7.聖女リティ(後)
優男のエドワード並に性悪のリティ・ロフェの聖女としての力は、破格の浄化能力だ。魔物の襲撃によって瘴気に侵された住民たちを、一瞬で救ってみせる。
しかし、本人がアレクサンドラに話したところによれば、彼女はこれまで魔物の出現を予測することもできていたのだという。魔物が現れる前には、空気のよどみがある。それを立証できたら、住民の被害を格段に減らせるだろうと。
魔物とは、いつどこに現れるかわからない存在だ。
突然現れて人々を喰らい、田畑や家屋を破壊し、瘴気という名の毒を振りまいていく。
それは大いなる災いであり、人に制御できるものではない。
ゆえに、神の罰であると語る聖職者も多くいる。
神の罰であり、神が与えた試練であると。
理由がわからないまま生活が破壊されるよりは、大いなる神の思し召しだといわれた方が心の慰めにはなるのだろうか? 神罰説を信じる者は結構な多数派だ。
魔物の出現を予測できると示すことは、連中の顔に泥を塗るのと同じことだ。
リティ・ロフェはまず教会の上層部へ話をしたが聞いてもらえなかった。そこでアレクサンドラを頼った。同じ女性であり、第一騎士団の副団長でもあるアレクサンドラ王女なら、こちらの言葉がどれほど突拍子なくとも、耳を傾けてもらえるのではないかと思って……。
あの女はそう切々とアレクサンドラに訴えたらしい。エドワードをゆすって手に入れた情報だ。
それを聞いたときルキウスは、思わず酒の入ったグラスをテーブルに叩きつけていた。
「殿下を利用する気満々だろうが、あの女……ッ!」
「まあ、やり方は上手いですよねえ。教会の連中に一度は説明しているんですから。アレクを頼ってくるまでの筋書きに無理はない」
エドワードは渋い顔で酒を煽りながらいった。
ルキウスもエドワードもわかっている。
リティ・ロフェの予測能力に嘘はないだろう。しかしあの女が動いているのは、民を思ってなどという単純な理由ではない。
魔物の出現は神罰だといわれている。
それを覆すためには、確たる証拠と強い後ろ盾が必要だ。
ろくな根拠もないまま予測可能だと訴えれば、異端扱いされて石を投げられる羽目になる。たとえ調査し研究し、資料と証拠をそろえたところで、立場が弱い者では握りつぶされるだろう。たかが聖女一人では対抗しきれない。現体制で利益を得ている者たち───つまりは教会の権力者たちが、自分たちの地位を危うくする発見を許すはずがない。
魔物の出現を予測できるというのは、それほどの大事だ。世界の常識をひっくり返すほどの。
だが───だからこそ、これを成し遂げた暁には、聖女の名前は歴史に刻まれるだろう。
リティ・ロフェは『世界を救った聖女』として、一国の王と肩を並べるほどの権威を手に入れることになる。
教皇の座を目指す女にとっては、これ以上ない最強の手札だ。
おそらくあの女はずっとタイミングをうかがっていた。
社交界に顔を出し、人脈を築いては、誰を後ろ盾に選ぶか慎重に吟味していた。
魔物の予測は強力なカードだが、同時に諸刃の剣だ。一つ間違えたら異端扱いされる。仮に信じたとしても、協力者の立場が強すぎれば、功績すべてを横取りされる危険もある。だが、教会に対抗できる程度には強くなくては駄目だ。
そうやって選び抜いた末に残ったのが、第五王女であり、第一騎士団副団長であり、公爵家当主であると同時に稀代の魔道具開発者でもあるルキウス・エズモンドの婚約者、アレクサンドラだった、というわけだ。
「どうして辞職願いを受け入れたんです。団長の権限で突き返せばよかったでしょうが」
「無茶をいいますねえ、エズモンド卿も。アレクの頑固さはよく知っているでしょう? ……俺がなにをいっても、こうと決めたら譲らないさ」
エドワードが自棄のように度数の強い酒を煽る。
そう、この件で最も厄介なのは、アレクサンドラがリティ・ロフェの本性を承知の上で、彼女と手を組んだことだった。
あの庇護欲をそそる微笑みに騙されているのではない。健気な言葉に同情しているのではない。
アレクサンドラは桜色の瞳の奥にある滴り落ちるような憎悪と、全てを焼き尽くすほどの野心に気づいている。あの女が自分を利用するために近づいてきたことを知っている。
