壺中の天 14
「痛い、痛いよ……」
八畳間は血の海だ。
「ねえ、寒い、寒いんだ……誰か……」
美甘森太郎は自身の体も血に染めてのたうち回っている。
「ねえ、なにをしているの」
『ねえ、なにをしているんだい』
顔を上げた美甘森太郎は、その凄惨な状況の中で笑ったのだという。
「あなた、無知ね。それじゃ人は死ねないわ。そのうち死ぬだろうけど長いこと苦しむことになるのよ。なぜ切腹に介錯が必要なのかわからないの?」
『相変わらず君は無知だな。それじゃ人は死ねないんだ。そのうち死ぬだろうけど長いこと苦しむんだ。なぜ切腹に介錯が存在するのかわからないのかい』
「こうよ」
『こうだよ』
最期に美甘森太郎は「ありがとう」「さようなら」と口にしたらしい。
美甘森太郎は美彌子の仕草の通りに包丁を自分の首に滑らせた。頸動脈から血が噴き出した。
「ありがとう、さようなら……」
美彌子がつぶやいた。
手には懐剣。
「どういうことなのかしら。そういえばこの子、私が殺すまでもなかったわ。私、どうしましょう。ねえ、壺中庵さま。どうしましょう」
美彌子は庭を振り返った。
夜の闇の中、誰の気配もない。ただ美彌子の耳にだけ言葉が届いた。
ま、よいだろう!
「西山、いるか。おれだ、鶴形だ」
夜中に下宿の玄関を叩いたあいつ。
それにうれしさを感じなかったと言えば嘘になる。
俗物。軽薄。上昇志向。役に立たないと思えば捨てる。藩閥に食い込み、順調に出世していると聞いている。なぜか知らないが地元で英雄扱いされているという。まるで褒美のように殿さまの末娘を嫁に与えられたという。その男が、おれを頼っている。
おれはあいつから完全に切られていたわけじゃなかった。
おれだって男だ。
承認欲求はある。
「久しぶりだな。なんだ、どうした」
おれのことなど忘れたと思っていたぞ――その程度の皮肉もおれは口にせず飲み込んだのだ。
「来てくれ」
「こんな夜中にか」
「もし往診用のバッグがあるならそれも持ってきてくれないか」
「ご家族が病気か。なら軍病院を手配しよう」
「頼む」
彼が言った。
「おまえが必要だ」
やってくれた!
おれは思った。
なぜ一言も言ってくれなかった!
道すがら、何度でも言う機会はあっただろうに! 必要なのはうだつの上がらない軍医ではなく警察だと言ってやれただろうに!
竹屋敷という存在は知っていた。おれだって清崎藩の末裔だ。
幕末の酔狂な殿さま松岡壺中庵が作り上げた趣味の屋敷。江戸時代のままだというその屋敷の一室が血に染まっていた。あとで知ったが、その八畳間は奥方の寝室だったらしい。和室に絨毯を敷き詰めベッドを置き、その上で奥方が首から血を噴き出して死んでいた。
頸部鋭的損傷。
出血量がとてつもない。
すぐに医者に診せれば助かったろうか、おれを呼びに来る前に軍病院に。いや、この失血は傷が頸動脈まで届いているということだ。これでは蘇生は難しい。
「助けてくれ、西山」
あの男が言った。
「なにがあった」
おれの声には怒気があっただろう。
「娘が妻を殺した」
「なんだと?」
「娘が妻を殺したのだ」
「おまえはなにを言っているんだ」
「このままではおれはおしまいだ。なあ、西山。おまえの力でこれを自殺にできないか」
「いったい、なにを――」
「そうだ、せめて自殺だ。おれは妻を死なせてしまった甲斐性なしになってしまうだろうが、それでも娘が妻を殺したなんてのよりはいいだろう。松岡の殿さまにも少しは申し訳が立つ。なあ、そうじゃないか」
ああ……。
そうなのだ。この男にとって妻の死はその程度の事なのだ。おれだって、おれもただ使えるときに使う駒の一つにすぎないのだ。
