第19話 呆れ果てた誘拐劇と、神獣のお仕置き
王都の中心部、最も地価の高い一等地にそびえ立つロルテーゼ公爵家の豪邸。
普段なら厳重な警備と美しい魔法の光に包まれているはずのその場所は、今、異様な喧騒と混乱の渦中にあった。
俺とライラ、そしてセリア、エレオノーラ、クロエの五人は、宵闇の冷たい風を切り裂きながら、公爵邸の巨大な正門へと到着した。
堅牢な鉄格子と幾重もの防衛魔法陣で守られたその正門には、黒ずくめの鎧を着込んだ公爵家の精鋭たる私兵たちが十数人、警備に当たっているはずだった。だが、彼らは外から歩いてきた俺たち侵入者の存在に、全く気づいていなかった。
無理もない。彼らの意識はすべて、俺たちではなく、背後の『屋敷の中』へ向けられていたのだから。
「な、なんだあの音は!? 広間の方からじゃないか!?」
「わからん! 先ほど特使様の命令で、部隊長たちが捕らえてきたあの白い獣……あれを広間へ連れて行った直後から、突然悲鳴が……!」
私兵たちが青ざめた顔で槍を震わせている。
屋敷の奥からは、分厚い石壁を隔てているにも関わらず、ドゴォォン! という建物の構造自体がひしゃげるような重低音と、高位貴族たちの情けない悲鳴が断続的に響き渡っていた。
どうやら、俺の可愛い相棒は、すでにきっちりとお仕置きを始めているらしい。
俺は隣を歩くライラと顔を見合わせ、再び深い溜息をついた。
あーあ。だから言ったんだ。ただの使い魔だと思って神様に手を出せば、痛い目を見るぞと。
「そこを退きなさい!」
俺が呆れ果てている間に、フリルのついた給仕服姿のエレオノーラとクロエが、怯える私兵たちの前へ堂々と進み出た。
私兵たちがビクッと肩を跳ねさせ、ようやく俺たちの存在に気づいて槍の穂先を向けてくる。
「な、何者だ! ここをロルテーゼ公爵家と知って……えっ、ヴァーミリオン侯爵家のご令嬢!? それに、アクアリス伯爵家の……なぜ、そのような奇妙な服を……」
見知ったエリート令嬢が、没落した泥女や見窄らしい平民(俺)と共に、しかも屋敷のメイドが着るような服で現れたことに、私兵たちは完全に混乱し、槍の切っ先を迷わせた。
エレオノーラは真紅の髪をかき上げ、夜の闇を照らすような不敵な笑みを浮かべた。
「我がヴァーミリオン侯爵家とアクアリス伯爵家の名において、貴様ら公爵家との完全なる決別を改めて宣言しますわ! さっさとその扉を開けて、道を空けなさい!」
痛快な啖呵と共に、二人は一切の詠唱を省いて高位の魔法を同時発動させた。
エレオノーラの放つ真紅の炎が私兵たちの足元を円状に焦がして退路を断ち、クロエの指先から放たれた絶対零度の冷気が、彼らの握りしめていた鋼の槍だけを一瞬で白く凍りつかせ、パキンッという小気味良い音と共に粉砕する。
命を奪うことのない、だが圧倒的な実力差を見せつける完璧な制圧。エリート令嬢としての矜持を爆発させた二人のプレッシャーの前に、私兵たちは完全に戦意を喪失し、腰を抜かして地面にへたり込んだ。
「よし、よくやった。あとはこの扉だが」
俺は、私兵たちの背後にある、幾重にも防衛魔法陣が施された分厚い鉄格子の門を見上げた。魔法で強固にロックされており、並の物理攻撃では傷一つつけられない代物だ。
だが、俺たちの陣営には、魔法などという回りくどい理屈を、純粋なカロリーと質量でねじ伏せる規格外の戦乙女がいる。
俺はインベントリから、まだ湯気を立てている極厚の海鮮串を取り出し、隣で目を輝かせているセリアの口元へ差し出した。
「セリア。頼めるか」
「はいっ! お任せくださいませ、タロウ様!」
セリアは満面の笑みで海鮮串に食らいつき、巨大な海老の身とニンニク味噌の濃厚な脂を、一息に胃袋へと流し込んだ。
ゴクリ、と彼女の喉が鳴った瞬間。
セリアの瞳孔がカッと開き、彼女の華奢な身体から、目視できるほどの濃密な熱気――極上のカロリーによって練り上げられた『闘気』が爆発的に立ち昇った。
「すぅぅぅぅ……っ!」
セリアは深く息を吸い込み、色褪せた革鎧をミシミシと軋ませて低く沈み込む。
そして、大地を砕くような踏み込みと共に跳躍し、腰の入った完璧な右の正拳突きを、防衛魔法陣の中心へと真っ直ぐに叩き込んだ。
ドゴォォォォォォンッ!!
