教皇アイネアス
”史上最悪の教皇”アイネアス1世。
本名アイネアス・アースキン・オブ・アイオン。
”黒魔の甲冑”伝説が残るオストヴォル王国の産まれ。
同名の父、ベレンガリア辺境伯アイネアス・アースキン・オブ・アイオンの長子として生まれる。
生年は、大陸暦1200年説と1189年説があり、ハッキリしない。
彼が生まれる前に父が病没。
生まれてすぐ母親マクシミリアンヌが実家に戻るとひとりアイオン城に置き去りに。
以後、”天下の孤児”として孤独な幼少期を過ごす。
0歳にしてベレンガリア領主に就く。
だが当然、アイネアス自身に統治能力はない。
最初に実権を握ったのは、叔父オルイス・トロットム。
しかしそれ以降、多くの人物が彼に代わって権力を握った。
親族と重臣たちが権力闘争を繰り返し、骨肉相食む凄惨な経験が彼の人格を決定したなどと精神科医めいた評価を歴史家は、烙印のように捺している。
25歳ないし36歳で頭角を表すが辺境伯を皇帝に返上。
聖職の道を選び、出家する。
しかし彼の父親の死を含め、正確な記録がなく彼の前半生は、謎に包まれている。
名目上のベレンガリア辺境伯だが人前に出ることなく幽閉されており、”いないもの”として扱われてきたためである。
その間の彼の所在は、伝説的なものも含めて様々な形で伝わっている。
神隠し、諸国を転々と旅していた、偽物、変わり身説など。
ともかく地方貴族から聖職に転身したとおぼろげに信じられている。
もちろん信仰のためではない。
一地方領主は、彼の野心を満足させることができなかったからだ。
教皇として聖ウルス教圏全体の指導者となることが彼の野望だった。
しかし聖職者として育てられたことのない彼は、聖典の内容もほとんど解さなかった。
生涯、鋼鉄聖典の勉強などしなかったと言われる。
真偽は、定かでないが聖典を読んだことのない教皇と揶揄されている。
謀略を本文とし、裏切りと密約で教皇庁の躍進を果たす。
各国の戦争や王位継承、婚姻同盟などに裏から介入し、教皇庁国家の権威を強化した。
52歳か63歳で国務院尚書―――タラミストリア教皇庁国家における首相に就く。
その後、25年間。
宗教儀式に煩わされない官僚の方が教皇より実質的な権力を握ることができると考えた彼は、教皇以上の実力者として3人の教皇の右腕を務めた。
しかし3人目の主君、教皇ヘラクレス3世が薨去すると状況が一変。
熱狂的な宗教家ベナートリー・ルネ・ジェン・メントス枢機卿が対立候補に立つ。
政治権力にしか興味のないアイネアスを毛嫌いする理想家だった。
最初、アイネアスは、これまで通り、自分が教皇庁国家の実務を担い、ベナートリーが教皇に就き、彼には空想の世界について信者の前で好きなように語ってくれればいいと説得を試みた。
だがベナートリーは、アイネアスを絶対に認めなかった。
アイネアスも神や天国といった架空の存在に無意味なエネルギーを浪費するメントス枢機卿を快く思っておらず、これまで自分が進めて来た事業を無駄にするであろうベナートリーとは、共存できないと決心した。
これまで教皇選の黒幕だった彼が初めて自ら立候補する。
77歳か88歳で教皇に即位。
しかし結局、3年後、行方不明に。
教皇としては、2年半しか在位していなかったが27年間で彼は、大陸に絶大な影響力を及ぼした。
各地の貴族の家督相続に介入。
自分に服従しない者には、容赦ない締め付けを与えた。
権力闘争に憑りつかれた最悪の教皇と綽名される。
だが単なる宗教家から国際社会の指導者として教皇の役目が切り替わる時期に活躍した人物という評価もできる。