なあ、鶴形。
おまえがおれを「貴様」と呼んだころがあった。あの頃はもう戻らない。おれはあの時のおまえが嫌いじゃなかった。
「おい、待て」
そしてやっとおれは、それに思い当たった。
「娘さんが奥さんを殺したと言ったな、その娘さんはどうした!」
「娘は――」
カタン。
閉めていたはずの障子が開いた。
そこに立っていたのは血だらけの少女だ。おれが驚いたのは、妻のこの惨状の前でも平然としているこの男の顔に明らかな恐怖が浮かんだことだ。
「どうやって」
蒼白な顔であいつが言った。
「縛って動けなくしておいたはずだ。どうやってここに来た!」
「なにをしているんだ、おまえ父親だろう!」
あいつは、キッと睨んできた。
「こいつは妻の首を斬って殺したんだぞ! 血だらけになって懐剣を握っていたんだぞ! 悲鳴のようなものを聞いた気がして来てみればこの状態だったんだ! 放心状態のようだったから縛って猿ぐつわを噛ました。なにをするかわからん。悪いか!」
いや、それは確かにそうだ。
この状況に飲まれ、おれも判断力がどうにかなっている。
おれは少女の両手を見た。その懐剣とやらは手にしていない。もちろん、刃物はすべて隠したろう。しかしぞっとする予感がしておれは少女の手を取った。
ぱしり。
少女は手を振り払い、おれの頬を打った。
腫れている。親指の付け根が腫れている。この娘は縄から脱出するために親指を自分で外したのだ。激痛のはずだ。まだ痛みは酷いはずだ。なのにその手でおれの頬を打ったのだ。
「鶴形只三郎」
と、この美しい少女は自分の父親を名前で呼んだ。
「よくも私を罪人のような扱い。この辱め、忘れませんよ」
「おまえは自分がしでかしたことがわかっているのか!」
「よく」
と、少女は微笑んだ。
「わかっています。そこの女はあの部屋を破廉恥な洋式の部屋にしてしまったのです。私が女学校から戻ってどれだけ驚いたかわかりますか。しかもいくら叱っても聞く耳をもたず改装を続けさせた。この屋敷を、松岡の名を汚す軽薄な女。だから壺中庵さまのお望み通り」
――斬りました。
少女が言った。
「よろしいか、鶴形只三郎。私と壺中庵さまのあの部屋を――元の――美しい座敷――に――戻すの、です――よ……」
おれも。
そしてきっとあの男も。
おれたちはその光景に目を見張ることになった。実の母親を斬ったという少女。姫のように振る舞っていた少女の頬を涙が落ちていく。
全身が震えている。
そして少女はその場に崩れ落ちた。
ああ、だめだ。
おれは引きずり込まれ、もうこの壷から抜け出せない。
おれは軍病院の解剖室を使って奥方の検死をした。
もちろんあの男の言うとおり、自死だと結論するためだ。
死因は側頸部鋭傷による失血死。それ以外の損傷は認められない。側頸部鋭傷は深さ三センチ。傷跡は自死に用いられた懐剣に一致する。頸動脈損傷後、数秒で意識を失ったものと推定される。書かなかったのは傷の向きだ。傷は頸部前面から創られ後へと抜けている。一般的な自死とは逆向きだ。この創傷の向きであるなら背後から首を斬られたと考えるのが合理的だ。
背後から――。
検死に立ち会ったのは警官二人。その二人とも自死で間違いないという私の所見に異議を挟まなかった。はじめに自殺と判断されれば捜査は踏み込まないものだ。よほど気になることがない限りは。その点はクリアできたようだ。ショックで倒れた娘、そして奥方が自死したというのに毅然と振る舞う陸軍中佐に同情が集まったことも良かったのだろう。
そしておれの検死報告書で自殺が確定した。
「これからどうする」
葬式を終えた夜、あの男がおれを屋敷に引き留めた。
