」
「えーと、その…」
「確かに、何があったか見たわけじゃないけど、二人とももう18歳だし」
「だよね~。薫わざわざ結界はってたから。周りに知られたくないことでもしたんじゃない?」
「おいキスマ! てか、結界なんて俺は知らないぞ!」
いつの間に部屋から出てきたのか、キスマも話に参加している。しかも、結界がはってあったなんて知らなかった。
「キスマ、そんな奴ほっといて朝食をいただくぞ」
「わかってるよ。最後だもんね」
いつの間に席に着いたのか、愛が朝食を食べだす。するとキスマから笑顔が消えて、愛と一緒に朝食を食べだした。
「キスマ、“最後”って、何が最後なんだ?」
「すぐに知ることになるさ。遅刻するから貴様も食べろ」
相変わらずなぜか愛は俺に冷たい。でも、今日は反論する気になれなかった。朝食を食べる愛の瞳が潤んでいたからである。なので俺と麗華は黙って朝食を食べた。冷めてはいたが、薫の料理はいつも通りおいしい。
「ごちそうさま」
「洗い物しておくから食器は流しに置いといてね」
いつもの愛らしくなく、今日はゆっくり朝食を食べていた。その後はすぐに学園にいってしまったが、キスマも暗い顔をしたまま食器の後片付けをしている。
「ごめん。二人で先に行ってて」
「私も手伝うよ」
「いいの。お願いだから、早く学園に行って」
キスマは笑っているが、その笑顔はぎこちない。間違いなく何かを隠している。
「何かあったのか? 無理しなくていいんだぞ」
「本当に大丈夫だから。…お願い、一人にして」
「わかった。…ほんとに、無理すんなよ」
一瞬、本当に辛そうな顔をしたので、とりあえず俺と麗華は寮をでた。そのとき、部屋からキスマの泣き声が聞こえた気がしたが、麗華が手を引くので大人しく学園に向かう。
「キスマ、どうしたんだろうな」
「わからないわ。でも、あの子は人前で泣くのを嫌うから、今は一人にしてあげましょう」
朝からいろいろあったが、学園はいつも通りにぎやかだった。生徒会の挨拶運動などや部活動の人たちの朝練の姿も。
(薫、どこ行ったんだろ)
唯一違ったのは、俺の頭が薫のことでいっぱいだったということくらいだ。
「おはよう」
教室に着いたが、薫の姿はない。少し残念に思ったが、とりあえず席に着こうとする。だが、その時机の中から何かがはみ出していたのが見えた。
「何だろ? ―! これって」
それはピンク柄の封筒で『神枷 翔真様へ』と書かれている。裏を見るとハートのシールで閉められてあり、宛名はない。
(どうしよう、これってラブレターだよな? 読むべきか? でも俺には薫が…)
だが、封筒には何か入っているようで、その膨らみが気になる。
(何か入ってるんじゃ、ちゃんと返した方がいいよな)
とりあえず、俺は中身を見てみることにした。
「ちゃんと開けてくれたんだね。翔ちゃん」
取り出した手紙の一列目を見て、差出人が誰だかわかる。そして入っていたのは、誕生日の日に送った髪留めであった。
「これはラブレターになるのかな? 違うよね。もしそうなら、こんなこと書かないし、ラブレターなら書くのは最初で最後になるから。…私、翔ちゃんのこと大好きだよ。その気持ちに、嘘はない。神様に誓えるよ。この数日、私は嬉しかったよ。女として生きられるなんて思ってなかったし、翔ちゃんに好きになってもらえるなんて思ってなかったから、本当に幸せだった。ずっとこのままでいたいって思ってた。でも、無理だってわかってたから、一度も言えなかった。翔ちゃんは何度も、ずっと側に居てっていってくれたよね。本当に嬉しかったんだよ。でも気づいてた? 私は一度も『はい』って言えなかったの。翔ちゃんの側に居られなくなるのをわかってたから、翔ちゃんが麗ちゃんを守れるように翼の使い方を覚えてもらおうともした。私は所詮、巫女だから、翔ちゃんの側には居られないってわかってた。それを知ってて側に居つづけたのは、翔ちゃんがこんな私に側にいて欲しいって望んでくれたから。こんな私を必要としてくれたから。でも、もうそれもできなくなってしまったの。でも、ちゃんとお別れできなくて。昨日はみんなに我がままを聞いてもらったの、翔ちゃんと麗ちゃんに内緒で、お別れパーティーをしたいって。キスマも愛も、許してくれて嬉しかった。翔ちゃんと麗ちゃんと笑顔で居られて楽しかった。…翔ちゃんの女になれて、本当に幸せだった。だから、後悔はないよ。最後に女として生きられたんだもん」
一枚目の手紙が終り、二枚目を見る。ところどころ、涙の跡があった。
「私がいなくなっても、大丈夫だよね? ずっと側には麗ちゃんがいる。それだけは確かだから。私みたいに途中でいなくなったりしないよ。だから、私のことは忘れて。私はもう、この世にいないって思って。多分、二度と会えないから。例え会えてもそれはもう私ではないかもしれないし、どうなるかなんてわからないけど、私はもう会うつもりはないの。辛くなるだけだから。今度は本当に、抑えきれなくなっちゃうから。だから、私のことは忘れた方がいいの。そしたら、翔ちゃんは絶対に幸せになれるから。私では、翔ちゃんを幸せに出できない。私は幸せになれても、私はきっとまた翔ちゃんを悲しませてしまうから。やっぱり住む世界が違い過ぎたんだ。巫女は恋をしてはいけない、わかっていたのに。後悔はないけど、悔いが残っちゃったもん。翔ちゃんていう。大好きな人ができちゃったから。最後に、後のことは閻魔さまと女神様にお願いしてあるから安心して。…ずっと守るって言ってたのに、できなくてごめんなさい。さようなら、翔ちゃん。…こんな私を愛してくれて、ありがとう」
どうしていいのかわからなった。心に穴が空いたような虚無感と、体に何かが湧き上がる感じながら、その場に立ち尽くしていた。読みを終えた手紙と、封筒に入っていた髪留めを握りしながら。
「翔ちゃん、どうかしたの?」
いつの間にか心配そうに見つめている麗華の言葉もすり抜けていってしまう。どうしていいかわからず、廊下に出る。薫が、屋上にいるんじゃないかと、現実から目を背けてしますのだ。
「言っただろう、全部貴様のせいだ」
廊下に出た時、愛が仁王立ちで立っていた。
「お前しか止めらる者はいないのに、いつまで腑抜けているつもりだ!」
「俺に何ができるって言うんだ!? 俺は薫の居場所なんてわからないし、何の力もないんだ! 薫が苦しんでるのに、気づいてもあげられなかった…」
現実に目を向けるのが怖い。薫はいない。どこにいるのかもわからない。そんな状況で、いったい自分に何ができるのかわからなった。
「…お前の薫を思う気持ちはその程度か。がっかりだよ」
「なんでそうなるんだよ!」
「薫は、お前のせいで死のうとしているんだぞ。お前のために尽くして、こうなっ た。それでもお前は、自分が薫に対して本気だって言えるのか?」
「俺の…。俺のせいでってどういうことだよ?」
すると、愛に突然胸倉をつかまれる。
「あいつは、女に戻ってはいけなかったんだ。なのにお前を守るために力を使って男になれなくなった。その後も身を隠していればいいのに、お前の側に居つづけた。殺されるとわかっていて、お前の望むことをしてやろうとしていたんだ! あいつの愛は重すぎる。好きな人のためなら命だって捧げるほどな。そんなあいつの愛を、お前は本気で受け止める覚悟があったのか? あいつを守ると言っていたが、命をかける覚悟はあったのか?」
「…………」
言葉が出ない。俺は確かに、薫を守ると言った。でも、心のどこかで甘く考えていたのかもしれない。命をかける。そんな覚悟はしていない。なんの覚悟もしていなかった。ただ、守りたいと思って言っただけの軽い気持ちでしかない。
「なんで、あいつがあんなに人に尽くすかしっているか? あれは自分がしてほしいからだよ。前に一度止めさせようとしたらあいつ何て言ったと思う? 『オレの親が言ってたんだ。自分がされて嫌なことは、人にするなって』その言葉をあいつは信じていた。いろいろ他人にしてやるのは、自分がされると嬉しいことをしている。あれはな、メッセージなんだよ。本当は、自分にこうしてほしいっていう。お前は、一度でも薫に何かしてやったことがあるのか? なんであいつが誰よりもお前のために尽くすのは、お前を好きだってのもあるが、本当は誰よりも、お前に甘えたいからだよ」
「薫が…俺に?」
今まで考えたこともなかった。人に世話をやくのがあいつの性分なんだと決めつけ、深く考えてなんていなかった。
「私たちではダメなんだよ。私もキスマも希美子も、人間界の住人じゃない。だから、薫の私情に立ち入ることができない。私もキスマも、薫を助けたい者は何人もいる。でも、できないんだ。人間界の…巫女の問題には、どうすることもできないんだよ。だから、お前達しか止められないんだ。お前と麗華さんしか、あいつを救える人はいないんだ。そしてあいつがお前だけに手紙を残したのは、本当は誰よりもお前と別れたくなかったからだ。頼む。あいつを救ってくれ。あいつは今までずっとずっと頑張ってきたんだ。もうあいつを自由にしてやってくれ。それができるは、お前だけなんだ。だから、こんなところ腑抜けてないで、あいつを迎えに行ってくれ」
愛の頬を涙が伝っている。そんな姿は初めて見た。入学して三年間、生徒会長になってからも、いつも冷静沈着。そんな愛が泣くほど、薫を大切に思っている。なのに、俺は…
「ありがとう。目が覚めたよ」
胸倉をつかむ愛の手を解き、俺は走り出した。この学園で、なんとかできそうな人の所に。
「失礼します」
そして俺がやってきたのは『校長室』だ
「ノックもなしとはな。…何より、あなたがここに来られるの初めてですな」
