005「霧に覆われた心」
人々は信じている。勇者とは、神竜の加護を得て魔王を倒した者のことなのだと。しかし実際の勇者とは、神竜教会に呪いをかけられ、魔王を倒す責務を負わされた者のことだった。勇者に仕立て上げられた者は、たとえ消し炭になったとしても、魔王の息の根を止めるまで何度でも甦る。しかしそのような呪いの術など、現在の人類の魔術体系には存在しなかった。だからわたしは神竜教会に伝わる古い秘術なのだと思っていた。だけど少し考えれば判ることだった。教会の勇者に対する仕打ちは、異界の下級神と契約すれば、容易に成し得ることだった。そして竜言語魔法とは、神竜をはじめとする竜族の言語を用いた魔術。神竜と繋がりが深いのであれば、竜言語魔法を使えたとしても何も不思議ではない。教会の権威を保つために、広く世間一般に対してそれらを禁じたのだとしても。
とはいえ神竜教会の聖職者全員がそれを知っているとは思えなかった。かつて勇者の仲間として世界中を旅した頃、神竜教会の高僧と共に戦ったことがあった。しかし彼らは誰一人として竜言語魔法を使わなかったし、それが禁忌の術であると純粋に信じているようだった。竜言語魔法の存在は、法王と一部の高位聖職者のみしか知らないことなのだろうか。ツガイヒメとなったことで、わたしは一国の王女ではなく、神竜教会の所有物としてその管理下に置かれることになった。わたしの身の回りの世話は修道女がおこなうし、護衛は教会直属の騎士が務める。それでもエルステラ王国の王女という身分は尊重されており、家臣を傍に置くことは認められている。デスティンもその一人だった。
神竜教会の手配した宿屋でデスティンはわたしを出迎えた。宿屋といっても王侯貴族や富裕層のための戸建てのヴィラで、教会の修道女は別棟で休んでいるため、そこにはわたしとデスティンの二人しかいなかった。
太陽は山の向こうに沈み、薄暗い廊下には魔導灯が点っている。
デスティンは恭しく頭を下げると、白い手袋に覆われたわたしの手を取った。
「とてもよくお似合いです。赤毛が白いドレスに映えて……」
彼は冷静そのものだった。わたしに求愛していたとは思えないほどだった。勇者ラグナの名を出して気を惹こうとしていたくせに、そんなに簡単に諦められるものだったなんて。神竜を倒そうとした勇者とは違う。こんな男が勇者の威光を利用しているのかと思うと、胸の奥底に怒りが渦巻いた。自分の中にそんな感情が残っていたのは意外だった。わたしはデスティンを見上げると、棘のある言葉を返した。
「ずいぶんと落ち着いていらっしゃいますのね。てっきり嫉妬に狂っておられるものと思っておりましたわ」
「ご期待にお応えできず申し訳ございません。勇者が神に嫉妬するなど、あってはならないことなのです」
「あなたは勇者ではありませんわ」
「ええ。そうでしたね……」
デスティンは落ち着き払っていた。表情も口調も穏やかで、感情の乱れは読み取れない。波が引くように怒りが消える。この男には何か策があるかも知れないと不意に思った。彼の冷静さの裏付けになっているものを知りたかった。レスフィーヌ王女に対する愛が偽りであったのなら尚更、彼がここまで平然としていられるのが不思議だった。四方を海に囲まれたエルステラ王国において、海軍士官の地位は高い。海軍提督ともなれば、国王以上の権限を有する。彼の王女への愛が己の野心を満たすための手段に過ぎなかったのだとしたら、王位継承権第一位の王女を失うことは挫折にも通ずる損失のはず。エルステラ王国には王女は一人しかおらず、王女が消えれば未来の女王の王配の地位も得られなくなる。王配と海軍提督の双方の地位に就くことこそがエルステラにおける最高権力者であるにもかかわらず。
彼の本心を探りたくて、わたしは話題を変えた。
「あなたも神竜の孤島までわたくしと共にいらっしゃいますの?」
「いいえ。お供できるのは港まででございます」
ここで初めてデスティンは淡色の目をすっと細め、冷ややかな笑みを浮かべた。
「おかげで命拾いいたしました」
「……どういうことですの?」
デスティンはわたしを抱き寄せて、耳元で囁いた。
「あなたに殺されずに済むと申し上げたのですよ、レスフィーヌ王女殿下」