8.王女アレクサンドラ①
ルキウスはそう苛々と考えながらも、アレクサンドラの私室へ入っていった。
先に知らせがいっていたのだろう。室内には厳しい顔をしたアレクサンドラと、彼女の乳兄弟である侍女が一人いるだけだった。座るように促されて、来客用のソファに腰を下ろす。
アレクサンドラはローテーブルを挟んだ向かい側に腰かけた。
窓ガラスは天井から床まで大きく取られているため、初夏の日差しは眩しいほどに差し込んでいる。陽の光に晒される室内で、アレクサンドラの紅の髪と深緑色の瞳もまた輝いている。
ただし、瞳のほうは射抜くような鋭さを持ってこちらを見ているが。
侍女がローテーブルの上に紅茶を用意して退出していく。
アレクサンドラはぎろりとこちらを睨みつけていった。
「ルキウス、わたしになにかいうべきことがあるんじゃないか?」
「さて、思い当たることが多すぎて、どれについてのお話なのかわかりませんね」
「今は冗談を楽しむ気分じゃないんだ」
「それでは、私が考える『殿下に申し上げるべきこと』について端から端まですべてお話ししましょうか? 私が日々案じていることも含めてです。どれか一つくらいは貴女が聞きたいと望むことに当たるでしょう」
「いい、喋るな。わかった。わたしが話す。きみに話をさせるとろくなことにならない!」
「心外ですね」
ルキウスはいかにも傷ついたような顔を浮かべて見せたが、アレクサンドラからの視線には呆れと冷たさだけが同居していた。
※
アレクサンドラが話すところによると、こうだった。
昨夜のことだ。アレクサンドラがそろそろ休もうと思って就寝の準備をしていたとき、母親である王妃が突然靴音高らかに部屋へ押しかけてきた。アレクサンドラは呆気にとられた。
王妃の装いは外出から戻ってきたばかりという風であった。『そういえば今夜はお忍びで観劇に行くといっていたな』と思い出したものの、だからといって帰宅した母親が真っ先に自分のところへ突撃してくる理由は皆目見当がつかなかった。
王妃は『子供を八人も産んだようにはとても見えない』とご婦人方から羨ましがられる美貌とスタイルの持ち主であるが、それが血反吐を吐くような努力によって保たれているものであることを、子供たちは皆知っている。観劇に出かけて帰宅が夜更けになったとしたら、真っ先に肌の手入れをし入浴をして早々に寝るはずだ。多少の問題なら翌朝に回すだろう。
「夜中に対処などしないわ。心と体の美に悪いもの」と、常日頃からそう子供たちにいっているような母親が、こんな夜更けに駆け込んでくるなど、まさか隣国が同盟を破棄して攻めてきたのか? それとも魔物の大軍が出没したか───!?
とっさに剣を掴んだアレクサンドラに、母親は外出用のドレス姿のまま、扇をびしりと突きつけていった。
「おまえ、どうして先にお母様に報告しないの!」
アレクサンドラの頭上に疑問符が浮かんだ。
「よそのご婦人からエズモンド公爵家が当主の結婚式の準備を進めていると聞かされて、お母様がどれほど冷や汗をかいたかわかる!?」
「えっ、結婚するんですか、ルキウスが? 相手はどなたです?」
「おまえよ!!」
アレクサンドラの頭上に疑問符が乱舞した。
「エズモンド卿は『結婚式の支度はすべて公爵家で持つ』といったのかもしれませんけどね。だとしても、その言葉を鵜呑みにして何もしないでいる子がいますか! 何をしていいのかわからなかったのならまずお母様に相談なさい! いくらすでに婚約しているとはいえ結婚するとなったら山のような準備があるの! おまえだってお兄様やお姉様の支度がたいへんだったことくらい覚えているでしょう!」
「あの、母上、なにか誤解があるようですが」
「エズモンド卿は昔からおまえにべた惚れだったから『何もしなくて構いません。すべて私に任せてください』なぁんていったのかもしれませんけどね、アレクサンドラ」
王妃は凄味のある声を低く響かせてから、胸をそらせるほど深く息を吸い込み、ドラゴンが火炎を吐き出すかの如くいった。
「おまえだって大人なのだからわかるでしょう! 新婦の家が何もしなくてよい式なんて存在しないの! ましてお前は王族なのよ!? 教会や晩餐会の手配はあちらが引き受けてくれるとしても、おまえの花嫁衣装はどうするの!? ドレスはエズモンド卿と二人で決めたいというなら構わないけれど、それでもあちらの家にすべて任せるわけにはいかないわよ。我が家の招待客のリストはこちらで作らないといけないし、贈答品はあちらの家と相談して、わたくしとお父様の当日の装いも早急に決めて手配しなくちゃいけないわ。それにお前の嫁いだお姉様たちにも知らせを出して出席できるか確認しないと、あぁもう、今秋に挙式予定ですって!? とても時間が足りないわよ。どうしておまえはもっと早くにいわないの!」
「落ち着いてください、母上。ひとまずどうぞソファに座って、紅茶でもどうぞ」
有能な侍女は、すでにローテーブルの上に用意してくれている。
アレクサンドラは、頭が痛いといわんばかりに額に手を当てている母親をソファへ導き、自分は向かい側に座った。
そしてきっぱりといった。
「母上、わたしに結婚の予定はありません。エズモンド家が式の準備を進めているとしても、ルキウスの結婚相手はわたしではありません。失礼ですが、母上に話をされたご婦人がなにか勘違いされているのだと思います」
「勘違いなはずがないでしょう。ここに来る前に、お父様にだって確認を取ったのよ。おまえとエズモンド卿の結婚を認めているとおっしゃっていたわ。もう、あの人もあの人よ。どうしてわたくしにそれを早く───……」
そこで王妃は異変を察したかのように言葉を止めた。
アレクサンドラは頬を引きつらせながらも、精一杯のにこやかさで母親に尋ねた。
「陛下が、結婚を認めたと、そうおっしゃったんですか?」
その一言で、王妃はおおよその状況を察したというように、短く天を仰いだ。
「あぁ……、そういうこと……」
「陛下にお話を伺ってまいります」
「まあまあ、待ちなさい、アレクサンドラ」
王妃はこちらへ視線を戻すと、表情を一変させて、慈母のように微笑んだ。
「エズモンド卿は国内随一の好物件よ。おまえの夫にぴったりだと、お母様は思うの」
「婚約は一時的なものだと最初からお話してありますよね?」
「あら、一時的なものというには、七年は長すぎるんじゃなくて?」
アレクサンドラは小さく言葉に詰まった。
こればかりは母親が正しい。かりそめの婚約というのは七年も続けるものではないだろう。
しかし、言い訳をさせてもらえるなら、アレクサンドラとて婚約解消しようと思ったことは今まで何度もあったのだ。けれど、毎回タイミングが悪くて、口に出せないままずるずると七年も経ってしまった。