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第18話 愚かなる兵糧攻めと、宵闇のゲリラ屋台

 

  王都の市場は、いつもなら活気のある怒号と様々な食材の匂いに包まれているはずだった。


 だが、その日の市場はひどく静まり返り、どこか異様な空気に包まれていた。


  俺は奈落の迷宮のさらに奥深く、食の女神が封印したという第三の扉で手に入れた極上の熟成味噌に漬け込むための、安価な端野菜や香草を買い求めにきた。


 だが、馴染みの八百屋の店先には、見事に何も並んでいなかった。隣の肉屋も、向かいの魚屋も同じだ。


 並んでいるのは、淡い光を放つ高価な魔力食材ばかりで、俺がいつも買っているような泥のついた根菜や、魔獣の端肉といった、いわゆる底辺の食材が完全に消え失せていた。


 「どういうことだ、親父。今日は随分と店が寂しいじゃないか」


  俺が声をかけると、八百屋の親父はビクッと肩を跳ねさせ、ひどく青ざめた顔で周囲を見回してから、すがるように両手を合わせた。


 「も、申し訳ねえ兄さん……。俺たちもどうしていいか分からねえんだ。今朝早く、ロルテーゼ公爵家の特使様から直々の厳命が下ってな。魔力を持たない食材は、すべて公爵家が買い上げる。一般への販売や流通は、一切まかりならんって、兵士たちが全部荷車で持っていっちまったんだよ」


  親父の言葉を聞き、俺は首を傾げた。


 魔力を持たない食材の買い占め。一体何のためにそんな真似をするのか、皆目見当がつかない。


 大気中の魔力を吸い込んだだけの味気ない魔力食材を有難がっている特権階級の貴族が、泥に塗れた野菜や血抜きの甘い端肉を集めてどうするというのだ。


  まともな下処理の技術も持たない連中がそんなものを山のように抱え込んだところで、結局は腐らせて捨てることになるだけだ。


 俺は心の中で、深い、深い溜息をついた。食材に対する致命的なまでの冒涜。


  料理人として決して褒められた行いではないが、自らの金と権力を使ってわざわざ食べ物を腐らせるような真似をしているその姿は、ひどく滑稽で、哀れにすら思えた。


 市場の商人たちは、自分たちの生活の糧である品物を突然奪われ、公爵家の報復に怯えて震えている。


 「そうか。親父も災難だったな。気にするな、今日は帰るよ」


  俺は親父に迷惑料として銀貨を一枚握らせると、早々に市場を後にした。


 流通が止まったところで、俺には痛くも痒くもない。俺の手札には、市場の流通網など一切関係のない奈落の迷宮の極上食材と、神の封印蔵の究極調味料という、圧倒的で無限の供給源があるからだ。


 ただ、この理不尽な嫌がらせの理由だけは、いまいち腑に落ちないままだった。


  ◇


  王都の外れにあるボロ廃城に帰還し、市場での顛末を厨房にいた面々に話すと、予想通り大爆発が起きた。


 「あの大馬鹿な成金公爵女! タロウ様の作ってくださる極上のお食事を、底辺のゴミと侮辱して流通を止めるなんて……絶対に許しませんわ!」


  フリルのついた給仕服姿のエレオノーラが、真紅の髪を振り乱してバンッと調理台を叩く。その横では、クロエも冷たい怒気を孕んだ瞳で銀縁メガネの位置を直していた。


 二人のただならぬ剣幕に、俺は目を丸くした。


 「おいおい、落ち着け。公爵女ってのは、お前らが言っていたあの特使のことか? なんであいつが俺たちの飯を侮辱したって話になるんだ」


  俺が尋ねると、エレオノーラとクロエは呆れたような、そしてどこか申し訳なさそうな顔を見合わせた。


 そしてエレオノーラが、小さく息を吐いて口を開く。


 「タロウ様は本当に、王都の政治や派閥争いにご興味がないのですね……。簡単なことですわ。数日前、私とクロエはあの特使が主催したお茶会をすっぽかして、こちらでお手伝いをしておりましたの」


