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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水は動かねば腐っていく

作者: 蔵前

「こちらになります」


フェミレス店員が私を誘導したのは、仕切りで区切られている壁際の四人席である。四角いテーブルを挟んで壁に端が接している二台のソファが設置されていて、壁の反対側は通路という閉塞感のある場所だ。

だが私は一人客でしかない。

注文品が届くまではスマホを弄り、食べ終えれば職場に戻るだけ。

逆にせっかくの昼休みの一時間、同僚とは顔を合わせたくない。


愚痴を聞いてやっていただけなのに、何故か私がその愚痴を影で言っていた事になっているなんて。離職を決める時は、仕事の内容よりも人間関係の方がって、本当だ。


私は苛々していた。

だから、注意散漫だった。


べちゃ。


「うそ」


ソファが濡れている。

慌てて立ち上がり、締めっぽくなった臀部に触れる。


手の平が濡れた。


いやだ、お尻の方が濡れていたら職場に戻れないじゃない。

せめて水だったらいいけれど。

私は手の平を顔の前に持ってくる。


私を濡らしたのは水だったけれど、手の平には小さなウジが一匹ついていた。

小さな小さな、米粒よりも小さな生き物が。




「ぎゃああああ」


悲鳴を上げて私は起き上がる。

そこは私の部屋の中。

目が覚めてすぐに私はハッと思いつき、寝ていた布団の中に手を突っ込む。

水に濡れる夢は、おねしょをした時ぐらいだ。


「まじ、良かった」


頭上を見上げれば、エアコンの駆動音が聞こえる。

二十八度設定を世界は推奨しているが、私は今や学生ではなく社会人なので贅沢として二十七度設定にしている。だから冷えすぎたのか?


テレラーンテレラーン。


間抜けなスマホのアラーム音に、もう少し眠れたのにと私は急に残念な気持ちになる。だが、生きるために仕事に行かなきゃと、私は布団から起き上がる。

私はベッドではなく和式布団で寝起きしている。

次に引っ越す時を考えれば、大物家具は無い方が良いとみんな言うし。

ただし、その引越しも今のところは考えていない。


私の部屋は学生の頃から住んでいる場所だ。

昭和時代に立てられた集合住宅で、建物自体は分譲マンションだ。だからか、二十四時間捨てられるゴミ専用置場もあるし、住人も昔から住んでいる人ばかりで落ち着いているから女の一人暮らしには最適なのだ。

地方から出てきた貧乏学生だった私がここを借りられたのは、ラッキーだった。

借り手が私以外いなかっただけかもしれないけれど。


四階建ての建物なのにエレベーターが無く、持ち主がリフォームに金をかけたくない人なのか、建てられた当時の昭和な部屋のままという状態だったのだ。

床は台所だろうが、フローリングなどなくどこまでも灰色の絨毯だ。

ついでに、お風呂はレバーを回して点火するバランス釜という奴だ。

カチカチレバーを回して火を起こすバス釜なんて初めて見たし、平成生まれの私には風呂に入るなと言われているも同然だった。


これじゃ誰も借りないよ。


それでも私がここを選び、いまだに動かずに住み続けているのは、利便が良い場所という点と、賃貸料がとにかく安い所だ。1Kで風呂釜がカチカチだから、誰も借りる人がいなくて事故物件並みの値段なのかもしれないけれど。


ドドドドドドドドドン、ドン、ドン。


玄関ドアを激しく叩く音。

「火事か何か?」

私は急いで玄関ドアへと走り、けれど。


ドオン。


「きゃあ!!」


ドアが歪むほど大きく振動した。

その後は、何も無い。

しんと静まり返っている。

私は動けなくなったまま、ドアを見つめる。

ドアはいつものドアで、数十秒前の騒々しさなど何もないようにしてそこにある。


   ―――――――――


「玉城さん。今日は松木さんが休みなの。彼女の分の締め切り分頼めるかな」


「はあ。いいですよ」


私がチーフから松木さんの仕事書類を預かると、斜め後ろの席の川添さんが椅子に座ったまま私の方へと動いて来た。もちろん、余計な仕事を貰った私への労いだ。彼女は松木さんの仕事を貰うのは嫌だと公言している。


