仕事一筋のわたしが彼と出逢って
「エレノア! この報告書、まだ終わっていないの⁉ はぁ……まったくあなたはいつも仕事が遅いわね!」
「も、申し訳ございません!」
女官長の声がわたしの耳に突き刺さる。
冷たく、刺々しいその声は執務室の空気を凍りつかせるかのようだった。
「また、女官長にいびられてるよエレノアさん」
「エレノアさん、一番仕事ができるから目をつけられてるんだわ」
「でも、助けたら助けたで今度はわたしたちが標的になるから……ね?」
周りの女官たちも、また始まった、と言わんばかりの表情でひそひそと話している。
「まだ? ねぇ、まだなの?」
「なんとか本日中には片付けておきます」
「はぁ……」
わたしの目の前には今朝、女官長が『今日中に終わらせておけ』と押しつけてきた書類の山がまるで嘲笑うかのように積まれている。
(無理難題を押し付けてくるのが趣味なのかしら、この人は)
内心でそう毒づく。
しかし、表情には一切出さない。
本音を言えば、直接思っていることをそのままぶつけたいけれど……。
それはあまりにも子どもっぽい。
だからこそ、静かにそして素早く、書類に目を通す。
――――わたしは仕事をしに来ているのだ。
「反省の色が見えないわね!」
「申し訳ございません、女官長さま。すぐに終わらせます」
「早く終わらせなさいよ!」
「はい」
わたしはそう答えた。というかそう答えるしかない。
ここで口答えしてもロクな結果にはならないだろう。
肩は凝り固まり目には深い隈ができている。
昨日もロクに眠れていない。
睡眠時間は3時間が当たり前だ。
「はぁ……」
しかし、この程度のことでへこたれるわたしではない。
わたしにはこの王宮で必ず成し遂げなければならない目標があるのだ。
わたしは貧しい農家出身だ。
父は病弱で、母はわたしが幼いころに亡くなった。
そして、下には小さな弟がいる。
飢えと貧困に苦しむ日々はわたしを常に不安にさせた。
特に食べ盛りの弟を食べさせていくことに対して不安を覚えていたのだ。
この身一つでどうすれば家族を守れるのか。
――――その問いの答えが『王宮の女官』になることだった。
王宮の女官になるための試験は非常に難関で並大抵の努力では突破できないと知っていた。
けれど、わたしは夜中にこっそり蝋燭の明かりを頼りに借りた書物を読み漁り、寝る間も惜しんで勉強した。
手が荒れ、目は霞むほど努力を重ね、わたしはその試験を突破し、この王宮で働くことになったのだ。
『エレノア。お前はできるだけこの王宮で上にいってほしい。申し訳ないけど父さんはもう働けそうにないから……』
故郷を出る前、父が震える手でわたしの手を握り、そう言った。
その言葉がわたしの原動力だった。
貧困から抜け出すため、わたしは権力と金を求め、この王宮でひたすら働き続けてきた。
いつか女官長になり、さらにその上の地位を目指す。
――――それがわたしの目標だ。
わたしの仕事は完璧だった。
どんな難題も効率的にこなし、周囲の女官や下級官吏が驚くほどの圧倒的な結果を出していた。
わたしの持つ知識と冷静な判断力は誰にも真似できないものだと自負している。
これは自信過剰でもなんでもなく、紛れもない事実だった。
けれど、その結果はわたしに新たな試練を与えた。
「エレノアさまは本当に仕事ができるわね。わたしたちなんて足元にも及ばないわ」
「そうよね。あんなに完璧に仕事をこなせるなんて、まるで魔法みたい」
「でも、なんだか、近寄りがたいわよね。いつも真面目な顔してるし……」
「わたしは嫌いだわ。お高く留まって腹が立つ」
「わかるー。わたしはあなたたちと次元が違いますー、って言ってるもんよ」
同僚の女官たちがわたしの陰口を叩いているのが耳に届く。
彼女たちはわたしの能力を認めつつも、わたしを嫉妬し、避けようとしているのだ。
「エレノア! まだ終わっていないの⁉ この無能め!」
ああ……また、女官長の声が再び響く。
彼女はわたしの仕事の速さと正確さを知っているはずだ。
それなのにわたしに無理な仕事を押し付け、理不尽な叱責を繰り返す。
わたしの能力が目立つことで、彼女自身の地位が脅かされると感じているのだろう。
