壺中の天 7
日曜。学校も麗しの黒猫亭も休みだ。
そうなると小川健作にはすることがない。下宿の畳の上にその大きな体を投げて天井を見上げている。こうして東京の大学に通わせてもらっているのだから素直に勉強をすればいいのだが、そんな気分でもない。
「気分の問題か」
むくりと起き上がり机に向かっても、結局は外を眺めるだけだ。
華の東京とはいえ、実際にこの下宿も東京市の中ではあるのだが、外の風景は故郷の越後のようにのんびりしている。いまひとつピリッとしないのはそれもあるのだろうか。
健作は引き出しからビラを取り出した。
『世界のボトルシツプ展』。
大学に置かれていた百貨店の宣伝ビラだ。なんとなく手に取ってポケットに入れてしまった。相馬昌治を誘って見に行こうか。そしてライスカレーでも食って浅草をぶらぶらするか。それでこそ東京だ。
立ち上がり、窓を開けると少し寒い。
東京の冬はあまり雪が降らないらしい。故郷ほどには。
「お」
窓を閉めようとしたら、昌治が歩いてくるのが見えた。
「なんだ、昌治。何か用か」
声をかけたら、昌治が見上げて「おう」と言った。
手には風呂敷包みをぶら下げている。
「鶴形陸軍中佐の目撃情報は多い」
「鶴形中佐というより、陸軍将校の目撃情報ですね」
横からの指摘に冗談倶楽部編集長は渋い顔を浮かべた。
「そうだ」
「夜、鶴形屋敷の周囲を歩く陸軍将校。あの屋敷はもともとが松岡家の江戸中屋敷なだけあって、周囲も江戸屋敷が建ち並び、今でも豪邸か公共施設が多い。そこを歩く軍人と言えば鶴形中佐だけだった」
「そうだ」
「でも、その姿に声をかけたという近所の住人によると、その軍人は会釈もせず通り過ぎたといいます」
冗談倶楽部編集部は日曜なのに人が多い。
このごろ話題の「殉死したはずの陸軍将校が夜歩く怪奇」を特集した増刊号を出すことになったのだ。そして議論の中心にいるのは、モダンなスーツに身を包んだメイクもあざやかな美人である。
ひとつ謎なのは。
こんな素敵な美人さんがうちの編集部にいただろうか。
「目的はなんでしょう」
美人記者が言った。
「目的?」
「それが鶴形中佐本人であっても、鶴形中佐の幽霊であっても、鶴形中佐と見せかけた偽物であっても、夜歩く目的は?」
「君は、偶然そこを歩いていた帝国軍人である可能性を排除するのかい?」
記者のひとりが声をかけた。
「それまで鶴形中佐しか軍人を見かけることがなかった地域で、殉死した同僚の名前で呼びかけられても反応もせずに通り過ぎる偶然居合わせた陸軍将校ですか?」
「うーん……」
「こんなのはどうだい」
別の記者が声をあげた。
「実は鶴形中佐は軍特務機関に移動になったのだ。そして秘密の任務を与えられた。とてつもなく秘密の任務さ。死はそのためのカムフラージュだ。鶴形中佐はまだ生きている!」
「まさにそれなのです」
美人記者が言った。
「それならば、なぜわざわざ鶴形中佐であることを疑われる姿で夜歩くのか。そしてそもそも、なぜ割腹による殉死という世間の耳目を集めてしまう手段をとったのか」
「うーん……」
「さらに、鶴形中佐にはまだ他家に嫁いでいないひとり娘がいます。母親は二年前に他界。自殺と言われています。そのような家庭状況の鶴形中佐を謎の秘密任務に選ぶとは思えません。いつか破綻するでしょう」
「わかったよ、おれの無茶振りは忘れてくれ」
カムフラージュ説を言った記者は苦笑を浮かべて頭をかいた。
美人記者はにっこりと笑った。
「ごめんなさい。私もその可能性をなんども考えましたので」
「とうに君に否定されていたわけだ」
記者はなんだか嬉しそうに笑っている。
「もうひとつ考えなければいけないのは、鶴形中佐の死は司法解剖による検死を受け、官報で広報されたことなのです。もしこれがフェイクだとしたら、そこには軍と警視庁と政府が関わっていなければ不可能です。しかしそれは状況的にあり得ない事を私は指摘しました。つまり三つの可能性の中で、鶴形中佐本人である可能性は否定されました」
「あとは幽霊と、何者かによる偽物か」
「幽霊では有り得ない」
美人記者が言った。
うむ?と、編集長は片眉を上げた。
「今は開明の大正時代。町には電灯が煌めき、闇の中に幽霊や妖怪が跋扈していた徳川時代ではありません。そもそも、それでは私が面白くない!」
「面白くないかね」
「はい、面白くありません!」
「急に論理的ではなくなったな」
編集長は苦笑いを浮かべた。記者達もみなふわりとした笑いを浮かべている。美人記者は両手を握り締めて力を入れた。
「そんなデウス・エクス・マキナが答だなんて、私の好奇心が満足してくれません!」
「もちろんだ」
編集長が言った。
