マイナスは決してプラスにならない
モヤります。
落ちは無いです。
私は3年前、1年間の浮気がバレて、その1年後に離婚をした。
1年を掛け再構築を目指した末の離婚だった。
浮気相手は以前私が勤めていた会社の上司で、3歳年上の男。
勤めていた時は、何の感情も持っていなかったが、突然掛かって来た電話に懐かしさを覚え、会う事を約束してしまった。
その時、私の子供はまだ2歳になったばかり。
結婚を期に会社を辞め、専業主婦となっていた私は、世間から置いて行かれている気がしていた。
『久しぶりです』
『そうだね』
子供を旦那に預け、彼とあったのは家から少し離れた場所にあるバー。
勤めていた時に何度か会社の二次会で行った事のある店だった。
『結婚生活はどう?』
『思ったより平凡だけど、悪くないですよ』
『それは良かったね』
会社の現状や、当時の話に社会人時代を思い出す。
世間との繋がりが戻ったような感覚。
いつしか気持ちも乗り、自然とお酒のペースも早くなっていた。
『大丈夫か?』
『…少し酔ったみたいです』
気づけば2時間経ち、私はすっかり出来上っていた。
足腰に力が入らず、席を立つ事すらままならなくなっていた。
『少し酔いを醒ました方が良い、どこかで休んで帰ろう』
『いいえ…遅くなると夫が心配しますから』
『まだ8時じゃないか、そんなに時間は取らせないよ』
『課長…』
彼は甘えた目で私を見つめた。
『少しだけですよ』
『ああ、何もしないから…』
バカだった。
何もしない筈が無い。
優しい瞳の奥に情欲が満ちていたのは分かっていたのに…
『良かったよ』
『……私はなんて事を』
酔いが醒め、気づけば私は一糸も纏ない姿。
鏡張りの天井は私の痴態を映していた。
気怠い身体に残る生々しい感覚。
冷静になった頭は、取り返しのつかない過ちを犯してしまったと理解するに充分だった。
『…帰ります』
まだ時刻は10時を回ったばかり、急いで旦那にメールを送る。
携帯に旦那からの着信やメールは無かったが、イヤな汗が滲んだ。
『また会ってくれるかな?』
焦る私を見ながら、彼は呑気に言った。
『これきりにして下さい』
『…本当に良いのか?』
『どういう意味ですか?』
『随分とストレスが溜まっていたみたいだったって事さ』
『そんな訳…』
否定出来なかった。
身体に残る感覚は、忘れかけていた女としての悦びを確かに思い出させていた。
『気が向いたら…な?』
携帯を静かに見せながら彼は笑う。
その言葉には返さず、ホテルを後にした。
タクシーで帰宅した私を旦那は笑顔で迎えてくれた。
旦那に抱っこをされる娘は眠そうにしていたが、私を見ると嬉しそうに微笑む。
おしよせる後悔、急いでお風呂へ直行するのだった。
『…もしもし』
連絡をしたのは、一ヶ月後の事だった。
『どうした?
もう連絡は無いと思っていたんだけど』
警戒する事なく彼は電話に出た。
まるで私から連絡が来るのを予想していたかのように。
『証拠なんか取って無いですよね』
『そんな事はしてないよ』
『本当に?』
『疑うなら直接確認すれば良いだろ』
『…う』
『下手な言い訳だな、会いたいならそう言えば良いだろ』
浅はかな考えは彼に見透かされていた。
そうして2回目の約束をしてしまうのだった。
今回は自分の意思。
…そして自分から堕ちて行った。
奴との不倫関係は1年に及んだ。
頻繁に会っていた訳じゃない。
メールや通話記録は毎回消していたし、密会時間は旦那が会社に居る時で、子供は実家の両親に預けていた。
『息抜きがしたいの』
『そうか、たまになら良いわよ』
疑う事なく両親は娘を預かってくれた。
バレないと思っていた。
気まずさは、やがて背徳感に塗り潰され、理性を失った私は肉欲の虜となっていた。
『今日も良かったな』
『ええ…』
いつものように逢瀬を終え、ラブホテルを出た私達。
最後にお別れのキスを交わしている彼の背後から、1人の美しい女性が私と彼を睨んでいた。
『…あなた』
『え?』
今なんて言ったの?
あなたって、まさかこの女性は?
『お前…なんでここに?』
振り返る彼の顔色が真っ青に変わった。
『現場を押さえに来たのよ。
覚悟なさい』
『ご…誤解だ…その、たまたま、昔の部下と会って…本当に何もないんだ』
『たまたま…
何もない女とラブホテルでキスですか…』
『それは…この女に言い寄られて…』
彼の言葉が理解出来ない。
愛してるや、妻より私の方が、彼から貰った言葉は無残にも引き裂かていく。
『そんな…私の事を愛してるって…一緒だよって』
『そんな訳無いだろ!
