テレビの花形
ブーッブーッとスマホが振動している事に気づき、目を開ける。液晶画面に表示された三時三十分を確認し、まだ眠っていたいと主張する脳に鞭を打って起き上がる。今日の寝床に選んだ茶色の無機質なソファは、残念ながら昨日の疲れを取ってくれなかったようだ。大きな欠伸をしながら第三制作部の扉を開け、明かりが乏しい廊下を歩いていく。そのままビルのエレベーターの前に向かい、上の階へ向かうためにボタンを押す。待ち時間が嫌いな俺にとって、わざわざ一フロアを移動するのにエレベーターを使う事なんてまずありえないのだが、この時間になると階段へと続く扉が閉まってしまうのだから仕方ない。チーンという音を認めてからエレベーターに乗り込み、七階を押す。と、同時に鳴る俺のスマホ。ラインの通知はあの人の名前を指しており、未読のまま放置する。閉まっていくエレベーターの扉と、俺のため息が、不格好な二重奏を奏でた気がした。
『いや、マジでこの店に支えられてたんすよ…!俺たちがどうしようもなかった時から、ここのおっちゃんだけは俺たちを支えてくれて…』
『いや本当正直あの頃面白くなかったもんね!』
『正直に言いすぎだなぁ!』
『昨年度S1チャンピオン、ケロニカのルーツは、下町の小さな定食屋にあった…』
テレビが娯楽の頂点だった時代は終わった。家族や学校でのコミュニケーションツールであり、時代の最先端を走っていたテレビは、インターネットの隆盛と共に斜陽になっていった。もちろんこんな事を言っていたら俺の上司たちは怒るに違いないが、少なくとも若者の間ではテレビの優先順位は日に日に落ちていっている。
『この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りいたしました。』
自分が関わった番組が地上波で流れていることに興奮したのは数回ほどだった。初めて自分の名前がエンドロールに流れた際は思わず母親に電話をかけてしまったものだが、人間という生き物はすぐに慣れるようで、今ではもうリアルタイムで放送を見ていることの方が少ない。
「すみません。デジタイズお願いしたのを回収しに来ましたー」
編集デスクでは藤井さんがいびきをかいて寝ていた。声をかけるだけでは起きる気配が無いため、近くに行き肩を揺する。ビクッと反応した藤井さんは一瞬恐怖と不安が入り混じった表情を浮かべたものの、俺の姿を認めるとすぐに安堵した様子を見せた。
「あ、あぁ。長野君か。終わってるから持ってっちゃっていいよ」
「ありがとうございます」
藤井さんからハードディスクを受け取り、編集デスクを後にした俺はエレベーターを使って第三制作部に向かう。今から素材のコピーに一時間。簡単なカット編集に一時間。利用規約のまとめに一時間…。上手くいけば朝までには仕事を終える事が出来そうだ。上手く行くことなど中々無いのは言うまでもないが。
大学を卒業した俺は、テレビ番組の制作会社である「あーもんどテレビ」に就職した。普通の会社で働く自分は想像が出来なかったし、昔からテレビドラマは好きだった。その程度の熱意でなんとなくドラマに携われたら良いな、と思っていた俺を待っていたのは「これで育ちました!」という深夜のグルメバラエティ番組だった。この番組では、今世間で人気のゲストが愛してやまない飲食店に取材を行い、ゲストのルーツを探っていく。ゲストは自らの足でそのお店を訪れたり、リモートで店主との会話を行う事でそのお店にまつわるエピソードを話していく。ゲストの知られざる一面を店主が話してくれる点や、深夜に美味しそうな食事の映像を見ることが出来るという点が好評を博し、その時間帯の中ではそこそこの視聴率を誇っている。ゲストやエピソードによっては感動来な演出になることもあるが、基本的には「面白ければ何でもいい」というスタンスのバラエティ番組だ。ドラマ志望の俺が、何故バラエティに配属されなくてはいけないのか、その疑問に対する納得のいく回答は未だに得られていない。この番組で働き始めて一年ほどの時間が経ったが、ドラマ班への異動の気配は微塵も感じない。
利用規約のまとめを終え、現状やるべき仕事をひとまず終えた俺はスマホを取り出しラインを開く。「デジタイズとコピー終わりました。プロジェクトも入っています。ハードは机の上に置いておきます。」必要事項だけを記入し、送信。あの人とのやりとりにスタンプや絵文字は存在しない。ハードディスクをあの人のデスクに置いた俺は、スマホの目覚ましを再びセットする。他のスタッフが出社してくるのは昼の十一時だから、短くてもあと三時間は寝る事が出来る。学生時代は分からなかったことだが、睡眠時間と身体の健康は著しく比例する。一時間でも、十分でも、寝る事が出来るなら寝なくてはいけない。今回の寝床には自分のデスクを選び、ドカッと背もたれに背中を預け目をつむる。明日、正確には今日の内にやるべき仕事を考えていくうちに、俺の意識は少しずつ活動を止めていった。
何やら気配を感じて目を開ける。この時間になると第三制作部は出社している社員の数が増えるため、快眠できる環境は駆逐されていく。疲れはとれていないものの、多少体が楽になっているはずという自己暗示をかけながら大きく伸びをする。
「長野、昨日も泊まりだったの?」
立石の声が右隣から聞こえてきたので、んん、と意味を含まない発声でリアクションする。編集作業をしているようで、俺の返答に対してもさほど興味を持っていない。自身の左で急に動き出した生気を感じない同期に対して、とりあえず声をかけておこうという意思を隠そうとしないのが立石の良い所でもある。
「昨日青山さんからもっと良い素材送れって連絡来たわ。もう辞めていいか俺この仕事」
「そういう質問って、結局自分で決める事が大切だよ、としか言えないからずるいと思う」
「ごもっとも」
立石は同じ番組で働く同期で、同じADだ。お笑いがとにかく好きで、いずれ自分が企画したバラエティ番組をゴールデンで放送するという明確な野望を持っている。ドラマ志望の俺とはテレビ番組に対しての思いが違うものの、番組や上司への不平不満を話すことが出来る数少ない存在だ。
立石が操作しているMacの画面では編集ソフトであるAdobe premiere proが起動している。同じ番組に携わっている関係上彼が現在行っている作業は容易に把握する事ができる。どうやら先日のロケでインタビューを行った、芸人の動画を編集しているようだ。少し長めの金髪をオールバックでまとめている彼の頭、もとい視線は、スタバが似合うりんごマークを携えたPCに注がれており動く気配が無い。立石は立石でどうやら忙しいらしい。
「そうだ。こないだロケ行った中目黒の定食屋さんがさ、今度プライベートでも食べに来てって言ってくれたからさ、そっち暇になったら行こうぜ」
「良いね。いつ暇になるか分からないのが不安要素だけど」