「お疲れ。断れない人に渡すんだから、チーフは。大体、いっつも締め日に休むじゃない、あいつ。仕事をしていて休んじゃうのはいいよ。だけど、仕事をこなしていなくて、締め日にどうしようもなくなって休むだけでしょ」


「でも。松木さんは体が弱いらしいし、昨日も凄い咳をしていたから」


「締め日はずっと前から分かってた。具合が悪いのわかっていたなら、締め日前に休んで体調を整えておけば良かったと思わない? 休まず毎日出勤して、体が弱いアピールだけして仕事に手を付けていなかったんだよ」


「そう、なんですか」


「いつもそう。今回はやってあげてもね、次回は断りな。それでチーフが困るなら、チーフが松木さんをどうにかすればいい。でしょう? みんなが断っているのは、誰かがやれば結局なあなあになってみんなが困るからだよ」


「そう、ですね」


川添さんは言いたいことを言うと、すぃーとまた自分の席へと戻って行った。

私は余計な仕事の書類を胸に抱き、本気で気持ちが落ち込んでいた。

川添さんは、余計な事をするな、という叱責をしてきたのだ。

私も四か月近く働いていれば、職場の同僚のことは見えてくる。

誰が仕事ができて誰が仕事ができないのか、誰が好かれていて誰が嫌われているのか、とか。


「お疲れ様」


私のデスクに見たことのない四角いコーヒーパックが置かれた。

外国製のもので、あれ、ドリップじゃなくてティーバッグの絵が書いてあって、でもコーヒー?


「あの」


顔を上げればチーフの長谷川さんだ。

彼女は、御礼、だと言って笑う。


「ごめんね。こんなのじゃ御礼にもならないから、お疲れさまで。松木さんの仕事は仕上げられなくてもいいからね。締め日までなんにも手が付けていなかった状態ってのが問題だから。だからほんと、玉城さんには助かった。ありがとう」


私は長谷川さんの言葉に気持ちが軽くなる。

女性ばかりの職場で信用されてチーフになれるのは、こうした心遣いとかできるからなんだろう。私もそうなれるようにもう少し視野を広げなければ。


「ありがとうございます。ティーバッグのコーヒーなんて面白いですね。早速淹れてきます」

「それがいいよ。ずっと座りっぱなしだったでしょ」


「あ、そうですね。それで声を掛けてくれたんですね。ありがとうございます」


   ―――――――――


職場の給湯室は、執務室を出た先の女子トイレの向かいにある。

給湯室は明かりを点けなくとも廊下の明かりでそれなりの明るさがあるからと、いつも電気は消されたままだ。だが、やはり薄暗いと壁の電灯スイッチを触る。


 !!


給湯室に人がいた。

ショートカットの痩せぎすの人が立っている。

臙脂色のカーディガンを羽織り、下は少々厚手のジャージっぽい灰色のパンツだ。

どこのフロアの人?


「電気付けますね、きゃっ」

ばちっ。


スイッチを押した瞬間に静電気で指先が弾かれたのだ。

私の視線は指先へと動き、それから正面を再び見返して、もう一度悲鳴を上げそうになった。

誰もいない。




「偉い。コーヒーを淹れる前にちゃんと気がついたんだ」


席に戻れば川添さんが私に飴を差し出して来た。

私は受け取りながら、何が偉いのかとチーフから貰ったコーヒーのパッケージを何気なく見返す。


Best before

22 9 25


「賞味期限切れじゃない?」


「えと。外国は年月日が逆だから」


「あっそ。あなたって真面目過ぎてつまらないわね」


川添さんは私の机に飴を置いて、そのままお疲れと言って帰って行った。


帰って?


私は執務室の時計を見上げる。

うそ。もう六時?