戯言を真に受ける方がどうかしてるぞ!』
『なぜ?』
拒絶の言葉が突き刺さる。
『今回が初めてだったんだ、この女があんまりしつこいから、一回だけと決めて…』
『もう2ヶ月前から興信所で調べて貰ってたの。
なかなか証拠が掴めなかったけど、ようやく充分な証拠が揃ったわ』
『まさか…なんで黙っていたんだ』
『わざわざ言う必要ある?』
『だが…』
見苦しい言い訳を彼は続ける。
先程まで、頼り甲斐のあると思っていた彼からメッキが剥がされて行く。
それは浮かされていた私の心も同じ。
『何が今回初めてよ、1年前からでしょ?
今日来たのは最後に私の目で確かめる為よ』
『…そんな』
『覚悟なさい、前回浮気した時、次は無いと言いましたよね』
『あぁ…』
彼は膝から崩れ落ちた。
『貴女もよ』
『…それって』
『近い内に興信所から報告書の封筒が届きますから、それまで絶望の時間を楽しみなさい。
言っとくけど、先に受け取って隠そうなんて無駄よ。
貴女の実家にも送る手配をしてあげたから』
『し…主人には言わないで!!』
私の叫びに奥様は僅かに表情を歪めた。
『それだけ嫌なら、なぜ浮気を?』
『それは…』
『答えられないでしょ?
やっぱり不倫する人間は人の心を失ったケダモノね』
奥様はそう言い残すと、私達の前から立ち去った。
『こうしては…いられない』
ホテルの駐車場で項垂れる彼を残し、外へ出る。
タクシーを拾い、実家に電話を入れ、娘を迎えに行くのが遅くなると伝えた。
家に帰り、帰宅した旦那に土下座をした。
『私…浮気をしてました』
『は?嘘だろ?』
当然だが最初旦那は信じてくれなかった。
『本当です、相手の奥様にバレてしまいました』
『本当なのか…?』
『…はい』
『…相手は…いつからだ?』
私の様子から真実と知った旦那から詰問が始まった。
もう隠せない、最悪の事態を避ける為、覚悟を決め洗いざらい旦那に答えた。
『…離婚かな』
『それは嫌!!』
一通り話を終えると旦那が呟く。
怖れていた最悪の言葉に、足元が崩れ落ちる錯覚。
気づけば必死で叫んでいた。
『なぜ?俺と娘を騙して1年も浮気をしてたんた。
お義父さんやお義母まで利用して』
『気の迷いだったの!
愛してるのはあなただけよ!』
『それを信じろと?』
『お願い!』
『無理だよ』
旦那は静かに席を立つ。
置いたばかりの通勤鞄を再び手にし、玄関へ向かう。
『今日はお前の顔をこれ以上見たくない。
今夜はビジネスホテルに泊まる』
『待って!』
『ちゃんと話はする…だから頼む』
『あなた…』
旦那が家を出る。
1人取り残された私は実家に電話を入れた。
『まさか…嘘よね?』
『本当なのか?』
眠っていた娘を連れて、駆けつた両親に事情を話す。
当然、娘に聞かせる訳にはいかないので、別室で寝かせていた。
『本当なんです…』
『バカ!!』
母が私の頬を打つ。
痛みが頬を伝う、初めて受ける母のビンタ。
父は私の事を信じられない顔で見ていた。
『政志君は?』
『離婚を考えてるって』
『…まあ当然だな』
『そうなるわね…』
『お願い!それだけは止めさせて!』
『なら、なんで1年も浮気なんかしたんだ!』
『あなたには人の心が無いの?』
『そんなの分からないわ!』
麻痺していたとしか言いようがない。
『…ジィジもバァバもママをイジメないないで』
『美愛…』
叫び声に起きて来た娘。
酷く怯え、震えながら言った。
『…ごめんなさいね』
『…ごめんな、美愛。
ジィジとバァバが悪かった』
泣き出した娘を一頻りあやす。
安心した娘は静かな寝息をつき始めた。
『政志君に話だけはしてやる』
『お父さん…』
『勘違いするな、孫…美愛と政志君の為だ。
お前みたいな母親でも親権は有利だからな』
『そうね、政志さんから娘まで奪うなんて出来ないわ』
お父さんとお母さんは呟く。
すでに旦那の両親は他界しており、娘を引き取るなんか出来ないだろう。
なにより、絶対に娘を手放す気は無い。
後日、旦那との話し合いが始まった。
私の両親の説得がきいたのか、娘には両親が必要と、旦那は最後に離婚を思い留まってくれたのだった。
それが3年前の出来事で、ようやく再出発となった。
『次は無いから』
記入済の離婚届は旦那が保管し、次に浮気をしたら即提出すると、弁護士立ち会いの元で念書も書いた。