閻魔の話し方は、生徒にするようなものではないが、気にしている余裕はない。
「校長は冥界で一番偉い『閻魔大王』だと聞きました」
「そうですな。今は人間界にいるのでこの姿でいるだけですが」
「薫を助けたいんです。力を貸してください。どうしても、薫を助けたいんです」
閻魔に力を借りる。それが俺の答えだった。非力な自分に何ができるかわからない。だから、なんでもする覚悟はできている。
「ハハハ、本当に何も知らないのですな。あなたに、私の力など必要ありますまい」
「俺には、何の力もありません! 大切な女一人守ってやれない。だから」
「なぜ、巫女である薫があなたの側にいたと思いですか?」
「それは、俺と麗華に特別な魂があるからって。でも、それ以前に俺達と薫は親友でした」
「では質問を変えましょう。巫女とはいったいなんです。どんな存在ですか?」
急いでいるのにと焦りながら、真剣に見詰めてくる閻魔の視線にこたえる。
「辞書に載っているような『神に仕える女性』という意味しか知りません」
「それであっていますよ。巫女とは、神にのみ仕えます。ここまで言えば、おわかりになったのではありませんか?」
「それって…まさか!」
「あなたの中にある魂、それは先代の神のもの。つまりあなたは、次の神に最も近い存在ということです」
自分の中にあるのが、神の魂。だから巫女である薫は…。
「薫のことは諦めなされ。あの子は確かに強いが、とても巫女と呼べるような存在ではない。だから、あの子はあなたの側にいられなくなった。巫女の力を持っていようと、巫女でないものがあなたの側にいるのは許されないのです」
「許されないって、そんなの誰が決めるんだよ!」
「人間界を納めている姫巫女の者がです。私が先代の神から冥界を任されたように、姫巫女は人間界を任されています。もっとも対した力はなく、巫女の資格を持つ者を育成しているだけですがね。だから、薫のような巫女でないものを神に仕えさせることを許さない。ちゃんとした巫女を神に仕えさせる。それが、あの家の務めだからです」
「でも! 薫が何か悪いことした訳じゃないだろ! 俺や麗華を守ってくれてただけじゃないか。それで、なんで殺されなきゃいけないんだ」
どうにも納得がいかない。いくはずがなかった。だって薫は、ずっと俺達を守っていてくれたのだから。
「それはすべて、あなた次第ですよ」
「え…」
声の方を向くと、学園の理事長、つまり女神が立っていた。
「正気か? 巫女のことに口出しなど」
「でも、巫女をお選びになるのは神です。神が望まぬ者を巫女にしても意味はないでしょう」
女神は優しく微笑みかける。その笑顔はどことなく希美子に似ていた。
「さあ、どうします? 選択権はあなたにある。このまま新たな巫女を待つのもよいでしょう。今の巫女を選んでも、苦労するのはあなたです。そして彼女も助けられても辛い未来が待っているでしょう。あなたに、彼女の人生を背負う覚悟がありますか? 彼女を一生守り続ける勇気はありますか? 彼女を、想い続ける自信がありますか?」
答えは出ていた。聞かれるまでもない。覚悟ならある。勇気は、薫が側にいれば何も怖くない。そして薫を一生想い続けるつもりだ。
【翔真】「俺は―」
………
……
…
人が滅多に訪れない山奥。霊山として知られるこの山に姫巫女の本家が建っている。その大きな屋敷の庭に薫はいた。そして、一人の老人が屋敷の中から薫を見下している。周りには巫女や日本刀を携えた者たちが立っていた。薫は天使や死神、巫女などの力を封じられ、その印に額に呪が浮かび上がっている。
「まったく、よくもやってくれおったな。巫女として生まれながら、男として生きるなど。姫巫女の長い歴史の中で初めてじゃぞ」
薫の睨む当主。薫の祖父に当たる人だが、そんな感じは全く感じられない。
「それにキサマには覚悟がない。巫女として、できそこないもいいところじゃ。家族の命と神に仕えることを天秤にかけた時、家族を選ぶなど、巫女として恥を知れ! キサマがあのまま家族を見捨てて神仕えたなら咎めはせんかったが。神を置いて家族を守りに来るなど、巫女失格じゃ! 巫女なら、例え家族が死のうが、己の命を投げ出そうが、神に仕えねばならぬのじゃ! 巫女として何の力もなく、覚悟すらない。そんなキサマをこのまま生かしておくわけにはいかぬ」
当主の眼は怒りに満ちており、今にも殴りかかりそうである。
「死ぬ覚悟はできておるじゃろうな。逃げてもかまわんが、家族が死ぬだけじゃ。それに、力を封じられたキサマには逃げる力もあるまい。ただの小娘と何も変わらぬからの。秘術なぞ使って男でいるから、そのような醜い姿になったんじゃ」
「言いたいことは、それだけですか?」
ずっと口を閉ざしていた薫が、冷たい眼で当主を見つめる。
「なんじゃその眼は! 自分の立場が分かっておるのか!!」
「私がここに来たのは、自分の意志です。家族を守るためではありません。…どうせ私が来ても、本家に逆らった両親を生かしておくつもりはないのでしょう。あなた方のやり方は、嫌というほど知っていますから。歴代巫女たちの記憶で。…私はここに、姫巫女を潰しに来ました」
「本気で言っているのか?」
「はい。歴代巫女は全員、あなた方本家を恨んで生きていましたよ。もちろん、私も。私でなくとも、いずれ巫女が姫巫女の家を滅ぼしたでしょう。それがたまたま私であったというだけです」
当主以外の人たちは武器を手に取っている。いつ薫が襲いかかってきてもいいように。
「歴代巫女の記憶があるならわかるはずだ。本家は最初からこうだった訳ではない。あの神のせいで、巫女を厳しく教育するしかなかった。はじめからこうだった訳ではないわ!」
「…先々代の巫女は、ずっとあなたを想っていましたよ」
「! あ、あいつが、わしを?」
突然、当主の怒気が弱まる。周囲に張り詰めていた空気が少し軽くなった。
【薫】「巫女は神に仕え、神のために生きる。ゆえに、恋をすることを許されない。それが掟。だから、みんな本家を恨んでいるのです。巫女としてでなく、一人の女として生きたかったと。先々代も自分が巫女でなければ、あなたと添い遂げたい。ずっとそう想い続けていました。おじい様は、これからも自分のような人間を作るつもりですか? おじい様が変われば、姫巫女は変わります。もう神の後ろ盾など捨ててしまえば、これから生まれてくる巫女たちは幸せになれます」
「…それは出来ぬ。それでは、今まで犠牲になった先祖たちに申し訳が立たぬ! 先祖がどんな思いで巫女に厳しくし、どんな気持ちで送り出したからわかるか? 辛かったのは何も巫女だけではないわ。大切に想う者を天界に送る。それがどれだけ辛いか。だが、神の後ろ盾があるから姫巫女はある。後ろ盾を失えば、多くの者が路頭迷ってしまう。じゃから、当主として、そんなことはできんのだ」
薫が歴代の巫女の思いを背負っているように、当主も姫巫女のすべてを背負っているのだ。
「もうよい。奴から巫女の印を奪え。その印を、別なものに継がせる」
「クスッ どうやって印を奪うおつもりですか? 私は…既に巫女の印を失っているのに」
「何じゃと…もしやキサマ、男と交わったのか!」
人が巫女の資格を失う方法は三つある。一つは命を落とすこと。命が立たれれば巫女の資格は魂と共に転生をする。二つ目は資格を譲ること。巫女が自らの意思で印を譲ることができ、歴代の記憶と力を印と一緒に他者に渡すことができる。そして三つ目が、処女を失うこと。神に仕える巫女は恋をしてはいけない。つまり、純潔でなければならないのだ。
「疑うなら御調べになりますか? 調べたところで、何も変わりませんが」
「キサマ! 今まで巫女と姫巫女が守り続けてきた巫女の印を! 次に誰に宿るのかわからぬではないか! 昔、同じように愚かなことをした女がどんな目にあったか知らぬわけではあるまい。その後印を探し出すのに何年かかったか」
「先々代の巫女は、あなたに純潔を捧げたかったようですよ。いえ、巫女の印を捨ててしまいたい巫女など何人もしました。それに、私はここに本家を潰しに来たのです。そうすれば、二度と不幸な巫女は生まれないから」
先ほどまで落ち着いていた当主だが、今は怒りで顔が真っ赤になっている。握ったこぶしを震わせ、今にも暴れだしそうである。
「奴を殺せ! 生かしてこの家から出すな!」
当主の声を聞き、屋敷の中からも日本刀などの武器を持った人たちが出てくる。
「力を封じているとはいえ容赦するな! こいつの後はこいつの両親も後を追わせてやる」
「させませんよ。ただで殺されるつもりはありませんから」
すると薫は立ち上がる。縄で縛られていないとは言え、力を封じられているので翼も鎌も出すことはできない。
「その姿で戦うつもりか? ろくに力も使えないというのに」
「ご心配なく」
その時、薫の背後に立っていた男が薫に切りかかる。
「私には、両親が与えてくれた体がありますから」
すると、後ろに目があるかのようにすんなり男の刃をかわし、流れるように男の服を掴んで頭から地面に投げ落とした。
「私の体は、歴代の巫女の中で一番敏感なんですよ。…どの巫女の記憶を見ても、ここまで五感が鋭い巫女はいませんでした。特に背中が敏感すぎて、少し訓練しただけで、後ろがどうなっているか手に取るように分かるようになりました」
「頭から落とすとは、容赦ないな」
「だてに四年も神を守っていませんよ。巫女の力は使い過ぎるとあなた方にばれてしまいますし、強くなるためにいろいろな武術を覚えましたから。もちろん、剣術も」
そして薫は頭から落ちて気を失っている男から刀を取る。
