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story box  作者: 海堂莉子
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殃急池魚

 殃急池魚おうきゅうちぎょ:災難にあうこと。とばっちりを受けること。



 私の幼馴染はトラブルメーカーだ。

 それはもう幼い頃からそうだった。

 道を歩けば何もないところで転び、一人で転がっていれば良いものを私を巻き込み大惨事になる。山登りをすれば斜面を転がり、私をも巻き込んでいく。海やプールに行けば、溺れ私を巻き添えにする。

 揚げ出したり大なり小なり山とあるのだが、そのどれも現況の幼馴染より私の方が深手を負う羽目になる。

 そのせいか私の身体には生傷が絶えずある。そこら辺を走り回る子供のように膝に大きな絆創膏を貼る私は、女子高生としてどうなんだろうと思うのだ。

 それでも懲りずに幼馴染の隣りに立っているのは、彼女が愛すべき人間だからなのだろう。本人に悪気はなく(勿論あったら即縁切りするのだが)、ことあるごとに私に頭を下げるその姿を見れば戦意もそがれるというもの。そして、私が許す旨を伝えた時に拝める天使のような笑顔を見てしまえば、私はもう彼女を一生許してしまうのだな、と思わずにはいられなくなる。

「ねぇ、望海のぞみ。聞いてくれてる?」

 遅れている電車のせいか普段より混雑する駅のホームで、うんざりしている私をよそに幼馴染の彼女は可愛らしい唇を尖らせて見せた。

「聞いてるよ」

 最近専ら話題に上がるのは彼女と同じクラスにいる男の話だ。彼と彼女は顔さえ合わせれば口喧嘩を繰り広げるのだが、傍から見ればお互い想い合っている二人のどうでもいい痴話喧嘩にしか見えない。さっさとくっ付けばいいものを、と思っている者が多くいることを知っている。

 毎日繰り返される彼の愚痴は、好き、と言っているようなものだと本人は全く気付いていない。

「本当に?」

 と疑わしげな視線を向けてくるその姿に私は苦笑を漏らすしかなかった。

 その少々煩わしい視線から逃れられたのは、丁度遅れていた電車の頭が見えたからだった。

「あ、ほら電車来たみたいだよ」

 そして、それは突然起きたのだ。

 電車の遅れによりイライラしていた乗客が押したのか、それとも彼女自身が勝手に転んだのかは分からない。どちらにしても列の先頭に並んでいた彼女の身体が電車が入り込もうとしている側へ傾いでいくのが見えた。

 驚きに動けずにいる私の腕には、しっかりと彼女の手が掴まれていた。彼女が傾いていくのと同時に、私もそれに引っ張られて前のめりに倒れていく。彼女の体と自分の身体を支えるだけの力は私には残念ながらなかった。

 ああ、これまで色んな災難に巻き込まれてきたけど、私もここまでか。彼女と一緒に死ぬのかな。

 そう、諦めかけた時、彼女が掴んでいる腕とは反対側の腕が後方から強く引っ張られた。魚が釣りあげられたかのように並んでいる人々の方へと軽く飛ばされ、落下するとその上から彼女が落っこちてきて低い呻き声を上げた。

 私が並んでいた後方の何人かが巻き添えになって倒れている。

 そして、大きなクラクションを鳴らしながら電車がホームにゆっくりと入ってきた。この駅で停まる電車だったから良かったものの、スピードを落とすことのないこの駅を通過してしまう快速電車だったなら、彼女は助かっていなかったかもしれない。このときは、動転したことと、衝撃による痛みで考えることはなかったが、後日そう思い至って背筋に否な汗をかいた。

