別居婚するつもりなんてなかった。(本の妖精・談)
※短編「このたび、別居婚となりました。」のヒーロー・ロムルス視点です。先行する短編が未読ですとわかりにくい箇所があります。
よりにもよって、そのタイミングでの任務が、国境付近の視察だった。
「真逆……」
乾いた風に銀の髪を靡かせ、ロムルスは翠の瞳を細めて呟く。
もちろん無意味な独り言ではなく、すぐ横で肩を並べている青年に聞かせる目的である。
黒髪に黒の瞳。甘く整った容貌に、人好きのする笑みを浮かべたその人物はロムルスの上司。身分で言うと王太子で、いずれ国を背負って立つアレクサンドロス第一王子そのひと。
「いやあ、予定より長引いたな。今頃ロムルスの伴侶となる姫君は国境にたどり着いた頃か。迎えの使節団は出しているから心配するな。後顧の憂いなし!」
快活にして歯切れ良い口調で、悪びれなく言う。
国境。
今まさに、二人が立つ丘から視界に収まっている範囲もまさに国境であるが、赤茶けた土塊ばかりが目立つ荒涼の大地。ろくに草木も生えぬ不毛の光景で、時折風が砂埃を巻き上げて吹き抜けるのみ。
もちろん、隣国からの姫君御一行も、それを迎える使節団も、影も形もない。
それもそのはず。
国境違い。今現在、ロムルスが会うべき姫君は真逆の国境に到達しているのだ。
ロムルスは白皙の美貌に苦渋を滲ませ、吐息した。
――隣国の第四王女との婚姻。
公爵家嫡男で、王太子の片腕。現在は宰相補佐の地位にあり、ゆくゆくは王の側近として国政の中心を担うと内外に名の知れたロムルスに持ち込まれた、政略結婚。
政治的な妥当性を考慮し、将来的な展望を見据えた結果、受けた。
国内の有力貴族と結ばれれば派閥形成に大きな影響が出るが、ロムルスもアレクサンドロスもそれを望まなかったせいだ。
隣国との関係性や、かたや王族かたや筆頭貴族という立場、年齢差など、特に問題もなく。
どんな相手なのか。ロムルスは、絵姿すら見ずに決めた。興味がなかったわけではなく、見ても見なくても決定を覆すつもりはなかったからである。
(姫が、この結婚をどう思っているかは……、気にならないわけではなかったが)
一度だけ手紙がきた。言葉選びに興味がひかれた。斬新な詩だった。しかも、解釈が間違えていなければ悲恋寄りの内容。愛し合うのに結婚できずに終わる恋人たちの悲劇を書いた古典を下敷きに、瑞々しく爽やかな詩が綴られていたのだ。
悲劇? 姫はそんなに不満なのか? と持ち歩いて、忙しい仕事の合間に何度も繰り返し読んでしまった。迂闊にも返事を出しそびれたと気づいたのは「結婚の話は進めている。大詰めだ」と十日ぶりに顔を合わせた父親から言われたときだった。
止める気はもとよりなく、会いたい気持ちにもなっていたので「ありがとうございます」と礼を言った。結局、返事は出せぬままになった。
いずれにせよ、その時が来れば姫君に目通りはかなうのだ。焦ることはない。
会って、話してみよう。
そう悠長に構えていたところで下った、国境視察の任務。タイミングは最悪であった。国政に関わる極秘事項があり、自分が抜擢された理由は了解できたが、日程や距離を考えると姫君の出迎えに行けるかは大変危うかった。結果的には、行けなかった。
「国の端と端ですからね。間に合わないような予感はしていましたが、まさか本当に完全に予定をぶっちぎるとは……。さすがに、姫君が我が家に着く前には帰りたいところですが……」
「俺も、もちろんそうした方が良いと思う。全力で王都まで引き返そう。ただ、今回の視察の後処理は結構面倒なことになりそうだなと危ぶんでいる。そこは少し覚悟しておいてくれ」
ロムルスは、理知的な容貌を印象づける形の良い眉をひそめ「少し?」と言葉を拾って聞き返した。涼しげな目元には冷ややかさを漂わせ、正統派美形ならではの凄みで圧を加えながら。
それは、二人からやや離れた位置にいた部下たちまで凍りつかせるに十分の冷気をまとっていたが、生憎アレクサンドロスにはいささかも通じた気配はなかった。
「悪いとは思っているんだ。お前の不在を姫君がどう受け止めるかと思うと。胸が大いに痛むし、隣国の対応も気になる。姫様を軽んじられた! なんて騒ぎになったらどうしような? 戦争かな? んが」
さすがに聞き捨てならぬセリフに、ロムルスは素早く取り出したハンカチをアレクサンドルの口につっこんだ。
「大口開けてると、砂が口に入りますよ。お気をつけください殿下。黙れ」
最後の一言は、他には聞こえない音量で低く付け足す。
目を白黒させていたアレクサンドロスは、口をふさがれたまま、不意ににやりと相好を崩した。もがもが、とハンカチをかみながら何事か呟く。
ごめん、ってば。
誠意の感じられない謝罪の文句を聞きながら、ロムルスは顔を背けた。