美彌子ちゃんは目を覚ましたが、まだ床についたままだ。
「おれに聞くのか」
「おまえは医者だ。頼りになる」
おれに酒を勧めながらあの男が言った。以前なら嬉しく感じただろう。だが今は虫酸が走る。
「あの夜の美彌子ちゃんを覚えているか。体を震わせて泣いていた。まだ彼女は現実を捨てきっていない。必要なのは父親であるおまえの献身だ。彼女の魂を現実につなぎ止め、そして彼女が犯したことを一緒に背負うことを覚悟するんだ」
「入院はさせないぜ。母親が自死の上に娘は病院か? これ以上、おれの出世の足を引っぱられてたまるか。今は明治だ。徳川の世じゃない。封建主義なんか前時代の遺物だ。どうしておれが殿さまの一族に振り回されなければいけない。心配するな。おれは軍人だ。小娘なんぞに殺されるものか」
おれは席を立ち、両手であの男の襟首を掴んだ。こんな時には軍服の詰め襟はやりにくい。
「おまえが父親なんだぞ!」
あの男はおれの手をおしのけ、にやりと笑った。
「わかったよ」
「おれも助ける。この屋敷に通うようにする」
「そうしてくれ。それでな、西山」
「なんだ」
「二度と」
と、あの男は詰め襟を直しながら言った。
「同じマネをするな。次はその腕をへし折ってやるぞ」
そうだ。
おれはもう犯罪に手を染めてしまった。一方的にやつを責められる立場ではない。一蓮托生。やつが滅ぶときにはおれも滅ぶのだ。
まもなくおれは軍医少佐に昇進した。
医専出身のこの年で少佐はできすぎだろう。どうだ、おれの味方になれば損はないだろうとあの男が笑っているのが見えた気がした。もっともあの男の方はなかなか大佐にならない。理由不明の奥方の自殺は、やはりあの男の出世の目を潰してしまったらしい。それどころではなく投資で忙しいようでもある。まあ、上昇志向の強いあの男なら、軍での出世をあきらめたら違う道を探すしかないだろう。
美彌子ちゃんのほうは落ち着いているようだ。
無口だが元よりそうらしい。
女学校にも通い、穏やかに過ごしている。たまに虚空に何者かを見ている目をしてゾッとさせられるが、このまま大人になって欲しい。それもまたつらいことなのだろうが――。
大正元年、九月十三日。
明治帝、大喪儀。同日、乃木希典陸軍大将殉死。
その翌日。
「ねえ、なぜあなたはまだ生きているの?」
「美彌子……!」
首を押さえ、血みどろの畳を這い、鶴形陸軍中佐は自分の娘を見上げた。
落ち着いたと思っていたのに。
西山もうるさく言わなくなっていたのに。ちくしょう。
「する、する、と口にしながらいつまでもあの部屋の改装をせず、松岡家の姫である私を辱めた罪も償わず、あなたはなぜまだ生きているの、鶴形只三郎」
もう中佐の言葉はない。
「壺中庵さまのいう通りよ。たかが一二〇石の三男坊。それがこの屋敷に住むのが間違っていたの。さあ、乃木大将の殉死のように死ねばいい。くだらないおまえでも軍人の誉れだと讃えてもらえるでしょうよ。よかったわね、鶴形只三郎」
血の海になった部屋で、鶴形美彌子がゆらりと笑っている。
■登場人物紹介
平井 華子
16歳。早稲田大学前のミルクホール黒猫亭の女給。好奇心旺盛。
小川 健作
早稲田大学文学部英文科一年生。長身で悠然としている。
相馬 昌治
早稲田大学文学部英文科一年生。小柄で落ち着きがない。
店主
黒猫亭店長。初老だが長身で剣の達人。そしてケーキ作りの達人。
御前
自称放蕩息子。大金持ちの御曹司。
鶴形 只三郎
陸軍中佐。明治帝崩御に殉じて腹を斬る。
鶴形 美彌子
鶴形中佐の一人娘。
西山 圭介
陸軍軍医少佐。鶴形中佐の同郷の友人。
美甘 森太郎
陸軍士官学校を目指す書生。




