一陽来復
一陽来復:冬が去って春が来ること。不運が続いた後、良い運が向いてくること。
タタンタタン、ガタンタタン、ゴトンタタン。
毎日揺られる電車の中で、薄く眼を閉じて雑音に耳を傾けた。
流行性感冒が流行っている近頃の車内には、鼻をしきりにすする音や乾いた咳をするもので溢れていた。
朝の出勤時、小さいけれどもそれなりに人口のある最寄駅から各駅電車で一つ次の駅で快速電車に乗り換える。この電車に乗るのはほんの二、三分の短い時間。皆、言葉を交わしたことなどないが、同じ時間同じ電車同じ車両に乗る同志のように感じる。
次の駅で快速に乗り換えるため、皆一様に扉の前で立っている。快速の時間にぎりぎりの者は扉の真ん前に陣取り、比較的ゆとりのある者は後方で文庫本や新聞などを広げていたりする。私はというと、ゆとり組で次の駅で開く扉とは反対側の扉に背中を軽く預けていた。
混んではいるけれど、満員電車といえるほどの混雑ではない。満員電車だとしても、たかが三分の距離でしかないのであまり苦にはならなかっただろう。
薄らと目を開けると大なり小なりの頭とその向こうに見慣れた景色が足早に流れていく。
もう間もなく着く。そう思ったのと同じタイミングで、アナウンスが流れる。時折、アナウンスを間違える時がある。そんな時は、くすりと笑ってしまうのだが、周りはあまり反応しない。イヤホンを付けているから聞こえないのか、携帯に夢中で気付かないのか、単にそんな間違いなど気にもならないのか。だが、私は一人、今日のアナウンス担当は新人さんなのかな、などと思いを巡らすのだ。
まただっ。
そう、それは本当に電車が駅に飛び込み、停車する一瞬の出来事なのだ。
とてもとても強い視線を必ず停車するその直前に感じる。その視線の先をいつも私は追うのだが、開いた扉からぞくぞくと流れ出る人の波に呑まれて、見逃してしまう。
その波に流れエスカレーターに乗ると、小さくため息を零した。
ここ二週間ほど出勤時に必ず感じる強い視線に私は戸惑っていた。すぐ近くではないのだ。隣の扉、若しくは隣の車両からなのかもしれない。どちらにしても正体不明の視線は私を動揺させていた。
車輌をずらしてみようかとも思うのだが、その視線がどちらから感じるのかさえ判断できないのだ。ずらした車両が視線の正体と反対側であるのなら良いが、もし同じ車両だったのならどうなってしまうのか。
視線の正体は一体なんだろう。ストーカーか? それとも、なんらかの恨みを買っただろうか。
自分で言うのもなんだが、ストーカー被害にあうような容姿でもひ弱なタイプでもないつもりだ。どちらかといえば、それなりに腕も口も立つ方だ。ストーカーの線は薄いように感じる。
恋愛関係で恨みを被るような真似をしたこともない。不倫はお断りだし、友達や会社の仲間の恋人や想い人を取ったこともなければ同じ人を好きになってバトルをしたこともない。そもそも恋愛には淡白な方で、誰かにとことんアタックすることなんてない。と考えると恨みの線も薄いのでは。だが、恨みといってもそれは恋愛絡みだけではないのではないか。となると、考えるのは会社の交友関係か。上司とはそこそこ上手くいっていると思うし、後輩いびりをする趣味はない。それとも、私が知らないうちに恨みを買うような行動をしてしまったのだろうか。
などと、ここ二週間ほど頭を悩ませてみたが思い当たる節がない。その視線が、好意的なものか悪意的なものか、それすら解らないのだ。ただただ強い視線。
人間というものは、不可思議なものってものがとても気になるもので、原因不明のものは原因を追究したいと思うものではないだろうか。それは、私だけだろうか。