「ええ。特使の誘いを断るなど、本来ならあり得ないこと。それに加えて、セリア様が以前とは見違えるように美しくなられたという噂が、すでに社交界で広まっておりますわ」


  クロエが冷静な口調で言葉を継ぐ。


 「あの異常なまでにプライドの高い公爵女が、自分より格下の没落令嬢に手駒を奪われ、美しさでも負けたと知ればどうなるか……。火を見るより明らかですわ」


「私たちが違法な呪術薬で洗脳されているのだと、勝手に勘違いして激怒したのでしょう。そして、タロウ様が市場で買われていた魔力を持たない食材を、その呪術薬や美容薬を作るための『触媒』だと思い込み、根元から断つために市場を封鎖した……。そういうことですわね」


  二人の掛け合いを聞き、俺はようやくすべての点と点が繋がった。


 なるほど、そういうことか。


 あいつらは、俺が市場で買っていた底辺の食材を、その呪術薬や美容薬を作るための材料だと思い込み、根元から断つために兵糧攻めに出たというわけだ。


  他人の足を引っ張るための、ちっぽけな権力闘争と見栄。その道具として、食い物を巻き込んで腐らせたのか。


 俺は再び、重い溜息を吐き出した。本当に、どこまでも浅ましく可哀想な奴だ。


 「タロウ様の作ってくださる至高のお食事を、洗脳の呪術薬だなんて……っ! アクアリス伯爵家とヴァーミリオン侯爵家に対する明確な敵対行為とみなしますわ!」


「すぐに実家の権力を総動員して、ロルテーゼ家の物流網を物理的かつ経済的に凍結させてやりますわ!」


  エリート令嬢二人が、今にも実家の私兵を率いて公爵家に乗り込みそうな勢いで息巻いている。

 俺は苦笑しながら、二人の頭にポンポンと手を乗せて制止した。


 「放っておけ。あんな哀れな奴と同じ土俵に立って、権力で殴り合う必要はない。そんなことをしても、飯が美味くなるわけじゃないからな」


  俺の言葉に、エレオノーラたちがハッとして動きを止める。


 俺は腰のエプロンの紐をキュッと締め直し、不敵に口角を吊り上げた。


 「料理に対する侮辱は、料理の腕だけで黙らせるのが俺の流儀だ。奴のちっぽけなプライドと権威を、匂いだけで物理的にへし折ってやる。さあ、最高の仕込みを始めるぞ」


  俺が宣言すると、厨房の空気が一気に引き締まった。


 エレオノーラもクロエも、そしてセリアも、給仕服の袖を捲り上げてやる気満々だ。


 だが、豊満なプロポーションの女たちが三人揃って狭い調理台の周りに立つと、どうしても身動きが取りづらくなる。


 俺が少し作業のしづらさを感じた、その時だった。


  ポンッ、という軽快な音と共に、俺の足元にいた銀色の耳を持つ少女ルゥの姿が、ふっと掻き消えた。


 代わりにそこにいたのは、透き通るような純白の毛並みを持ち、額に微かな宝石の輝きを宿した、小さなオコジョのような姿の美しい獣だった。


 それが、カーバンクルの女神たるルゥの、真の神獣としての姿だ。


 「きゅきゅっ!」


  ルゥは愛らしい鳴き声を上げると、タタタッと俺の足から背中を駆け上り、肩の上にちょこんと乗って短い前足を擦り合わせた。


 どうやら、俺の作業の邪魔にならないように、自ら小さな姿になってくれたらしい。


 「う、嘘……っ! ただの使い魔のネズミかと思ったら、まるでお伽噺に出てくる伝説の神獣そのものですわ! なんですの、あの愛らしい姿はーっ!」


  セリアが両手で口を覆い、目をハートにして身悶えしている。エレオノーラとクロエも「さ、触りたいですわ……」「あのフワフワ、たまりませんわ……」と、完全にメロメロになっていた。


 俺は「おっ、気遣いサンキュな」とルゥの小さな頭を指で撫でてやると、ルゥは嬉しそうに目を細めて俺の頬にすりすりと顔を押し付けてきた。


  肩の上の愛らしい相棒と共に、俺は極上の仕込みに取り掛かる。


 用意するのは、迷宮で仕留めた巨大伊勢海老の極厚のむき身と、たっぷりと脂の乗った白身魚。それを一口大より少し大きめに切り分け、鉄でできた大ぶりの串に交互に刺していく。