「俺はとりあえず今週末なら空いてるかな~」
「今の仕事が片付いていないのにそんな話をしていて良いの?」
少し高めで威圧感を感じさせる声。反射の様に声の出所へと顔を向けてしまう。視線の先にはボサボサに伸びた髪を整えようともしない、眼鏡をかけた男が立っていた。
「…お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
誰に対しても同じように、という理想には届かなくとも、せめて明確な嫌悪感を感じさせない程度の人付き合いを心がけてはいるのだが、この人の前だと思わず声のトーンも下がってしまう。編集作業を止めようともせず、のんびりとした返答が出来る立石にこういう時は心底憧れる。
「長野君。君が送ってきた素材だけど、あれ何も面白くないから。アバンであんなもの使って数字確保できると思ってる?もっと考えて仕事してよ」
「・・・すみません」
青山さんは俺の返答も待たずに歩き出し、自分のデスクへ向かいゆっくりと座った。そして自身のカバンからMacを取り出し、起動を待つ間にどこかへと電話をかけ、快活に話しだした。先ほどの俺に対しての声色とは違うその喋り方は、どこかサービス業を想起させるものだった。話している間にも右手は動いており、何の作業かは分からないものの、並行作業が行える優秀さは嫌でも伝わってくる。
青山さんは「これで育ちました!」のディレクターだ。番組の立ち上げ当初から携わっており、プロデューサーである岡崎さんからの信頼も厚い。その仕事ぶりは極めて優秀で、作業は速く、番組を誰よりも理解し、外部の人間とのコミュニケーションもそつなくこなす。しかし、ADに、特に俺に対しての態度は露骨に悪く、二言目には嫌味や説教が飛んでくる。それがストレスのはけ口としての理不尽なら逆に良かったのだが、彼の指摘は大前提として理にかなっており、その度に自分の至らなさが嫌になる。
「長野―」
「はい!」
感情の行き場を失い意味も無くネットニュースを見ていた俺を、岡崎さんが呼んだ。短髪でガタイの良い岡崎さんに相対すると、意味もなく少しだけ緊張してしまう。岡崎さんは「これで育ちました!」を企画した人物で、この番組のプロデューサ―だ。俺の直属の上司でもある。
「編集上がりデータ見たんだけどさ、これお店の情報とかあってる?料理名とか、ちょいちょい公式サイトと違ってるけど。」
「大丈夫です!ロケの時に確認していて、公式サイトは古い情報で更新してないってだけだそうです。」
「あ、そうなのね。オッケー。ありがとう」
「失礼します」
俺たちは第三制作部の「岡崎班」に所属しており、第三制作部の部長である岡崎さんのデスクは唯一少し離れた場所に置かれている。その他のスタッフのデスクは、向かい合う二つのデスクを横長に並べた状態になっており、岡崎さんの近くには青山さんのデスクが配置されている。岡崎さんに呼ばれることも岡崎さんと話すことも何も嫌では無いのだが、必然的に青山さんの傍に行かなくてはいけないという事実にはどうしても憂鬱になってしまう。
「長野君。明日の朝までに次のゲストのリサーチ送ってね。」
「えっと、ゲスト決まったのって昨日ですよね?まだあまり手をつけられてないんですが…」
「うん。でも明日打ち合わせでしょ?じゃあ今日までには必要だよね?」
「…わかりました」
今ここに会社での3連泊が確定した。
「あんなんだから慕われねぇんだよな!」
ドン!と机に置かれたグラスのビールは、一口で半分以上減ってしまった。安月給の身からしたら居酒屋での飲食はなるべく避けて自炊をしたいものだが、溜まり続けるストレスを洗い流すためにはアルコールが一番手っ取り早い。先日青山さんから頼まれたリサーチをその日中になんとか終わらせたことによって、翌日の打ち合わせは無事終える事が出来た。今日は久しぶりに時間を作ることが出来たため、立石と共に新橋の居酒屋に来ている。料理やサービスなど特筆すべき点は無い平凡な店だが、少し駅から外れた場所にある立地は日ごろの鬱憤を晴らすのにちょうどいい。
「お待ちどおさまでしたー」
抑揚のない声でチャラチャラした格好の店員が唐揚げを運んできた。この店では一番美味いと評判の看板商品だ。ありがとうございまーすと返事をしながら唐揚げを受け取った立石は、迷うそぶりなど微塵も見せず、付け合わせのレモンを絞り出した。
「なに勝手にレモンかけてんだ喧嘩か?」
「喧嘩しても良いからレモンがかかった唐揚げが食べたい。覚悟は出来てる。」
「俺は出来てねぇよ」
俺自身唐揚げにはレモンをかけて食べたい派なのだが、勝手にかけられると腹が立つ。だがこのやりとりも毎回の飲み会での恒例のようなものになっているので、今となってはいちいち本気で怒りはしない。もっとも、初めて立石と飲みに行った際は大喧嘩に発展したものだが。
唐揚げを箸でつまみ、口内へと放り込み咀嚼する。にくにくしい食感と濃い目に感じる塩分が強烈にビールを誘う。残り半分しかないビールをぐびぐびと飲み干すと、どうしても口角が上がってしまう。
「あーさっさとドラマ班に移りてぇ。それかせめてディレクター変えてくれー」
椅子の背もたれに身体を預けながら、独り言のようにつぶやく。二杯目のビールを頼みたいところだが、先日カメラを新調したことによる金欠を思い出し自制する。立石はそんな俺の状況を知っているはずだが、お構いなしにビールと枝豆を注文した。
「長野は青山さんが本当に嫌いだね。」
枝豆をリズミカルに食べながら立石がつぶやく。
「嫌いっつーか…。合わないんだよな。人間的に。向こうは俺が嫌いだろうし」
「そんな事は無いと思うけど。ただ長野はちょっと露骨すぎるよ」
「何が?」
「バラエティには興味無いですーって顔しすぎ」
唐揚げをつまもうとしていた箸を思わず止めてしまう。立石はそんな俺の様子を見ても何も変わらず、先ほどと同様枝豆をむしゃむしゃと食べ続けている。一瞬静止した俺はすぐにからあげをつまみ、乱暴に口内へと放り込む。アルコールを注入したい気持ちをグッと堪え、ぬるくなっている水で流し込む。
「しゃーねーじゃん。興味ねーんだから」
図星を認める事が癪に障り、ぶっきらぼうな物言いになってしまう。マイペースで自分の世界を崩さない所が立石の良さではあるが、こういう状況の時には反面無神経だと感じてしまう。と同時に、バラエティ番組を誰よりも愛している立石の前で、否定的な言動をとってしまった自分がまた少し嫌いになる。
「しゃーねーけどさ。俺以外の前では気を付けた方が良いよ」
立石の優しさが今は辛い。たまに、どうしようもなくマイナスな思考が脳内を埋め尽くす時がある。取り立てて秀でた能力が無い自分自身に、存在する価値が果たしてあるのか?仮に自分が交通事故で亡くなった時、悲しんでくれる人はいるのか?自分は、生きていていいのか?