それは、大砲の直撃でも受けたかのような轟音だった。
魔法のロックなど紙切れのように意味を成さず、分厚い鉄格子の門が、飴細工のようにぐにゃりとひしゃげながら吹き飛んでいく。
純粋な物理の破壊力だけで、公爵家の絶対的な守護が木端微塵に粉砕されたのだ。
俺たちは、へたり込む私兵たちを完全に無視し、すでに内側から崩壊が始まっている公爵家の敷地内へと悠然と足を踏み入れた。
◇
粉砕された門の残骸を踏み越え、美しく整えられていたはずの庭園を抜けて、夜会が開かれていた豪奢な大広間へと乱入した俺たちの目に飛び込んできたのは、予想通りの『地獄絵図』だった。
「ひ、ひぃぃぃっ! 助けてくれぇっ!」
「お、おもい……っ! 体が、潰れる……っ!」
広間の中央には、美しく着飾っていたはずの高位貴族たちが、まるで目に見えない巨大な手に押し潰されるように、床に這いつくばって情けない悲鳴を上げていた。
豪華絢爛な調度品は原型をとどめないほどにひしゃげ、タペストリーは引き裂かれ、天井から吊るされていた魔力結晶のシャンデリアは、重力に耐えきれずに床へ墜落して粉々に砕け散っている。
そして、その広間の最も奥。一段高くなった玉座のような場所で、公爵令嬢テローラが、顔面を蒼白にして腰を抜かしていた。
彼女がルゥを閉じ込めていたはずの『光の檻(捕縛魔法)』など、とうの昔に霧散している。
代わりにその玉座の上に鎮座していたのは、透き通るような純白の毛並みを逆立てた、小さな白い獣だった。
ルゥだ。
だが、その姿はいつもの愛らしい彼女とは少し違っていた。
額に埋め込まれた宝石が、普段の愛情と温もりを示す『深紅』の輝きから、光すらも吸い込むような漆黒の『黒水晶』へと変化していたのだ。
それこそが、カーバンクルの女神たる彼女の、激しい怒りと共に顕現する『闇と重力』の神威モードだった。
「きゅぅぅーっ!!」
ルゥが小さな前足を振るい、威風堂々たる鳴き声を上げる。
(兄様の極上ご飯を馬鹿にして、あまつさえルゥをこんな檻に入れるなんて! 罪、重いよ!!)
俺には彼女のそんな怒りの声がはっきりと聞こえた。
ルゥが鳴くたびに、テローラの周囲の重力が局地的に何十倍にも跳ね上がり、目に見えない質量の暴力が彼女の華奢な体を床へと縫い付けていく。
「あ、あぐ……っ! な、なんなのよこれぇ……っ! 魔法が……私の高位魔法が、全く発動しない……っ!」
テローラは床に顔を押し付けられ、美しいドレスを泥まみれにしながら、恐怖と混乱で涙と鼻水を流していた。
洗脳の使い魔どころか、圧倒的な神の力。
魔法至上主義の頂点に立つ彼女にとって、自身の魔法が一切通じず、見たこともない理不尽な力で蹂躙されるという現実は、彼女の薄っぺらい常識を完全に破壊するには十分すぎた。
「ひははははっ! やれやれ、ルゥの奴、容赦がないのう。あんな黒水晶の姿、神界でも数えるほどしか見たことがないわ」
ライラが愉快そうに笑いながら、俺の背中をバンバンと叩く。
俺は小さく息を吐き、これ以上の破壊で屋敷が完全に倒壊する前に、玉座へと向かってゆっくりと歩み出た。
「ルゥ、そこまでにしておけ。やりすぎだ」
俺が静かに声をかけると、玉座の上で威嚇していたルゥがピクリと耳を動かした。
彼女は俺の姿を認めるなり、額の漆黒の宝石をスッと元の美しい深紅へと戻し、いつもの愛らしいオコジョの姿で「きゅきゅっ!」と嬉しそうに鳴いた。
そして、ふわりと跳躍すると、テローラの頭を物理的に踏み台にして、真っ直ぐに俺の胸の中へと飛び込んできた。
「よしよし、怪我はないな。怖い思いをさせて悪かった」
俺がルゥの小さな頭を指で撫でてやると、彼女は俺の頬にすりすりと顔を押し付け、安心したように目を細めた。俺はルゥの美しい毛並みが一切傷つけられていないことを確認し、ほんの少しだけ目元を緩めて安堵した。