その嫉妬がわたしへのパワハラをエスカレートさせているのだ。
「そんなんだからいつまで経っても結婚できないのよ!」
(ひどい言い草ね)
絶対に這い上がってやる。
そのためにはなんでも犠牲にできる。
(結婚? そんなもの、わたしの人生には必要ないわ)
わたしは心の中でそう呟いた。
そうだ。恋愛にうつつを抜かす暇などない。
結婚して家庭を持つなど、わたしのキャリアの邪魔になるだけだ。
こんな王宮で地位と名誉、そして金を得るためだけに働いているわたしにとって結婚という選択肢は初めから存在しなかったのだ。
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「エレノアさん、まだ残っていたのかい?」
夜も更け、執務室にようやく静寂が訪れ始めたころのこと。
誰かの声がした。
わたしが顔を上げるとそこに立っていたのはエリートコースで有名な財務部門で働く官吏の1人、リヒトだった。
彼もまた、わたしと同じく残業に追われているようだ。
「はい。リヒトさんもまだ残っていらっしゃるのですね」
わたしはそう答えた。
彼の特徴だが……これといってない。
いや、別に馬鹿にしているわけではないのだが、本当にないのだ。
顔は正直に言って、あまりぱっとしないし、なんというか印象が薄い、というべきだろうか。
見た目と普段の行動からも堅実で真面目な青年という印象がわたしの中にある。
(いや、でも……)
しかし、よく見ると顔のパーツは整っており、隠れたイケメンであるかもしれない。
(他の人はそんなこと言っていないし、わたしの勘違いね)
「この書類のミスがどうしても見つからなくてね」
リヒトは困ったように眉を下げた。
彼の目の前にはわたしよりもはるかに少ない。
けれど、乱雑に積み上げられた書類の山がある。
「リヒトさん。その書類、わたくしに確認させていただけますか?」
わたしはそう言って、彼の書類を受け取った。
一目見ただけで彼のミスがどこにあるのか、すぐにわかった。
彼は真面目ではあるが、どこか抜けているところがある。
「ここです。この数字が間違っています」
「え⁉ ま、まさか……!」
わたしの言葉にリヒトは驚いたように目を見開いた。
「もう一度、最初から確認してください。いつも言っているでしょう? 焦るとミスが増えます」
「うう……エレノアさんは厳しいね」
彼はそう言って、唇を尖らせた。
その表情はまるで子供のようだ。
わたしの仕事は彼よりもはるかに速く、正確だ。
だから、いつも彼を叱責することになる。
「これも仕事ですから。ほら、早く作業に取り掛かってくださいね」
「は、はい……」
このように最近、わたしたちは一緒に居残りをして残業することが多くなり、日を重ねるうちに頻度が増えていった。
――――そして、時には意見が衝突し、言い合いになることもあった。
「リヒトさん! その書類の提出期限は、明日までですよ! なぜ、まだ終わっていないのですか!」
「わ、わかっているさ! だが、こんなにも書類が多いとは思わなくてね……!」
彼の言い訳にわたしは思わずため息をついた。
彼の仕事は決して早くない。
けれど、彼は決して手を抜かない。
真面目にそして誠実に1つ1つの仕事に取り組む。
その姿勢はわたしにはとても好ましく感じられた。
「リヒトさん。この部分はこうすれば、もっと効率よく処理できます」
わたしはそう言って、彼の書類を修正した。
彼はわたしの仕事ぶりを見て、目を見張る。
よい仕事ぶりだと思っているのだろうか。
「ま、まさか……! こんな方法が……!」
「ふふっ、これも経験ですね」
わたしがそう言うと彼は尊敬の眼差しで、わたしを見つめた。
「エレノアさんは本当にすごいね。まるで魔法使いのようだ」
「魔法ね……わたしはあなたの憎らしくない人の懐に簡単に入り込めるその力こそ魔法だと思ってしまうわ」
彼の言葉にわたしの胸の奥にじんわりと温かい感情が灯った。
褒められることには慣れている。
でも、彼の言葉はどこか純粋で、わたしの心を揺さぶる。
彼と一緒にいるとこういう体験が度々起こった。
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