「青山さんもさ、いい所あるじゃん」
免罪符に出来るほどアルコールを摂取している訳では無いのだが、とりあえずの言い訳として今日の悪役にはビールを選出しよう。
「…俺はどうしようもねぇ人間なんだよ。人をさ。減点方式で見てんの」
既に空になっているグラスを意味もなく持ち上げ、空になっている事は把握しているのにも関わらず口元に運ぶ。
「青山さんは優秀だよ。でもさ、あんな言い方しなくていいじゃんとかさ。態度悪いとかさ、嫌なとこが目に入るとそっちに支配されんだよ。俺は仕事できねぇしさ。番組に貢献なんて全然出来てねぇし、消えちまっても問題ねぇし…」
酒の所為に出来ない程内面を赤裸々に語ってしまった事実が急に恥ずかしくなり、恐る恐る立石の顔を見つめる。立石は枝豆を食べていた手を止め、真剣な顔で俺に向き合っている。
「長野は真面目だし、責任感があるし、頑張ってると思うよ」
「…ありがとう」
立石の励ましはビールなんかよりもよほど心への治療薬となった。いつもなら全額割り勘で払う代金にしても、いつの間にかおつまみの分は立石が払ってくれていた。信頼できる同期がいる、という点に関しては恵まれていると思った。
遅めにセットした三個の目覚ましが同時に鳴りだす。朝が弱い俺は一つの目覚ましでは到底起床することが出来ない。快眠を誘ってくれる布団という存在はあまりにも魅力的であるため、目覚ましのスヌーズが正常に機能している事を確認した上で再度眠りにつく。何回かその流れを繰り返した後に、ようやく起き上がった俺はトイレへと向かう。大抵自分の意志よりも、尿意に促されてやっと起床する事の方が多い。眠っている間に溜まった老廃物をしっかりと処理した後は、布団を片付け、朝食の準備に取り掛かる。冷凍してあるご飯を電子レンジに入れ、片手鍋でお湯を沸かす。本当は卵焼きなどの凝った朝食で朝から精気を養いたいのだが、如何せん手間がかかるのが面倒くさい。したがって朝食は今日のお茶漬けのように簡単なものとなる。チン、と鳴った電子レンジからホカホカのご飯を取り出し、茶碗に盛る。永谷園のお茶漬けの素をふりかけ、沸騰したお湯をかける。いただきます、と手を合わせ、フーと息で冷ましながら少しづつ食べ進める。何度食べても、飽きない味だ。食事を終えた後は食器を洗い、水切りかごの中に置いておく。毎回ふきんで水気を取って棚に戻すことが面倒くさいので、大抵夕食の時もこのかごから取り出してそのまま利用している。
食事を終えた俺はいつものリュックを背負い、右ポケットに財布、左ポケットにスマホを入れ、ヘッドホンを首にかけつつ家を出た。最寄り駅は徒歩三分ほどの場所にあり、そこから約一時間をかけて会社へと向かう。会社の近くへと引っ越したいという気持ちはあるものの、費用面での不安から決断が出来ずにいる。PASMOを利用して改札を通り、二両編成の電車に乗り込む。一息ついてからヘッドホンを装着し、スマホで音楽ソフトを起動する。最近ハマっているアイドルの楽曲を聞きながら、電車に揺られ、会社へと向かう。
会社の最寄り駅に着くころには、車内はおしくらまんじゅうのような人口密度になっており、座っている事に何故か罪悪感を感じてしまう。駅に着くと人の塊が一気に外へと放出され、閉じ込められていた世界から解放される喜びを一瞬得る事が出来る。しかし駅に放たれた後は、人の波に沿って会社がある地上を目指す必要があるため、ここでも酸素の薄さを感じながら歩みを進めなくてはならない。会社に近づくにつれ人の塊は離散していき、ここでようやく真の意味で解放された気分になる。もう慣れたものだが、地元の静岡では満員電車など経験したことが無かったため、上京した当初は毎日吐き気をこらえて通勤していた。そういう意味では俺もようやく社会人の仲間入りを果たしたのだろう。
あーもんどテレビはビルの六階と七階がオフィスになっており、「これで育ちました!」などのテレビ番組を制作する部署は六階、編集所や総務などの部署は七階にある。ビルのエレベーターに乗り込み六階を押し、第三制作部に向かう。今日は先日放送された担当回の事後処理を行う予定だ。第三制作部の扉を開け、自分のデスクへと向かう。この時間はまだ他のスタッフは出社しておらず、会社という場所にも関わらず息苦しさは感じられない。この広い空間の中で自分一人が業務に当たっているという状況は案外嫌いじゃない。
愛用のPCを取り出した俺はエクセルを開き、作業中のデータ、「素材表」を展開する。テレビ番組を制作する際、ゲストの紹介VTRや特集したい事柄の過去の取材映像などを、様々な放送局から借用する場合がある。使用料金や使用条件などは各放送局や各制作局によって異なるため、番組の編集までにスタッフが完璧に理解している必要がある。そのため、この場面で使用した映像の権利は誰が持っており、使用料はいくらなのか、などの情報を、俺たちADが纏めておく必要があるのだ。昨日のOA回で使用した素材の手配を行ったのは俺なので、今日は使用報告書の作成などの事後処理を行おうと考えた。そのため、いつもより早く出社する羽目になったという訳だ。
ジャー、という音と共に便器に水が流れ、その様子を見ながら自分のチャックを閉める。手を洗った後に大きく伸びをするものの、それだけでは不足気味の睡眠時間を補えそうもない。しかし、事後処理を無事に終える事が出来たら少なくとも今日はゆっくりと眠ることが出来るはずだ。帰宅後に酒と併せるおつまみを考え、今から頬を緩めてしまっていると、ブーッと俺の携帯が振動を始めた。表示されたのは岡崎さんの名前。社会人になってからというもの、携帯電話の着信が少し怖くなった。学生時代には、遊びの誘いや、彼女からの意味も無い連絡など、心を躍らせる合図だった着信音は、いつしか怒号と叱責の媒介者となっていた。岡崎さんは大抵メールで要件を伝えてくる。その岡崎さんがこの時間にわざわざ電話で連絡をよこすということは、何かがあったということだ。その何かが自分へ損害をもたらさないように、という期待を抱えながらスマホを耳元へと持っていく。
「はい。長野です」
「あー、お疲れ。今大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