「例え死んでも、ただで死ぬつもりはありません。…一人でも多く、道ずれにします」
そして、薫は刀を構えると、当主に向かって切り込む。しかし、それを阻もうと他の男たちが切りかかってくる。
「邪魔しないでください」
「ギャー!」
薫は小さい体で相手の懐に入り、腕や脚を切り裂く。
「力がないのに、まともに切り合うはずがないでしょう。体格と力に差がある分、私は不利。だかから、切られる前に懐に入って倒すしかないのですから。足腰だけは念入りに鍛えてありますよ。…次は誰が来ますか?」
いつのまにか当主と薫の間に何人かの男が立ちはだかっている。それを突破するのは無理だと判断したのだろう。刀を男たちに向ける。
「じゃあこちらから行き―! …いつの間に」
見れば、白い蛇が薫の足に巻きついている。しかも重いのか、薫は動くことができない。
「式神じゃ、修行を積んでいないお前には使えまい。…切れ」
当主の声に、三人の男たちが一斉に薫に切りかかる。だが、なぜか薫は微笑む。
「もういいよね。…自由になっても」
そして、刃が薫に振り下ろされた。
「止めろぉぉぉー!!!」
薫の視界は白く染まり、周りが見えなくなる。ただ、誰かが薫を抱きしめていた。
「もう、絶対に離さないからな」
「翔、ちゃん?」
薫の後ろから抱き締めていたのは翔真だった。そして視界を白く染めていたのは、実体化した翔真の翼だ。
「どうして、ここに? なんで…」
「俺は薫が巫女じゃなきゃ、神にならないよ。神じゃなきゃ側にいてくれないなら、薫を離さないために神になる」
翔真が翼をしまい、視界が戻る。見ると、側に女神と閻魔が立っていた。
「なぜ貴様らがここにいる? 冥界と天界の者がこの山に立ち入るなど」
「神の命令には逆らえんのでな」
「神に頭が上がらないのは貴方も同じでしょう」
「神は死んだ。まだ新しい神は居ないはずだが?」
当主の視線が翔真へ向く。
「なるほど、その若造が神の魂を持っているという例の」
「そういうことだ」
「それだけで言うことを聞くのか? 閻魔ともあろう者がこのような若造ごときの言うことを…おい若造、さっきその小娘が巫女でないなら神にならないと言っていたな。例えその小娘が巫女になっても、お前が神になれるとう保証がどこにある?」
「それは…」
【当主】「今まで神が亡くなったことは一度もない。だから我々にはどうなるか全くわからぬのが現状じゃ。それは天界や冥界にとっても同じこと。たかが魂を持っておるくらいで神になれる保証など何処にもない。貴様よりも強い力を持つ神童と言われる者なら世界中にいる。そいつらが神になる可能性だってある。神でもない分際で、貴様のような若造が巫女を選べると思うな!」
当主の言っていることに間違いはない。誰にも次の神はわからないのだ。ある一人を除いて。
「大丈夫。翔ちゃんは神様だよ。今はまだ、力が使えないだけ。私にはわかる」
「思いあがるな。巫女でないお前になぜわかる」
しかし、薫は微笑んだまま当主を見据える。
「私が純潔を失っても、巫女でいられるからよ」
「! 巫女の印を失ったと言うのは嘘か」
「消えてもいいと思っていたけど、消えてくれなかった。でも、それが答えよ。翔ちゃんはまだ力を使えないだけで、正真正銘の神様。私の巫女の印に誓います」
「その話は我々も聞いていないぞ」
「まあまあ。殿方と関係を持ったなんてそうそう他人に言えませんよ」
閻魔は少し戸惑い、女神は嬉しそうにしていた。
「だが、そのお前は巫女と呼べるような存在ではない。絶対的な確証になると言えるのか?」
突然、翔真は薫の前に立つ。それによって薫から当主は見えなくなる。
「俺が、神になれば問題ないんだろ? なってやるよ。何があっても神になってやる。だから、薫は渡さない!」
「仮に貴様が神になっても、そのできそこないの巫女では苦労するのは自分自身じゃぞ。お前にすべてを背負う覚悟があるのか? お前が神になるからには世界を納めなければならん。そんな役立たずの巫女でそれができるか?」
「俺は薫が側にいてくれるならそれでいい。苦労も苦悩も苦痛も、どんなときだって薫が側にいてくれたから、俺は乗り越えられた。俺は別に巫女なんていらない。巫女でなくていい、ただ薫が側にいてさえくれればそれでいいんだ」
「…私は、嫌だよ」
薫が翔真の背中に抱きつく。
「薫?」
【薫】「私は、巫女で居たいよ。だって、翔ちゃん(神様)との大切な繋がりだもん。…翔ちゃんの女になれたとき、私は巫女の力を失わなくて嬉しかった。だって、それは翔ちゃんが神様だって証になるし。神様である翔ちゃんだけが、巫女である私を好きにしていいってことだもん」
このとき翔真と薫の顔は赤くなっていた。今の状況を忘れているのだろうか。
「巫女と神が愛し合うなど、長い歴史の中では一度もなかった。…巫女は恋をしてはならぬというに」
「クスクス、恋っていいですね」
「笑ってる場合か? 完全に二人の世界に入っているぞ」
「でも、あの二人なら世界を変えてくれるかもしれませんよ。二度と、混沌の生まれない世界に」
呆れた顔で当主は女神と閻魔を見る。
「お前たちは本気でこんな軟弱者を神にするつもりか?」
「貴様が薫を見逃すというならな。あの子には逆らえん」
「確かに巫女としての力はほとんどないかもしれませんけど、おそらく私と閻魔と魔王の三人がかりでも、薫には勝てませんよ」
「三人がかりで勝てない? あんな姿を見てもそうは思えんが」
「四年前にカオスに取りつかれたルシファーを倒したのは彼女です」
「! あのルシファーをか?」
「今は『暗黒王サタン』と呼ばれているがな」
当主は再び翔真を見る。
「若造、一つ聞く」
当主の言葉に、翔真は我に返ったように当主を見る。
「薫を愛しても、いずれ別れは来るぞ。貴様が神になったとしても、薫は巫女で人間じゃからな。どんなに秘術や秘薬を使ったとしても、いずれは寿命で死ぬ。じゃが神となり、不老不死となった貴様は死ぬことはできない。今はいいが、いずれ後悔することになるだろう。巫女など愛さなければ、苦しむことも悲しむこともないのじゃから。それでも、貴様はいいのか?」
「それでも、失いたくない。薫じゃなきゃダメんだ。…薫のいない世界なんて、俺はいらない」
「…わかった。連れていけ。ここで天界と冥界を敵に回しても、意味がない。じゃが覚えておけ、巫女として未熟な薫はお前以外、お前が神になる以外守る方法はないということを」
当主の顔にもう怒りの色は見えない。そこにいたのは心優しき当主だった。そして翔真は自らの意思で翼を出し、薫を抱きかかえて飛び立っていく。
「結萌(ゆめ・先々代巫女の名前)、お前の“予知”は当たっていたよ。確かにあの神なら世界を変えてくれるかもしれん。…わしはもう、頑張らなくていいんだな」
先々代の巫女の力は『予知』であり、天界に行く前に当主のために見た予知夢があった。『あなたはいずれ当主になり、辛くても頑張って努めていました。しばらくして、神がお亡くなりになります。そして次の神が、きっとあなたを救ってくださいます。それまで、何があっても頑張ってください』その記憶は薫にはない。先々代巫女が残さないように魂から記憶を消したのだ。巫女にも知られたくない記憶があるということである。それを知らず、現巫女と次期神は空へと舞い上がって行く。
薫をお姫様抱っこしながら飛ぶ俺の少し後ろを女神が飛び、その少し下を閻魔が跳んでいた。
「俺さ、自分の意思で飛べるようになったよ」
白い翼を羽ばたかせ、薫を見つめる。
「薫に会いたいって思ったら、できるようになった」
「翔ちゃん…」
自分が今どんな顔をしているのだろう。俺の顔を見て、薫が視線を逸らしてしまう。
「俺ってダメだよな。気づいてやれなくてごめん。俺が側に居てくれっていったとき、確かに薫はいつも返事してなかった。でも、それに気付けなかった。大丈夫だって過信してた」
「ううん、悪いのは私の方だよ。翔ちゃんはちゃんと言ってくれたのに、ちゃんと答えなかったんだもん。さよならも言わないで居なくなろうとしっちゃったし。本当は、来てほしくなかった。翔ちゃんと居ると決心が鈍っちゃうから。…翔ちゃんのためにならどんな覚悟もあったけど、女として生きられるようになって、私は怖くなっていったから…死ぬのが怖い。男に戻るのは嫌。翔ちゃんと離れたくないって、私はどんどん弱くなっていった。私は強くないと翔ちゃんを守れないのに、この姿だとどんどん弱くなっていく。覚悟ができないの。怖くてたまらなくなるの」
前に薫を抱きしめた時も、薫は震えていた。いつも明るくふるまっているが、これが本当の薫なのだろう。いろいろなものに押しつぶされそうになりながら、がんばっている。そんな姿を、もう見たくなかった。
「薫、もう闘わなくていい。…いや、もう二度と戦うな。いろいろ背負いこんで一人で耐えるのもなし。これからは、一人の女の子として生きていいんだ。力は封じられてるんでしょ? じゃあそのままでいいじゃん。そのまま、俺が神になれるまで一人の女の子として生きて。俺が神になったら薫を守るから」
でも、また薫は返事をしてくれない。
「翔ちゃんが『自由に生きていい』って言ってくれたとき、それを夢見たわ。でも翔ちゃんがそう言ってくれなかったら、私は親を見捨ててずっと側に居たと思う。でも翔ちゃんが自由に生きていいって言ってくれたから、私は親を選んだ。今まで、何も親孝行してあげられなかった。おじい様には、親のためじゃないって言ったけど、全部嘘。私は両親を逃がす時間稼ぎに姫巫女の本家に行ったの。親には全部話しておいたから。親には『止めてくれ!』って言われたけど。私のことは忘れた方が良かったのよ。例え生き延びても、姿を変えて翔ちゃんの近くに居ても気づかれないように生きるつもりだった。…だって、私は何度も翔ちゃんのこと裏切ったんだよ」