 駅員さんが血相を変えて走ってくると、周辺に声を掛けながら一番上の彼女を助け起こした。

 特に何の外傷もなかった人たちは早々に電車に乗り込み、彼女と私、そして私の腕を未だ掴んで離さないスーツを着た男だけがホームに取り残された。

 案の上というべきか、彼女は無傷で助かった。そして、かくいう私はしっかりと傷を負っていた。転んだ時に着いたであろう膝の傷と何かにぶつかった唇の傷。

 その何かは私の下敷きになり倒れている唇に同じような傷を見つけて、否がおうにも理解してしまった。

 私のファーストキスはこんなアクシデントで失われてしまったようだ。

「すまないが、どいてくれないか」

「ああっ、すみません。……あの、手を放していただけると」

「ああっ、悪い」

 パッと離れていく手に何故か目が奪われた。

「医務室に行きましょう。手当をしますので。お話も伺いたいですしね」

 初老の駅員さん(私にはそう見えるだけでもっと若いかもしれないが)が私にそう言って、手を貸してくれた。

「あなたもご同行ねがいますか?」

 サラリーマンは無言で頷くと自力で起き上がったが、腰を打ったのか苦痛の表情を浮かべている。

「あのっ、大丈夫ですか。ありがとうございます、助けて頂いて」

「いや、良いんだ」

 顔の前で大袈裟に腕を振って、ゆっくりと起き上がった。手を貸すべきか悩んでいるうちにサラリーマンは自力で立ち上がってしまった。


「それで、君はホームの端っこにちょうちょが止まっているのを見て、電車に引かれてはいけないと追い払おうとして歩き出したら転んだと。その時に隣りにいた彼女の腕を掴んで巻き込んだと。そして、彼女の後ろにいたあなたが咄嗟に彼女の腕を掴んで引き戻し、若干力が入りすぎて倒れたと。そういうことでいいんだね」

「だってちょうちょ可哀想じゃないですかっ。まだ電車が来るには間があったから、ちょっと私が近づけばすぐに飛び立つだろうと思ったんです。まさか転ぶだなんて思ってなくて」

 誰だってまさか彼女がちょうちょを追い払うために身を乗り出して転ぶだなんて思っていないだろう。私だけは、その言葉をすんなりと信じることが出来た。

 駅員さんもサラリーマンも半ば信じられないという表情を浮かべている。

「ご迷惑をおかけしてすみません。彼女にはこういうことが、まあ良くあるんです。これからは列の最前列には並ばないようにしますので」

 私がちらりと彼女を見ると、彼女も私同様頭を下げた。

「いや、まあ気を付けてくれればいいんだ。幸い大きな怪我をした人もいなかったことだしね。学校だろう、遅刻してしまったね。もう行ってもいいよ。あなたもこんなところまで来てもらって申し訳ない。就業時間には間に合わないんじゃないかな」

 とても優しい初老の駅員さんは、優しく彼女を窘めたあと、サラリーマンに足止めさせたことを申し訳なさそうにそう告げた。

「いえ、お構いなく」

 サラリーマンは腰を打ってはいたが、それも大したことがないようで初めこそ苦痛に顔を歪めていたが、暫らくするとその痛みも引いていったようだ。

 駅のホームに出ると彼女はまるで先ほどの出来事など忘れてしまったかのように、のど乾いたぁ、とのんきな声を上げながら自販機へとかけて行った。

 二人残された私は、隣りに佇むサラリーマンに再度謝辞を述べた。

「とにかく良かったね。大事にならなくて」

 頭上から降ってきた言葉に頭を上げると、穏やかに微笑むサラリーマンと目が合った。

「ありがとうございます」

 本当に唐突に、私は寂しさに襲われた。

 ああ、この人と別れたくないな。

 言葉を交わしたことなど初めてなのに、そんな風に別れがたく感じていることに自分自身驚いた。

「「あの……」」

 重なった言葉の続きが、きっと同じだろうと感じた。そのことをサラリーマンも感じていたのか、照れ臭さに笑みをこぼした。

 けれど、年長者としての余裕なのかサラリーマンが改めて口を開いた。

 トラブルメーカーの彼女は、自販機からジュースが出てこないと騒いでいる。そんな彼女が恐らく私たちのキューピッドになるのだろう。

 長い間とばっちりを受け続けた私に、少しだけでも幸運が訪れてもいいだろう。その小さな幸運さえあれば、彼女の災難を被ることもやぶさかではない。

 そう思えた。

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