岡崎さんの声色は普段とあまり変わっていないようにも聞こえるし、少しそっけなくも聞こえる。
「あのさ、昨日の放送でさ、渋谷のラーメン屋特集したじゃん」
「はい」
「あそこの店主が局に電話かけてきたんだってさ。自分の姿は映さないでくれって頼んだのにガッツリ映ってんだけどって」
後から振り返ると、記憶が残っているのはこの瞬間までだった。]
「岡崎さん。申し訳ありませんでした。」
青山さんが岡崎さんに頭を下げた。俺はまだ動き出せていない脳を再起動するのに必死で、何でこの人が謝っているんだろう、とぼんやりとした考えを浮かべる事しか出来ない。
「長野君」
その声に意識を取り戻し、慌てて深く頭を下げる。子供の頃、公園でボール遊びをしていて民家の窓ガラスを割ってしまった際に、母親が必死に頭を下げていた記憶が蘇る。途端に、なんてことをしてしまったのだろうという後悔と恐怖が身体を支配する。鳴りやまない心臓の鼓動は収まる気配が無い。
「今回の件は、編集をした自分の責任です。事実確認を怠り、長野君に任せてしまいました。岡崎さん、大変申し訳ありませんでした」
青山さんの言葉を聞き、一瞬耳元で悪魔が囁く。この放送回の編集をしたのは確かに青山さんで、それはある意味責任者が青山さんだということにも繋がる。この人が仮編集の段階で、店主を映すことの是非を確認してくれれば。そもそも、あのシーンを使わずに、別のカットを使っていれば。
「長野」
岡崎さんに名前を呼ばれ、ハイ、と反射的に返事をして顔を上げる。青山さんは未だに頭を下げており、上げる気配が無い。
「店主はちゃんと伝えたって言ってたみたいけど、聞いた覚えある?やりとりしてたのはお前だよな?」
瞬間、脳内のプロジェクターがひと月前の記憶の上映を始める。ロケの当日、店の外観と料理を撮り終わり、内観を撮り終わる頃に話しかけてきた店主。「顔が出るのは恥ずかしいからさ、モザイクとかかけてくんねぇかな?」元気よく答える俺。「かしこまりました!放送の際にはお顔が見えないように編集させていただきますね!」一か月の間この記憶は海馬の奥底へと収納されてしまっていた。本編集をしている際も、思い出すことが出来なかった。にもかかわらず、今こうして取り返しのつかない状況へと発展したことがトリガーにでもなったかのように、当日の空気感までもを鮮明に思い出すことが出来た。こんなことなら忘れたままの方が幸せだったのかもしれないと思いつつも、これ以上自分のことを嫌いになりたくないという願いは正直に事実を語らせた。
「すみません。忘れてしまっていました」
岡崎さんの瞳を見る事が出来ない。絞り出した声は震えており、活舌もガタガタで聞き取りづらい。
「顔は映さないでくれと。言われたのを。忘れていて、共有していませんでした」
溢れ出そうになる涙を感情のダムが必死に押さえつける。いつ決壊してもおかしくない様子の俺を見た岡崎さんは、深くため息をついた後にこう告げた。
「分かってると思うけど、取材先への迷惑は論外だ。俺たちは協力してくれる方々のご厚意で番組を作れてる。ただでさえ今はテレビっつー権力は良いサンドバッグになっちまってんだ。お前の今回の行動は、テレビ全体への迷惑になるってことは理解しているよな?」
少しだけ開いた口からは音が聞こえない。何か喋らなくては、と必死に言葉を紡ごうとしてもこの空間の沈黙は上書きされない。辛うじて絞り出した、はい、という一言は岡崎さんにしっかりと届いたのだろうか。
「岡崎さん」
青山さんが顔を上げた。その後ろ姿からは彼の真意を把握できない。
「長野には、俺から強く言っておきます。とにかく、あのシーンを使うと決め、流したのは俺です。今回の責任は俺にあります」
「君1人の責任じゃないっつーことは、まあ青山なら分かってるよな。とにかく、店には俺が行って謝ってくる。この番組の責任者は俺だからな」
ガタっと椅子から立ち上がった岡崎さんは、普段は着ないスーツを羽織り外出の準備を始めた。机の上には高級和菓子店の包み紙に覆われた四角い箱も置かれている。全身を黒で纏った岡崎さんは、詫びの品であろうお菓子の箱を紙袋に入れ、じゃ、という一言をこの場に残し第三制作部を離れていった。岡崎さんがいたことで辛うじて中和されていた場の空気が、急によどみ始めた感覚がした。
「長野君ってさ」
青山さんが俺の顔を見て、喋りだした。ただ、青山さんの瞳は俺の瞳を捉えてはいない。
「仕事舐めてる?」
否定も肯定も出来ず、ただその場で立ち尽くしてしまう。
「言われた事しかやんないのに、言われた事も出来ないじゃん」
スマホで意味もなくYouTubeを見始めてからもう二時間が経過しようとしている。一人暮らしでもやや狭いこの部屋に、無駄にテンションが髙い若者のリアクションが響き渡る。そんな筈は無いのに、岡崎さんの言葉と青山さんの言葉が常に反響しているような気がしてならない。青山さんの一言を受けてから、この家に帰宅するまでの記憶は靄がかかっているかのように不透明だ。同じ空間に青山さんがいるという事実はただひたすらに気まずかった。岡崎さんが会社に戻り、何とか許してもらえた、という一言を伝えてきたあとも、喜びのリアクションをとって良いのか分からなかった。同じ失敗はすんなよ、と一言添えてくれた岡崎さんとは違い、青山さんは俺に何の言葉もかけてくれなかった。普段は心地よい疲労感と達成感に満ち溢れている帰り道は、色を失ったかのように味気なく見えた。
見たいと思っていたドラマが何本もあるのに、リモコンに手を出すことが出来ない。この精神状態でドラマに触れても、心の底から楽しむことが出来ないというのは過去の経験から理解している。故に、大して好きでも無いユーチューバーの動画を、暇つぶしにひたすら流し続けるという時間が生まれてしまっている。
と、同時に、「好きなことで生きていく」というキャッチフレーズが頭をよぎる。今の自分は、仕事に対して本気になれていないという自覚がある。立石は暇があればお笑い芸人の劇場へと向かい、毎週のように企画を考えている。自分が好きで仕方が無いバラエティという世界を、理解し構築するための努力を努力とも思っていない。対して俺は、不満の表現のレパートリーが増えていくだけで、将来を見据えた行動を一切行っていない。それは自分が興味の無い分野に配属されているからでは無いか。このままバラエティ番組を作り続けても、モチベーションは上がらないし、「怒られないこと」が上手くなるだけなのでは無いか。
