挨拶
リジーの朝は早い。
森の中で生活するには、日の出とともに動き出して、日の入りまで働くのが効率がいいからだ。夜の森は灯りなしでは歩けないし、夜行性の動物たちも活動を始める。日中の方が危険がいくらか少ないので、リジーは幼いころからの父の教えを守り、規則正しい生活をしていた。
今日のトリスの森は吹雪がぴたりと止んでいた。
いつもと同じように、一日二日はこのまま晴れるはずだ。家に篭りっぱなしの体を久しぶりに動かせそうで良かったと息をつく。
寒さで曇った窓ガラスをきゅっきゅと拭いてみると、指から凍える寒さが伝線した。森の中まで光が差し込むにはまだ時間があり、外は薄暗い。遠くから、木に積もっていた雪が滑り落ちる音が聞こえる。
早い時間に起きてしまったリジーは暇を持て余していた。
「退屈ね…」
本でも読もうかしらと考えて、本棚を物色する。古ぼけた背表紙を順番にするすると撫でていく。でも、ここにある本は、何度も読み返したことのあるものばかりで、気が乗らない。動かしていたはずの指の動きが散漫としてくる。
すると、こんこんと、ドアをノックする音が遠慮がちに響く。
はっとして扉を開けると、そこにはアッシュが立っていた。
「おはよう、リジー。起きてるようだったから声をかけたけど、大丈夫だった?」
「ええ、私もちょうど起きていたわ。」
偶然の出会いを得て、アッシュとは一時的な同居人となった。さすがにどんな魔法士であっても、凍てつく寒さを誇る吹雪の中、外に出るのは難しい。束の間の晴れ間はあるが、その間に、この広大なトリスの森を抜けるのは至難の業だ。お互い話し合った結論として、せめて本格的に吹雪が収まるまではしばらく、アッシュはリジーの家に居候することとなった。
アッシュは、しきりにこのまま世話になることを気にしていたが、部屋も余っていたし、特に問題はない。服だって、父が昔着ていたもので申し訳ないが、着られないほどではない。実際に、着替えたアッシュは、古着でさえも着こなしていた。つくづく顔が良い。リジーは、うっとりとため息をついた。いや、この場合スタイルの良さなのか。なんだか、見慣れた我が家が少し煌びやかになった気がする。
恐るべしアッシュの魅力…!
これで、性格が悪いとか、驕り高ぶった貴族のぼんぼんだったりすれば、リジーもここまで親身にはならなかっただろう。
ちなみに、リジーを混乱の渦に叩き込んだ、あの、王都流というか、騎士様的な対応は、可及的速やかにやめていただいた。終始あの調子でこられたら、リジーの体は何個あっても足りない。
こちらの予想をいい意味で裏切ったアッシュは、掃除洗濯家事はなんだって手伝ってくれた。むしろ、リジーがやろうとする前に、率先して自ら片づけてしまうのだ。騎士団に所属していれば、誰もが身の回りのことは自分でするようになるというのが、本人の言い分だが、これではリジーの仕事がなくなってしまう。
助けてもらったのだから、仕事は全部引き受けると言わんばかりの対応にリジーはたじたじだった。そんなことをしなくとも、ここにいてくれたらいいのに。
傷ついてぼろぼろになっていた人を追い出すほどリジーは非情ではない。そもそも、それなら最初から助けたりなどしないだろう。
「外の様子を見てきたんだが、本当に雪が止んでいるな。それに、あの吹雪のせいで、雪かきから始めないといけないと思っていたが……」
どこか興奮した様子でアッシュは伝えてきた。
「毎年そうなの。私も不思議なんだけど、なぜかぜんぜん積もらないのよね。」
トリスの森は猛吹雪の後に晴れ間が少しある。そのときに外に出てみるとわかるのだが、なぜか雪はうっすら程度にしか積もらないのだ。
「私たちは『妖精のいたずら』のせいって考えてるわ。」
「妖精か…。もしかしたら、本当にトリスの森にはいるのかもしれないな。」
きらきらした瞳をさらに輝かせて、アッシュは嬉しそうに話す。
やはり、閉じこもってばかりいた日々は、体が資本の騎士にとっては退屈なものだったのだろう。久しぶりに剣を振れそうだ、魔力もどこまで回復したのか確かめたいと、次々にやりたいことを挙げていく。
黙っていると、とっつきにくい寡黙に思えてしまう青年が、今では、にこにこと笑顔を振りまいており、少年のようで可愛らしい印象だ。リジーはそのギャップがおかしく思えて、くすくすと笑みをこぼした。
まだ短い期間しか一緒にいないが、リジーはアッシュを気に入っていた。
それこそ、何もしなくてもいいから傍にいてほしいと思うほど。
それに、父と別れてからずっと一人だったリジーにとって、アッシュは大切なものをくれた。
「おはよう、アッシュ。」
忘れるところだったわと、リジーが楽し気に笑いかける。
例えば、誰かと一緒に食べるご飯だとか、何気ない言葉に返事が返ってくる嬉しさとか。
交わした朝の挨拶は、リジーの心に温かい灯を燈した。