また教皇庁が介入することで家督相続がスムーズに行われるようになった。
これは、アイネアス自身、両親がいなくなったことで不安定な立場に追い込まれた経験から来ている。
諸侯も教皇庁に後継者を届け出れば家督争いを防ぐことができる。
教皇も貴族たちに大きな影響力を及ぼすことができた。
しかしこれは、皇帝と対立する原因にもなった。
アイネアスが生きていた間は、彼の外交センスで問題を解消してきた。
だが、それは彼の才能による部分が多く後の教皇たちは、上手く行かず教会の権威失墜に結びついてしまう。
何より皇帝派と教皇派の終わりのない戦いは、ウルス教信者を失望させた。
宗教戦争、宗教革命の遠因であり、その点からも最悪の教皇という評価は動かせないだろう。
また大陸暦1266年にアウジェ、リンドールと反皇帝三国同盟を結成。
三国同盟戦争を引き起こして自ら陣頭指揮に出た。
暗殺や買収など謀略の人というイメージが強いが猛将の一面もある。
意外にも前線の人であり、甲冑や武器も残されている。
あくまで貴族出身の枢機卿、教皇という姿勢は、一貫していた。
戦争の実態を知っているという点も彼の政治が他の教皇と大きく違った点だろう。
ヴェリントス大学のトマス・ルイ・コナリーは、アイネアスが皇帝そのものを憎んでいたと評価する。
彼の半生は、反皇帝というテーマで一貫している。
教皇庁国家に参画したことが、そもそも皇帝に挑戦するためだとコナリー教授は、考えた。
教皇が皇帝に代わることがアイネアスの野望だったのだ。
同性愛者であり生涯、妻帯せず、子供もいなかった。
白いモノが混じった黒髪の老人が物憂げに庭に降りていった。
79歳あるいは、90歳の教皇アイネアスには、3人の愛人がいた。
一人は、教皇紋章官アラン。
「猊下、お話しがあるのですが。」
と愛らしい少年が老人に声をかけた。
赤毛の少年は、三つ編みを背中に垂らし、豪奢な衣服を身に着けている。
指輪、腕輪、耳飾り、首飾り。
どれも金で手に入るものではない。
長年、アイネアスが征討した貴族や王族から接収した宝飾品で、世界に二つとない宝物である。
「うむ。
……まだ日も高い。」
ただアイネアスは、アランに背を向けたまま答えるだけだった。
淫蕩な寵童は、時には可愛い。
朝も夜もなく肉欲を発散する相手としてアランを傍に置いている。
だがこの老人は、時に禁欲的な気分にさせられることがあった。
「もう。
そのような気のない返事をなさいますな。」
アランは、アイネアスに後ろから抱き着いた。
娼婦のように肌を摺り寄せ、教皇の身体に手を回す。
「猊下、僕の蜂蜜。」
「止せ。
俺は、そんな気分ではない。」
アイネアスは、そう言ってアランを引き離す。
乱暴に振り払った訳ではないが美少年は、歯を剥いて怒っていた。
「犬め。
お前に今、興味はない。
俺の前から消えろ。」
アイネアスは、そう言ってアランを冷たくあしらった。
アランは、客に逃げられた娼婦のように足早に宮殿の中に消えていく。
残ったアイネアスは、回廊の中庭をひとりで歩いた。
こうしていると一端の修道士に見えてくる。
聖典を開いたこともない教皇と噂される男だが、何十年も教皇庁に身を置くとそれらしく見えるようになるものだ。
やがてアイネアスは、ふと足を止める。
回廊を歩いている一人の若者を見て彼は、声をかけた。
「アミ!」
呼び止められた青年は、教皇に顔を向ける。
腰まである長い髪を揺らした美童で輝くような笑顔を作る。
「猊下、私をお探しでしたか?」
と少年は、アイネアスの前で跪いた。
「いや、良い。
お前がここを通ると思っておったのだ。」
「ふふっ。
偶然を装われたということでしょうか?