スマホの電源を落とし、ソファに横になり天井を見上げる。現状を変えたいと思った場合、意識を変えるのでは無く、環境を変えるべき。昔観たドラマで登場人物の一人がそう語っていた。しばらく視界に広がる白色と見つめあった俺は、わざとらしく飛び起きてソファに座りなおす。スマホでグーグルを開き、慣れた手つきでフリックしていく。
時計の針が二十二時を回る。窓から見える街並みは黒に染まっており、この時間でも光っている建物を見ると何故か勝手に仲間意識が芽生える。テレビと聞くと、深夜にも働くブラック企業のイメージがどうしても湧き上がってくるが、今は働き方改革により随分マシになったという。以前青山さんが取材先との会話で話していた、「前は深夜二時から打ち合わせとか当たり前だったんですけどね。今はそんなこと少ないんでもうぬるいくらいですよ」という言葉が思い浮かぶ。入社前は会社に寝泊まりする事を覚悟していた俺にとっても、現代の番組の作り方は少々意外だった。
しかし、岡崎さんは未だに過去に生きているかのような働き方をしている。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰宅する。「これで育ちました!」の番組スタッフは基本土日休みなのだが、岡崎さんに関しては例外だ。打ち合わせや番組HP・SNSなどの更新でとにかく毎日働いている。この人より早く帰らないようにしよう、なんてことを考えていた俺も、一か月後には「お先に失礼します」の一言に後ろめたさを感じなくなってしまった。
この時間になると必然的に岡崎さんは一人になる。岡崎さんと二人きりで話すのに絶好のシチュエーションが図らずとも醸成される。
「岡崎さん」
日頃の簡単な業務連絡を行うような意識で、岡崎さんに語りかける。左胸の鼓動は血流の加速と共に勢いを増し、手綱が意味を成さない暴れ馬のように抑える事が出来ない。岡崎さんは目の前にいるはずなのに、どこか遠くに行ってしまったような距離を感じてしまう。
「どうした?」
岡崎さんは今行っている作業を中断し、俺に椅子ごと向き合ってきた。いつもなら聞こえてくる、お先に失礼します、という言葉が耳に届かなかったことを不思議に思ったみたいだった。
「お話があって。俺、やっぱドラマを作りたいです。今やっている回を終えたら、この番組を離れたいと考えています。異動も難しいようなら、会社ごと辞めてしまおうと思っています」
間を開けたくなかったから一息で伝えてしまった。今日この意思を岡崎さんに伝えようと思ったあの瞬間から、何度も脳内で練習したセリフだった。そもそも自分はドラマが作りたいと考えてこの業界を志望した人間だ。バラエティ番組とドラマでは制作過程がまるで違うし、その一瞬を楽しむためだけに創り出されるバラエティとは異なり、ドラマは誰かの人生を変えてしまう力がある。自分にバラエティは合っていない。ドラマでなら自分は輝ける。聞かれてもいないのに、言い訳の様な思いが溢れ出てくる。幸い唇がぴったりとはりついてくれている事で、この思いは岡崎さんには伝わらない。
岡崎さんは、大して驚いた様子も見せずまっすぐに俺の瞳を捉えている。その瞳の黒さには街並みとは異なり光が存在していない。意識を飲み込まれそうになる感覚を逃がすかのように、意味も無く両手を組んでお尻近くまで持っていく。永遠のような時間が流れる。
「お前が本当に悩んで決めた事なら何も言わないよ。たださ」
そこから繋がる言葉を想像してしまう。それを言われたら何も言い返せない。だからやめてほしい。
「逃げるって事じゃないよな?」
「そんなことは」
何度も練習したはずなのに、そこから言葉が繋がることは無かった。二人の間に沈黙が訪れる。理由や真意を聞き出そうとして待つ岡崎さんと、自分の思いをどう表現したら波風立てずにこの場を終える事が出来るのか考え続けている俺。付けっぱなしになっているテレビからは最近流行りのアイドルグループが出演しているコマーシャルが流れている。音量自体は小さいはずなのに、セリフの一つ一つが聞き取れるほど明確に耳へと届く。
「こないだの事はさ、まぁこういっちゃなんだがいい経験をしたって思えばいいじゃねぇか。お前はまだ若いんだし、今後の糧にすればさ」
沈黙を破ってくれたのは岡崎さんだった。
「みんな最初はミスるもんなんだから。青山だってADの頃は結構やらかしてたんだぜ?今じゃ想像も出来ないかもしれないけど」
今はあの人の名前を聞きたくないし、考えたくもない。
「お前だってよく頑張ってると思うし、割とこの仕事向いてると思うんだけどな」
「向いてないですよ」
反射的に口を動かしている自分に少し驚いた。しかし、この機会を逃したら自分は今後自分の意志を伝える事が出来ない。この番組から離れるという決意を揺らがせるわけにはいかない。
「俺、コミュニケーション取るの下手くそですし、毎回青山さんから怒られてますし。そもそもモチベーションの時点で他の人より劣ってたんですよ。立石みたいなテレビ好きじゃないと続けられませんもん。この仕事は、俺みたいに大してテレビが好きじゃない人間がやるべきじゃ無かったんです」
さっきまで固まっていた唇が嘘のように動き出し、積み重なった思いを一気に吐き出した。この主張が目の前にいる上司に対してどれだけ失礼になるかは理解が出来ている。何十年もテレビ番組を作り続け、自らの人生が必然的にテレビ番組への貢献へと繋がっている岡崎さんに対して、放って良い言葉だとは自分でも思っていない。しかし、一度辞める意思を示している以上止まることは出来ない。岡崎さんも、急に捲し立てる俺に対しても動じず時折頷きながら話を聞いてくれている。末端の部下の反抗期に対しても目くじらを立てず、親身になってくれるこの人の目が好きだ。故に、この人に迷惑をかけているという事実がまた俺の心を曇らせる。自分と言う存在に給料を払う事で生まれるメリットを、デメリットが凌駕しているのでは無いか。そんな事を思ってしまう。
