「ラ」生門
「短編小説」は、「短編小説」で、単発で投稿していくことにしました!
誰も見てないうちに、整理整頓ー!
ー「羅生門」は、生きるために盗人になるかどうかで葛藤する下人の話である。葛藤している間、左手では太刀の柄、右手では頬のにぎびを触っている。
太刀は、人を殺すことが出来る。頬のにきびは、下人の若さや純朴さを表す。ここには、悪と善の狭間で揺れる心情の対比が隠されていると言われている。
しかし、最終的には、にきびから手を離し、「迷い」を捨てる。下人は、悪に染まる「勇気」を得て、盗人になってしまう…。
そう、私に説明したのは、後輩の青井だ。彼は文庫本を片手に、
「これって、一種の『成長』って、言えませんかね?」
とぼやいた。弓を持つ手で、同時に本を持ち、器用にページをめくって見せる。
(犯罪者になることが、人間の『成長』?)
そんなの、知らないよ、とは言えず、無視して、チューニングを進めた。
そもそもの、「ラ」の音が決まらないのだ。オーボエは、ずっと、基準の音を出し続けてくれてはいる。でも、もう少し高めでいこうかな、これでいこうかなと、迷い始めたら、きりがなくなった。
指揮者とコンサートマスターは、遅刻のようだ。すでに、練習開始の時間を10分ほど、過ぎていた。指揮者は現れず、私たちのすぐ前のコンマスの席は空いている。学生たちは、皆、席につきながら、各自、音を出して、楽器の調子を確認していた。
だが、練習開始時刻を30分過ぎる頃には、舞台の上は、ざわめき出した。
ー今日、練習、無くなったの?
ーなんか、おかしくない?
不安げな呟きが、小雨のやうに、さあっと広がり、反響して、私の耳に集まってきた。
すると、隣で青井が、「来ないですよ。」と静かに低い声で言った。思わず、眉をひそめて、青井を見つめた。
視線を文庫本に落としたまま、「来ないですよ。」と、彼は繰り返した。そのまま、すらすらと話し出した。
彼は、大体、こんなことを喋った。
ーコンマスの赤井先輩、この前の試験で、カンニングしたんですよ。音楽史とか、音楽理論じゃなくて、一般教養の法学のテストで。まあ、覚えること多い授業だったから、気持ちは分からないでもないです。
ーでも、俺たちは、いつも実力勝負、要求されるわけじゃないですか。実技試験なんて、本番一発でしょ。なのに、手を抜けそうなところ、必死に見つけ出して。ズルして。そんな風にせこいことして、上を行くやつが、良いところのオケに就職決まるのは、おかしくないですか。
ー…はい、そうです。チクったのは、俺です。赤井先輩、マエストロの推薦で、Mオケに内定決まってたから、今ごろ…。今ごろ…。
そう語る青井から、目が、離せなかった。
そこまで話して、彼は、すっと顔を上げた。鋭い瞳だった。同時に、文庫本を逆さまに、胸ポケットにしまった。
「先輩、高めのAの音にしてみてください。」
私は慌てて、調弦し直した。
直後、コツコツと硬い靴底の響きが鳴り渡り、マエストロが現れた。何事もなかったかのように、笑顔で両手を上げる、初老の指揮者の髪色が、ライトで銀にきらめく。
指揮者台に上がったマエストロが、微笑みながら、コンマスの変更を告げた。選ばれたのは、なんと、青井だった。繰り上がり、第一ヴァイオリンの首席奏者となった彼は、ひとつ前の席に移動した。
(青井。お前にとって、「下人」はどんな存在だ。)
私は、青井の背中に向かって、心の中で問いかけた。
ベートーベンは、ナポレオンを「勇気」ある偉大な人物と賛美し、この曲を作ったという。そうして、奏でられる、ベートーベン 交響曲 第3番『英雄』。
振り下ろされた指揮者の腕に合わせて、バチッと、私たちの「ラ」の音が決まった…。
戦争で、多くの人を殺したナポレオンは「英雄」として讃えられている。生きるために、しかたなく盗人となった下人は、「悪」として、後ろ指をさされている。赤井先輩の不正を暴露した青井は、結果として、コンサートマスターの地位を奪うことに成功した。
「勇気」を持って「悪」を成した人間は、「英雄」になれるということなのか?その変身を、お前は『成長』と言いたかったのか?
(青井。お前にとって、「下人」は「英雄」でもあるのか…?)
この問いの答えは、きっと誰にも、わからない。
私たちの完璧な交響曲の向こう側には、ただ、ただ、真っ暗な観客席があるだけだった。