存外、つまらないことをなさる人ですね。」
「俺は、つまらない男だ。
冠を被っていなければ誰も相手になどしてくれない。」
アイネアスは、少年の長い髪の流れる背中に手を回し、唇を合わせた。
二人は、薄暗い聖ダゴン城の回廊で抱擁を交わす。
アイネアスの2人目の愛人、アミだ。
教皇庁弩弓兵長官(攻城兵器や弓矢・砲弾の管理を任された軍人)である。
アイネアスが戦場で出会った恋人であり、長い遠征では、彼の慰めとなる美しい騎士だった。
「宜しいのでしょうか?
私は、城の外でのお相手と思っておりましたのに。」
「嫌か?」
「全然。」
そのまま二人は、回廊の冷たい石の上で重なり合った。
誰かは、通りかかったかも知れないがアイネアスを咎めるものはいない。
しばらく経ってアイネアスは、服を直しながら立ち上がる。
アミは、ぐったりした様子で回廊で仰向けになっていた。
「アイネアス。」
寝ころんだままアミは、年上の恋人に言った。
教皇は、立ったまま振り返る。
「私は、結婚を考えています。」
「……女か。」
アイネアスは、怒る様子もなく静かに答えた。
アミは、裸のまま話し続けていた。
「お許し下さい。
猊下の寵愛は、忘れません。
しかし私は。」
「これまで通り、俺のために働いてくれるか?」
そう問われてアミは、表情を曇らせた。
教皇軍そのものからも身を引きたいと思っていたからだ。
「貴族の女と一緒になって田舎領主に収まるのか?
俺と一緒に大陸を変えたいと思わないのか?
この腐った世界のままでお前は、満足だというのか?」
老人は、怒りよりも涙を堪えて哀訴していた。
「俺のところから離れて、その女は、どう出ると思う?
俺の寵愛を失ってもいいのか?」
「猊下の語る世界は、私には、もう信じられません。」
アミが決心して打ち明けるとアイネアスは、はじめて驚いた。
「猊下が辛い過去をお持ちだと私は、知っております。
世界を呪っておられる。
私がそれを変えられると思っていました。」
アミの告白にアイネアスは、驚き、怒りを露にした。
たちまち狼のように残忍な光が眼に灯る。
「………そのような存念で俺に身体を許したというのか?」
「いけませんか?
私は、あなたを救いたかった。」
教皇は、舌打ちして顔を歪ませる。
「図に乗るな。
富や権力を求めて俺に近づく輩は、まだ許せる。
だが俺を救うなどと調子に乗るにもほどがあるぞ。」
「救われたくないのですか!?」
血相を変えてアミは、アイネアスに触れた。
しかし老人は、アミから離れていく。
「もう良い。
…お前のことは、忘れてやる。」
それだけ言ってアイネアスは、宮殿の闇の中へ逃げ込んだ。
残ったアミは、悲しそうに俯いて服を着直し始める。
教皇の3人目の愛人、印璽長官(副総理に相当する)エリオット。
彼は、アイネアスに長年仕えて来た。
他の2人の様な若い愛人ではなく、すっかり落ち着いた関係になっている。
アミとの会話で苛立ったアイネアスのところに彼が姿を見せた。
彼を見るなり、教皇は、ギロッと睨みつける。
アイネアスの機嫌が悪いと察したがエリオットは、彼に話しかけた。
しばらく政務上のつまらない報告や会話が続く。
「…それに関しては、私が話を進めておきます。」
「そうか。
ところで弩弓兵長官が辞めたいと言ってきおった。」
アイネアスがそう言うとエリオットは、一瞬、目を伏せた。
不愉快そうに老人は、壁を睨んでいる。
「代わりの者を探せ。」
「御意。」
「…まだ何かあるか?」
エリオットが退室しないのでアイネアスが訊いた。
エリオットは、静かに答える。
「出て行かなければなりませんか。
あなたとここに居たいというのは、ダメでしょうか?」
「…まだ何か欲しいのか?」
老人は、自分の髪を掴んで唸り声をあげた。
印璽長官は、ハッとなって教皇の顔を見る。
「お前には………印璽長官まで引き立ててやった。
まだ地位が欲しいのか!?」
「お気をお静めに。」
「失せろ!」
「今のあなたを一人にはできません。」
エリオットは、アイネアスに近づいた。
深く絶望した老人の目は、曇り、涙をこぼしている。
「もうお前たちの見え透いた芝居に付き合うのも疲れた。」
と老人は、噎せるように吐き出す。
「お前たちは、俺の身体を絞って金貨を拾う娼婦だな!
