壺中の天 2
♪都の西北 早稲田の杜に
♪聳ゆる甍は われらが母校
「なあ、健作」
「なんだ昌治」
「おれはたった今気づいたんだが。もしかしておまえの陣に王将がないんじゃないか?」
「そうだ」
「平然と言うな」
「おれはどんなことでも負けるのは嫌いだ。だから将棋でも王将を置かないことにした」
「最初は置いてただろーー!」
「じゃあないと将棋を指してくれないだろう」
「なんなのその言い草ーー!」
「おれが途中で王将を隠したのに気づかなかったおまえが悪い」
「だあああーー!」
将棋盤をひっくり返した小柄な少年は相馬昌治。
駒を浴びながら平然と「またおれの勝ちだな」と言った長身の少年は小川健作。
雪国の同じ高校から、この春に文学を志し東京に出てきた。東京専門学校――現在は早稲田大学に名前を変えた同じ文学部英文科に学ぶ。
文学を志し。
とは言っても華の東京だ。
そしてまだ一年生だ。好奇心のほうがあふれている。もっともその役割はすばしっこい昌治のもので、いつも泰然しているというかぼーっとしている健作は引っぱり回されるほうの役割だ。
「それで知っているか、健作」
「たぶん知らん」
「つまらん男だな。少しは考えてくれよ」
「おれはいつも考えている。動き回るのをおまえに任せてるだけだ」
いいコンビなのかもしれない。
授業が終われば、ふたりはマントをひるがえして学生街を歩く。
「とりあえず黒猫亭か?」
「ああ、そうだな」
この当時、早稲田大学界隈はミョウガ畑が広がる田舎だった。オシャレな店なら浅草まで出なければいけない。しかし健作と昌治が入学した頃、黒猫亭ができた。既に店を開いている他のミルクホールのようにどこかに間借りしたのではない。新築されたのだ。はじめからミルクホール用に。つまり、極めて洒落ている。
「おまえたちはいいよなあ、おれたちの頃はこんな店なんてなかった」
先輩方からよく聞かされる愚痴だ。
黒猫亭。
――とは、どうやらエドガー・アラン・ポーの怪奇小説によるものらしい。それにふさわしく、店には英国のストランド・マガジンが置かれている。数ヶ月遅れだが文学少年たちにはありがたい。その他にもタイムズ、パンチ、ライフ、フランスの雑誌や新聞まである。もちろん、日本の新聞や雑誌も揃っている。この時代、海外のものどころか国内の雑誌も安いものではない。学生には助かるのだ。
「よう、健作、昌治」
「よう」
「よう」
おかげで店には常に何人かの早稲田の学生がいる。ソオダのアイスクリイムが溶けるのも構わず辞書を片手に外国のニュース雑誌を読みふける者。タイムズを前に熱く世界を語っているのは上級生たちだ。そして健作と昌治のお目当てはもちろんストランド・マガジン。
「挿絵が変わったのか?」
「そうか? いつものサインだぞ」
「このホームズ、まえよりすっきりしてないか。フロックコートの頃の方がよかったな。これはなんというのか、軽い」
「ああ、背広だな。おれはこのほうが洒落てると思うぜ」
ストランド・マガジンを手に席につき、ひとしきり雑談を交わしても注文を取りに来ない。愛想がないのはいつものことではあるのだが。
「おやじさん、おれはカヒー」
健作が声をあげた。
「おれも」
昌治も声をあげ、そして店内を見渡した。妙な気配を感じたのだ。みな、こっちを見ている。そういえばいつもの渋い声の返事もない。
「どうしたんだ?」
昌治は見知った顔に声をかけた。
「ああ、いや」
その学生はニヤニヤと笑っている。
「なんでもない、なんでもない」
「?」
「なんでもないが、おやじさんは今はいない。用事があって出ているそうだ」
「そうか」
黒猫亭をやりくりしているのは初老の男だ。
名前は知らない。
ただ、健作も当時としてはかなりの長身である一八〇センチほどなのだが、その店主も同じくらいある。日本人がもっとも低身長だったのは幕末というから、明治の頃ならかなり目立っただろう。いや、それどころかそもそも顔が怖い。笑わない。まるで古武士のような、戊辰戦争や西南戦争で人を斬ってきましたよといわんばかりの面構えなのだ。今でこそ「おやじさん」とか「大将」とか呼べるが、はじめの頃は「注文させていただいてもよろしいでありましょうか」と変な敬語になってしまったものだ。
まあ、そのかわりカヒーもアイスクリイムソオダもうまいのだけれど。
そして絶品なのがケーキだ。
ミルクホールと言えば昭和のコメディアン古川緑波のいう「ミルクホールの硝子器に入っているケーキは、シベリヤと称する」だろう。このごろはアニメ映画に登場し有名になった。しかし少年期ならまだしも、青年期に入った学生には正直ベタベタと甘すぎる。ところが黒猫亭ではおやじさんが古武士の顔で本場欧羅巴のケーキを焼いてくれる。甘くはあるが、ほどよく上品に甘い。それを楽しみに通う学生もいるほどなのだ。
「おやじさんも不用心だな。流行ってないわけじゃないんだから、そろそろ女給さんとか雇えばいいんだが」
健作が言った。
「そうだ、そうだ!」
昌治が拳を振り上げた。
ミルクホールの華と言えばかわいい女給さんだ。浅草に行けばスタアなみに人気のある女給さんもいるらしい。このミョウガ畑のミルクホールにも看板娘がそろそろ欲しいぞ!
