異世界から帰ってきた。魔法も全て失って
『本当にいいんだな?始まったら待ったは聞かんぞ』
苔の生えたカビ臭い部屋で、その人は俺に向かってそう言った。
「はい。もう決めた事だから、大丈夫です」
このやりとりも実は何度目になるのだろうか。繰り返すたびに同じように、俺は出来る限り真っ直ぐに返答する。そうすれば、その人は決まってこういうのだ。
『……お前が決めた事なら、私は何も口出しできんさ』
目を伏せるその人に、かける言葉を俺は持たない。いつもただ押し黙って、その場から去るだけだった。
けれど今日は違う。
返答に、その人は何も答えなかった。ただ手に持っていた三色石をジャラリと鳴らして、そうして俺に言ったのだ。
『では、さらばだ。我らが英雄。役目を果たした希望の男、そちらの世界でも……まあ、楽しく暮らせよ』
体も視界も眩い光に包まれる。
それは懐かしい感覚。
酷く待ちわびた感覚。
そして……二度と味わうことのない感覚だ。
俺は何かを言おうとした。この後に及んで、未練があった。けれど何と言えばいいのか分からない、分からないままに、光はその思考までをもたやすく包んでーー。
…。
……。
………。
そうして俺は帰ってきた。
異世界から帰ってきた。
手を叩いて喜びたかったのに、大声を出して叫びたかったのに、望んだ故郷を見る両の目は、絶えず溢れ出してくる何かに遮られて、まともに機能もしなかった。みっともなく歪んだ口からは、小さく忍んだ嗚咽が漏れて、俺はたまらず背中から倒れ込んだ。
「ーーーあー、」
初めて見たのは青い空。
透き通るなんておこがましい、黒の混ざった蒼い空。
「一緒なんだな、やっぱり」
親しんだものだった。懐かしみたいものだった。でもそんな未練は捨てなばならない。
だって俺は選んだのだから。
帰る未来を選んだのだから。
俺はこの世界で生きていく。
魔法も全てを捨ててきて、ただ一人の人間として、この世界で生きていく。
「…だから、心配はしないでくださいよ」
思い返すのは光の中で見た最後の景色。
押し迫る感情を堪えながら、最後まで俺に気高さを見せ続けた恩人を思い、俺という男の、あの世界での物語の幕引きとしよう。
異世界から帰ってきた。
だから俺は、この世界で生きていく。