でも、給湯室に行ったのは三時ぐらいで。


がた、がた、がた。


次々と同僚たちが席を立ち、執務室のドアへと歩いて行く。

嘘、仕事が終わっていない。

全部終わっていなくて良いって言われてた、そこさえもまだできていない。

チーフの席へと視線を動かす。


長谷川さんも帰り支度を始めていた。


ええと、残業? 残業するには長谷川さんに残業の許可を取って。


がさ。


手の中で何かが動いた。

私は手の中を見る。


t  he  reSidUaL

  ) 5


コーヒーバッグの賞味期限が書いてあったところが、文字が削られ赤い文字で足されている。

The residualで残り物?

括弧そして5?


「何か面白いものでも書いてあるの?」



川添さんの声にハッとして顔を上げれば、彼女は少々訝しそうな顔で私に飴玉を差し出している所だった。


「あの」


「ずっと席に座りっぱなしで、大丈夫? トイレぐらい行ってるよね。行ってても今すぐ立ってトイレまでの往復ぐらいしましょうか」


「あの」


「いいから。立って。私も少し手伝ってあげるから、一人で何でも背負わないの」


今までのは、私が見てた白昼夢だった?


私は川添さんの言う通りに立ち上がり、今朝の夢からおかしな感覚を振り払うようにして早足で動いた。彼女の言う通りにトイレに行き、出してすっきりして、冷たい水で手と顔を洗おう。


   ―――――――――


仕事の方は川添さんの一声で数人が手伝ってくれたので、残業せずとも終わらすことができた。川添さんは本当の意味でこの係りのチーフなのだろうか。


「ありがとうございました」

「いいのよ。みんなもね、新人の玉城ちゃんだけが押しつけられるのは可哀想って思ってたから。本当に可哀想だったね」

私は川添さんにもう一度ありがとうと頭を下げたが、自分が今日可哀想だった台詞については頷いたら後が怖いと思ったから、私は答えずに済むようにと頭を下げて誤魔化しただけである。


私は誰にでも優しい川添さんが実は怖い。

情報通で何でも知っているけれど、時々言わなくても良いことを言うのだ。


例えば、ただ単に接点が無いだけのAさんとBさんがいたとして、そのBさんにAさんからのお菓子を配る時に、Aさんからのものだけど大丈夫? と、わざわざ言ったり、だ。


何が問題なのかって言うと、Aさんはその後私達の係にお菓子を持ってくるときには、Bさんには渡さなくていいから、とひと声添えるようになったってこと。


AさんはBさんを気遣ってだけど、Bさんは一人だけお菓子が貰えない人、になってしまった。大人だからお菓子程度でってことだけど、大人だからこそ小さな仲間外れみたいな環境は辛かったのかもしれない。

