海誓山盟
海誓山盟:固い誓い。男女の愛が永遠に変わらぬこと。
何故、出逢ってしまったんだろう。
この小さなコミュニティの中で、何故彼を瞳の中に捉えてしまったのだろう。
何故、私は彼を見つけてしまったんだろう。
何故、彼は私を見つけてしまったんだろう。
何故、彼だったんだろう。
何故、私は教師なんだろう。
何故、彼は私の生徒なんだろう。
幾度となく繰り返された『何故』は、答えのないものばかりだった。
どんなに嘆こうと、どんなに叫ぼうと二人の関係性が変わることはない。
高校教師になるのが私の夢だった。だから、その夢を叶えて教師になれたことに後悔はないはずだった。けれど、彼を知った私は自分の職業を一時呪いたくなった。
新しい制服に希望と不安と無関心を綯交ぜにしたような生徒たちの中に彼はいた。とりわけ目立った存在だというわけでもない。
ただ、目を引いたのだ。
彼が私をあの瞳でじっと見ていたからかもしれない。
歳と共に失われつつある純粋さを未だに鮮明に残したあの瞳に私は一時時を忘れた。
「先生。俺、先生のこと好きだよ」
そう言った彼に私は微笑んで、ありがとうと言った。
動揺を上手に隠して。
それ以上の言葉は、彼に与えることは出来ない。教師としての倫理が私に固いストッパーを掛けていた。
もし、そのストッパーがなかったとしても私は彼の好意を受け取ることはなかっただろう。受け取るには、歳が離れすぎていた。誕生日を迎えていない彼はまだ15歳。私はもう25歳。ここで好意を受け入れれば私は立派な犯罪者に成り下がる。
何も考えず、その胸の中に飛び込んでいけたならどんなにか幸せだろう。
二人が幸せになった妄想を何度も思い描いた。
それでも現実的であざとい私は、彼の想いを大人の笑みでいなすばかりだった。
きっと時が解決するはずだから。私のような年増の女を相手にするよりも彼に見合った女の子がきっと沢山いるから。新しい恋をすれば私への想いなどすぐに消えてしまうから。
だから、私は彼の好意を受け取らない。決して。
それが私の誓い。
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「先生」
呼びかけた時に柔らかく微笑んでくれるのが嬉しかった。
優しいばかりじゃなくて、叱る時には全力で、それこそ自分の感情が高ぶって泣き出してしまうくらい真剣に叱ってくれる先生が、俺は好きだった。
幼い想いだと先生は思っているのかもしれない。それでも俺は俺なりに真剣だった。
真面目な先生が、真面目すぎる先生が、長年の夢を叶えて教師になった先生が、俺の想いに気付いてくれるなんて思ってはいない。
だけど、先生はきっと気付いていないんだ。
俺を見る時の優しい瞳が、俺と話す時の柔らかく緩む口元が、俺を見送る時の少し悲しそうに歪む眉間が、俺への想いを綴っていることに。ほんの些細な態度が俺を好きだと言ってくれている。それは、俺の自惚れなんかじゃないと思う。
だから俺は心に誓ったんだ。まだ15歳の俺は5年後、20歳になったらもう一度先生の前に立つと。その時までに先生を優しく包んであげられるような大人の男になっていようと。
「ありがとう」
想いを告げた時、優しく微笑んだ先生の瞳が僅かに濡れていることを知っていた。
もう、生徒である俺が先生を追い詰めるような言葉を口にするのは止めた。大人になった時、5年分の想いを口にするときの為に、少しずつ想いをつめて行こう。
俺も先生も口には出さない。
全く関係のない言葉に、少しだけの好きを乗せる。
「お久しぶりです。先生」
目の前にいる男性は、あの頃の彼よりも幾分成長させてはいたが、私が惹かれた瞳は健在だった。
「久しぶりだね。ほんの数年見なかっただけなのに、随分立派になって男らしくなった」
二十歳になった彼らの同窓会に呼ばれた私は、駅の近くで彼と会った。駅からは幾分遠いその居酒屋に行くまでの間、私たちは近況を話していた。
「早く大人になりたかったんだ。なれたと思う?」
「そんなに急いで大人になったりしなくていいのよ。大人なんて子供が思っているほど大人じゃないもの。ただ、歳を多く重ねているだけに過ぎないの」
「うん。それでも、俺は早く先生に追いつきたかった。先生と肩を並べたかった。先生はさ、俺の気持ちなんてすぐに消えるだろうって思ってたでしょ?」
まさかあの頃の話が出るとは思っていなかった。きっと彼にとっては、懐かしく思い出すことのできる青春の1ページに過ぎないのだろう。けれど私は、未だ過去には出来ていなかった。
彼が卒業した後でも、どこかに彼の痕跡を見つけた。似た背格好の生徒を見ればつい振り返ってしまったし、似た声を聞けばハッとして振り返った。彼が使っていた机を見て想いに耽ったり、全くにても似つかぬ生徒を見て彼と勘違いしそうになったりと何度も何度も。
「そうね」
「……消えてないよ、先生。俺、ずっと先生のこと好きだよ」
「何を言って……」
「先生は俺のことどう思ってる? 俺、自惚れじゃなく先生も俺のこと好きでいてくれてたと思ってる。俺、もう卒業したし成人式も無事迎えて、世間的に問題なんて一つもないよね」
「ありがとう」
微笑んで彼を見上げると、不満げに眉を寄せた。
「それだけ?」
「それだけ……じゃない。私も好きよ。ずっと大好きだった。きっと私の方が想いは強いと思う」
彼に腕を引かれ、胸の中に収められた。何度夢想しただろう。この胸に飛び込めたらと。
「そんなわけない。俺の方が強いに決まってる」
それは彼が私の心の中を知らないからだ。私が彼と同じクラスの女の子たちにどれだけ嫉妬したか。それを上手く隠すためにどれだけの努力を要したか。彼を贔屓しないように懸命に自分の心をコントロールしていたか。姿を追いそうになる視線をどうにかしてそらしていたことか。
「先生。俺、15の時に誓ったんだ。二十歳になったら絶対もう一度気持ちを伝えるって。あの時は自分自身に誓ったから、今度は先生に誓いたいんだ」
体を放し、私の瞳を真剣な瞳が捉えた。
「俺、もう絶対先生を放したりしない。先生が嫌がっても俺はずっと先生の隣りに居座るよ」
「それじゃまるで……」
「うん、プロポーズだよ。まだ、俺大学生だし、先生に比べたら全然子供かもしれないけど、卒業したら俺と結婚してくれませんか?」
返事はとうに決まっている。少しばかりの不安を滲ませた瞳を覗き込んで、私は微笑むだろう。そうすれば、彼はきっと私の好きな笑顔を見せてくれるだろう。
でもその前に、彼の同級生たちに見つかって、一時保留になってしまうとは思ってもみなかった。