「お前ってさ、自己評価が結構低いよな」
「えっ」
予想外の言葉に思わず声を出してしまう。
「モチベーション云々は俺には分かんねぇけど・・・」と話し始めた岡崎さんは、いつもかけている眼鏡を外して机の隅に置き、こう続けた。
「確かにお前は元気よく誰とでも仲良くして仕事するタイプじゃねぇし、そうじゃねぇから上手くいかないこともあるんだろうよ。でもさ、皆が帰る中1人残って仕事してたり、誰よりも早く会社来たり、スタッフ間で共有する資料をしっかりまとめたり、そういう姿勢をずっと見せてるじゃねぇか。少なくとも、俺はお前を見てて真面目で、責任感がある奴だとは思ってるぜ。今までずっと」
身体が熱くなる感覚がする。鼻の奥がツンとなり、涙と鼻水が誘発される。
「立石なんかは確かに企画考えたりする力はすげぇけど、仕事さぼったりするからな。その点お前はいつも真面目に仕事してくれてるから助かってるよ」
自分には価値なんて無いと思っていた。仮にあったとしても、誰もそれを言葉にはしてくれないと思っていた。
「だからまぁ、もっかい考えてみたらどうだ?もちろんお前が最終的に決めた事ならどんな形であれそれを尊重する。だからさ、もっかい良く考えてみろよ」
「・・・はい」
零れ落ちた一言は、俺と岡崎さんの距離を元に戻してくれた気がした。
岡崎さんと別れた帰り道で、岡崎さんの言葉を反芻する。ついさっきまで世界の全てが淀んで見えていたはずなのに、今は視線の先の無機質な道路さえも彩りを増しているような気がしてしまう。学生時代、親が与えてくれていた無条件の肯定とは異なり、社会人としての自分の働きを踏まえた上で自分の価値を肯定してもらえたという事実がどうしようもなく嬉しい。例えそれが昨今の人手不足を危惧したうえでのフォローだったとしても、今だけは素直に飲み込んで、明日を生きる栄養にしてしまいたい。
駅へと続く道の途中にある大きな横断歩道を、見守るように立っている信号が赤色に変わる。そのタイミングを見計らったかのようにスマホが小さく振動し、その振動音がラインの通知を知らせる。友達からの意味のない連絡を期待しつつ、ポケットから取り出したスマホに表示されていたのは青山の文字。「明後日のロケ、少し遅れるかもしれないです。」そう刻まれた文字が俺の体温を急激に奪っていく。忘れていた訳では無かった筈だが、青山さんとロケに行かなくてはいけないという事実をどこか考えないようにしている自分がいた。少し早くなる鼓動を認めつつも、自分は何も感じていないと誰に聞かせるわけでも無い主張を心の中で繰り返し、「承知いたしました。」と返信する。
上昇と加工を乱暴に繰り返すジェットコースターのように、自分の感情が揺れ動くのを感じる。岡崎さんからの言葉により、今ならどんな仕事でも前向きに取り組めると考えていた気持ちに急ブレーキがかかり、直近の失敗をはじめ青山さんに怒られてきた出来事がフラッシュバックする。
「長野は真面目だし、責任感があるし、頑張ってると思うよ」
「少なくとも、俺はお前を見てて真面目で、責任感がある奴だとは思ってるぜ。今までずっと」
立石と飲んだ居酒屋と、岡崎さんに励まされた会社の映像が、自分の醜態を上書きしていく。自分を肯定してくれた存在の姿が、逸る鼓動を落ち着かせていく。今は確かに、この番組やこの仕事に対して熱中する程の思いを募らせてはいない。ただ、そんな自分でも認めてくれる人たちと、共に働けているという事実はどうしようもなく幸せに感じてしまう。
自分の行動は誰かが必ず見てくれている。視線は自然と上を向き、夜に浮かぶ町の光の美しさに気づかされる。
スーツを着たサラリーマンが一斉に動き出す。朝の品川駅は通勤ラッシュの象徴のような様相をしており、これから待っている労働への憂鬱を隠そうともしない表情が至る所へ溢れている。普段使用しない駅の日常に違和感を感じつつも、とりあえずサラリーマンの進行速度に合わせて出口を目指す。いつもとは違う音を流しているヘッドホンも、非日常の生成に一役買っているのかもしれない。
今日取材するのは品川駅から徒歩十分ほどの場所にある小さな定食屋だ。最近SNSからブレイクしたゲストが学生時代に通っていた場所とのことで、店主との仲も良好らしく、驚くほどスムーズに取材交渉を終える事が出来た。有名店やチェーン店のように取材慣れしている場所はともかく、こういった個人店の中にはテレビという存在を嫌っている店も多い。一言会社名や番組名を告げると、「うち取材は断ってるんで!」と電話を切られてしまうパターンも決して珍しくない。「俺たちは協力してくれる方々のご厚意で番組を作れてる」以前岡崎さんから放たれた一言を思い出しながら、お店へと向かう。
「本日はどうぞよろしくお願いします。ディレクターが到着次第撮影の方させていただけたらと思いますので、申し訳ありませんが少々お待ちください」
「やっぱりテレビの人たちは忙しいんだねぇ。今日もこんな朝早くからお願いしちゃって申し訳ないねぇ」
「とんでもないです!撮影にご協力いただけるだけで本当にありがたいです!」
品川駅から少し外れた場所にある小さな定食屋、「キムラ」の店主は白髪交じりの女性で、年齢は七十歳くらいだろうか。青山さんを待つ間先に挨拶だけ済ませてしまおうと店を尋ねた俺を、にこやかな表情で歓迎してくれている。店内は古き良き定食屋といった雰囲気で、広すぎず狭すぎない空間には余計な装飾がされておらず、店主の人柄が反映されている印象を受ける。
今日はゲストである女性タレントは店には訪れず、リモートで店主との会話を行う予定だ。特別興味があった訳では無かったが、「特別」であろう存在には会ってみたいという気持ちもあった。店主も「あの子がこんなに人気になってねぇ」などと話しており、「特別」な存在との関係を構築できている事実がどこか誇らしげに見えた。
「すみません。本日はよろしくお願いたします」