 そして味の決め手となるのは、神の封印蔵で手に入れた究極の調味料だ。


 一つは、特濃の醤油とみりんを煮詰め、甘みと香ばしさを極限まで高めた黒の甘辛ダレ。


 もう一つは、長期間熟成された深いコクのある味噌に、すり潰した大量のニンニクと胡麻油を混ぜ合わせた、暴力的なニンニク味噌だ。


  俺が刷毛を使って、海鮮の串にたっぷりと二種類のタレを塗り込んでいく。


 そのたびに、肩の上のルゥが小さな前足を一生懸命に振り下ろし、「きゅっ!」と愛らしい声と共に、見えない愛情の加護を食材へとふりかけてくれる。


 神獣の加護と、極上の物理食材、そして神の調味料。


 これ以上ない最強の布陣による、究極の海鮮串焼きの準備が整った。


  ◇


  数日後の夜。


 王都の中心部にあるロルテーゼ公爵家の豪邸では、テローラが自身の権力を誇示するための、王都で最も豪奢な王宮夜会が開催されていた。


 広大な庭園には淡い魔法の光がいくつも灯り、美しく着飾った貴族たちが、光り輝くが無味無臭の魔力料理を片手に、退屈な派閥争いの歓談を交わしている。


  俺たちは、その煌びやかな夜会会場の正門のすぐ外。公爵家の敷地と公道のギリギリ境界線に、一台の大きな屋台を引き入れていた。


 クロエが絶妙な氷結魔法のコントロールで食材を入れた木箱の鮮度を保ち、エレオノーラが魔法を使いたい衝動を必死に堪えながら、パタパタとうちわで炭火を煽る。


 そして、セリアが一番の晴れ着を身に纏い、極上の笑顔で看板娘として道行く人に愛想を振りまいていた。


 屋台の屋根の縁では、小さな白い神獣の姿になったルゥが、チョコンと座って尻尾を振り、完璧な看板代わりとして愛嬌を振りまいている。


 「よし、火加減は完璧だ。いくぞ」


  俺は熱気に包まれた網の上に、タレとニンニク味噌をたっぷりと塗った海鮮の巨大串を一気に十本、並べて乗せた。


  ジュワァァァァァァッ!!


  爆発的な音と共に、網から真っ白な煙が立ち昇った。


 熱せられた海老と魚の動物性の脂が炭に落ち、焦げた醤油の暴力的なまでの香ばしさが弾ける。


 さらに、熱を帯びたニンニク味噌の、人間の理性を直接殴りつけるような強烈な香りが、周囲の空気を一変させた。


  俺がうちわでパタパタと煙を仰ぐと、その未知の暴力的な匂いは、宵闇の冷たい風に乗って公爵家の分厚い鉄門を越え、夜会が開かれているバルコニーへと真っ直ぐに流れ込んでいった。


