海千山千
海千山千:あらゆる経験を積んでいて悪賢いこと(人)
「さあ、私の手を取りなさい」
ふるふると小動物のように頭を振る姿は、私の庇護欲を擽る。それを解っていて、目の前の彼女がそんな振る舞いをしているわけではない。
それがいいのだ。
純粋に、戸惑い、怯え、そして恐らく喜びも感じているはずだ。そう、私の自惚れでなければ彼女は私を慕ってくれているはずだ。
「何も怖がることはない。お前は私の言うことを聞いていれば良いのだ。私がお前を守ると誓う」
ほんのりと頬を染める姿に、気を良くした私はもう一歩歩を進める。
手を伸ばせば彼女を包み込める位置に来たが、彼女は嫌がる様子はない。
もう一息か。
「お前のご両親も喜んでくれているよ」
「お父様とお母様が?」
漸く顔を上げたのが両親のことだったというのが、少々気に食わないが、彼女をここまで育て上げてくれたことには感謝している。
「ああ。とても喜んでいるよ。落ち着いたら、二人で会いに行こう」
「あの、でもっ。私はこんなに幼いですし」
「お前は幼く見えるだけで決して私と釣り合わぬ年齢ではないだろう?」
彼女の容姿は10歳と称しても可笑しくないほどに幼かった。けれど、すでに結婚適齢期を迎えた立派に成人したレディだ。
「そうですけど……。でも、でもっ。私よりお綺麗な方はたくさんおります」
「私にはお前が一番綺麗に見える。どんな女性よりもだ。それのなにが不満だ?」
彼女は少々幼く見えるというだけのこと。その美しさに敵う者はいないと私は思っている。そんなことをぽろりとでも口に出せば、周りの者はにやにやと厭らしい笑みを漏らすが知ったことではない。私がそう思うのだからいいのだ。
「ですがっ、私は身分も低いですしっ。反対されるのが目に見えているではありませんか」
「身分の違いがなんだと言うのだ。すでにもう五月蠅い奴らは納得させている。誰も文句を言う者はいない」
五月蠅い奴らなど納得させることなど容易いことだ。そもそも奴らの目的と私の目的は同じもの。文句など出るはずもないのだ。
「しかしっ、私は教養も行き届いておりませんし」
「そんなもの、これから私が教えれば良いことだ。問題にもならない」
上げていた顔がどんどんと落ちて、完全に俯いてしまった。
「そんなに私ではイヤか? こんなに嫌われているとは思わなかった」
「違いますっ。私のお気持ちは解っていらっしゃるでしょう? 問題なのは、あなたが身分を偽っていたことで、私とは頑張っても釣り合うわけない人で、最も遠い存在だということです。私では無理です。魔王様」
侍女として立ち働く彼女に一目惚れした私は、身分を偽り騎士の格好をして彼女に近付いた。魔王の姿で彼女の前に立てば、
されたくもないのに敬われ、恐れられると決まっていた。
屈託なく笑いかけてくれる彼女が眩しく、ただただ嬉しかった。
だから、彼女を自分の一番近くに置いておきたいという欲が出た。周りは全て固めたはずだ。彼女さえ了承してくれれば、彼女は晴れて私の妻になるのだ。
「私の相手はお前しかいない。お前を失くせば私はもう一生笑えなくなるだろう。生きていく意味さえもなく、生きる屍となろう」
可愛い大きな目が私を睨みつけている。けれど、その目も今にでも泣き出してしまいそうなほどに濡れている。
「そんなこと、ズルいです。私は、あなたが大好きなんです。知ってるくせにっ。もう、この気持ちが消えないって解っていてこんなこと。私はっ、あなたが笑っていない世界など見たくないのです」
「では、私の妻になってくれるか?」
さあ、私の手を取りなさい。もう、お前に逃れる術はないのだ。さあ、私のものになりなさい。
彼女の手がゆっくりと動くさまを、私は固唾を呑んで見守っている。