いつの間にか、薫の頬には涙が伝う。なぜ、いつも薫を泣かせてしまうのだろう。女になってから、笑顔よりも泣き顔の方を多く見ている気がする。
「この先、私は何度も翔ちゃんを裏切る。側に居てくれって言われても、戦うなって言われても、きっと破ってしまう。その度に、翔ちゃんを悲しませてしまう。だから嫌なの。これで最後にしたかった。私が天界でなんて呼ばれてるか知ってる? 『闇の巫女』よ。歴代もっとも汚れた巫女。当然よ。だって、私の心はこんなに醜い。私の精神は狂ってる。ちゃんと、自覚してる。だから怖いの」
「それでも、俺は側にいて欲しい。薫に側にいて欲しいんだ」
「でも、翔ちゃんを苦しめるだけなんだよ」
「苦しんでるのは、薫の方だろ」
「…………」
薫は黙り込んでしまう。その時、薫が作っている壁にヒビが入った気がした。
「もう、頑張らなくていい。後は女神と閻魔に頼んだんだろ? じゃあもう薫が戦う必要はなくなったじゃん。薫は一人じゃないんだ。周りを頼っていいんだそれに言ったよな。『絶対に離さない』って…今日は、ちゃんと返事をもらえるまで、放すつもりはないからな」
薫を抱きしめる手に、力を込めて抱き寄せる。
「これからも、ずっと俺の側に居て。戦わなくていいし、無理もしなくていい。もっと、我がままになってよ。俺にできることなら何でもしてやるから。俺は姫巫女 薫を、一人の女性として愛してる。薫が居てくれるなら、俺は何でもできる気がする」
突然のことに薫は戸惑っている。不謹慎だが、その顔を可愛いと思って見つめてしまう。
「絶対後悔するよ。私は、印を持ってるだけで巫女じゃないし、麗ちゃんみたいに美人じゃないし、胸も大きくないし…男の人格もあるし。翔ちゃんに隠してることだってまだたくさんあるし」
「それでもいい。それでも、薫が好きだ。絶対後悔しない。それに俺は薫を幸せにしたい。手紙に書いてあったよな『私では、翔ちゃんを幸せに出できない。私は幸せになれても、私はきっとまた翔ちゃんを悲しませてしまう』って。それってさ、俺は薫を幸せにしてやれるってことだろう。それで十分、俺は幸せだよ。薫の幸せが、俺の幸せだから。だから、薫が不幸になったら俺も不幸になる。…俺を想ってくれるなら、幸せになってよ」
「でも―」
「もう一度言う。これからもずっと、俺の側に居て」
強気な俺の言葉に観念したのか、薫は話すのを止める。
「…はい、神様のいうとおりに」
そう微笑む薫から、もう壁のようなものは感じなくなっていた。体の震えも消えている。
「私も、愛しています」
お互いに頬を染めながら、学園へ向かう。このとき俺は、薫がやっと心を開いてくれてうれしかった。この先何があってもずっと側にいると、心の奥で誓いながら。
………
……
…
学園が見えたとき、急に薫の顔が険しくなった。俺も、何か嫌な予感を感じる。女神と閻魔も何かを感じているようだ。
「私は先に行く」
そう言い残して、閻魔は残像を残して姿を消す。人の目には追えない速度だということだろう。
「急ぎましょう」
女神に急かされ、俺も速度を速めた。
「薫、学園で何かあったのかな?」
「わからない。力が封印されてなければ眼を使って見れるけど。…でも、カオスの狂気を感じる」
「それって―」
「飛ぶのに集中して!」
取り乱したことにより飛行速度が落ちたので、薫に怒られてしまう。とりあえず飛ぶのに集中するが、麗華のことが心配でうまく集中できない。
「麗ちゃん、無事でいて」
学園の近くまで来たが、結界が張られているので中の様子が分からない。
「結界を開きますから、そのまま学園内に入ってください」
先ほどから前を飛んでいた女神の後ろに続いて学園の敷地内に入る。
「そんな…」
「酷い」
「なんだよ。これ」
目の前には廃墟と化した学園の姿ある。生徒も教師も誰もいないようだ。女神は高等部の校舎に向かったので後を追う。高等部の校舎の前に学園にいるすべての教師がいるのではないかというほどの人数が倒れていた。
「大丈夫か!? しっかりしろ!」
「閻魔様、申し訳…ゴフッ!」
閻魔に抱きかかえられている教員は吐血している。それでも何とか話そうとしているようだ。
「二時間ほど前に、サタンが、300人近くの天使や死神、悪魔の軍勢を従えて、学園に乗り込んで、来ました。生徒会の者に、生徒の非難をさせ、我々は抗戦、しましたが、この有様で」
「なぜだ。私が学園を出てから三時間ほどしか経っていない。そんな簡単にこの学園の結界が破られるはずが」
「愛が、内側から結界を…。何かされていたようで、まるで別人のように人格が変わっていました。さすがに愛とサタン相手に我々ではまったく歯がたたず。奴らは魔神の魂を持つ生徒をつれて、魔界に向かいました」
「奴め、本体の封印を解くつもりか」
「お急ぎを。希美子と魔界の姫が、応急措置だけ済ませて魔界に向かってしまいました。あの二人は最後まで魔神の警護をしていて、責任を感じていまして。二人とも、本当は動けるような体ではないのに― ゴホッ!」
「もういい。喋るな」
閻魔は立ち上がってこちらに近づいてくる。
「急いで魔界に向かう。いくら奴でもそう簡単に封印を解けんと思うが、問題は愛まで敵に付いているということだ。あいつに勝てる死神はいないからな」
「私は皆の応急処置を済ませてから向かいます。生徒の安全も確認しなくてはなりませんから」
「急いで頼むぞ。狂気を纏ったサタンを相手にするには、私と魔王だけではきついのでな」
「俺も行きます。何ができるか分からないけど。でもじっとしてられない」
「そのつもりだ。もしもの時は神の力を頼らねばならん」
「…あの、私は」
閻魔の口調は変わっていた。そしていつもの薫なら間違いなく一番に魔界へと向かっただろう。だが力を封じられている今の薫では何もできない。
「お前は残れ。後のことは我々に任せて、学園で大人しくしているんだ」
「私が魔界に向かった後、生徒会副会長として生徒の警護に当たってください」
「…………」
つまり、薫は戦うなということだ。確かに力のない薫は戦場では何もできない。
「…翔ちゃん」
それでも行きたいと、眼で訴えかけてくる薫。
「薫はここに居て。絶対に麗華を連れて帰ってくるから」
「でも―」
「薫はもう戦わなくていいんだ!」
怒鳴るつもりはなかったが、声を荒げてしまう。それで諦めてくれたのか、薫は顔を伏せた。
「行くぞ」
「はい」
「…いってらっしゃい」
薫の笑顔に見送られ、俺は閻魔の後に続いて学園の敷地内の奥にある建物へと向かう。
学園の一番奥にある建物。一度も入ったことのなかったその建物は教師専用の寮になっている。ほとんどの教師はこの寮で生活しているのだ。
「奥だ。進め」
その寮の奥へと向かっていく。学生の寮と同じで設備や掃除は行き届いていた。
「ここだ」
「…ここって?」
目の前には窓があるだけだ。ただ、なぜかこの辺は掃除をしていないようで、あちこち汚れている。窓からは学園がよく見える。
「説明している暇はない。行くぞ」
そして閻魔は窓を開けて外へと飛び出す。
「え…、これって」
開かれた窓の外は、別な景色が見えた。緑の草原と青空が広がる草原だ。
「ここが、魔界?」
恐る恐る窓の外に出てみると、見渡す限りの草原と、遥か遠くに山々が連なっているのが見えるだけである。
「驚くのもわかるが時間がない。こっちだ」
「待ってください!」
閻魔の走る速度は速く、とても足では追い付けないので翼を広げて飛ぶことにした。
「あの山の向こうに18年前にカオスを封じた場所がある。おそらくどこかの入口からサタンは魔界に来ているはずだ」
「入口っていくつもあるんですか?」
「ある。その気になれば増やすこともできるしな。だからどこから来るかは予想できんのだ」
閻魔は急ぎながらも辺りを見渡す。
「綺麗になったものだ。200年前、魔界は荒野と黒雲が広がるだけの世界だった。それが、魔神が変わってから綺麗になったのだ。それを18年前に魔界でカオスと戦い、再び荒野の世界が広がった。それがここまでになったのだ。もしまたカオスが目覚めたなら、この大地は再び荒野になりはてる。もしかしたら、人間界も天界、冥界ですらも」
閻魔も、長い間生きている。それによっていろいろな物を見てきて、いろいろなことを思ったのだろう。人の一生では計り知れないほどの年月を。
「あれはなんだ?」
先ほどよりも閻魔の顔が険しくなる。その視線の先には山があり、その山の向こうに煙が見える。
「翼を出したままでいろ」
「え? まさか」
すると閻魔は俺の腕を掴んで、跳んだ。周囲の景色が早送りで過ぎ去る。しかし、薫で慣れたからか割と平気だ。むしろ、薫の方が早かった気がする。そして山の頂上近くで空高く跳びあがった。
「まずいな」
さっき教師が言っていた操られている300人の軍勢は離れたところで鎧を纏った天使や死神、悪魔たちと戦っている。だが、山のふもとあたりに愛が知らない男と並んで立っている。おそらくサタンだろう。そしてサタンは麗華を背負っている。そしてその二人と向き合うような形で希美子とキスマ、そして2メートルはある大男が対じしていた。閻魔はその大男の近くに着地する。
「遅かったな。ったく、面倒事を持ち込みやがって。お前と女神がいてなんでこうなんだよ。しかも人間界にはあの巫女がいたろ」
「こちらもいろいろあったのだ。巫女は今力を封じられていて戦えん。戦わせるつもりもないがな」