ごく小さな声で胸の内をもらす。
「戦争になんかしないし、外交関係の悪化も冗談じゃない。両国の架け橋となることを願かけられた政略結婚なのだから、姫君のことも大切にする。ただ、なんというか……。不安にさせただろうし、恥をかかされたと思っているかもしれないし、これはゆゆしきことで」
言葉を連ねているうちに、アレクサンドロスはハンカチをさっさと口から取り出し、ロムルスの肩に腕をまわす。ごく近距離で、囁いた。
「かっこつかないし?」
「べつに。姫が俺に何かを期待しているとは、考えていませんよ」
茶化されて、気にしていないふりをして流そうとしたが、この日のアレクサンドロスはしつこかった。
「期待していると思うよ? 政略結婚でも恋に憧れくらいはあるだろ。頼る相手もいない場所なら、特にね。それが開幕・無視で冷遇となると、そうだな……。お前に愛人がいて、自分は相手にされていない、くらいのことは考えるかもな」
「ありえない。俺は不義などしない。自分で決めた結婚だ。わざわざこの国に来てくれた姫君の伴侶として、よそ見などするものか」
なぜかアレクサンドロスはその言葉にふきだして「そういうのは俺じゃなくて本人に……」と言いかけたが、思い直したように真面目くさった顔で続けた。
「普段のお前を知る人間はそう思うだろう。だけど姫君はお前について何も知らない。高位の貴族で引く手あまたの美形となれば、よそ者の自分は始めから相手になどされていないと思っても、無理はないだろうな」
(言っていることはわかる)
ただでさえ、未知の場所だというのに。頼るべき夫たる相手は信用ならない年上の男と失望されてしまえば、その後の関係構築はひどく難しそうだ。
手紙の返事を出していない件も思い出されて、珍しく落ち込んだ。感情に振り回されない冷静さが自分の長所だと信じていたのに。
「帰りたい……」
思わず泣き言めいた一言が口をついて出る。
アレクサンドロスは慈愛に満ちた表情で「わかっている」と頷いて言った。
* * *
(わかっていなかった、あのバカ王子……ッ)
国境視察から一路王都に戻ったら、別件で問題発生中と無理難題が持ち込まれて、王宮に身柄をとどめ置かれることになった。
「婚約者が我が家で暮らしているようなのですが。屋敷に帰ってよろしいか」
仕事量的に無駄だと知りつつも、ロムルスはときどきそう主張していたが「姫君に関しては、下にも置かない扱いで問題なく過ごして頂いているって連絡が入っているから大丈夫大丈夫、仕事に集中をして」と周囲になだめすかされる日々。
緊急性があるものと機密性の高い内容を同時に放り込まれて、仕事人間として考えるとどうしても自分から放り投げて抜け出すわけにもいかず。
(王太子に対して殺意が湧きそうなんだが……、いっそ王宮が燃えれば……いや、仕事が増えるだけだ)
仮に心を読める術者がいたら国家反逆罪級の思想の持ち主だと摘発されそうな妄想まで抱くに至ったが、妄想止まりであったし、誰かに心を読まれることもなかった。
そうしてようやく屋敷に帰りつけたのが、姫君到着からすでに十日以上経過した日。とっくに夕食時も逃した夜のこと。
「若様おかえりなさいませ」
曰く言い難い表情で出迎えてくれた執事に「遅くに出迎えありがとう」と労いを告げ、ロムルスは図書室に向かった。
今晩は疲れすぎて本を読む気にもならないだろうと、灯りすら持たず。
公爵家の図書室は国内有数の蔵書量を誇っている。
壁を埋め尽くす本に囲まれているだけで、ほっとして疲れがとれる気がする。読書のみならず、休むにも向いた心地よいソファや椅子がいくつも置かれており、ロムルスはそのうちの一つに腰掛けた。
背もたれに背を預けて、ぼんやりと窓に目を向けながら息を吐き出す。
――まさかの別居スタート。このまま仕事量が変わらないと、結婚しても別居婚だろうなぁ。
仕事中、罪のない口調でアレクサンドロスに言われたときには、手袋を投げつけて決闘を申し込む寸前だった。そのとき手袋を持っていなかったのが幸いした。
(別居婚など。問題のある関係でもないのに……いや、あるか。あるな……。姫には悪いことをした。仕事など、もっとどうにかできたはず)
腕を組み、足を組んで、目を瞑る。蓄積疲労のせいか微睡みかけたそのとき、カタンとドアの開く音がした。
* * *
咄嗟に、寝ているふりをした。
窓からの月明かりがあり、ほんの一瞬ではあったが、相手の姿は確認できた。見間違いでなければ夜着姿の少女のように見えた。
背格好や年齢などから、さて誰だったかと屋敷の人員を思い浮かべて、(まさか)と思い至る。
(マリーナ姫……? そういえば「図書室が気に入っているようだ」とは聞いていたが、真夜中に、ひとりで来るか?)
