良心の敗北
あるホテルの貸しホールでこの地域のとある業界の親睦会があった。年に二回、春と新年に行われる。けっこう盛大なもので、春に開かれる回には、各社その年に入社の新入社員の中から一人か二人が自社のお偉いさんや古参の社員に交じって参加することになっていた。ここに連れて行ってもらえるのは、社員としては名誉なことだった。ただ、この地域の業界といっても会社の規模には幅があり、数人でやっているところもあれば千人単位の人間を要しているところもあった。大手は、現場に管理監督者を出すだけで直接に仕事をこなすことが無く、したがって採用する人間はほぼ大学卒に決まっていたが、ことしは珍しいことに高校卒から一人採用があった。ヤマカワ・ジュンという青年である。
この親睦会は、よくある、方々のお偉い方や重鎮のあいさつが続き、会社の人間どうしのあいさつがあり、それらが済むと立食パーティの形式でしばらく過ごしてお開きということになっていた。春のこの回は、そこに「新入社員同士の交流」というのも含まれる。もっともこの会にも会社の規模で上層と下層があり、上と下が交流することはほとんど無かった。
ヤマカワ・ジュンも会社の人間に促され何人かと話した。ただ、彼は上層のほうにいる唯一の10代であり、まだ幼さのある顔にスーツのアンバランスな感じがひどく目立った。周りは新入社員でも数才上だから、それだけでも話しづらかった。それを考えると、規模の小さい会社は採用枠も多彩で、高校からという人間も珍しくなかったから、そっちに行ったほうがしっくりきたかも知れない。彼は、話す相手もいないし酒も飲まないから、時々食べ物でもツマミながら時間が過ぎるのを待って、このいたたまれない時間を早く送りたかった。
彼が一人でホールの壁際で休んでいると、話しかけてきた者がいた。ちょうど彼と同じ年くらいの青年だった。ただ、顔立ちというか顔つきといったほうがいいか、少しヤマカワ・ジュンよりキツくて大人びて見えた。スーツの着込なしもなんとなく崩れていてだらしなさを感じた。ヤマカワ・ジュンとは一見して持っている空気感が違った。その彼がヤマカワ・ジュンに話しかけてきたのは、どこに興味が引かれたのかはわからないが、ただただヒマだったからなのかも知れない。
青年はいきなり「かったるくない?」とヤマカワに言った。それは同調できる事柄ではあったが、ヤマカワには「会社の代表としてここにいる」という上司の指導どおりの思いがあったから安易に認めるわけにはいかないと思った。ことばでは答えず、少し微笑みを浮かべて答えとした。
その青年は、ヤマカワがウンとかアアとか、相づちしか打たなくても一方的に話していた。青年はバイクが好きだと言った。ヤマカワはその時初めて返事らしい返事として「50CC以上は運転できないんだ」と言った。相手の青年はそれでもかまわずバイクの話をした。ツーリングが好きとかではなく、バイクをいじるのが好きなようだった。彼のその手の話はヤマカワにはまるでちんぷんかんぷんだったが、相当詳しい話をしていた。バイクのすべてを分解整備するのもお手の物らしい。それは自分の父親がそう言う仕事をしていて、身近に環境があったから身につけたようだった。
そのバイク好き青年は妙にニヤニヤしながら話すのがクセらしかった。自分の話を結構おもしろいと思っているようでもあった。確かに、これから聞く話は興味深かった。
青年はバイクを盗む話をし始めた。自分でバイクに乗って走っていて、いいバイクを見つけると「いただく」という。いただいたバイクはほかのバイクの部品と交換するなどしてエンジンだけ違うとか、自分の好みに組み直したりするのだという。その話を聞き始めたところでヤマカワは「そういう話」を堂々と人に話す彼が怖いというか、どこかおかしいのではないかと思った。いままでに会ったことのないタイプ。人間の型というべき青年だった。彼の話は、聞いているだけで嫌悪感を催した。自分も共犯になっていく気がした。話を遮ってやめさせるべきなのではと思った。でも、ヤマカワ・ジュンはそれをするほど度胸が据わっていなかった。自社の人間に助けを求めてもよかったのかも知れない。けれどそういうことも思いつかず、バイク好き青年の話を聞きつづけた。しかも、ことば発しないものの微笑みながら相づちを打って。
バイク好き青年には仲間がいるようだった。いただいたバイクの批評をしながら、欲しいパーツを交換したりするらしかった。そして、少なくとも彼はそれらのことについてほとんど罪の意識を持っていないようだった。お互い様というのもあるようだった。
「何度バイク盗まれたか、わかんねえよ」といって笑った。
「部品とか、外してもってっちゃうヤツもいるし」彼は楽しそうに話す。
彼の話を聞いているとヤマカワ・ジュンも、「そうかみんなやってるのか」と納得するようなところがあった。
「そういえばさ、知り合いに外国のバイクが好きなオッサンがいたんだ」
その話をし始めた彼は、いままでより一層楽しそうにおもしろそうに見えた。