「そんなこと言ってる場合か? てめーんとこの最強の死神だっていんだぞ。確かに巫女のことは娘から聞いちゃいるが、自業自得だろう」
しかし、閻魔は魔王の話が聞こえて居ないように無視する。
「愛、何があった? お前ほどの者がなぜ」
「…………」
しかし、愛は何も答える様子はない。
「無駄だ。彼女には私の中にあるカオス(残留思念)の力を分け与えた。その結果か彼女の中にもう一つの人格が生まれたのだ」
「サタン、貴様はここにおしゃべりに来たのか?」
「会長…」
「お前など居なければ」
いきなり愛は俺を睨んできた。その眼は憎しみに染まっている。
「薫から笑顔を奪ったのも、薫が孤独になったのも、すべてお前という存在があったからだ。お前さえいなければ、あの子は」
あの子とは、おそらく薫の事だろう。薫の事で何度か愛に睨まれた。しかし、憎悪はその時の比ではない。
「ククク、死神といえど元は人間。彼女は簡単に闇に染まったぞ。神を恨んむ死神というのは滑稽だな」
「愛…そこまで薫の事を。お前にまかせっきりで、苦労をかけてしまったな」
「サタン、さっさとカオスを復活させろ。ここは私がやる。…早く、神の世界を終わらせよう。そうすれば、薫はあの頃に戻ってくれる」
愛は鎌を構え、いつでも攻められる体勢をとる。
「魔王、どうする? 愛はカオスの力で私に等しいかそれ以上の力を持っているだろうからな。サタン一人相手にするのも苦労するが」
「俺がサタンを抑えてやるから、てめーはさっさと自分の部下を何とかしやがれ」
「閻魔様相手でも容赦はしない。このような者を神にしようなど、巫女の犠牲の上で成り立つ神など、消えたほうがいい」
「それを望んだのは薫自身だ。それを忘れた訳ではあるまい。薫を娘のように想っているのは知っていた。だが、こんなことを薫が望んでいないのも分かっているはずだ」
「薫ならわかってくれる。本当の薫は純粋無垢ないい子だ。神さえいなくなれば、あの子も目を覚ますはずだ。…だから、邪魔するなら誰であろうと排除する」
そして、愛は閻魔に向かって一直線に突っ込む。閻魔は白い大剣を右手に出現させて、愛の一閃を受ける。
「ならば、この断罪の剣で貴様の醜きその心を断ち切ることにしよう」
閻魔も本気になったようで。二人は黒いオーラを出しながら切りあう。
「そんじゃ、悪いけどその子渡してもらおうか。次期魔神てことは、この魔界を
納める大事な方なんでね。カオス復活の人柱にはさせられない」
「もう遅い」
すると、サタンの体が急に透け出す。
「まさか!」
魔王が振り向く。その先には祭壇があり、その中心に麗華は寝かされている。横にいるサタンは何かを待っているようだ。
「ククク、話に気を取られて気付かないとはな。仕込む時間は十分にあった」
周囲には結界のようなものが張られている。
「散りなさい」
上空から声が聞こえ、刹那に白い雨が降り出す。しかし、体は濡れていない。
「ああぁぁぁー!!」
だが愛が悲鳴を上げる。すると、体を覆っていた黒いオーラが消えてく。
「女神か。癒しの力が浄化の域まで来ているようだな」
愛はその場に倒れ、その近くに女神が舞い降りる。
「あの結界は癒しの力も遮断するようですね」
「そのようだな。だが助かった。正直、愛の相手は大変でな。この子にはいずれ私の後を継いでもらうつもりでいるから、傷つけたくなった」
すると、祭壇の空間に亀裂が入り、そこから黒いオーラがあふれ出す。
「どうする? もう手遅れだぞ」
「我々で何とかするしかないでしょう。それに、神が亡くなられてからの18年間、何もしていなかったわけではないですから」
「サタンを倒して、再びカオスには空間の狭間で大人いしくしていてもらうとしよう」
亀裂は広がり、崩れ落ちる。そして黒い穴ができた。そこからあふれ出してくるオーラはサタンの体に入っていく。
「私を倒すだと、本気で言っているのか?」
サタンの口調は変わり、カオスに乗っ取られたようだ。
「サタンめ、乗っ取られたか」
「まずは祭壇から引き離すとしよう」
結界が消え、カオスが閻魔達を見下す。
「私は魔神を見ます」
すると魔王と閻魔の姿は消え、刹那にカオスの近くに現れる。そして魔王が勢いをつけた拳でカオスを吹っ飛ばす。
「ほお、昔よりは強くなっているようだな」
しかしカオスは平然としている。
「麗華さんの所に行きますよ」
女神は俺の手を取り、祭壇へと向かう。祭壇で横になっている麗華は弱っているように見える。
「覚醒していないのに、力を無理やり引き出されたのですね。大量の力を失っています。状態的には大量出血に近い状況です」
「それって、まずいんじゃ」
「そうですね。急いで応急措置をします。あなたの力を分け与えますが、よろしいですね?」
俺が頷くのを見て、女神は俺と麗華の手を重ねる。とたんに体から力が抜けていくような気がした。
「とりあえずはこれでいいでしょう。では私も戦いに向かいますので。…希美子、二人を頼みますよ」
「はい」
近くに立っていた希美子の返事を聞くと女神は翼を広げて閻魔たちの方へ向かう。
「もう、私たちにできることってないのかな?」
「信じましょう。…私は愛を連れてきます」
祭壇に結界を張り、希美子は倒れている愛の元へ向かう。あそこに寝かせておくよりは祭壇に運んだほうが安全だからだろう。
「麗姉、ごめんね。俺が女神と閻魔を連れ出したからこんなことに」
「翔真は悪くないよ。誰も悪くなんかない」
だが、キスマは悔しそうに閻魔たちの戦いを見ている。しかし戦況はわかりきっていた。カオスはいくら攻撃されても傷一つ付いていない。だが、カオスの攻撃に閻魔たちはすでにボロボロだ。
「勝てるはずがないよ。だってカオスは神様と魔神様が、命を賭してやっと封印できた存在。いくらあの三人でも神様の力には及ばないんだもん」
キスマはそう言うが、今の俺には空を飛ぶくらいの力しかない。麗華だって目覚めない。どうしたら神の力が使えるのかわからない今の俺に、世界は守れない。
「それでも、信じるしかありません。私たちは、女神様たちより弱いのですから」
愛を背負って希美子が祭壇に上がる。
「…ここは、魔界か? なぜこのようなところに」
その時、愛は目を覚ました。人格が変わっている時の記憶はないようだ。
「…! なぜカオスが目覚めている」
向こうの方で戦っているカオスの姿を見て、愛は驚愕している。その件に自分も加担していたと知ったら、ショックは大きいだろう。
「この程度か。もう飽きた…全員消し飛べ」
カオスは立ち止まり、オーラを一点に集めている。
「伏せて!!」
希美子が俺と麗華を庇うように覆いかぶさる。すると、辺りが暗闇に染まる。轟音が聞こえ、そのあと急に静かになった。
「希美子先生?」
気づけば、希美子は気を失っているようで反応がない。周囲に光が戻ったので、希美子を床に寝せる。
「これって…」
視界に映ったのは、荒野と化した背景だった。希美子の翼もボロボロになっており、近くにキスマと愛も倒れている。
「ほう。あれをくらって無傷とはな。頑丈な結界といい。そこ女、将来は女神になれたかもな」
その荒野の中心に、カオスは立っていた。近くには閻魔たちが倒れている。
「所詮はこの程度。私こそ真の神なのだ」
「お前のどこが神なんだ!」
しかし、カオスは俺を見て嘲笑う。
「何も知らぬ神よ。お前もかつては私と同じだったというに」
「…同じ?」
「…神は、一度すべて滅ぼしてから世界を創りかえる。それが私という存在だ。私はこの世界を壊し、新たな世界を創る。貴様たち人間もそうして生まれた。前の神は獣の姿をしていた。だが獣の神が作った世界は、滅ぼされた。貴様の前の神によってな。そして、人類が生まれた。天界や冥界、死神も天使も、そうして生まれた。それがこの世界の現実だ。私のような存在は、世界が生み出す。世界は、地球という星の苦しみや憎しみに悲しんでいる。それは人類が、地球を傷つけているからだ。海を汚し、空を汚し、大地を汚し、それだけでなく他の生物をも傷つける。それに、人間は傷つけ合う。肌の色など、自分たちと違うだけで差別が生まれる。それに、世界は耐えきれなくなった。一度は、その世界を何とかしようと、魔神を生み出した。魔神は冥界を創り、人類を何とかしようとした。しかし魔神は、役目を果たさなかった。人の姿にしたのが間違いだったのだ。神に恋をするなどという愚かなことをした。だから私が生み出されたのだ。私は実体をもたない。世界に満ちる悲しみや憎悪を元につくられたのだ。そして、それが私の創る世界。皆が実体をもたない精神だけの世界。そこには差別も争いもない。精神だけでは争いようがないからな。その為には、この世界のすべてを消し去る必要がある」
そしてカオスはオーラを一点に集めて黒い球体を作る。
「神と魔神さえいなくなれば、もう恐れるものなど何もない。この世界が消えゆくさまを見せてやりたいが、力に目覚められても邪魔なだけだ。だが安心しろ。どちらにしろ、全て消えゆくのだからな」
「お前の創る世界に、幸せはあるのか? 精神だけで、いったい何ができる?」
「何もする必要はない。ただ存在するだけだ。だがそこは差別も争いもない。平和な世界であることは間違いない。それに、私の世界が間違っているなら、世界がまた新しい神を生み出して、私の世界を消し去るだけ。世界はそうして、何度も入れ替わってきた。その繰り返しがこれからも続いていく。そして自然界と同じで弱肉強食、生き残った者が神だ。ここでお前を消して、私は新たな創造神となる。さらばだ。古き神よ」