Bさんは半月前に仕事を辞めた。

そう、私はBさんみたいな目に遭うのが怖いのだ。


   ―――――――――


「そんなに頭を下げなくても。今日はせっかくだから、この近所にあるお店で食べて帰らない?」


会話、無いよ。

どうする、わたし。



自宅に帰れたのは十時過ぎだった。

川添さんの話したいことを聞くだけで、ほとんど、いや、完全なる接待だった。

ご飯が割り勘で、教えてもらったお店がとても良い雰囲気で美味しかったので、普通は仕事場の裏話を色々聞けて良かったと喜ぶべきなのかもしれない。

だけど、あんなにも裏の裏知ってそうな人に自分が裏で何か言われたらって思うと、物凄く怖いんだよねえ。


「ああ。お酒飲んで芯から冷めるばかりって初めて体験した。やばい」


お湯でも沸かそうとキッチンに立つ。

くちゃ、と足の下で水を含んだ絨毯の音がした。


「水なんか零していないのに」


しゃがみこんで絨毯に触れる。

絨毯は濡れていない。

でも、ぐちゃって音がした。

私は恐る恐る右足を上げてスリッパの裏を見る。


何も無い。


では、左足は…………やっぱり何もない。


ドンドンドンドンドンドンドン。


「ひゃっ」

玄関のドアが叩かれた。


ドンドンドンドンドンドンドン。


まるで太鼓を打ち鳴らしているみたいに、どんどんどんどんと叩かれる。


「いい加減にしてください。警察呼びますよ!!」


スマホを取り上げ、ドアへと向かう。

ドアは全くの静かだ。

私はドアから少し離れ、玄関横の壁に取り付けてあるインターフォンに触れる。

扉前に設置してあるカメラの映像がそこに映るはずだ。


「もういないだろうけど」


緑色の画面には、玄関に立つ人など映ってはいなかった。


カメラに向かって睨んでいる老婆の顔面が大映りしているだけだ。


老婆と言っても髪が白いわけではない。

けれど寝起きみたいにぼさついた髪の根元は白く、髪が薄いのか頭皮も透けて見える。目は落ちくぼんで涙袋の代りに幾重にも深いしわが刻まれている。

骨に皮だけの痩せている老女が、怒った顔でカメラを凝視しているのだ。


「ひっ」


私は応答画面に映る映像にスマートフォンのカメラを向け、シャッターを切る。

カシャリ。

フラッシュで手元が光り、光が消えた後には何も映っていない玄関ドア前風景だ。

私はスマホの方の映像を確認するが、やはりそこには何も映っていない。


「何、なんなの」


   ―――――――――


昨夜はお風呂に入れなかった。

頭を洗うのが怖かったのだ。

目を瞑って誰かが後ろに立っていたら。

あの老婆が後ろに立っていたら?

そう考えたら風呂に入れなかった。

汗でべたべたしているのに、恐怖の方が強くて入れなかったのだ。


「あ、でも。夏は朝シャワーの方が良いかも。いや、風呂をあがった先から汗ばんで着替えがしづらい」


くだらない台詞でも声が出る。

声を出して行かないとなんだか怖い、そんな一夜だったのだ。


「自称霊感持ちなんかに電話しちゃいけないね」


私は昨夜の失敗を思い出す。

怖くて眠れないからと、大学で仲の良かった子に電話をした。

彼女は、「お祓いにでも行ったら」その一言で電話を切った。

彼女もそう言えば川添さんみたいなとこあったね。


「でも、怪我の功名ってあるし」


どうしようもなく無くなった私は、とある人にSNSを送ったのだ。

彼だけは私を裏切らない、そんな変な確信もあった。


私は昨夜の元彼とのSNS画面を再び開く。


                                やばい

                  変なおばあちゃんストーカーに遭ってる

                        怖くてヤバイ、どうしよ?

日記付けて写真撮って

証拠持って弁護士相談池

                           はやい返信ありがと

                      警察でなく弁護士なのが笑える

                           でも写真は無理かも

                  撮ったのに画像からばあちゃん消えてた

その消えた画像まだ残ってる?

送れ

                               こんなん?

今度の日曜会えるか?

一緒に神社いこう

                        怖いから慰められたいのに

                       さらに恐怖な返信ありがとう

冗談じゃなく、やばい

今から家来るか?

                              行くわけない

                               明日も仕事

じゃあ、週末にな

                                 週末に


私はスマホを握りしめ、情けなあああ、と叫んでいた。

元彼に助け求めて、週末に会おう言われて素直に「うん」て言ってるよ。

「でも、家に来いだなんて。楓君はまだ私の事好きなんだ」

自分の弛んだ頬を軽く撫でる。

なんか色々嫌な事が消えたみたいになってて嬉しい。


   ―――――――――


「おはようございます」


「おはよう。昨日はありがとう」


「いいえ。こちらこそ昨夜はありがとうございました」


「なんか今日は溌溂してるね」


「川添さんのお陰です。昨日のお店凄く美味しかったです」


「そっか、良かった。五歳も違うと迷惑かなって心配しちゃってたから。また良かったら一緒に行こうね」


「はい」


「新宿の京丸百貨店で週末にイギリス展をするんだけど、行く? モリスとか好きでしょう」


「あ、すいません。週末は約束がありまして」


「何処かに出掛けるの?」


「あの、神社に、あの大学時代の友人と約束がありまして」


「ふうん。どこの神社? 私ね、御朱印集めとかもしているから、神社に関しては少々詳しいのよ」


「あ、よくわかんないですね。彼が神社って言っただけなので」


「へえ。彼氏いたんだあ」


「彼氏じゃないです」


もう別れた人なんで。

そう、別れたんだよ。

なんで別れたんだっけ?

