10.王女アレクサンドラ③
ルキウスの脳内で自分がどんな目に合っているかも知らないで、アレクサンドラは美しく高潔な眼差しで告げた。
「わたしはきみに幸せになってほしいんだよ、ルキウス」
ルキウスは腹の底から苛々した。
それなら結婚してください。今すぐ神の前で愛を誓って私を愛しているといってください。貴女を愛しているんです。一生傍にいてください。
そう叫びたくなったが、寸でのところで自制する。
いや、正確にいうなら、怖気づいた。
アレクサンドラがルキウスの想いを微塵も察しないのは、なにも彼女に一方的に咎があるわけではない。ルキウスは今まで一度も、率直な言葉を口にすることができなかった。好きです、だとか、愛しています、だとか。そういった誤解しようもない言葉を、今まで一度も告げられていない。
なぜなら。
(愛の告白なんてものをして、振られたらどうする? 何もかもおしまいだろう。抗うこともできずに、婚約者の地位まで失うことになる)
訳ありの婚約者という立ち位置のままなら、たとえ喧嘩になることがあっても修復は可能だ。
しかし振った女と振られた男になってみろ。どうしようもないじゃないか。
振られた男がいつまでも付きまとっていたら迷惑なだけだ。ルキウスはすごすごと屋敷に帰るしかない。そのまま何年も引きこもるだろう。二度とアレクサンドラに会うことはできない。振られたって愛しているから。けれど振った男に付きまとわれるのは彼女だって迷惑だろう。ルキウスはもはや何もできない。灰のようになって日々を過ごすだけだ。
アレクサンドラと愛し合う仲になりたいという欲望はもちろんある。燃え盛るほどにある。
しかしそれは、彼女の愛が自分にあると確信できるようになってから行動に移ればよい。守るべき子供としか思われていなそうな現時点で告白するのはリスクが高すぎる。
───ルキウスは己を慎重な男であると自負していた。断じて臆病者だとかへたれだとかではない。我慢強く慎重な男なのだ。
今はとにかく結婚へ漕ぎつけることが大切だ。
ルキウスは胸の内でそう意気込み、人生のかかった勝負に出るために深く息を吸い込んだ。そして、わざとらしく呆れた声を出してみせた。
「恋愛をしてから結婚するのでなくては幸せになれないと仰るんですか、殿下は?」
「そういうわけじゃないが……」
「いつから恋愛至上主義者になったんです? 貴女の姉君や兄君にだって、王妃殿下が勧めた相手と結婚された方はいるでしょう。あの方々は不幸だと仰る?」
「兄たちや姉たちだって、ある程度は自分で選んでいたんだよ。きみがまだ王宮にいた頃の話だけど、覚えているかい? ミラ姉上のときなんて本当に大変だった」
王女ミラはアレクサンドラの三番目の姉だ。五年前に他国に嫁いでいる。
「覚えていますよ。私を見て『あと五年早く生まれていたら夫候補リスト第一位だったわ』と仰った方でしょう?」
「その節は本当にわたしの姉が申し訳ない……」
アレクサンドラはウッと両手で顔を覆った。
「ミラ姉上は極度の面食いだったから……、というか我が家はみんな面食いなんだと思う……、面食いの血筋だ……、整った顔立ちに弱いんだ……」
「そうですか? 私はそのように思ったことはありませんけどね」
王家全員面食い説が正しいなら、アレクサンドラだって少しは自分の顔に靡いてくれるはずだ。
こういっては何だがルキウスは自分の顔面には自信があるし、服装や身だしなみにも気を配っている。いつだってアレクサンドラに一目惚れされる準備は万端だ。されたことがないだけだ。
しかしアレクサンドラは虚ろな眼になっていった。
「ミラ姉上の理想の男性像についての注文の細かさといったら、それはもう凄まじかったんだぞ。母上と毎日喧嘩になっていたけれど、それでも譲らずに大陸中から姿絵を集めていたからね……。それにスタン兄上だって『絶対にセクシーな美女と結婚する』といい張って、姿絵どころかきわどい絵まで大量に収集して、ギル兄上に全部燃やされていたしね……」
スタンは第二王子、ギルバートは第一王子であり王太子だ。ギルバートは結婚しているが、スタンは三十歳過ぎた今も独身のままご婦人たちと戯れている。
「あれで外交能力に欠けていたら本体まで燃やしていた」というのは王太子の弁である。
アレクサンドラは頭から嫌な記憶を追い出すようにふるふると首を振った。それから改めてこちらを見た。
「ルキウス、きみがまだ結婚したくないというならそれでいいと思う。だけど、妥協して無理に結婚するのは賛成できない。もう一度よく考えなさい」
「どうして勝手に“妥協”だの“無理”だのと決めつけるのですか? 私の思考が貴女に読めるとでも? 殿下のようにおおらかで大雑把な方が、私のような繊細で天才な思考を読めると? いくら第一騎士団の気高き薔薇と謳われた貴女でも、物事には向き不向きがあることをご存じないのですか? それともご自分が海亀よりも鈍いことを自覚されていない?」
「きみに『決闘だ、剣を取れ』と手袋を叩きつけてやりたい気持ちにはなっているよ」
アレクサンドラが目元をひくりと引きつらせて笑ってみせる。
ルキウスは、はあとこれ見よがしにため息を吐いて、人差し指でトンとローテーブルを突いた。
「まず前提からして間違っているんです、殿下は。この結婚は私が望んだものです。妥協も無理もしていません」
「本気でわたしに妻になってほしいって?」
「ええ」
「なぜ」
ルキウスは一秒間沈黙した。
その一秒の間に天才の頭脳は目まぐるしく回転し、光の速さで動き、万物を飛び越え、爆発し、月と太陽が産声を上げ、生命の誕生にまでたどり着いた。
しかし結局、ルキウスが口にできた答えはこうだった。
「私は……、政略結婚がしたいからですっ!」
アレクサンドラが「えっ?」と呟いて、正気を疑うような顔でこちらを見た。
「政略結婚の何が悪いというのですか? 結婚という契約によって両家が結びつくことによって強固な同盟関係が結ばれ、互いの領地も事業もより発展し、莫大な利益を生み出すことができます。巡り巡って民の暮らしを潤し、我が国を豊かにし、皆が幸せになれます。これは恋愛結婚では不可能です。政略結婚にしか存在しない利点ですよ!」
「それは、まあ、そういう一面はあるだろうけど」
「何より、恋愛などという一時的な熱狂に侵されることなく冷静な判断を下せます。互いの人柄、長所に短所、経済力や将来性、そういったものをシビアな眼で見定めるのは、熱に浮かされた精神状態では不可能です。しかし政略結婚ならそれができます!」
「え、いや、それは政略結婚というか、見合い結婚じゃ」
「どちらにしろ殿下は私と結婚すべきです! 国と民を想う心の強い殿下であればこそ、夫に選ぶべきはこの私! 我が国で最も夫にしたい独身貴族№1のこの私です! 私以上に殿下の欠点も無謀さも腹が立つところも知り尽くしている男はほかにおりません!」
「それは何のアピールポイントなの?」
「結婚しましょう、殿下!!」
あと二話で完結予定です。
あらすじのヒーロー説明文を『ヤンデレ寄り』から『へたれ』に変えたほうがいい気がしてきました。