そして、カオスの創りだした球体すごい勢いで迫ってくる。とても避けられる速度ではない。仮に避けられたとしても、麗華たちはただでは済まない。俺は覚悟した。もうダメなんだと。
(結局、何もできなかったな。…このまま、何もできないで)
それが絶望というやつなのだろうか。悔しいのに、その悔しさがかき消されてしまいそうな無気力感が湧いてくる。
「薫、ごめんね。俺は何もできなかったよ」
眼を閉じると、薫の姿が浮かんだ。こんな状況なのに、薫の存在が愛おしい。
「翔ちゃんが謝ることなんて、何もないよ。…謝るのは、私の方だから」
「え…」
眼を開くと、そこには翼を広げた巫女服の少女が立っていた。
「また、約束破っちゃった」
「薫、どうやって」
よく見ると、薫の姿はボロボロだ。あちこちに血がにじんでいる。それに、額の呪は跡形もない。
「まさかあの力を防ぐとは、あの翼の加護は女神を超えているのか」
カオスの方は、薫の登場に喜んでいるようだ。
「まさか、無理やり封印を解いたのか?」
「だって…私が来なかったら、大切な人たちを失うところだったんだよ」
「それは…」
何も言い返せない。事実、いま薫が来なければどうなっていたか。
「きっと、これが私の運命なんだよ。どんなに辛くても、苦しくても、私はみんなを守りたい。もう誰も、失いたくないの」
そして、薫はカオスの方を向く。
「お願いだから心配しないで。翔ちゃん(神様)が信じてくれるなら、私(巫女)は誰にも負けないから」
そして、眼の前から薫の姿が消える。
「面白い。翼と鎌を持つ巫女とは、人間ごときがどこまで足掻くのか見せてもらおう」
「私は、あなたを許さない」
薫の動きは早くて、目で追うことができない。カオスも同じなのか、その場に立ち尽くしている。
「いきます」
刹那、薫がカオスの背後に現れ、鎌を振り下ろす。
「やはりな」
しかしカオスはそれをかわし、薫に至近距離から黒い球体をぶつける。薫は翼でガードしたが、百メートル以上吹っ飛ぶ。
「お前は確かに早い。力もある。だが、それはその翼だけで、貴様自身は所詮死神程度の力しかない。強いのが翼だけとは、がっかりだよ」
「なら、翼は脅威になるってことですか」
再び薫の姿が消える。
「何度やっても同じだ。次で終わらせて―!」
余裕な顔を話していたカオスの顔が曇る。よく見ると、首のあたりが切れて血が流れていた。
「その体を傷つけたくないのですけど、滅さないとあなたは出てきてくれないでしょう」
「小娘が、調子に乗りおって。もう容赦はせん」
姿を現せた薫は、鎌を“翼”で持っていた。翼手だからできることだろうが、確かに刃はカオスに届いたのだ。そして薫の姿はもうない。
「何度も同じ手が通じると思うな。…そこだ!」
カオスは左の方に踏み込む。そしてカオスが手を伸ばした刹那、カオスの目の前に薫が現れた。そしてカオスの左手には、振りおろそうとしていた鎌の先が掴まれている。
「そんな!」
「所詮は人間、追えぬ速度ではない」
しかし、両者は動こうとしない。カオスの左手は鎌を掴んでいるが、翼手の力が強いからか、動かすことができないようだ。右手は逆に翼手に掴まれている。
「力比べか。確かにこの翼は強いが、貴様程度の力で支えきれるかな」
「っ!」
よく見れば、薫の足は地面に沈み始めている。カオスの力に足場が耐えきれないのだろう。
「貴様の体はいつまでもつかな。そのような貧弱な肉体で」
カオスは勝機を掴んだと余裕の表情を見せる。しかし薫は苦しそうに顔を歪めながらも、カオスを見つめている。
「あなたは、寂しい人ですね。あなたには、心がない」
「何をバカなことを。私は憎しみや悲しみからできている。貴様ら人間の醜い心からな」
「そんなのは、心ではありません。それだけでは、心とは呼べない。…人は、憎しみがあるから誰かを愛することができます。悲しみがあるから、他人に優しくできるのです。あなたのは心ではない。負の心だけで、人は生きているわけではないのです」
「何を訳のわからぬことを。ならなぜ憎しみが世界に満ちる? なぜ悲しみが世界を覆う? それは負の心が強いからではないのか?」
「それでも、人は気付けば変わることができます。今、人間界では『エコ』という言葉が生まれました。自然を守ろう、星を守ろうと人々が思うようになったからです。そうやって、気付けば変われると私は信じています」
「もう遅い。いくら人が変わろうと、また繰り返す。歴史が物語っているではないか。人はこの先、どれだけ年月がたとうと争いをやめることをしない。世界はそう判断したから私を生み出した。それが世界の答えなのだ!」
カオスの纏っているオーラが強くなり、薫はさらに辛そうな顔になる。
「させません。私は、信じているから。だって、私は変われました。変えてくれた大切な人が居るから。支えてくれている人がいて、守りたい人たちが居る。私は、もう一人じゃない。…私は一人で戦っている訳じゃない」
すると、薫の額が光りだす。
「私を想ってくれる人が居る限り、私を愛してくれる人が居る限り、私は世界になんて負けない」
そして薫の背中から四つの翼が生え、鎌の形状が剣に変わる。
「バカな。六翼だと…しかもその剣の波動は、閻魔の断罪の剣と同じ。人間ごときが、人の領域を超えたというのか!」
「あなたがこの世界を滅ぼすと言うなら、私はあなたを倒して守ります」
翼手の力が増しているのか、カオスの手を振りほどいて薫は姿を消す。
「バカな…早すぎる。動きが読め―!」
するとカオスの体は中に浮く。
「攻撃も早すぎる。ガードが追い付かない」
そのまま空中で体が九の字に折れ曲がるなど、一方的に薫の攻撃を受けている。
「ククク、だが私は痛くも痒くもないぞ。肉体がダメージを受けようが―」
「そんなことわかっていますよ」
カオスの前に姿を現した薫は、四つの翼でそれぞれカオスの手足を掴む。
「今の攻撃はあなたを抑えるのに、動かれると面倒だからです。肉体にダメージを与えれば、肉体の動きは鈍りますから」
確かに力が入らないのか、翼手の力に負けて動けないようだ。
「わかっているなら無駄なことだ。肉体を失っても私は死なん。そこら辺にある肉体を乗っ取ればいいだけだからな」
「確かに、私にはあなたを倒す力はありません。…でも、あなたの力ならどうでしょうね」
「小娘、何をするつもりだ?」
すると、薫の左手がカオスの体に触れる。
「私の巫女の力を使わせてもらいます」
「何だ!? ち、力が抜けていく」
カオスの纏う黒いオーラが、左手から薫の中へと入っていく。
「まさか、私の力を取り込んでいるのか!」
状況を理解したのか、カオスが初めて表情を歪ませる。
「止めんかぁぁー!」
カオスの体からオーラが噴き出すように爆破する。しかし爆破の直前に薫の姿は消えた。
「クソッ。人間ごときがこの私の力を。…だが、貴様も無事ではあるまい。私の力は人間にとっては毒と同じ。強すぎる狂気に発狂して死ぬだけだ。仮に平気だったとしても、私の力を一割程度奪ったところで、何も変わらん」
「これ以上は吸収しませんよ。闇の巫女と言われている私でも、これ以上は体がもちませんから。…それに私の吸収の能力は相手の力を奪うだけではありません。奪った力を取り込んで自分のものとします」
カオスの前に立つ薫。爆発のダメージはないようだ。
「私はかつて、数十人の天使と死神の力を自分の中に取り込み、天死神という新しい力として手にしました。そして今あなたから奪った混沌の力。それと天死神の力が混ざり合ったらそうなると思います? 残念ながら、私にはどうなるかわからない。下手をすれば、私は第二のカオスとなるかもしれません」
「なら、なぜ私の力を奪った? 他人の力を吸い取れるなら、後ろでただ見ているだけの役立たずな神から力を奪った方が確実であろう」
カオスはこちらに視線を向ける。確かに、役立たずなのは事実だ。
「私は巫女だから、神様から力を奪うなんてことできませんよ。それに翔ちゃんから神の力が消えてしまったら、私は大切な繋がりを失ってしまいます。それに、私は心配していませんから。翔ちゃんが近くに居てくれる。それだけで私は何でもできる気がするんです。だから、あなたに負ける気がしない」
薫の体から黒いオーラがあふれ出し、それが全身を包んでいく。
「ククク、抑えきれてないようだな。そのまま狂気にのまれてしまえ。所詮、人間ごときが私の力を扱うなど不可能だったんだ」
黒いオーラに包まれ、薫の姿は見えなくなる。
「薫ぅ―!!」
闇に包まれ、薫がどうなっているのかわからない。もしかしたら本当に、第二のカオスに変わってしまうかもしれないとう恐怖襲う。
(大丈夫だよ、翔ちゃん。私は、闇なんかに負けない。翔ちゃんが、私に光をくれたから)
しかし、頭の中に優しい薫の声が響く。
「バカな。狂気が消えていく」
その時、カオスが薫を包むオーラを見て身を震わせていた。なぜなら、オーラが白く輝きだしたのだ。
「あなたに感謝します。私はあなたのおかげで、“神”になれました」
オーラが消えた時、現れた薫の姿は変わっていた。傷が癒え、服も変わっている。そして翼手の後ろに、光の翼と光も輪があるのだ。
「バカな! 後光輪だと。なぜ人間ごときが、神の証たる後光輪を」
カオスは驚愕し、その場に立ち尽くして動かず。対して、薫の姿はとても神々しい。
「この力なら、あなたを倒すことができます」
そして薫の前に光る十字架のようなものが現れた。
「それが貴様の神剣が。本当に、人間が神になったというのか」
「あなたは人をどこまで見下しているのです。人は、あなたが思うほど愚かではありません。人にはまだ可能性があります。そして翔ちゃんなら、きっと人を導ける。世界が認めてくれる世界を創ってくれる。私は、そう信じてる!」