旦那は彼に50万の慰謝料を請求した。
私達が離婚しなくて済んだので、この金額になったそうだ。
対する私には奥様から慰謝料請求は無かった。
『お金なんか欲しくない。
特に貴女みたいな女からは』
そう言われた。
向こうの夫婦は離婚を決めた。
彼は最後まで抵抗していたらしいが、
『子供が居なくて良かったわ。
旦那さんは、これから大変でしょうけど』
『はい…』
話し合いの場で、奥様が言った言葉に旦那は頷いた。
私達夫婦を繋ぎ留めているのは、娘の存在だけと実感した。
そして始まった再構築。
私は家族を守る為、必死だった。
娘の前では普通の夫婦。
会話もするが、夫婦二人だけだと、殆ど無い。
必要な要件も最小限。
ご飯も毎日作るが、食べてくれない。
家族旅行も無くなった。
付き合っていた頃から、毎年恒例だったのに。
『今年は行かないの?』
『ごめんね、ママの体調悪いみたいで』
『治ったら行こうね』
『そうだな』
そんな父娘の会話を黙って聞き、耐えるしかなかった。
当然だが、夜の生活も無くなった。
寝室も別にされ、1人で過ごしている。
給料の管理も旦那がするようになり、毎月の生活費だけ振り込まれるようになった。
携帯は以前の物をそのまま持たされているが、必要な連絡先以外全部消した。
別に強制された訳じゃない、反省の気持ちを旦那に見せる為だ。
『好きにしたら良い。
毎月の生活費で余った分も勝手に使え』
追加で友人の連絡先を入れても良いか聞く私に、旦那はそう言った。
『いつまで続くんだろ?』
お母さんに聞いた。
『自業自得でしょ』
素っ気なく言われた。
『完全に無視されないだけ幸せだ
お前はそれだけの事をした。
まだ許して貰おうなんて考えるな』
『そんな…』
…お父さんまで。
確かに私は旦那を裏切り、傷つけた。
今も謝罪の気持ちは持ち続けている、けど…
『傷ついた気持ちは簡単に治らないの』
『それはいつ治るの?』
『分からないわ、イヤなら再構築なんか終わりにしなさい。
それが政志さんの為よ』
突き放すような母の言葉。
雲を掴むような感覚に恐ろしくなる。
だがこんな話、両親以外誰にも言えない…
『…働きにでも行こうかな?』
少しは気晴らしになるかもしれない。
このままではおかしくなりそうだ。
娘を寝かしつけた後、寝室に向かう旦那に伝えた。
『だから好きにすれば良い、どうしようとお前の勝手だ』
『何よ…その態度』
いつもと変わらない冷淡さに、怒りが込み上げる。
『私だって反省してるのに!』
『それが?』
『それがって…』
意に介さないどころか、呆れるような態度。
もう限界だ!!
『私だって人間よ?
過ちだってするわよ、私が悪いのも分かってる!』
『で、水に流せと?
お前の裏切りを忘れて、ヘラヘラ笑えというのか?』
『そんな事言って無い!』
なんで?
どうしてこんな酷い態度が取れるの?
『…マイナスなんだよ』
『マイナス?』
マイナスって何がだ?
『お前に対する俺の気持ちだ。
ゼロにならない』
『なんで…』
…1年頑張ったのに。
『謝罪なんか意味無い。
反省の態度も本心か怪しいもんだ。
たった1年の我慢すら出来ないお前に対する気持ちは嫌悪感が増すばかり、つまりマイナスのままだ』
『な…』
この1年は全く無駄だったの?
『調度良い、俺も限界だ。
別れてくれ』
『イヤよ!』
なんでそうなるの!
『浮気していた同じ時間すら我慢出来ない、そんな人間とこの先やっていけない』
『…分かったわよ』
こうして私達夫婦は終わりを迎えた。
財産分与は半分、親権は私。
養育費は月5万円。
娘との面会は私も立ち会いで、最低でも月2回、旦那が希望すれば追加もありと決まった。
離婚に両親は何も言わなかった。
きっと旦那は私に隠れて、何度も両親と話し合いを重ねていたのだろう。
娘は寂しそうだったが、大好きな両親の実家で暮らすと分かると、少しだけ納得したようだった。
そして、2年が過ぎた。
いつかプラスに…いいえ、せめてゼロになれば、またスタート出来る。
真面目に仕事をしながら、反省の日々を過ごす。
もう間違ったりしない、いつか旦那と再婚するんだ。
それまでは娘と旦那が面会する日を楽しみに毎日を過ごしていた。
「再婚を考えている人が居る」
ある日の面会後、旦那からの言葉に気が遠くなった。