「わが冗談社の看板雑誌である冗談倶楽部は安易な答に飛びつかない。たとえそれが幽霊なのだとしても取材する。取材して取材して、そして幽霊であると結論づける。いいな、増刊を出せるまでかわいい子供の寝顔も見れないと思え!」
「はい!」
「はい!」
「はい!」
もちろん一番大きい声は美人記者のものだ。
「ところで君な、君はいったい――」
「それでは私は鶴形屋敷に取材に行って参ります!」
美人記者は立ち上がって敬礼し、編集長の言葉を遮った。
「情報によると、今あの広いお屋敷にはひとり娘の美彌子さん、書生さん、通いの女中さんしかいないそうです。男性が行くより、私のような女性の方がお話を聞かせていただけそうではありませんか?」
「そうかもしれんな。ところで君は――」
「なにか目的があるのです。それがわかれば夜歩く帝国軍人の謎が解けるのです。では行って参ります!」
美人記者は編集部のドアへと向かった。
背筋を伸ばしてキビキビと歩く。記者達はなにも言えない。
「あ、編集長」
「はい」
編集長まで気圧されてしまっていたようだ。
「急に決まった日曜のご出勤、お子様には残念でしたね。楽しみにしていた早慶戦の応援ができなくなってしまって」
「あ、ああ。連れて行ってやると約束したんだがなあ」
編集長はくしゃっと顔をしかめた。
「――しかし、なぜそれを?」
美人記者は掴んでいたドアのノブを放し、編集長の机に近づいた。そしてクラッチバッグから取り出したのは一枚のチケットだ。
「これ、頂き物なのですが、どうしようか迷っていたんです。私に楽しめるものかどうか」
「『世界のボトルシツプ展』」
「編集長はお好きでしょう、そういうの」
「ああ、興味あるね。へえ、そんなものをやっていたのか」
「私などより価値のわかる人が楽しむべきです。一枚でひと家族が入場可能のチケットですので、お子様とどうぞ」
あっと編集長は眼を見開いた。
「ありがとう、息子の機嫌もとれそうだ。ええと……」
「平井華子です」
美人記者は微笑んだ。
「この増刊のために冗談倶楽部編集部に派遣されました。どの編集部にも所属しない遊軍記者です。冗談倶楽部の編集長のお噂はかねがね。尊敬する編集長の下で働けますのは光栄です。ただし、私の兄は早稲田出身でして、そこだけはゆずれません」
編集長はにやりと笑った。
「そうかね」
「私の勤務形態は不規則ですので皆さまと顔を合わせる事は少ないと思います。また今日はこのまま直帰いたしますが、報告は月曜の朝一で必ず」
「わかった」
「では。失礼いたします」
平井ハナ記者は編集部を出ていった。
左薬指にリング。
まだまだ一般的ではない結婚指輪をしているのは愛妻家で、そして流行に敏感。それは背広やネクタイの柄からも推察できる。フランネルの生地にタイの結び目はウィンザーノット。タイピンやカフスボタンは慶應大学のものだ。愛校精神も高い。
彼ははじめから時間を気にしていた。
窓を何度も眺めて遠い目をしていた。
急に入った日曜出勤。
今日開催予定のイベントにどうやら野球の早慶戦がある。
「愛妻家でも、愛する子供がいるかどうかはわかりませんでしたけども。『かわいい子供の寝顔も見れない』に賭けてみました。まあ、当たったのでいいとしましょう」
鼻歌交じりにハナちゃんが言った。
「ああ、『世界のボトルシツプ展』、見たかったなあ。せっかく店長さんにいただいたのになあ。スーツを揃えて貯金が殆どなくなった今の私に、あの入場料は無理ですねえ」
でもしょうがないと、ハナちゃんはにっこり笑った。
「すべては好奇心を満足させるためですもの」
冗談社社屋のファサードの階段を軽やかに駆け下りるハナちゃんを目を丸めて見ている人影がある。その人影はさっと身を隠した。あからさまに怪しい。
「君、そこでなにをしているんだね」
恰幅のいいいかにもお偉いさんという紳士がその若い男に声をかけた。しかしその紳士は振り返った若い男に飛び上がってしまった。
「若……! 日本に戻っておいでで……!」
「うん、急に藤田くんのケーキが食べたくなってね。君も休日出勤かい」
「失礼いたしましたッ! いえ、増刊発行で日曜出勤している冗談倶楽部編集部に顔を出してやろうとッ!」
「それだ。ぼくも『夜歩く殉死せし陸軍中佐』のことでなにか聞けないかと思ってたんだが、そうか、今日は日曜なんだ。まあいい、それはあとにしよう」
若と呼ばれた青年は楽しそうに笑った。
「黒猫亭のかわいい看板娘が素敵な職業婦人に化けちまった。今はそっちの方が面白そうだ」
「はあ」
紳士にはなにもわからない。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