彼も私もお互いに好き合っているのに。


   ―――――――――


マンションエントランスにある郵便受けを開けると、郵便受けに溜まっていた水を被ることになった。

郵便受けはエントランス内部に設置されているものだ。


「これもあのババアの仕業かよ」


郵便受けに入っていたぐしょぐしょの封筒やチラシを取り出す。

郵便受け近くにあるゴミ箱に濡れたチラシ類を次々放るが、茶封筒に関しては捨てられないと舌打ちをした。

茶封筒には「管理組合」と殴り書きがしてあったのだ。


私は濡れてぐちゃぐちゃの封筒を捨てるのを諦め、それを左手の指でつまむようにして下げて階段へと向かった。

数段上がったところで、私は左手をぎゅっと握られた。

まるで子供が大人の手を引っ張るようにして、私の左手を掴んで来たのだ。


「何?」


斜め下を見れば、うちの玄関前にいた老婆が私の左手を引っ張っていた。

臙脂色のカーディガンを上半身にぎゅうと巻きつけて、階段に横たわった姿で私の手を握っているのだ。


違う。

カーディガンは濡れそぼっている。

この老婆はどこもかしこも濡れている。

だから衣服がぴったりと体に撒きついているのだ。


「ひ、ひいいいいい」


私は左手を大きく振り払う。

ぱっと私の手を掴む手は消え、老婆の姿も消えた。

けれど、老婆がいた場所の段は老婆がいた印として濡れそぼっていた。


落ちている茶封筒。


その茶色の封筒の上には、うねうねと動くウジらしきものが数匹。


「ぎゃああああ」


私はそのまま階段を駆け上がる。

駆け上がると言っても、二階が自分の部屋だ。

そしてドアの前に辿り着いて、私は自分の目が見たものに再び悲鳴を上げた。


ドアの横にある部屋番号が書かれたプレート。

うす黄ばんだプラスチックプレートには、かつては205と印字されていたはず。

それが2の部分と0の部分が削れていた。


その様子は私が見たことのあるものだ。

あの白昼夢で見たものだ。


2の上下は削れて斜め線だけになっていて、まるでスラッシュか1のようだ。

私は1、という数字で気がついた。

私の下の階は105だと。



建物が建てられた頃に部屋を購入し、住み続けた住人だったら、あの老婆と同じぐらいの年齢になるのでは無いのか。

「そうだよ。たった1階。内階段を使わずに」

私は自分の部屋のすぐ横にある非常階段でもある外階段へと視線を向ける。

こっちの階段を使えば、一瞬で姿を消すなんて芸当もできるのでは?

「そうだよ。私は凄く脅えていた。一瞬どころじゃない時間があった。でも、私がのぞく映像が映すのはうちの前から内階段に向けての小さな範囲だ」

私は全部理解できたと思った。それで扉に向かい直せば、私が見えていなかった新しい悪戯が見えた。

「うっ」

私は鼻と口元を手で覆う。

我が家の玄関ドアに、赤黒いドロドロの生ごみが擦り付けられていたのだ。

吐しゃ物にヘドロの臭気とドロドロに腐った生ごみを混ぜてできた様な、触るのも躊躇う酷いもの。

私はスマホを取り出して、すぐさま110番へと連絡をする。

ツーツーツー。

繋がらない。

「ちくしょう!!」

私は非常階段を駆けおりる。

もう許せない。

1階のあのババアが許せない。

私は105の部屋の前に立つと、今まで我が家にやられた仕返しのようにして玄関ドアを拳で叩く。

ドンドンドンドンドンドンドン。

「ババア、出てこい!!」

ドンドンドンドンドンドンドン。

「このババア、ふざけんなよ。ふざけんじゃないよ!!」

ドンドンドンドンドンドンドン。


「君!!」


男の大声と、私の肩は誰かによって掴まれる。

私は私の体に触って来た男を撥ね退けようとして、それがこのマンションの住人の誰かだという事には気がついた。名前は知らないけれど、館内ですれ違ったり挨拶した事のある人だ。