あれっと昌治はまた店内を見渡した。
昌治の「そうだ、そうだ」に賛同がない。それどころか、また妙な空気が流れている。にやにやと。
「ごめんなさいっ!」
そこに飛び込んできたのは少女の澄んだ声だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、まだ慣れてなくてごめんなさい!」
健作と昌治は目を丸めている。
「あの」
和服に白いエプロン。
前掛けと肩に大きなフリル。
胸当てにはレース。
そしておしゃれに短く切りそろえられた黒髪。
「ほんとうにごめんなさい。ご注文をもう一度聞かせていただいてもよろしいですか?」
黒目がちの大きな目で天使のように微笑む。
ミョウガ畑のミルクホールに、世界一かわいい女給さんがやってきた。
「ハナさん」
ぬうっと、店主が店と厨房を隔てる暖簾から顔を出した。やはり学生たちはビクッと座ったまま背筋を伸ばしてしまう。
「戻った。何事もなかったかね」
そういえばこの店主、長身で顔が怖いだけじゃない。めったに喋らないが、喋るとこれがまた武士のようなのだ。初老なのに姿勢がよく体幹がぶれないあたりも武士か軍人を思わせる。
「はいっ、お帰りなさい店長さん!」
うなずいて店主が暖簾の向こうに消えた。
ハナさん。
ハナさん。
健作と昌治、いや、学生たちはみな耳をダンボにさせている。
「ではカヒーふたつですね。先ほどはたいへん失礼しました!」
女給さんも暖簾の向こうに消えた。
「ハナ。なにハナというのかな……」
昌治が言った。
「平井華子です!」
ひょい、と顔を覗かせて女給さんが言った。
地獄耳だ。
「今日から黒猫亭にごやっかいになっています。新米で未熟者ですが、黒猫亭ともどもこの平井ハナをよろくお願いしますっ!」
今度こそ女給さんは厨房に消えた。
ほう、と学生たちにほのぼのした空気が流れる。
「おい、健作」
「なんだ、昌治」
「やっぱり東京はいいなあ……」
かわいい女の子を見て、感想がそれか。
「おれたちが東京に出てきてもう半年だろう。でも今でも毎日、おれたちを新鮮に驚かしてくれるんだ。きっと東京は、おれたちが知らない事でいっぱいなんだ」
ときどき、昌治の軽薄ともいえる性格がうるさいと思うことが健作にはある。だけどこれは同感だと思った。
「ああ」
と、健作が言った。
「退屈している暇のない町だな」
「そうだなっ!」
昌治が屈託のない笑顔を返してきた。
しかも、おれたちはまだ一年生だ。
この帝都で何者かになれるのか、このまま圧倒されて暮らしてくだけの者になるのか。それはおれたち次第なんだ。
「カヒーです」
ハナちゃんがコーヒーを持ってきてくれた。
「あら、ストランド・マガジンですね」
「あっ、うん、そう!」
声をかけられて昌治は慌てている。
でもちょっと得意そうだ。英語の雑誌なのだから。
「おれたちまだ一年生で、スラスラと読めるわけでもないけどさあ!」
「私もです」
「え」
「え」
「でも、アーサー・コナン・ドイル卿の英語は読みやすくて助かります。面白いから続きを読みたくなるし」
健作と昌治は目を丸めている。
「私、来年には予科に入って、そのうち必ず大学にも入って、みなさんの同窓生になるんです」
ハナちゃんが言った。
「そして将来はホームズのような小説を書くんです!」
世界一かわいい女給さんはハイカラ少女だった。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。