002「よく似た別人」
「……レスフィーヌ王女殿下」
聞き覚えのある声が不意にわたしの名を呼んだ。
エルステラ王国第一王女レスフィーヌ。それが現世のわたしだった。
己が殊更に幸運だとは思わない。試行回数が多いのだ、このような星のもとに生まれることもあるだろう。これまでの転生人生において、十年も生きられなかったことは一度や二度ではなかったし、三十年以上生きることができた方が稀だった。覚えているだけでこれなのだ、記憶から抹消された生があろうことを思うと、わたしはこれまでどれだけの外れ籤を引いてきたのだろう、そんな虚しさに圧倒される。しかし己が殊更に不運だとも思わなかった。生まれる場所は選べない、それは誰もが同じことだ。ましてこの世に生まれたときから成すべきことが決まっているのだ、採るべき選択肢はおのずと少なくなるし、それは己の人生の可能性を狭めるということ。それでもわたしは『竜殺し』を選んだ。竜言語魔法の研究は、倫理と道徳の基盤たる教会の禁忌に触れるのだから、茨の道となるのは当然のことだった。
しかしそれを差し引いても今のわたしは不機嫌だった。
原因はわたしを呼び止めた黒髪の男にあった。
わたしは振り返り、まっすぐに彼を見た。王国海軍上級士官の白い制服に身を包んだ彼は、バルコニーの入り口を塞ぐように立っていた。彼は背が高いから、言葉を交わすときはわたしが彼を見上げる形になる。ヒールの高い靴を履いてもその差を埋めることはできない。それに年齢だって十四年も離れている。実際はわたしの方が遥かに年上なのだけど、そんなこと、彼には知りようのないことだ。
「デスティン。わたくしになんのご用ですの?」
「つれないことを仰りますね。私の心はご存知でしょうに」
デスティンは冷たく笑い、わたしの腰を抱き寄せた。彼がこのような馴れ馴れしい態度を取るのはいつものことだし、三百年の人生を思えば抵抗を感じるほどのことでもない。だけどわたしは彼のことが好きにはなれなかったから、形ばかりのこととはいえ、拒絶の意思を表明する。
「無礼者、身の程をわきまえなさい。あなたの愛にお応えするなど、わたくしにはできませんわ」
「ご存知の通り、私は勇者の子孫です。それでも身分の差はあると?」
「あなたはただの子孫であって、勇者ラグナその人ではありませんもの」
「では……、もしも私が勇者ラグナその人であるのならば、求愛に応じていただけるのですね?」
デスティンは両目をすっと細めた。アイスブルーの瞳に影が落ちる。
わたしはデスティンの腕を振り解こうとした。だけど彼の力強い腕は王女の力ではびくともしない。わたしはすぐに抵抗をやめた。恐怖を感じて逃げようとしたことを彼に知られるのは嫌だった。わたしは胸を張って顎を上げ、彼に投げかけられた問いを毅然と退ける。
「あり得ない仮定を持ち出して返答を迫るのはおやめなさい。勇者はもう死にました」
「いいえ。勇者が死んだという記録は残っておりません」
「三百年も生きられる人間などおりませんわ」
「……本当にそうお思いですか?」
わたしの腰を抱いた腕にぐっと力を込め、そう囁いたデスティンはもはや笑っていなかった。アイスブルーの瞳にすべてを見透かされているかのよう。三百年も生きられる人間には会ったことがない。しかし転生を繰り返せば、三百年でも、それ以上でも、記憶と人格の同一性を保持することはできるのだ。わたしがそうであるように。だけど目の前の男が勇者の生まれ変わりとは思えなかった。性格も立ち居振る舞いも、すべてが彼とは違っている。ふとした仕草や表情が彼に似ているときがあるが、それは血筋のせいだろう、彼に似ている別人はわたしに不快感しかもたらさない。彼はもうどこにもいない、そんな当たり前のことをわたしに思い出させようとするのだから。
わたしはデスティンを軽く睨み、片手を後ろに回した。そして彼のアイスブルーの瞳から目を離さずに、自らの手指を彼の硬く長い指に絡ませた。その指を一本ずつ、わたしは腰から離してゆく。デスティンは抵抗しなかった。わたしのなすがままに彼はわたしをあっさり手放した。わたしは彼から視線を外し、その傍らを通り過ぎる。
「もしも存在するのだとしても、あなたはやはり勇者ラグナその人ではありませんわ」
彼は何も言わなかった。わたしは己の設立した研究施設をあとにした。