そして薫は神剣とる。だが、その瞬間薫の姿は消えた。
「バカな。…私が知覚できない速度だと。貴様、光速を超えたのか」
見れば、カオスの前に薫が立ち。神剣を突き刺している。
「しかも、なぜ私に直接ダメージが」
「私の神剣は百八つあると言われる巫女の力を扱えます。今はあなたにダメージを与えられているために『干渉』と『浄化』の力を使っているから。それによって精神体であるあなただけを滅することができます」
「まさか、本当にこの私が…世界は、貴様ら人間を選んだというのか。それが世界の答えだというのか」
カオスの纏う黒いオーラが弱まっていく。薫の神剣はまだ力を発揮し続けているようだ。
「クソッ!」
「無駄です。逃げられないように『束縛』の力も発動させました。あなたはもう、消滅するのを待つだけです」
「クク、クハハハ。確かに、力がどんどん失われていく。憎しみが、悲しみが晴れていく。もう私は神になれぬようだな。だが、ただでやられるつもりは、ない!」
するとカオスは黒い球体を作り、こちらに飛ばしてきた。
「翔ちゃん!」
薫は神剣を放し、俺の前に一瞬で飛んできた。
「伏せて!」
だが、球体は俺たちの上を通り過ぎて行った。
「あれ?」
カオスには狙いを定める力は残っていなかったのだろう。俺と薫は安堵のため息をつく。
「ククク、クハハハ! ハハハハハ!」
しかし、カオスの歓喜に近い笑い声が辺りに響き渡る。
「私の勝ちだな。今さらそんなできそこないの神に用はないは。私の狙いは、貴様らの後ろだ!」
カオスの言葉に、俺と薫は慌てて後ろを見た。そこにはカオスが封じられていた空間の穴がある。
「ゴゴゴゴゴゴ」
急に地面が唸り、揺れだす。
「カオス、あなたいったい何を?」
「ククク、その空間の穴をよく見てみろ」
「…薫、さっきより大きくなってないか?」
よく見ると、空間に空いた穴は少しずつ広がり始めていた。
「あなたまさか!」
「そうだ。本当は自ら手を下したかったが。どうせ私はこのまま消えるだけ。ならばせめて、この世界が消滅する序章を見させてもらうぞ」
「消滅って、なんで?」
「このまま空間が広がれば、世界が飲み込まれてしまうの。それは魔界だけではなく、天界や冥界、人間界も全て飲み込んでしまう。そして4つの世界の隔たりがなくなり、本来交わることのない4つの世界が一つの空間に閉じ込められる。そうなったら、おそらくすべての世界は交わらずに消滅してしまう」
「そうだ。そしてこの世はなかったことになる。何、いずれは世界が新たな神を生み出して、そいつが新しい世界を築くさ」
「そんな!」
すると薫は立ち上がり、祭壇の奥に向かう。そこにはすでに広がった空間の穴がある。
「何をするつもりだ? 世界の崩壊はもう誰にも止められん」
「止めて見せますよ。今の私は、神の力を持っていますから」
そして薫は、両手を空間の穴に入れる。
「まさか、空間を吸収するつもりか!」
「私に神剣を抜かせるのが、あなたの狙いでしょう? 神剣なければ、私は百八つの巫女の力は使えませんから。神剣のない私が使える力は吸収だけ。そして神剣が抜かれればあなたは逃げることができる。そして世界が崩壊しても、実体のないあなたは生き残る。そしてそこで神として世界を創造できる。例え私が世界の崩壊を止めても、逃げられれば力をつけてから私達を倒せばいい。あなたの好きにはさせませんよ。私はあなたをここで倒し、世界も守って見せます」
薫が吸収の力を使っているからか、空間の穴は少しずつ小さくなっていく。
「吸収の力で本当に世界を守れるのか? いくら神の力を身につけても、その空間すべてを取り込めるとは思えんが」
「取り込めませんよ。しばらくの間、とどめておければ十分です。この空間を吸収し、あなたの力の影響を消すことができればいいのですから」
しかし、少しずつ小さくなるスピードが落ちていく。そして薫は立っているのも辛そうなほど弱っていく。
「お願い。もう少しでいいの。保って、私の体」
今にも倒れてしまいそうな背中。その背中に俺ができることは一つしかない。
「…翔ちゃん?」
「俺が側に居る。だから大丈夫だ。俺が、支えてやる」
薫の小さな背中を倒れないように支えてやることしかできない。でも、支えることはできる。
「俺は薫を信じてる。薫なら、世界を守れるって信じてる」
「翔ちゃん…」
「一緒に、帰ろう」
俺の言葉に薫は微笑んでくれた。そして、薫の額の印が光、そこに赤い印が浮かぶ。そして、空間の穴は先ほどよりも早く小さくなっていく。
「どうやら、私の完敗のようだな」
そして、空間の穴は消滅した。カオスももう力が残ってないようで、抵抗する様子はない。
「やった。薫、これで終わったんだよな」
「うん。…今度こそ、本当に“お別れ“だね」
「え…」
それ以上言葉が出ない。薫の言葉の意味が理解できないからだ。
「薫、何言ってんだよ」
「ごめんなさい」
刹那、薫は俺の腕の中から消える。そしてほんの数メートル離れた所に現れた。
「あまり、長くは保てないから」
そう言う薫の後ろに、再び空間の穴が広がり始めた。よく見れば、それは薫の中から出てきているように見える。
「今の私は膨れ上がった風船と同じ。いつ破裂してもおかしくないの」
「それってどういう意味だよ?」
「私は空間を取り込んでないの。ただ、体内に留めているだけ。それももうすでに限界。見えるでしょ? 私を核に、少しずつ空間があふれ出してる。そして、私にはこの空間を制御することができない」
「それってどうなるんだよ?」
「その娘は空間の核となっている。つまり、その娘が空間の中心だ。空間が完全に体から抜け出し、制御できないとなれば、その娘は空間に吸い込まれ、二度と出ることはできない」
カオスは淡々と話しているが、つまり薫は空間に閉じ込められて出てこられないということだ。
「薫、嘘だろ? 嘘だって言ってくれよ!」
「私は、今まで翔ちゃんが傷つく嘘は言ったことないよ。カオスの言っていることは本当なの。…ごめんね。やっぱり翔ちゃんの側に居るって約束、守れないみたい」
「なんで、こんな時まで俺に気を使うんだ!」
薫の笑顔が痛い。本当は辛くて悲しくて、潰れてしまいそうになっているだろう。それでも、無理をして俺に笑顔を見せてくれる。その姿が、とても悔しい。
「お願いだから、笑顔で居させてよ。私は嫌だよ。翔ちゃんの記憶に残る私の最後の姿が、泣き顔なんて」
「俺には強がる必要なんかないだろ」
薫の頬を一筋の涙が流れる。
「だって、泣いたら何か変わるの? 泣いたら…翔ちゃんの側に居られるの?」
薫の眼からは涙があふれ出す。
「私だって、本当はずっと翔ちゃんの側に居たいよ。離れたくなんかない。やりたいことだって、もっともっとたくさんあるし、してほしいことだってある。…でも、望めば叶うの? 私は、もうすぐこの世界から居なくなるのに」
「薫…」
なんて言っていいかわからない。薫の言っていることは、間違っていないからだ。そして薫の眼からは止めどなく涙があふれていた。
「本当は、ウエディングドレス着たかったんだよ」
「それって?」
「私はずっと、翔ちゃんのお嫁さんになりたかった。自分が女だって知ってから、ずっと夢見てた」
薫は泣きながら笑顔を作る。俺はそれが耐えきれなくて、薫を抱きしめたくて薫ところへ向かって走る。
「駄目だよ。翔ちゃん」
しかし、ほんの数センチのところで、俺の手は見えない壁に阻まれる。
「俺も一緒に行く! 薫を一人になんてさせない」
「ありがとう。でも駄目だよ。翔ちゃんはこの世界に必要な人だから。ちゃんと立派な神様にならないといけないの。…翔ちゃんが創る世界見てみたかったな」
そのとき、空間が完全に開いた。
「もう、時間だね」
「行くな! 行くなら俺も連れてってくれよ」
薫の体は浮かびあがり、空間の中に吸い込まれていく。
「さようなら、翔ちゃん」
「薫ぅぅー!!」
薫を飲み込むと、空間は跡形もなく消えてしまう。
「行ったか。…私も逝くとしよう」
サタンを覆っていた黒いオーラは完全に消え去り、サタンはその場に倒れる。
「薫…」
そして俺は、女神たちが目覚めるまでの数時間、ずっと薫が消えた場所を見つめていた。
薫とカオスが消えてから、世界は平和を取り戻していた。操られていた者たちは正気を取り戻し、サタンも心優しい天使に戻ったという。学園も修理が終わり、すでに再開している。ほとんどの者は、カオスが消えたことを喜んでいた。
「…………」
しかし、俺は学園が再開しても薫の部屋に閉じこもっていた。薫が使っていた枕を抱いて、薫のことばかり考えている。閻魔と女神には何を話したか覚えてないが、薫やカオスのことに対して、聞かれた質問には答えたと思う。
「俺に、もっと力があれば…」
最初は虚無感しか感じなかったが、少しずつ負の心が湧きあがってきていた。薫に何もしてやれなかった己への怒り。カオスを生み出した人や世界への恨み。何より、薫を失った悲しみが。
「自分を責めるな」
いつの間にか入口の所に愛が立っていた。
「ほっといてくれ」
「そうはいかない。私はお前を何が何でも神にしなければならないからな」
「俺が神になる価値が、この世界にあるのか?」
薫を失って以来、俺の心は支えを失っている。
「お前は神にならなければならない。でないと、薫が浮かばれないんだ」
「その薫が居なくなったのは誰のせいだ!」