「佐々木さんに何をしているんだ? 君よりもずっと弱いお年寄りなんだよ?」

「だって、私の家のドアを酷く叩いたり、ドアに汚物をかけたりしたんですよ」

「佐々木さんがそんなことを、って、何だこれ」


105号室のドアの下から水が零れている。

ぽた、ぽた、と。


「佐々木さん、佐々木さん!!け、警察を呼んで開けて貰わなきゃ。佐々木さん」


   ―――――――――


佐々木さんは生涯独身だった人だ。

警察立ち合いの元彼女の家のドアが開かれ、私を悩ましていた真実が明らかになった。知らなかった方が良かった、という真実も。

私の部屋の水道管の破裂によって、階下である佐々木さんの家に水漏れが起きていた。彼女が幾度となく我が家のドアを叩いていたのは、私に水漏れがあることを知らせる為だったのだろう。

彼女はどんなに不安だっただろう。


彼女の部屋の天井の壁紙には、水漏れの水がどんどんたまる。

壁紙はどんどんどんどん膨らんでいく。

終には壁紙が破れ、溜まった水が彼女の室内を完全に濡らした。


ドアが開いた時、佐々木さんはすでにこと切れていた。

いつ亡くなったのかもわからないぐらいに、彼女は濡れた部屋で溶けていたのだ。

我が家のドアを叩き始めた頃には、すでに腐った体は水に溶けていたのだ。


   ―――――――――


週末に、私は待ち合わせ場所に向かっていた。

元彼の楓君と会うために。

まだ私のことが好きなはずの彼と会うために。

きっと彼は私と一緒に住もうって言ってくれる。

あんな場所、私はもう住めないもの。

ねえ、楓君。

私は彼とのSNSを読み返す。


                                やばい

                  変なおばあちゃんストーカーに遭ってる

                        怖くてヤバイ、どうしよ?

弁護士からの接見禁止令

メールもしないって約束だろ

                           はやい返信ありがと

                      警察でなく弁護士なのが笑える

                      化け物ばあちゃん写真は撮った

                                 送るね

いらないし

なんだよこれ、お前大丈夫か

神社にでも行ってお祓いしろ

                                                  

                             心配ありがと

                     うん大丈夫。今度の日曜会える?

いい加減にしてくれ。                        

冗談じゃなく、やばい

                         今から家に行っていい?

行くわけない

明日も仕事だ

週末には弁護士から連絡させる

本当にもういい加減にしてくれ

                         週末にまた会えるのかな

                           楽しみにしているよ

                 楓君って、やっぱりまだ私の事好きだよね



わかっている彼が私と離れたいのは。

でも絶対に離れないから。

風呂付の家じゃないと遊びに行けない人だって言ったから、私頑張って頑張ってお風呂付のマンションを見つけたんだよ。

なのにこんなことになったのだから、責任取って一緒に住んで。

あなたはわたしのことがずっとずっと好きなはずでしょう。

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― 新着の感想 ―
一番怖いのは、彼女だったのですね。 彼女の仮面がはがれた時、彼が別れた理由がすんなりと分かりました。 この後、また別の怖さが続いていきそうな予感がしました。 もしかしたら、彼女が見ていたものって、未来…
物語を読むと主人公の視線になるのですが、この主人公となかなか視線が合いませんでした。 そこがまた狂気で怖かったです。(最後にその理由がわかり納得) 「階段に横たわった姿で私の手を握っているのだ」 こ…
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