とにかく、私はその視線の主が一体なんだって私をそんなに見つめるのか問いただしたいのだ。こんなにも頭を悩ませておいて、視線の主が見ていたのが私ではなく違う誰かだったときはとても恥ずかしいことになるのだが。
正体不明の視線をどうにか探し出そうと決意した私は翌日から早速辺りを注意深く窺った。
視線の主は、私のそんな決意をまるで知っているかのように、場所を移動しているように感じた。右の車両から感じた視線が、次の日には左の車両から感じたり、かと思えばすぐ近くで視線を感じる時もあった。だが、その視線の主を探すことはその時は出来なかった。
ちょっとした恐怖だったのは、その視線の主がなんとなく自分のほうへ近づいて来ているような気がしているのだ。隣りの車両だったものが、同じ車両になり、一つ隣りの扉だと思ったら、とても間近で感じたり。
こんなに近くにいるはずなのに、どうして視線の主を確定できないのか。それはやはり視線の主が巧みだからとしか言いようがない。私が素早く視線を感じる方へ眼を向けても、そこには本や新聞を読んでいる乗客や居眠りしている乗客しかいないのだ。
私は視線の主と『だるまさんがころんだ』をしているのだろうか。
「ねぇ、まだ見つけてくれないの?」
耳元で囁かれた言葉に頭を捻ったが、後ろに誰かいるはずはない。私は扉に背を凭れているのだから。隣りに立っている男は連れの女の喋っている。明らかに声の質が違うし、連れがいるのに私に何か言うはずもない。私は前を向いていた。前から声がしたわけじゃない。じゃあ、いったい誰が……。
動揺している私を降車する乗客たちの波がどうにか駅のホームへと吐き出した。
もうここまで来るとちょっとしたホラーだ。もしかして相手は幽霊なんじゃないだろうか。そんな思いに体の芯から凍えた。
「ねぇってば、そろそろ見つけてくれてもいいんじゃない?」
エスカレーターの後方から聞こえた声に、幽霊なんじゃないかと思い始めた私は恐る恐る頭を向けた。
振り返って後ろにいる人が女の人だったらどうしよう。それどころか誰もいなかったらどうしよう。
「おはよう。というより、この場合久しぶりかな?」
私に向けて男がニコリと微笑んでいる。
「え?」
「いつまでたっても見つけてくれないから、俺から話しかけちゃったよ。驚かせたかったから黙ってたのに。本当君は鈍感だね」
――本当に君は鈍感だね
優しい微笑みで、何度もその言葉を投げかけられた。私の鈍感さをとても愛おしいと感じてくれているその言葉がとても好きだった。
私が生涯ただ一人と思っていた人。この人さえいればいいと思っていた人。想うだけで苦しくて、涙が出てくる人。忘れようと思ったけれど、けして忘れられない人。会いたくて会いたくて仕方がなかった人。
「どうして?」
「帰ってきちゃったよ。アメリカには君がいないから。君がいないとダメなのは俺も一緒だよ。そう言ったでしょ?」
確かにあの時彼はそう言った。
アメリカの支社に転勤になった彼が、私に着いて来てほしい、と。事実上のプロポーズだった。けれど、私はそれを断ったのだ。彼に依存しすぎていた自分が怖かった。このままでは二人の関係がいつか壊れてしまうと思ったのだ。彼なしでは生きられない女にはなりたくなかった。彼に嫌われたくなかった。何度後悔しただろう。どうして着いていかなかったんだろう、と。
「逢いたかった。ずっと君に逢いたかった。結婚しよう。もう、拒否は受け付けないよ」
会いたかったのは私の方だ。何度、足を成田に向けようとしたか解らない。
「仕事は?」
「辞めてきた」
私は彼に抱き付いた。上から落ちてきた私を、簡単に支えた。後方に人は見えなかった。長い長いエスカレーターをみんな歩いて上って行ったので、二人だけが取り残されていた。
私から彼に短いキスをした。そして、耳元でこう囁いた。
次の仕事が決まるまで、結婚はお預けよ。