印璽長官に据えてやったので調子に乗りおって!!
次は、教皇軍司令官にして貰えるとでも思っておるのか!?」
「私は、ずっとお側に。」
跪いてエリオットは、老人の膝に手を置く。
だが老人は、自分の世界に閉じこもった。
エリオットを振り払って自室に飛び込んだ。
そのまま顔を伏せ、ただ訳も分からず目を閉じた。
すぐエリオットは、アミに手紙を出した。
アイネアスには、心の支えが必要だと。
しかし登城したアミは、聖ダゴン城で刺殺されてしまう。
教皇は、愛人の無惨な死に甚く心を傷つけられた。
「エリオット…。
お前がアミを城に呼び寄せて殺したのか?」
崩れた顔で教皇は、愛人を睨みつけた。
血相を変えてエリオットは、首を横に振る。
「ち、違います、猊下!!」
言い争う二人の間に素早く他の廷臣たちも入った。
「印璽長官が犯人の訳がありませぬ!」
「猊下。
印璽長官には、実力があります。
それに引き換え、アランはどうです!?」
廷臣の一人がそう指摘する。
「あの犬は、猊下の寵愛だけでこの城に飼われています。
猊下の愛情を失えば城から追い出されるだけの犬ですわ。
猊下の御心を自分一人のものにするためにアミを殺したのです。」
「そうエリオットが仕組んだのだ!
分からんか!?」
老人がそう喚くので誰も反論できなかった。
だがアランならやりかねない。
誰もがそう信じた。
しかしそれがアイネアスには、エリオットの仕業に思えてならないのだ。
数日後、エリオットは、自殺した。
自ら胸を突いて。
アランは、アイネアスの寵愛を独占した。
教皇庁の廷臣たちは、淫蕩なオス犬が厚かましく宮殿を徘徊することを快く思わなかった。
「いまいましい。
あの男娼め。」
「良いでしょう。
あやつには、何の権力もない。
ある意味では、アミやエリオットよりマシですぞ。」
「確かに仕事を奪われたり出世の邪魔にはなりませんわ。」
「ふふっ。
今だけですぞ。
年老いた犬など、猊下も相手になさらないでしょう。
あと数年も我慢すれば顔も見なくて済む。」
「どうでしょう?
案外、今回のこと、猊下ご自身の策謀ということも。」
「あり得ますな。
あのお人なら要らなくなった道具は、処分する。」
「恐ろしいお人だ。」
「方々、見知りおけ。
あのような人を古い時代では、こう呼び習わしたのですよ。
―――”獣”と。」
一層、声高くなるアイネアスへの不満と非難。
それらから逃げるように老人は、若い愛人の肉体を貪った。
1日の間の長い時間をアレンと一緒に過ごし、現実から目を背けて暮らした。
「アレン。」
不意にロビンは、アッシュをそう呼んでしまった。
アッシュの髪は、アランの赤毛より明るいオレンジだ。
しかし不意に別の名前が出てしまった。
「アレン?
………それ、前の男?」
不愉快そうにアッシュは、ロビンを睨みつける。
ロビンは、困ったように苦笑いして誤魔化した。
「悪い。
でも誰にだってあることだろ!?」
「俺にはないよ。
俺は、俺に優しくしてくれたのは、ロビンだけだ。
俺は、ロビンを誰かと呼び間違えたりしない。」