「…知らなかったとはいえ、カオスに加担したことは事実。お前が憎みたい気持ちはわかる。私の事を嫌っているのも承知している。…でも、お前が神にならなければ、薫の苦労は無駄になるんだ。なんで薫の心が歪んでいたかわかるか? 全部、一人で背負いこもうとしたり、無理をしたりしていたか。それはお前と麗華さんのせいだ。私は言ったぞ、全てお前のせいだと」
見れば、愛は怒りを堪えているのか、拳を強く握っている。
「私だってお前を恨んでいるさ。薫は、最初からああだった訳ではない。お前と麗華さんから負の心を吸収し始めてから、ああなった」
「それってどういう意味だ?」
「聞くが、お前は薫が居なくなる前に誰かに怒ったり恨んだりしたことがあるか?」
「…ないよ」
「それを疑問に感じたことはないのか? 人間、生きていれば怒ったり恨んだりするものだ」
「はっきり言えよ」
確かに薫が消える前に、誰かを怒ったり恨んだりした記憶はない。でも、今は深く考える余裕がなかった。
「お前が今のまま怒りや憎しみを持ち続けたら、お前の魂は汚れ、邪神となる。そしたらお前は二度と神にはなれなくなるんだ。そうしないために、薫はお前と麗華さんから怒りや恨みなどの負の感情を巫女の力を使って吸収していたのさ。自分の魂が汚れ、闇の巫女と呼ばれながらも、大好きなお前と麗華さんのために、あの子は自分を汚し続けてきたんだ。お前が邪神になったら、薫の苦労は水の泡になるんだ。だから、誰も恨んだりしないでくれ」
「全部、俺のせいか…」
知らないところで、薫はずっと俺と麗華を守っていてくれた。おそらく、側に居たら今も続けていたのだろう。
「なのに、俺はあいつに何もしてやれなかった…」
「薫のためを思うなら神になれ」
しかし、愛の言葉は届かない。届いていても、それは何事もなかったようにすり抜けていく。
「もう、限界だ」
すると愛は、近寄ってくるといきなり胸倉を掴んでくる。
「いい加減にしろ! お前しか、薫を迎えに行ける奴はいないんだ!」
「え?」
「この世界で空間を扱えるのは神だけだ。つまり、お前が神になれば、薫を助けられる可能性があるんだ。だから、頼むから神になってくれよ。薫を探してくれよ。お前にしかできないんだ。私だって、できるなら薫を助けたい。私の命と引き換えで薫が帰ってくるなら、喜んでささげるさ。でもできないんだ。いつもいつも、薫を救ってやれるのはお前だけなんだ。だから、立てよ」
愛の泣き顔を始めてみた気がした。前に閻魔は、愛が薫を娘のように可愛がっていたと言っていたのを思い出す。
「私は勧めぬよ」
今度は閻魔が入口の所に立っていた。
「確かに、神ならば空間を超え、薫を見つけだすことができるかも知れない。だが、絶対の保証があるわけではない。それに、仮に可能だとしてだ。できるようになるまでいったいどれほどの月日が必要になる? 力を使えるようになり、探しに行くのはいい。だが、空間は無限に存在する。そんな空間の中から薫を探し出せるのか? 宇宙に落とした指輪をさがすようなものだぞ。そして薫を見つけた時、薫が無事であるという保証がどこにある? 何もない虚無の空間の中を一人、永遠ともいえる歳月をさ迷って、薫が精神を保っていられると思うか? 精神が崩壊していたなら。それは生ける屍とおなじだ。何をしても答えてくれない人形。そんな薫を見つけて、お前たちはどうするつもりだ?」
閻魔の言うことはもっともだった。薫を助けられる保証はどこにもない。そして俺はズボンのポケットからあるものを取り出し、それを見つめる。
「それでも、可能性があるなら俺は探す。精神が崩壊していたとしても、薫をずっと一人にさせておくなんて俺にはできない」
俺が見つめていた物、それは薫にプレゼントした髪飾りだった。それから俺は神になるために必死に修業を積んむ。ただ、薫に会いたいがために。
無限に広がる暗闇の中、蛍のように淡く輝く光が見える。光を失いかけた後光輪だ。その光の下で、薫が翼に包まれるようにいる。いったいどれほどの月日がたったのかわからない。薫は気力を無くし、上も下も、右も左もわからない暗闇をさ迷い続けている。
「…………」
意識は薄れ、自我を失ってもおかしくない薫を繋ぎ止めていたのは、翔真の笑顔だった。自ら意識を断とうとしても、翔真の笑顔が脳裏に蘇り、眠らせてくれないのだ。
「いつまで抵抗すんだろう…。早く楽になりたいのに、どうして邪魔をするの」
自分に語りかけても、答えてくれるわけがない。
(……る)
ふと何かが聞こえたような気がした。だが空気も何も存在しないこの空間に、音や声が響くことはない。
「幻聴なんて久しぶりだな。それにこの声は…」
(…おる)
先ほどよりも声ははっきり聞こえる。その声がとても温かい。
(かおる)
その声は確かに自分を呼んでいる。
「…ここだよ。私はここにいるよ。…翔ちゃん」
聞こえるはずのない声。届くはずのない言葉。薫は自分の精神に限界を感じる。
「もうすぐ、楽になれるんだ。だって、こんなにはっきり翔ちゃんの声が聞こえるんだもん」
すると今度は、闇の彼方の遥か遠くに小さな星が見えた。小さいが、確かに輝いている。
「幻まで見えるなんて、本当に限界なんだね」
だがその星はどんどん大きくなっていく。
「幻でも、綺麗だな」
そして、薫は瞳を閉じる。
「薫、遅くなってごめん」
再び幻聴が聞こえた。今度はすぐ近くから。そして何かが頬に触れる。それがとても温かい。
「もう、放さないからな」
その声に薫は眼を開ける。そこには十翼と後光輪をもった翔真がいた。
「…神様になった翔ちゃんの夢は初めてだな」
「薫、迎えに来たよ」
「もう、いいよ」
しかし、薫は悲しそうな表情を浮かべる。
「もう何千、何万…どれくらい翔ちゃんの夢を見たかわからない。でも目が覚めるたびに、翔ちゃんがいないんだよ。だから、もう楽―」
翔真の唇が薫の口を塞ぎ、薫の言葉は遮られた。
「俺は夢じゃないよ。俺はちゃんとここにいる」
「本当に?」
薫は手を伸ばし、翔真の頬を撫でる。その温もりを感じ、薫の眼には涙が浮かぶ。
「ほんとに、翔ちゃんなんだね」
「当たり前だろ。もう、薫を一人になんてしないから。一緒に帰ろう」
翔真は薫を抱きしめる。その時、薫の眼からはすでに涙があふれていた。
「待たせてごめん。一人にさせてごめんね。もう絶対に、薫に辛い思いはさせないから」
「うっ…うん」
「これからは、俺が薫の側にいるから」
それからしばらく、薫は泣きつづけた。涙など、とうに枯れたと思っていたのに、涙はあふれつづけたのだ。
………
……
…
薫は泣きやんだが、翔真に抱きついたまま放れない。もちろん、それは俺も同じだ。
「落ち着いた?」
「うん」
少しだが、薫は元気になってくれたようだ。
「…私を探すのにどれくらいかかったの?」
薫は少し不安そうにしている。
「すぐだよ」
「え?」
俺の言葉に薫は首をかしげる。
「実は神になってすぐ、薫の居場所が分かったんだ。というか、この印が教えてくれた」
そして俺は薫の額にある巫女の印に触れる。
「この印が、薫はここにいるってずっと教えてくれたんだ。だから頑張れた。空間を超える力を手に入れるのに手間取ったけど、力が手に入ればすぐに薫を迎えに行けるってわかってたから」
【薫】「じゃあ…」
「薫が居なくなってから十年くらい経ってるけど、薫のおじさんとおばさんは元気にしてるよ。もちろんみんなも」
俺の言葉に安心したのか、薫が少し笑ってくれた。
「薫、ちょっと動かないでね」
「ん?」
薫は言われた通り黙っている。そして俺の髪にある物と付けた。
「これって…」
「やっぱり似合ってるよ」
それはイチゴの髪留めだ。もちろん、前に薫の誕生日に贈ったものである。
「そろそろ行こうか。みんな待ってるよ」
俺は薫を抱きよせ。翼を大きく広げる。すると後光輪が強い光を放つ。
「どうするの?」
「飛ぶんだよ。薫の神速を超えた神速で、空間を飛び越えるんだ。今の俺は速度だけなら、薫よりも上だから」
そして俺は前進を始め、少しずつ速度を上げていく。
「少しの間だけだけど、空間を飛び越えるときはいいものが見れるよ」
そして二人の眼には何とも言えない光の輝きが満ちる。
「わぁ…すごく綺麗」
「薫の方が綺麗だよ」
光の世界に見入っていた薫の頬が赤く染まる。
「もう一人でどこかに行かせたりしないからな。俺がずっと側にいる」
そう、薫がどこかに行ってしまうなら。俺がどこまでも追いかける。薫が側に居られないなら、俺が側にいる。今度は俺が薫に尽くす番なのだと、そう誓う。
人間界の小さな教会。そこで純白のドレスに身を包んだ少女がいる。その花嫁の隣には翔真の姿が。
「すごく綺麗だよ」
「そ、そうかな?」
不安そうながらも、薫の頬は真っ赤になっている。
「まだ不安なのか?」
「だって、翔ちゃんの好みは麗ちゃんみたいな人じゃない」
「好みなんて変わるよ。薫を好きになってから、薫が一番好きなんだから薫みたいに小さい子が好きになったんだよ」
「それじゃロリコンだよ」
「誰が何言っても気にしないよ。俺が愛してるのは、薫なんだから」
今度は顔を真っ赤にする薫。その姿を心の底から愛おしく思う。
「愛してるよ。薫」
「ちょ、翔ちゃ―」
薫に抵抗する間を与えずに唇を奪う。
「二人とも、式の前に何やってるのよ」
「だって姫が我がままなんだもん」
「姫って翔ちゃん!」
「もうすぐ時間なんだか、ちゃんと準備してね」
そういって麗華は行ってしまう。
「じゃあ行こうか。薫」
「うん」
こうして薫の望みは叶い。薫は翔真の花嫁になったのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今後はほかのヒロインも投稿していくつもりですので、
読んでいただけたら幸いです。




