つみとが編 第二話
著者:ハリトユツキ様
企画:mirai(mirama)
朱世蝶——それは少し前まで都市伝説だとか、昔話に出てくるような類のものだった。終末の世界(つまり、朱世のこと)より朱い蝶が現れ、世界はたちまち滅びてしまう。たったそれだけの話だけれど、現代に伝承されていくうちにずいぶんと誇大化したお伽話となったらしい。見るだけで死に至るとか、触ると災いを呼ぶだとか、そんな話を面白がった僕はよく母にせがんで聞いたものだ。
「——暁月、愛してるわ」
記憶の中で幼い僕の頭を撫でる母。僕は瞼を閉じて、その感触を思い出す。するすると僕の髪を滑っていくぬくもりのある柔らかな指。暗闇の中で母の隣に座っている父が僕の隣に座って優しく笑いかける。
「——なあ、暁月。もしいつか朱い蝶を見かけても……」
僕の肩に手を置き話をするあの父の言葉。逆光の中で僕を見下ろす父の顔もあの言葉も、今の僕にはもう思い出せそうにもない。
さて、あの日の話をしよう。
ある晴れた日の午後、体調不良で高校を早退した僕は帰路を辿っていた。先生は母に連絡をして迎えに来ることになっていたけれど、母が仕事で忙しいのは知っていたから適当に嘘ついて僕は学校を出たのだった。
微熱があって、少しぼうっとする頭。心なしか喉も痛いような気がする。いつもよりもずっと重たい身体を引きずりながら歩く。はやく帰ってベッドに横になろう、そんなことばかり考えていた。それは、突然にやってきた。
朱い蝶。視界の端が赤くちらつくから自分の目がおかしいのだと思っていた。だけど違った。それはたしかに紛うことなき蝶だった。なんとも禍々しい真っ赤な蝶。
最初にそれをみたときに感じた得体の知れない感情を僕はきっと忘れることはないと思う。恐怖によく似たなにか。全身の毛穴から冷や汗が吹き出して、びくりと身体が大きく跳ねる。そのまま力が入らずに膝から崩れ落ちそうになるのを僕はぐっとこらえていた。ひどい嫌悪感と不快感、そういうものが後から後から自分の感情に塗りたくられていく。嗚咽が漏れた、吐きそうなのに身体の中は何もなかった。舌の上が酸っぱくて、気持ち悪い。
僕はふらふらの足取りでなんとか自宅に逃げ帰ったのを覚えている。
朱い蝶のことは誰にいっても信じてもらえなかった。いや、自分自身も高熱でみた夢や幻覚のようなものだと思うようになっていた。それでも心の深い場所に塗りたくられた泥のような恐怖がその日はいつまで経っても消えなかった。
月日が経ち、少しずつその気味の悪い感情も僕は忘れてしまいそうになっていた。いや、実際にほとんど忘れていた。僕の中であの蝶への感情がほとんど失われたある日、再びあの朱い蝶は現れた。二度目の遭遇がどのようなものだったか、今の僕にはもう思い出せないけれど、蝶は僕が蝶の存在を忘れかけるたびに現れ、僕を驚かせた。何回目まで、僕は驚いていたのだろう。それも定かではないけれど、蝶は現れるばかりで何かをしてくることはなかった。僕は、次第に蝶に慣れてしまった。そのうち、蝶は毎日僕の前に現れるようになり、そして僕にしか認識されていなかった蝶は、この世界のほとんどが知る存在になった。
驚くことに蝶は一匹ではなかった。何万——いや、人間の個体の数よりもずっと多くの数の蝶がこの世界に存在している、そんな気さえした。無数の蝶は街を、国を、世界をあっという間に真っ赤に覆い尽くしていった。その頃から、世界では生き物の失踪が相次ぐようになった。人間だけじゃない、この世界の命ある動物のほとんどが神隠しのようにこの世界から消え失せた。跡形もなく消えてしまうから、違う世界に彼らは行ってしまったのだなんて考えを一部の科学者が騒ぎたてた。ほとんどの科学者はあの朱い蝶との関連性を考えていた。生き物の皮膚には生きているものも死んでいるものにも蝶が群がってくる。死体ももれなく消えるから、調べるすべはない。殺虫剤も効果はなかった。
蝶が現れてどれくらいの月日が経ったのか。僕たち生き物はあの朱い蝶によって、すっかり滅ぼされてしまったのだった。
「——なあ、暁月。もしいつか朱い蝶を見かけても、絶対に捕まえてはいけないよ」
そんな言葉が不意に思い出された。