声をかけるべきか。名乗って、話し合うべきか。話し合うとして話題は。
(「不在にしていた婚約者ですが、息災ですか?」と? 深夜に二人きりの状況で年上の男からそんなことを言われても、威圧感で怯えさせるだけじゃないか。最悪、悲鳴を上げて逃げられて大事に……。大体もう俺の顔など見たくもないかもしれない。こんなに長いこと放置していたんだ)
考えている間に、少女の気配が近づいてきた。ロムルスは、ひとまず寝ているふりを貫いた。ひとがいると気づいたら、引き揚げるであろうという考えもあった。
しかし少女は、ロムルスが寝ていることを確認すると、ぱたぱたと離れていった。こっそり目を開けて姿を追うと、月明かりの中で、立ったまま本を読みはじめてしまった。
(出ていかない、だと……? 読むのかこの状況で本を。俺が起きたらどうするつもりなんだ。気にしていない? もしくは後先を考えない? ……そんなに本が気になるのか? 俺よりも本が。何を読んでいるんだ)
せいぜいわずかな時間だと思っていたのに、少女がとどまったことでロムルスも寝ているふりのやめどきがわからなくなった。
あろうことか、気づかれないように様子を探っているうちに、少女はしゃくりあげて泣き始めた。
(泣く……!? いや、全然泣き止まないし、大丈夫なのか? 何を読んだらそうなるんだ。その本はなんなんだ、教えてくれ。というかいつまで泣いているんだ。これは……見て見ぬふりができる状況じゃないだろ)
本当なら、国境まで出迎えに出て、その場で初めて会うつもりだった。間に合わなくても、自宅で出迎えるつもりだった。そのすべての機会を逸しつつも、可及的速やかに顔を合わせたいと願い続けてきた。
何が悪かったのか――上官が問題だったのはわかるが、自分もどうしてもっとうまくできなかったかと、後手に回り始めたときからずっと後悔して、気にかけている。
優秀が聞いて呆れる、と。大切にすべき相手を疎かにするだなんて。
隣国から嫁いできた婚約者をいきなり不安にさせ、そのことによって、
――姫様を軽んじられた! なんて騒ぎになったらどうしような? 戦争かな?
(国際問題だろうが。やはり殿下は許しがたい。なんだあの軽い発言。次に顔を合わせたら、絶対に締める)
考えを打ち切り、ロムルスは立ち上がった。
窓際で泣いている少女を視界に収めて、歩き出す。
ふわふわと背に流れる髪。華奢な肩。年齢よりも幼く見える小さな姿。
注意深く見つめながら、ハンカチを差し出す。
「あら、ご親切に、どうもありが」
言葉を不自然に途切れさせて、少女はロムルスに顔を向けてきた。
泣き濡れて、潤んだ大きな瞳。まっすぐに見上げられて、息が止まった。
(絵姿すら見ていなかったせいだ。こんな目をしているとは、思わなかった)
状況の異質さにも動じない、物怖じしない態度。ぼろぼろに泣いているというのに、気弱さを感じさせないまなざし。むしろ、凛とした気品が際立っている。相手を見定めようとする瞳には、才気が漂っていた。
そのときまでロムルスにとっての姫君は、「年下の女の子」という認識の範囲を出ることはなく、具体的な人物像がまったく思い描けていなかった。
この瞬間に、撃たれたように悟った。
本来おいそれと手の届かない「貴い姫君」が、いま自分の目の前に立っているのだと。このひとは大切にされるべき相手なのであると、強く意識した。
「ハンカチ。涙と鼻水に」
「ありがとうございます……」
ぎこちない会話になってしまったのは、ロムルスからもろくな言葉が出てこなかったせい。
ハンカチと引き換えに姫君の手から本を受け取って、タイトルを確かめて「読んだことないな」と本を気にしているふりをする。
姫君は案の定本の話題に食いついてきて、いくつか言葉を交わした。
それからようやく気づいたように「あなたは誰です?」と聞かれた。
(気づいていない? 俺は最初からわかっていたよ。あなたが婚約者殿だと)
少し拗ねて、意地悪をしたいような気持ちになりかけたのを抑え込んで、ロムルスはとぼけることにした。
誰かと聞かれれば、そうだね。本の妖精だよ? と。
* * *
夜通し本の話をした。
