第1話 ブラックコーヒーの似合わないあの子
――キーンコーンカーンコーン
放課後のチャイムが鳴り終わると俺はすぐに学校を出る。
向かう先は俺の通う高校から近いコンビニエンスストアだ。
俺は銀色に光る自転車を停めると、急いで店の裏口から中へ入る。
鞄をロッカーに押し込み、青いエプロンの紐を結ぶ。時計は十六時五十八分。あと二分でシフトが始まる。
俺の名前は吉野大河。十七歳、高校二年生だ。
うちは母子家庭。大学に行くためには入試や学費などの費用は、ある程度自分でどうにかしなきゃいけない。
だから放課後はいつも、商店街の真ん中にある二十四時間営業のコンビニでアルバイトをしている。
シフトは十七時から二十一時半まで。レジに立って、品出しをして、掃除をして。それが一日の大半を占めている。
家に帰ってからの勉強も欠かさないから、遊ぶ時間なんてほとんどない。でもそれを苦に感じたことは一度もない。自分がやりたいことのための犠牲なら、喜んで払う。俺はそういう性分なのだ。
コンビニに来るお客さんは夕方は学生、十九時を過ぎると会社帰りが増え、二十一時前には常連の顔がちらほら。
青白い蛍光灯の下、バーコードの「ピッ」という音と、ドアのチャイムがリズムみたいに繰り返される。
いつものように品出しを終えてレジに戻ると、自動ドアの開閉時の軽快なBGMが鳴った。
入ってきたのは、ふわりとした今時の空気をまとった女の子だった。
グレーのスウェットのセットアップ。肩が落ちるドロップショルダーに、白いスニーカー。髪は下ろしていて、前髪が少しだけ目にかかっている。片耳にイヤホンをつけていて、心なしか楽しそうだった。
余計なお世話だが、顔立ちもいい。けれど作り込んだ感じではなく、夜風にほどけたみたいな自然さだった。
「いらっしゃいませ」
俺はいつも通りの声で迎えると、彼女は、奥のドリンクのコーナーへ向かった。
缶のブラックコーヒーを一本取り、そのまま文具コーナーで立ち止まる。しばらく眺めてから、シャープペンの芯と、大学ノートを一冊。
「袋、おつけしますか?」
「いえ、大丈夫です」
澄んだ声だった。落ち着いていて、小さくて、やわらかい。
俺はレシートを手渡しながら、「ありがとうございました」と言う。
彼女は、こちらを見るでもなく、しかし確かにこちらへ向けて、「ありがとうございます」と、小さく礼を返した。
店を出た彼女は、ガラス越しに見える店外のベンチに腰掛けた。彼女はブラックコーヒーのプルタブを指で弾く。
夜風が髪をゆっくり揺らす。
その後しばらく、彼女はその場所で缶を傾けているのが見えた。
気づけば、俺は視線を奪われていた。
仕事中だぞ! と頭では分かっているのに、目の奥がベンチの方へ吸い寄せられる。
「吉野くん、前出しお願いできる?」
店長の声に我に返る。
慌てて俺は「はい」と返事をして、指示のあったデザートの列から整えはじめる。
ちなみに小売業でよく使われる「前出し」というのは言葉通りで、商品の面をその棚の一番最前列に揃えていくことを指す。その際には「先入先出法」という考え方の元、消費期限の早いものを優先席に手前に出していくという作業も兼ねる。
その最中、良いのか悪いのかちょうどいい角度で、ガラスに映るベンチの彼女が視界の端に入る。
彼女は、誰とも話すでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ夜の空気を飲むみたいにコーヒーを飲んでいた。
その夜から、彼女は週に二度か三度、ふらりと現れるようになった。買うものはほとんど変わらない。ブラックコーヒー一本、たまにシャー芯、消しゴム、ノート。
会計のときはいつも小さく「ありがとうございます」と言い、ベンチでひと息つく。そして十分ほどで帰っていく。
彼女がレジに来るたびに、胸のどこかが静かにざわめいた。彼女の面影をどこかで感じたことがあるのだ。そう思うのに、どこで見たのかが出てこない。彼女の声にもデジャブを感じていた。誰かの声と似ている。けれど、その“誰か”に名前がつかない。
まったく、これが世界史の問題なら答えを見ればすぐに解決するのに! ものすごくモヤモヤする!
「吉野くん」
ある日、商品棚の什器の上を拭いていると、店長が声を落として肩をつついた。視線の先には、いつものベンチと、いつもの彼女。
「最近、あの子が来ると、吉野くんがちょっとソワソワしてる気がするけど。どうかしたかい?」
「……すみません。どこかで見た気がするんです。声も、聞き覚えがあって。でも、誰だろうって」
「ふむふむ。こりゃあ――一目惚れかい?」
店長は口元だけで笑った。年長者特有のからかい。俺は思わず苦笑いして、布巾を絞り直す。
「いや、そんな……。ただ、気になって」
「気になるのはいいことさ。人に関心がないより、ずっと。ま、仕事中にお客様に凝視はダメだけどね」
「み、見てませんよ!」
「ガラスは正直だよ、吉野くん」
そんな雑談を交わすと、少しだけ気が楽になった。店長は俺の家庭の事情を知っていて、いつも適度な距離で見てくれる。ありがたい大人だ。
その日の閉店――いや、うちは閉まらないから、俺のシフトの終わりの時間、二十一時半。
タイムカードを押して裏口から外に出ると、商店街の街灯が黄色く滲んでいた。
ベンチは空っぽだった。ブラックコーヒーの彼女はもう帰ったらしい。
冷えた空気の中に、ブラックコーヒーのわずかな苦い匂いが残っている気がした。
次に彼女が来たのはその二日後。相変わらずスウェットで、髪は無造作に下ろしたまま。
彼女は会計は手早く、礼は短く。ベンチでの時間は、多分、十分ほど。
俺は、仕事の手を止めないように気をつけながら、視界の端にだけ彼女を置いた。置いておきたい、と思った。彼女の時間に、俺の視線が混ざってはいけない気がしたからだ。