聞き覚えのある声に振り向くと、店の入り口に機材を持った青山さんが立っていた。通常は機材等の荷物運びはADの仕事なのだが、自分以外に私物の高価な機材を運搬させたくない、という理由でロケの際も青山さんは自分で機材を運んでくる。いつもはボサボサの髪も比較的整えられているように見え、俺や立石など、ADに対してはとことん厭味ったらしく接する態度が嘘のように、丁寧に腰を折り曲げている。学生時代の部活で、こっぴどく叱られた翌日に相対する顧問との空気感を思い出す。あくまで平静を装いながら、少しの勇気を頼りに声をかける。青山さんは俺の「お疲れ様です」の一言に「うん」と軽い返事だけを行い、一直線に店主の元へと向かっていく。俺の顔は一切見ていない。
「早速ではありますが、まずお料理を撮影させていただいても宜しいですか?その後にお店の内観と外観を撮影して、最後にゲストとのトークを撮影させていただけたらと思います。一応一時間後に彼女のスケジュールが空く予定なので、それまでにお店の撮影を終わらせられたらベストかなと」
「うん。なんでも良いよぉ。なんか必要な事あったらなんでも言ってちょうだい。なんでもやっちゃうからさ」
「とても助かります。ありがとうございます」
店主との会話を終えた青山さんは、俺の方を振り返った。先程まで浮かべていた笑顔は既に無くなっており、その瞳は俺の瞳を捉えていない。
「じゃ、撮り始めるよ。早く準備して」
「ハイ!」
撮影は順調に進んでいった。ゲストが好きだと話していたエビチリ定食の調理工程を撮り終わると、エビチリそのものの所謂「物撮り」が始まった。料理を美味しそうに撮る、と一言で済ませてしまうと簡単に聞こえてしまうが、湯気を立たせた状態で撮るために素早くカメラを構えることなど、この仕事をする前は何も考えずに見ていた工夫や苦労が今では痛いほど理解できる。特に料理をより良く見せるために行う「箸上げ」は、自分の意志とは関係なく動いてしまう腕や手先を抑えるために、普段使わない筋肉が必要になるため、いざ自分がやることになるとその難しさに愕然とする。
「はいOK。じゃー次内観撮るよ」
三回目の挑戦でようやくOKを貰い、俺の右手は安堵する。同じ位置を維持し続けるために使われた筋肉は疲労しており、ジンジンと鈍い痛みを放っている。
内観とは店内の様子の事で、大抵全体を映し出す広い画を撮影する。この番組では関係の無いことだが、番組によってはスポンサー以外の競合他社製品を映さない様配慮する場合もあるらしい。先ほどまで物撮りを行っていたテーブルを素早く片付け、カメラの画角に不必要な物が映らないように目を光らせる。最終的には編集で消すことが出来るとはいえ、他人の個人情報など、電波に乗せてはならない存在が映っていたら予期せぬ問題を招きかねない。
「よし。じゃー次外観」
「え、あの席って撮らないんですか?」
思わず声をかけてしまった俺に、青山さんが驚きの表情を見せる。普段最低限の会話しか行わない俺が自分から意見を出したことに、一瞬理解が追い付かなかったようだ。
「あの席って?」
訝しげに尋ねる青山さんの視線を受け、思わず目線を逸らしてしまう。その声色からは自分が組み立ててきた撮影プランを崩すな、という意思が滲んでいることを把握できる。俺自身放つ予定では無かった言葉なので、どう紡げばいいのか悩んでしまう。
「いや、あの一番端の席。あそこが思い出の席ってあの人言ってましたよ。なんかあそこで初めてドラマのオーディション合格の連絡を受けたとか‥」
「何それ。そんなん打ち合わせで言ってないよね?」
青山さんの語気が荒くなる。でも俺も止まれないし、止まらない。
「こないだ出てたラジオで言ってました。結構熱量があったので撮った方が良いんじゃないかと思いまして…」
今日ここに来るまでの道で聞いていた、ゲストが出演したラジオ番組。その中でこのお店について彼女が話す場面があった。普段はテンション高めの彼女が、音だけで構成される世界に放り込まれると案外静かになるんだな、と思ったのは記憶に新しい。
青山さんは俺に対して疑いの目を向けているが、口角が少し上がっている様にも見えるため、その真意は図りかねてしまう。
「すみません。あの子ってあそこの席でオーディション合格の連絡受けたんですか?」
青山さんが店の奥で作業している店主に対して声をかける。
「あーそうよぉ。それこそ確かエビチリ食べてたんじゃないかな。もうボロボロ泣き出しちゃって。私もつられて泣いちゃったからね。なんだか懐かしいわぁ」
「初めて受かったって考えるとそうなりますよね。分かりました。ありがとうございます」
青山さんは事実確認のみを目的にしていたようで、まだ話し足りないといった様子の店主に向けていた視線をすぐさま俺に向けた。
「じゃ、撮るよ」
青山さんの表情からは喜怒哀楽を読み取ることが出来ず、自分の進言に価値があったのか判別することは出来ない。ただ、今までの俺だったら間違いなく青山さんに意見をすることなど無かった。あの日青山さんに放たれた一言。岡崎さんが言ってくれた言葉。それが他者からの影響だったとしても、今まで「やらされていた」と考えていた仕事に対して、本気で向き合う時間を費やしたことは決して無駄ではないはずだ。
店の撮影が終わったらゲストと店主のトークを撮影するためにPCの準備をする。多忙で店に来ることが出来ないゲストが出演する場合、リモートで店主と繋げる事でその問題を解消するのだ。ネット環境や店主へのカメラ位置の確認などを行い、約束の時間を待つ。俺が機材の準備をしている最中にも青山さんは店主と談笑しているので、少し腹が立ってしまう気持ちを抑えながら作業を進める。今日のゲストはSNSから火が付いたタレントであるため、勝手に時間にルーズだという偏見を持っていたが、きっちり開始五分前に入室してきた。液晶越しとは言え久しぶりの対面だったようで、少し緊張していた様子の店主も、ゲストの顔が見えるなり破顔して会話を始めた。「これで育ちました!」のゲストと店主のトークには大筋だけ書かれた台本が存在するが、台本通りに行くことなどまずありえない。プロ同士の会話であればまだしも、他方はカメラ慣れやテレビ慣れもしていない素人だ。故に後ほど編集の力によって見れるVTRにまで昇華させる必要があり、そこでは各ディレクターの腕が試される。