「そのオッサンさ、たいして詳しくないのに自分で外国のバイク専門のバイクショップやりたいって言ってたんだ。言うのはいいけどさ、しばらくしたらホントに始めちゃって、びっくした。小さい倉庫みたいなところ借りて、少し改造して」
「ふうん」ヤマカワは、そういう話は夢があっていいような気がした。のだが。
「そんでさ、見に来いって言うから行ったら、バイクが2台あってさ、それ、知り合いが開店祝いに安く譲ってくれたっていうんだ。ヨーロッパのすげえ高いビンテージのバイクでさ……ホンモノなら」
ここでバイク好き青年は小話でもするつもりで「少し間をつくって」話した。
「偽物だったの?」
「うん。2台ともエンジン周りとかが、いろんな部品組み合わせて作ったやつでさ、そんなの普通の人に売れるわけ無いじゃん。それをさ何百万とか出して買っちゃったらしくて、オレ見た瞬間、かわいそうだけど爆笑しちゃって。そのオッサン、それ買った相手探したけど、もう連絡付かなくて。騙す気満々だったんじゃんていって。ひでえヤツだよ。オッサン泣いてたし」
「ひどいね」
「それがさ、もっと続くんだ。そのオッサン、店も借りてバイクも買って、それ全部、借金して払ったんだって。三日くらいしたらさ奥さんと子ども残して、どっか行っちゃったらしいんだよな」
このいたたまれないオチを迎えた話にヤマカワ・ジュンは青年の顔をことばも無く見つめた。
「もしかしたら、もう死んでんじゃねえかとか、みんなで話しててさ、思いついたところ探してたんだけど、もう三ヶ月経ったけど見つからねえわ」
この話が終わると、二人とも少し黙っていた。
10年あまりが経った。ヤマカワ・ジュンは結婚をし子どもが生まれ9才になる。実は、彼は2年前に独立して自分の会社を作った。それで収入も増えた。家も建てた。もう少し手を会社を大きくできれば、むかし行った例の「親睦会」に参加できる規模になるかも知れないところまで来ていた。彼にそれほどの手腕とバイタリティと野心があったとは、誰も思っていなかったかも知れない。あのことば少ない少しシャイだった少年が会社を構えて大号令をする人間になったのだ。彼には順風が吹いていた。
あの親睦会で会った、あのバイク好き青年もヤマカワ・ジュンと同じような道を歩んでいた。むしろ彼のほうがうまくいっていた。結婚し子どもをもうけて、それはそれはかわいがった。親馬鹿の部類だった。バイクには乗るが、もちろんもう盗んだりはしない。妻から「バイクは危ないから」といわれて、ツーリングに行くことも無くなった。ガレージには数台の彼のお気に入りのバイクがあった。いまはバイクを見ているだけでも楽しかった。磨いているだけで幸せだった。たまにエンジンを掛けて辺りを一周するだけでも幸せを感じられた。むしろ妻と子どもと一緒にいる時間が大切だった。
二人は、互いにうわさは聞いているがあれきり会ったことはなかった。このまま行けば、親睦会で会うようになるのかも知れなかった。
さらに少し時が流れた。バイク好き青年は順調だった。だがヤマカワ・ジュンは苦境に直面していた。何が悪かったのか仕事は減った。現場を仕切ってくれていた社員がやめてしまったのも大きかった。多くは仕事をこなせなくなった。数年の間、順調で笑いが止まらないと言うほどだったのが、行き詰まってしまった。夫婦仲も険悪になった。環境が悪くなると悪いことをしたくなる。彼は浮気もした。覚えてしまったアソビがやめられなくなっていた。妻には何度も、正直ないまのヤマカワ・ジュンの姿を指摘されたが、理屈ではわかっても聞き入れてやり直そうという気が起きなかった。会社の運転資金も苦しくなり借金をして回った。もうそこまで来ると引き際が見えてきそうだったが、なかなかそうはいかなかった。
しばらくしてヤマカワ・ジュンは、深夜に、ある会社の事務所の中にいるところを現行犯で逮捕された。彼はそのときライトで照らし出され警官に押さえ込まれ、床に押しつけられた。だがそれで安堵感を覚えた。もう何もかも終わった。全部リセットされる。そんな気がしたという。
彼は事務所荒らしを3件自供した。取り調べには淡々と、そしてよどみなく答えた。だが彼には考えていなかったことがあった。事務所荒らしの道具や戦利品が自宅にもあったので実況検分に自宅へ行くことになったのである。思わぬ凱旋に彼はひどく動揺した。自宅の前にワゴン車が止まり、降りるよう促された。見慣れた家が目の前にあったが、降りる勇気が無かった。妻と子どもは。特に子どもがどうしているか。
ヤマカワ・ジュンは、刑事に言われて震えて車を降りた。家の門扉を開けて警察官と連なってゾロゾロと歩いた。ふと見ると庭のほうに妻と息子が立っていた。彼はぼう然とした。手錠をされ腰縄をつけられて家族に会う。こんなことは考えていなかった。蕩々と涙が出てきた。「何もかも終わった」などと思っていたのは甘かった。
「パパ。どうしたの。なんでそんなことしたのっ」
息子の声だった。隊列が少し緩んで止まった。ヤマカワ・ジュンは息子のほうを見た。
「ごめんな。パパ、誤魔化すことしかできなくて。誤魔化し人生になっちゃったんだ……」
隣にいた刑事はうつむいてそっぽを向いた。