星の名前
青年が目を覚ましたのは衝撃的な出会いから丸一日経った嵐の夜だった。
リジーが昨晩食べ損なったシチューを今度こそ口に運ぼうと準備していたところ、部屋の扉がガチャリと開いた。
そのときリジーは開いた扉の方を向きながら席についていた。なぜなら、もし何かあったときにすぐわかるよう青年のことを意識していたからだ。お腹は空いていたし、さっそく食べようと昨日のシチューを目の前に置いて、スプーンを握る。食事の準備は万全だった。
なので二人の再会は、リジーがスプーンを持って中途半端に固まっている、情けないものになってしまった。
青年は、昨晩と変わることのない星のような透き通った瞳をぱちぱちと瞬かせる。瞬間、きらきらと星が輝いているような錯覚を受ける。リジーがぼーっと見惚れていると彼は申し訳なさそうに切り出した。
「お食事中にすまないが、あなたが私のことを助けてくれたのだろうか」
「は、はい!こちらこそすみません、こんな格好で。えっと、今は、夕食の時間で。あ、あなたが倒れてから一日が経ってまして!それで、あの、その……」
「お腹は空いていませんでしょうか!」
早く目覚めればいいとは思っていたがまさかこんなタイミングになるとは。
思ってもみなかった状況に、リジーは、あたふたと説明しようとするが要領を得ない。ついに飛び出した台詞は間抜けなもの。焦り過ぎたあまり、勢いよく置いたスプーンがごんと鈍い音を立てた。
二人の間にしんとした空気が流れる。
それを破ったのはどちらともなくこぼした密やかな笑い声だった。
「じゃあ、ありがたくいただこうかな」
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「ごちそうさまでした。」
あれから青年の分の夕食もすぐに用意し、二人で食卓を囲んだ。腹が空いてはなんとやら、さっさとお腹を満たして話したいことがたくさんあった。
食事中はお互いしゃべることもなく、黙々とシチューをかき込んだ。何も話さなかったが、不思議と苦痛ではなかった。
ちらちらと目の前の青年をばれないように観察してみた。さりげなく盗み見ていたつもりだが相手にはばればれだ。彼もリジーの不躾な視線には気付いたはずだが、何も言わなかった。
眠っていた時は幼い印象を受けて、同い年ぐらいだろうと勝手に思っていたが、もしかしたら年上かもしれない。冷たく見えた彼の表情も、明るいところで改めて目にすると、全く別物に感じた。目覚めたら知らない場所で、見ず知らずの人と夕食を囲む異常事態にも関わらず、彼からは落ち着いた大人の余裕を感じる。
カラトリーを運ぶ動きは洗練されており、かちゃかちゃと音を立てることはない。姿勢もぴんと正されている。行儀よく食べ進めるその姿は、一朝一夕では身につかないものだろう。きっと幼いころからしっかりとした教養を身に着けているのだ。
その様子を伺いながら、この人はもしかしたら貴族のやんごとないお坊ちゃまではないかと、リジーは思い始めていた。
二人とも完食した後、リジーが勧めるまま食後のお茶も楽しんだ。家に置いてある安物のカップも、この青年が持つとそれだけでアンティークの高級食器のように感じる。
カップを掴む手は、剣を扱うせいか男らしい。それなのに、白く長い指が優雅に感じる。
こくりと飲み込むときに、喉ぼとけが上下する。なんだかいけないものを見た気がして、慌ててリジーは、視線を明後日の方向に向けた。
リジーが飲み終わったタイミングを見図って、青年はおもむろに立ち上がり、そして、リジーの前に膝まづいた。
リジーのすぐ傍で星が瞬いている。
いつもは見上げているはずの星が、今は上目遣いでリジーのことを見つめている。
混乱してぴしりと固まったリジーの手を、すっとすくい上げて握られた。
青年の容姿からは想像が難しい、意外にもごつごつした男らしい手が重なる。
まずはぽつりと、あなたに申し訳ないことをしたと、青年は謝った。
「助けていただいたことに感謝します。そして、あなたに剣を向けたことに謝罪を。美しいお嬢さん、どうか哀れな男にあなたのお名前を教えてください。」
「ひょえ」
思わず変な声がリジーの口から飛び出した。
父以外の男性に手を握られたのは初めてだ。
美しいなんて面と向かって男の人に言われたのも初めてだ!
青年の真剣な瞳がぐっとリジーを見つめており、頬が熱くなる。急に自分が沸騰したかのように全身に熱が回る。
リジーの困惑を置き去りにして青年はどんどんたたみかける。
「失礼しました。私の名前は、アシュベル。ラスティーニャ王国騎士団に所属しています。昨晩は敵の襲撃を受け、単身森に飛び込んだのですが、思った以上の深手を負い、もうだめかと思いました。」
青年はぎゅっと目を瞑ると、少し潤んだ瞳を誤魔化すかのように眉間に皺を寄せた。
「目覚めたときに自分がベッドに寝かされていること、体が自由に動くことにどれだけ安堵したことか……」
すりっと手の甲を親指で撫でられる。思わずぴくりと小さく跳ねたが手が離れることはない。
「意識が朦朧していたとはいえ、あなたを敵に間違えてしまい襲撃したことは許されることではない。どんな罰でも受けましょう。」
「ただ、私を助けてくれた慈悲深い女神に感謝を。そしてどうか、あなたの名を呼ぶ名誉を私に与えてください」
リジーはもう限界だった。
ただでさえ免疫のない男性と向き合っているのに、その男が最上級に美しいのだ。しかもリジーのことをべた褒めしてくる。
もう自分が立っているのか座っているのかもわからないぐらい、ぐらぐらと揺れていた。
「リジーと申します、騎士様。そして昨晩のことはもう謝らないでください。」
「しかし、」
「いいんです!きっとあなたは本気であれば私のことなんて、あのときに殺せたはずでしょう?そうしなかったから、私は助けたんです。」
だからもういいんですよ、とリジーは笑いかけた。
森の中は危険がつきものだ。一度立ち入ったのなら怪我をしても自分の責任である。傷つけ、傷つけられる覚悟のある者だけが、そこにはある。今回のことも相手がたまたま人間であっただけで、動物たちを相手にするのと変わらないとリジーは考えていた。
騎士もリジーが折れないことを悟った。
「では、私のことはアッシュと。ただのアッシュとお呼びください。私の女神、リジー様。」
「わかりました、アッシュ。じゃあ、私のことも、ただのリジーと呼んでください。」
そうでなければもう名前は呼びませんよと、リジーが冗談交じりにおどしてみせると、やっとアッシュも肩の力を抜き、笑ってくれた。
握られていた手を軽く持ち上げられて、疑問に思う間もなく、リジーの手の甲に、アッシュの形の良い唇が寄せられた。
チュッと軽やかなリップ音を立てて、唇が離れていく。
すっかり血の気がよくなった唇が開くと、整った白い歯とその奥に赤い舌がちらりと覗く。
「リジー」
リジーは爆発した。