それでも王女である彼女は、魔物の出現を予測することが可能になったら大勢を守ることができるからと、そう考えて手を組んだ。
……それが、リティ・ロフェにとって計算の内だったのかは知らない。
あの女の目的は、世界を救った聖女として強大な権威を得ることだ。自分を舌なめずりするような眼で見ながら『孫のよう』と語る老人どもの首を片っ端から落として、自分が教皇の座につくことだ。血染めの椅子に腰かけて笑うことだ。そのためなら何を犠牲にし、誰を踏み台にしてもかまわないと思っている。……思っている、はずだ。
アレクサンドラが第三騎士団を設立し、調査と研究のために動き始めてから数ヶ月が経った。
先日のことだ。ルキウスは見てしまった。
王宮の片隅にある人目につかない庭の中で、アレクサンドラと二人きりで話していたリティ・ロフェが、口の端だけで皮肉気に笑うのを。
それはあの『愛らしい聖女』にはあり得ない失態だった。
あの女はころころと表情を変えて、可愛らしく振舞ってみせるが、皮肉気な笑みなど決して人前で見せない。本性を隠すことにかけては徹底している。その仮面の分厚さは、エドワードさえも上回っているほどだ。
そのリティ・ロフェが、アレクサンドラの前で口の端だけで笑った。
皮肉気に。
それは年相応の令嬢のような顔だった。野心と憎悪をその一瞬だけどこかに置き去りにしたかのようだった。もしもリティ・ロフェの人生がもう少しやさしいものであったなら、いつもそんな風に笑えていたのかもしれないと思わせる笑みだった。親友を前に少し斜に構えて、呆れたように、それでいて『仕方ないわね』と許すような。
ルキウスは驚愕し、息を呑み、そして頭を抱えた。
(どうして貴女はこう、厄介な人間にばかり好かれるんですか……!)
アレクサンドラの鋼の意志こそが最も厄介だからか? それはそうかもしれないが、人柄でいうなら彼女はしごく真っ当だ。
世界を呪っている優男だとか、その異母兄で今は牢獄に繋がれた狂人だとか、野心の業火で世界を焼き尽くさんとする凶悪な聖女だとか、そういうろくでもない連中とは別世界の住人なのだ。
それなのにどうしてああいう連中が寄ってくるのか。
アレクサンドラのろくでなしどもへの吸引力が強すぎる。
ルキウスはこの苦悩をせつせつと書き連ねて腹心の部下へ送ったが、返信は「鏡を見たことがありますか、ご当主?」だった。あるに決まっているだろう。アレクサンドラの未来の夫として、常に身だしなみには気を付けている。
ルキウスとしてはもはや、リティ・ロフェの野心が一刻も早く達成されて、アレクサンドラとの協力関係が消えうせるように力を尽くすしかなかった。
(あの女、もしも教皇になるという野心に敗れて国を追われる羽目になったら、アレクサンドラに共に逃げてくれないかと請うくらいはやりかねない……!)
それも捨て鉢になった顔でいうのだ。どうせ無理に決まっているといわんばかりの眼をして、それでも願いを口にせずにいられない己を嘲笑いながら「わたくしと一緒に逃げてくださいませんか、殿下? ……な~んてね。ふふっ、冗談ですわ」などといったりするのだ。
ルキウスにはよくわかる。やすやすと想像ができる。なぜなら自分があの女の立場だったら同じことをいうからだ。
そしてアレクサンドラは、震えながら差し出された手をしっかりと掴むだろう。たとえ未来の夫と別れることになっても───!
そんなことは絶対に許さない。
何が何でも阻止してやる。
公爵家の全力を挙げて教会と敵対してやってもいい。
だからアレクサンドラの手を掴むな。一人で血塗れの椅子にでも座っていろ。
ルキウスはそう怨念混じりに考えていた。
これはなにも、自分の行き過ぎた妄想ではない。エドワードも同じことを懸念している。だからこそルキウスをリティ・ロフェにぶつけたいのだ。毒を以て毒を制そうとしている。
あの優男、自分だって猛毒持ちのくせに、安全圏で高みの見物ができると思うなよ。ウィンター家の当主となった異母弟とは関係良好なのだから、実家を動かせ。リティ・ロフェの好きにさせるな。