 「……な、なんだ、この匂いは……!?」


「あ、頭が……口の中が……っ!」


  夜会会場にいた貴族たちの動きが、一斉に止まった。


 彼らの手に握られていた、無味無臭の美しい魔法菓子。それは今、ただの色を塗った砂の塊のように味気なく感じられたはずだ。


 生涯で一度も嗅いだことのない、焦げた醤油と脂、そしてニンニクの強烈な香り。


 それは、上品な魔法料理に飼い慣らされていた彼らの脳髄を激しく揺さぶり、本能的な飢えを強制的に引きずり出した。


 「す、少し……夜風に当たってきますわ」


「わ、私も、少し馬車の様子を……」


  一人、また一人と。


 貴族たちは不自然な言い訳を口にしながら、フラフラと操られるように会場を抜け出し、正門の向こう側、暴力的な匂いの発生源である俺の屋台へと吸い寄せられてきた。


 「いらっしゃい。極上の海鮮串焼きだ。一本、銀貨一枚でどうだ?」


  俺がこんがりと焦げ目のついた熱々の串を差し出すと、身なりの良い貴族の男が震える手でそれを受け取り、理性を失ったようにかぶりついた。


 ザクッ、ジュワッ。


 弾力のある海老の身から濃厚な肉汁が溢れ出し、焦げたニンニク味噌の圧倒的な旨味が口内を支配する。


 「う……美味いっ!! なんだこれは、なんだこの極上の食べ物はぁぁっ!!」


  貴族の男は雷に打たれたように硬直し、その後は言葉も発さず、ただひたすらに串を貪り食った。


 その光景を見た他の貴族たちも、次々と銀貨を握りしめて屋台に殺到する。


 「もっとだ! もっと串をよこせ!」


「私にも! 銀貨ならいくらでも出すわ!」


  屋台の前に群がる貴族たちの狂乱が最高潮に達し、怒号のような歓声が視界と音を完全に遮った、まさにその時だった。


 俺はふと鼻をヒクつかせ、網の上で炭火を煽る手を止めた。


 極上の動物性の脂と、焦げた醤油の暴力的なまでの香ばしさ。その圧倒的な食欲の匂いの中に、ほんの一瞬だけ、ひどく冷たくて異質な『匂い』が混じったのを感じ取ったのだ。


  ……ん? なんだこの妙な匂いは。焦げた醤油に混じって、泥水みたいな不快な臭気……いや、魔力か?


  俺が訝しげに眉をひそめたその瞬間、隣で氷結魔法を操っていたクロエが、鋭く銀縁メガネを光らせて上空を睨みつけた。


 「……上空から、闇属性の捕縛魔法ですわ!」


  クロエが叫んだ直後。屋台の屋根の上の影が不自然に歪んだかと思うと、音もなく伸びた闇の魔力帯が、看板代わりとして愛嬌を振りまいていた小さなルゥの身体を唐突に絡め取った。


 「……きゅっ!?」


  短い悲鳴すら喧騒にかき消され、白い神獣の姿は夜の闇の中へ、瞬きする間に引きずり込まれて消えた。


 屋根の上にはもう誰もいない。俺の家族であるルゥだけを、ピンポイントで攫っていった黒ずくめの私兵たちの気配が、公爵家の敷地内へと急速に遠ざかっていく。


 「る、ルゥちゃん!? 嘘、ルゥちゃんが攫われましたわーっ!」


  セリアが顔面を蒼白にして悲鳴を上げ、エレオノーラが「あの公爵女、なんて卑劣な真似を!」と激昂して腰の剣の柄に手をかける。


 だが、俺の胸中に湧き上がったのは、家族を傷つけられた激しい怒りでも、殺意でもなかった。


 俺の中から漏れ出たのは、頭を抱えたくなるほどの、深く、深い、心底からの溜息だった。


  ……あいつら、よりによってカーバンクルの『女神ご本人』を誘拐したのか。


  俺たちの嫌がらせのためにペットの使い魔を攫ったつもりなのだろうが、相手が絶望的に悪すぎる。


 馬鹿を通り越して、もはや不憫ですらあった。


 あの底抜けに高いプライドを持った特使様が、これから俺の可愛い相棒の逆鱗に触れてどんな地獄を見るのかと想像すると、哀れみすら湧いてくる。


 「ぎゃはははははっ! ひーっ、傑作じゃ! 腹が痛いわ!」


  屋台の奥で酒瓶を抱えていたライラが、俺の思考を代弁するかのように、地面を転げ回って大爆笑し始めた。


 龍女神である彼女は、同格の神が人間のちっぽけな魔法で攫われたというあまりにもシュールな光景に、完全にツボに入ってしまったらしい。


 「あ、あのポンコツども、我が妹分をただの愛玩動物か何かと勘違いしおったわ! 今頃、神罰が下って屋敷ごと消し飛んでおるかもしれんな! ひーっはっはっは!」


「笑い事じゃありませんわライラ様! すぐに助けに行きましょう、タロウ様!」


  涙目で訴えかけてくるセリアたちを落ち着かせるように、俺はポンポンと彼女たちの頭を撫でた。


 そして、腰に巻いたエプロンの紐をキュッと強く締め直す。


 「助けに行くのは『公爵家』の方だ。ルゥの奴が加減を間違えて、屋敷ごと王都の区画を更地にする前に、止めに行くぞ」


  俺は網の上に残っていた極厚の海鮮串を数本ひったくると、これから起きるであろう一方的な蹂躙劇に巻き込まれないよう、貴族たちを屋台の前に残したまま、夜の闇に沈む公爵邸へと真っ直ぐに歩き出した。





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