キュッキュッというペンを走らせる音が聞こえ、視線を音の鳴る方向へと向ける。ゲストと店主の会話に意識が向いていて気付かなかったが、青山さんが何やらスケッチブックでカンペを作成している。いきなり素人の店主に出して大丈夫なのかと心配になる俺の隣で、青山さんが店主に向かってカンペを出す。すると店主はチラリと視線を向け、小さく頷いた後にこう切り出した。
「あんたぁ、ドラマの合格受けたのもこの店だったもんねぇ」
俺は思わずカンペを凝視してしまう。いつもの青山さんよりもよほど綺麗な字で、オーディション合格の話、と書かれている。
「そう!私の特等席でね!もう本当に嬉しかったんだから!本当この店はご利益!ご利益!」
盛り上がる2人の様子を青山さんは満足気に眺めている。青山さんはこの話を知らなかった。つまり、ついさっき自分が伝えた話を、使えると判断してくれたということだ。その事実を飲み込めた瞬間、今までに味わった事の無い快感が静かに俺を満たしていた。
無事にゲストと店主のインタビューを撮り終えた俺たちは、黙々と機材の片づけを行っていた。青山さんは店主と談笑しながら作業を続けているが、俺との間に会話は無いし、俺が2人の会話に入ることも無い。自分の今日の仕事ぶりはこの人を満足させるものだったのか、少なくとも、怒られていないということはいつもよりはマシだったのか。頭の中は期待と不安に支配されるが、傷や汚れをつけないようにと、注意する姿勢は崩さない。二人の会話が聞こえなくなったため、カメラに向けていた顔を上げると店主は店の奥へと消えていた。開店前に撮影を行った関係上、そろそろ仕込みをしなくてはいけないのだろう。青山さんの目線はまっすぐ自分の機材に向けられており、店主との会話が終わったからといって、俺との会話が始まるわけでは無いようだ。この番組に就いてから今に至るまで、俺と青山さんの間で交わされる言葉に、仕事以外の単語は存在しない。
「あのラジオ毎週聞いてるの?」
「え?」
予期せぬ質問に思わず面喰ってしまう。青山さんから雑談を投げかけられた事など全くと言っていいほど記憶にない。俺の驚きなど意に介さないように、青山さんは続ける。
「あの子のオーディションの話。ラジオで聞いたって言ってたじゃん。毎週聞いてるの?」
繰り返し質問してはいるが、青山さんが本心から興味を持っているのか、確証は持てない。ただ、自分を変えるために行動した結果が、いつも通りを変えた事は間違いない。
「いえ、初めて聞きました」
あくまで事実だけを、淡々と。
「あの子が出てるって知ったので、何か役に立つかなって、一応」
その言葉が二人の間に沈黙を生む。青山さんの表情は変わらない。褒めてくれるとは到底思っていなかったが、ここまでの無反応も想定していなかった。
「そう」
青山さんはポツリと呟き、それから再び俺に話しかける事は無かった。
上空に広がる青色を見ていると、生への希望が生まれてくる気がする。最寄り駅へと続く道を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。ひと月ほど前に撮影した、SNSからブレイクしたタレントと品川のお店についての回は、先日無事放送を終えた。視聴率自体はそこまで高くなかったが、SNSの反応は良かったので及第点と言えるだろう。
電車に乗り込み、ラジオを聞くためにヘッドホンを着ける。あの時の青山さんの表情を思い出しながら、次回ゲストが運営しているYouTubeチャンネルを開く。芸人らしく週一回のラジオを心掛けているようなので、とりあえずの気持ちで一番新しいものを再生する。すっかり習慣となってしまった、ゲストについての下調べを行いつつ、会社へと向かう。
会社には既に岡崎さんと青山さんが出勤していた。二人に軽く挨拶を済ませ、自分のデスクへと腰を下ろす。メールアプリを開き、先日取材した品川のお店へのお礼を打ち込んでいく。義務という訳では無いのだが、例の一件以降、取材先への配慮には過敏になった。実際に放送された番組の動画データと共に、メールを送信する。
「青山―。ちょっといい?」
岡崎さんが青山さんを呼ぶ声が聞こえ、続けてガタっという椅子を引く音が聞こえてくる。盗み聞きをするという意識は無いのだが、目上の人間同士の会話に対してはいつもより鼓膜が仕事をする気がする。
「こないだの回評判良いよ!いやーまぁ面白かったもんなぁ」
「ありがとうございます」
ロケを担当したとはいえ、番組は集団で作り上げるもので、その責任者はディレクターであり、プロデューサーだ。結局は自分には関係の無い話だな、と思い別件の作業を進める。
「特にさ、あれが良かったよ。あのオーディションの話」
ピクリと、耳が動いた気がした。
「うちの番組には珍しく結構感動的な話になってたもんな。あーゆー回もたまには良いよなぁってしみじみ思ったわ」
「ありがとうございます。でもあれは…」
一呼吸置き、青山さんが続ける。
「長野君のおかげです。彼がくれた情報だったので」
思わず岡崎さんのデスクに顔を向けてしまうが、青山さんとは目が合わない。青山さんはまっすぐに岡崎さんを見ており、俺の方は見ていない。
「そう!そりゃー長野もお手柄だな!」
岡崎さんはそう言い終わると、俺に視線を向け優しく微笑んだ。反射的にペコリと会釈をして、すぐに自分のパソコンへと視線を戻してしまう。岡崎さんならともかく、青山さんから褒められたことなど今まで一度も無かった。浮かんでくるのは、常に不機嫌に見える青山さんから放たれてきた数多の言葉たち。正論に武装された叱責は、俺の頭にこびりつき、頑固な油汚れのように残り続けていた。
「えぇ。最近はよく頑張ってると思います」
この言葉を今日得られたことで、今までの全てが報われた気がした。環境に不満を漏らし、自分からは現状を変えようとしなかった過去。最大の失敗から学び、自分の働きで番組に貢献するという意思を固めた今。社会人になったのは一年前だが、大人になったのは今日この日だろうと思った。
気づけば青山さんは岡崎さんとの会話を終え、俺のデスクへと近づいてきていた。
「ねぇ。次のゲストのリサーチなんだけど」
「もう終わってるので、すぐに送ります!」
俺の声が、窓から空へ向かって消えていく。空を染める青色は、いつもよりも少しだけ綺麗に見えた。