「……ひ、ひぃぃっ!」
ルゥの怒りが収まり、重力から解放されたテローラが、這うようにして後ずさり、俺たちを見て悲鳴を上げた。
「な、なんなのよその化け物は! あんたたち……泥女と、下賤な平民の分際で、私を……この国王特使である私を殺す気なの!?」
恐怖で震えながらも、必死に権力という名の盾に縋り付こうとする哀れな令嬢。
俺は再び氷のように冷たく、暗い瞳に戻り、テローラを正面から見据えた。
だが、俺の心にあるのは、彼女に対する怒りでも殺意でもない。
ただ、「身の程知らずにも神様に喧嘩を売り、食い物を粗末にした哀れな小娘」を見るような、極限まで冷ややかな、呆れ果てた視線を下ろすだけだった。
「お前みたいな口だけが達者な小娘を殺して、俺の包丁を汚す趣味はない」
俺は冷たく言い放つと、空間収納のシステムスキルを起動させた。
貴族たちが固唾を飲んで見守る中、俺は目の前の空間に手をかざす。
眩い光の粒子が弾け、大広間のど真ん中、最高級の魔法絨毯の上に、ドォォォンッ! という重い音を立てて巨大な質量が叩きつけられた。
「な……に……っ?」
テローラが、そして広間にいたすべての貴族たちが、完全に理解の範疇を超えた事態に目を剥き、言葉を失った。
そこに現れたのは、俺が廃城で愛用している、長年使い込まれた巨大な木製の『調理台』と、黒光りする鉄の『竈』だったのだ。
豪華絢爛な大広間に、泥臭く無骨な厨房設備が突如として出現した異常な光景。
空間魔法で巨大な質量を持ち込むなどという、彼らの崇拝する魔法の理から完全に外れた規格外の所業。誰もが恐怖と混乱で身動き一つ取れず、ただ立ち尽くすことしかできない。
俺は静かに竈に火を入れ、インベントリから迷宮で獲れた極上食材と、神の封印蔵から持ち出した『第三の扉』の究極の調味料を、調理台の上に次々と並べていった。
カンッ、カンッ、と。
静まり返った大広間に、俺が包丁の峰でまな板を叩く音だけが響き渡る。
「……うちの大切な家族に手を出した落とし前は、お前が一番大事にしているその『下らない常識』をへし折って払ってもらう」
俺は調理台の前に立ち、腕まくりをして、床に這いつくばるテローラを見下ろした。
「お前らのそのくだらない特権意識と、味気ない魔法料理に飼い慣らされた腐りきった舌。俺の作る『本物の飯』で、その価値観ごと根底から叩き潰してやる。せいぜい、指をくわえて見ていろ」
俺は調理台の前に立つと、振り返って夜会の豪華な長テーブルから、テローラが用意していた『光り輝く最高級の魔力食材(果実や野菜)』を無造作にいくつか鷲掴みにし、自分のまな板の上に放り投げた。
「なっ……! 泥に塗れた平民の手で、私の高貴な食材に触るな!」
喚くテローラを完全に無視し、俺はインベントリから自分の食材を取り出す。
ドンッ! と重い音を立ててまな板に置かれたのは、奈落の迷宮の底で採れた『泥まみれの醜い蓮の根』と『分厚い泥の鎧を纏った巨大蟹』だった。
光り輝く魔力食材と、見窄らしい泥の塊。
両極端な二つを並べ、俺は静かに『概念包丁』を抜き放つ。
「……泥に塗れているから、底辺のゴミか。表面が綺麗に光っているから、高貴な本物か。お前ら特権階級の目は、本当に節穴だな」
「なに……を……っ」
「教えてやるよ。お前らが『泥女』と見下していたものがどれほど美しく、お前らが縋り付いているその見栄の殻が、どれほど中身のすっからかんな『搾りカス』かってことをな」
カンッ!
静まり返った広間に、俺が包丁を振り下ろす泥臭くも鋭い音が響き渡る。
そして次の瞬間、特権階級の常識を根底から覆す、未知にして暴力的な『本物の香り』が大広間の空気を支配し始めた。




