第2話 昼桜と夜桜
高校でのある日のこと――
「今日は俺が日直か。えっと、一緒の女子はっと……」
俺はその日、黒板に張られた日直の当番表に目を通していた。
ペアの名前は『桜井 澪』とあった。
同じクラスにいることは知っていた。だが人のことは言えないが、決して目立つ子ではない。
髪を結んでいて、眼鏡をかけているからか、真面目そうに見える。それに加えていつも眠そうにしていて、授業中は半分うつらうつらしている。俺にはそんな印象しかなかった。
「よろしくね、吉野くん」
放課後――
教室に残ったのは俺と桜井澪だけ。
モップと黒板消しを手にした彼女が、小さな声で挨拶をしてきた。
眼鏡の奥にある瞳はぼんやりしていて、声も弱々しい。だけど、その響きに、俺は心臓をひとつ打ち漏らした。
(……この声、どこかで)
一瞬どこかのだれかの記憶と交差するような感覚に襲われる。
重なるようで、でも違うようで。頭の中で警報のようなざわめきが鳴るのに、確信には届かない。
「……ああ、よろしく」
そう返すと、澪は黒板消しを持ち替え、黙々と文字を消しはじめた。俺は床をモップで拭きながら、耳だけが澪の声を探している。
途中、彼女が背伸びをして黒板の上の方を消そうと右手を伸ばしたとき、右手の甲に黒いインクの走り書きが目に入った。
『数Ⅱ p.142 例題7』
赤のボールペンで直接書いたらしい数字。宿題のページを忘れないようにとっさに書いたのだろう。小さな字が彼女の白い手の甲に並んでいた。
やがて俺達はもくもくと、日直に割り当てられた教室の掃除を終えた。
「よし、これで終わりだね桜井さん」
「うん」
俺は教室の時計に目をやった。
(いっけね! 早く出ないとバイトに遅れる!)
「あ! じゃあ俺このあとバイトだから! 先行くね」
掃除を終え、彼女と別れても、俺はずっとモヤモヤを抱えていた。声の既視感。点が散らばっているのに、線にならない。
その夜。
シフトの終わり間際、店長に頼まれてゴミを出しに裏口へ向かった。夜風が冷たく、頬を撫でる。
「うお、ずいぶんと涼しくなったな」
やがて、ゴミ捨て場の倉庫から帰ってきた時、店のベンチに腰掛ける影が目に入った。
グレーのスウェット。白いスニーカー。缶のブラックコーヒーを手に、夜空を見上げている。
「あ……」
思わず声が漏れる。
俺の声が聞こえたのか、彼女がこちらを振り向いた。
ふと、俺の視線がブラックコーヒーを持つ彼女の右手の甲に落ちた。
『数Ⅱ p.142 例題7』
俺は思わず息を呑む。
今日まで俺の中でモヤモヤと渦巻いていた、昼と夜の断片が、ここで一気に線で繋がった。
「……もしかして、桜井さん!?」
声が裏返るほどの衝撃だった。
桜井澪の肩がびくりと震え、こちらを見て目を細める。
「……え、だれですか? 私いま、メガネを家に置いてきているのであまり細かくは見えてなくって」
なるほど。そういうことか。
「あぁ、えっと……吉野大河です」
「え! 吉野君!?」
* * *
その後、バイトのシフトが終わった俺は、私服に着替えたあと桜井澪とベンチで話をしていた。
「おかしいね! お互いずっとすれ違い続けてたなんて!」
「確かに! 桜井さんの右手のソレを見なかったら、多分今でもわかんなかったよ」
「そっかぁ」
コンビニの白熱灯には小さな虫たちが集まってきていた。駐車場には、仕事帰りのサラリーマンが、何十分かおきに車を停めては帰路についていく。
昼間、学校で会う桜井さんとは違って、今の彼女は力が抜けていて、俺も楽に話せていた。
彼女はベンチに座り直し、缶を傾けた。白い喉が静かに動く。
やがて空になった缶を置くと、夜空を仰いだままぽつりと口を開く。
「私ね。夜って、落ち着くの。家にいると勉強ばかりで、息が詰まるから。ここに来ると、やっと呼吸できる気がするの」
「……呼吸」
「……うち、両親がしつけに厳しいの。学校では“優等生”でいなきゃいけなくて。だから夜くらいは、別の自分でいたくて……ここに来てるの」
「いつもそのブラックコーヒーを買うよね?」
「あ、これ? ブラックコーヒーを飲んでると、大人になったみたいで。ほんとは苦いだけなんだけどね」
はにかんで笑った顔は、学校では見せない表情だった。
俺の胸に温かな波が広がる。昼間の眠そうな彼女とは違う。
夜の桜井澪は自由で、素直で、少し背伸びをしている。
「吉野くんは……学校でも、勉強がんばってるよね? 期末テストの順位の張り出しに名前が出てるし」
「え? ……まあ、俺、母子家庭でさ。母親に心配かけたくないし。進学もしたいしね」
「えらいなぁ。私なんて、机に向かってても頭に入らなくて。だから、休憩の合間にこうやってコーヒーを飲んで、ごまかしてるの」
空缶を指で転がしながら笑う澪。
俺はうなずきながら、心の中でつぶやいていた。
昼と夜、どっちが本当の彼女なんだろう。
いや、きっと両方が桜井澪なのだ。
――数日後。
コンビニのシフトを終えて自転車で帰る途中、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。桜井澪だ。塾の帰りだろうか。鞄を肩にかけて歩いている。
俺は思わず自転車を降りて、押しながら近づいた。
「……桜井さん?」
呼びかけると、彼女が驚いたように振り返った。一人だからか髪を下ろして、眼鏡をかけていない。それでいて制服姿だった。
学校と夜の姿が混ざった、どちらでもない顔。
「その声、ひょっとして吉野くん……?」
ぎこちなく笑う。俺も笑い返し、自転車を押しながら並んで歩く。
「驚かせてごめん。塾の帰り?」
「うん。さっきまで。……吉野くんも、バイトお疲れさま」
「ありがとう」
並んで歩く足音が夜道に響く。街灯が一定間隔で影を落とし、そのたびに彼女の表情が明るくなったり暗くなったりする。
やがて、澪が口を開いた。
「……吉野君。もし、学校で私を見かけても。話しかけないでね」
「え?」
「夜だけの私でいたいから。昼の私と夜の私、分けておきたいの」
俺は立ち止まり、胸の奥にざらつくものを感じた。けれど、彼女の願いを壊したくなくて。
「……うん。分かった」
その言葉を口にした瞬間、彼女の表情が少し和らいだ。
夜風に吹かれながら並んで歩く道は、今の俺にはすこしほろ苦かった。