なぜか姫君までロムルスの趣向に合わせて「自分も本の妖精なのだ」と言い張り、図書室の本の解説をはじめたのだ。
その話は非常に興味深く、時間はまたたく間に過ぎた。
話題が豊富で、ロムルスが最近気になっているとある作家についても、姫君は妙に詳しく話が盛り上がった。
――メルカトル? わたくしもよく読みますけど。
――覆面作家なんだよね。素性が知れないんだ。素晴らしく博識な人物なのだと思う。せっかく同じ時代に生きているのだから、いつか会えたらと夢見ているんだけど。もしかしたら同年代じゃないかと思っていて。
――そうですか。……それは意外とかなう夢かもしれませんわね。
話し手としても聞き手としても姫君は申し分のない相手で、打てば響くような言葉選びのひとつひとつに利発さを感じた。
(ああ、なるほど。あのとき受け取って、今も大切にしている手紙はやはりこのひとが書いたものなんだ……。悲劇をオマージュとした理由を聞きたいような、聞きたくないような)
会話の最中に、ロムルスはさりげなく何度も姫君の様子をうかがい、その姿を目に焼き付けた。次々と本を手にして淀みのない口調で解説する姫君は、その視線に気づいた様子もない。
(もし本当にあなたが本の妖精なら、俺は図書室にとらわれて日常に戻れなくなりそうだ)
自分の方が年上で大人で。
この結婚は政略であり、この夜の出会いは自分の長い不在の果ての偶然であって、運命などでは無いというのに。
会話をしながら、姫君の横顔を飽くこと無く見つめてしまう、そのことによって気づく。
アレクサンドロスとの会話で、「自分は姫に一途だ。よそ見などするものか」と啖呵を切り、「本人に言え」と言い返されたあの文言に、偽りの混じる余地のないこと。
自分はこの先、今目の前にいる「本の妖精」だけを一生愛し見つめるであろうこと。
話し疲れて喉もひりつく頃、窓から差し込む光はすでに黎明の青みを帯びていた。光はみるみるうちに明るさを増していき、別れのときを悟る。
朝日の中で互いの存在を瞳に映すと、まるではじめて会ったかのように新鮮な感覚があった。
それは姫君も同じだったのか、ここにきて急に戸惑ったように言葉を詰まらせた。
(そんな姿も愛しいと、いま言葉で伝えることはできないから。あなたと俺は「婚約者」として、本来まだ出会ってはいない)
甘い囁きのひとつも告げることはできず、けれど「さよなら」と別れを口にするのは抵抗がある。「またね」と再会を匂わせるのも踏み込み過ぎだろうか。
終話のセリフをいくつか思案しては却下。
眠そうな目をしている姫君を見ているうちに、自然と浮かんだ言葉を口にした。
「おやすみ」
夜通し付き合わせてしまったので――話が楽しかったのもあるけれど、自分のわがままの面も大きかった。解放して節度ある時間に会おうと言いそびれてしまったのだ。あまりにも離れがたくて。
けれど朝になってしまったら、さすがにそういうわけにはいかない。
だから、まずはゆっくりおやすみ、という意味を込めて。
(そしてまた改めて出会いから始めましょう。次は本の妖精ではなく、人間の婚約者としてお会いできたらと思います。そのときには誰憚ることなく、あなたに愛を捧げることができる)
この夜自分があっさりと恋に落ちてしまったように、次は姫君に恋に落ちてもらうという決意を胸に。
別れの言葉を選びあぐねていたらしい姫君も、俯きながらかすれ声で言った。
おやすみなさい。
素敵な夜をありがとうございました、妖精さん。
それから小さな声で「あれ? 妖精さん、ですよね?」と独り言のように呟いていた。
ロムルスは笑って答えた。
妖精ですよ、次に会うときまではね、と。
★ここまでお読み頂きありがとうございます(๑•̀ㅂ•́)و✧
あらすじ・まえがき等で明示していますように「このたび、別居婚となりました。」という作品と時間軸が同じで視点人物が違う作品です。
また、本編内で会話に出てくるメルカトルは「貴方が婚約者とは」の登場人物です。マリーナの兄にあたります。どちらも独立した短編として書いているため、作品内での解説はありませんが、もし気に入ってくださった方はあわせて読んで頂けると幸いです。