契約のアイスティー
試しに引っ張ったら屋上へ続く扉と私を隔絶していた南京錠は開いていた。
「何だ鍵かかって無いんだ」
見た目に騙されたが、危険防止の役目を果たしていなかった少し錆びた南京錠をポケットにしまった。重たい扉を押すと眩い光に襲われる。まだ夏が残る正午。熱気に思わず立ち止まった。
「入らないの?」
足音なんてしなかったのに振り返ると男子が立っていた。目が印象的だった。正確にいうと黒目。何にも関心が無さそうな、もう混じる色がない完全なる黒。我ながら詩的ではないかと意味もなく自分を褒めた。色白で賢そうな薄めの顔立ち。襟までしっかりとボタンを留めてネクタイを結んでいる。ちらっと確認すると上靴の色が緑。一つ年上の三年生だ。手に紙パックのアイスティーを握っている。
「入らないの?」
「入ります」
もう一度問いかけられて私は扉を開いて屋上へと進み出た。冷房で忘れていた真夏の日差しが容赦無く注がれる。
「死ににきた?」
私は耳を疑った。先輩が無表情で私の顔を覗き込む。
「そういう顔してる」
途端に涙が込み上げてきた。死にたいか死にたくないかと言えば死んでしまいたい。毎日が辛すぎる。
「なら早く向こうに行きなよ。破れてるの直すまで鍵かけてるらしい」
先輩が指差した先には破れたフェンスがお辞儀していた。一気に涙が止まる。
「構ってちゃんか。何だ残念」
先輩は大袈裟なくらい息を吐いてスタスタと歩き出した。破れたフェンスをくぐってフェンスの向こうを歩きはじめた。
「危ないですよ!」
私は近寄ってフェンス越しに先輩に声を掛けた。返事はないし目も合わせない。まるで私など居ないみたいに無視された。屋上まで逃げてきたのに教室と同じ。思わず破れたフェンスから先輩の前まで移動しようとした。しかし高さに足が竦んで動けなくなった。
「死ぬの?」
「無理!怖い!」
先輩が愉快そうに微笑んだ。この人変だ。まるで私が死ぬところを見たいという様子だ。
「手を貸してあげようか」
優しいとか気遣いという雰囲気はない、
しかし白い腕が私に向かって伸びてきた。先輩の手を握ろうとしたが、私はフェンスをきつく握った。ぶつかった目が黒より黒い。
「手を貸すってどういう意味ですか?」
「そのままだ。地面へ投げてあげようかと」
背筋が寒くなるというのはこういう事か。私は大きく首を横に振った。音が出る程強く。
「どうしてだ?」
「どうしてって……」
無視されて、靴を隠され、教科書を捨てられ、嘘の噂を流される。家に帰れば親は喧嘩ばかり。加担しないクラスメートも担任も見て見ぬ振り。誰も助けてくれない。先輩はサイコパスとかなのか?人を殺したいとうずうずしているように見える。楽しそうだ。
「私は何も悪いことはしていない!なのに酷い!ずるい!どうしてやられた私が死なないといけないの!負けてたまるか!」
大声のつもりが震えて掠れた。私の目尻からポタポタと涙が落ちる。先輩がニヤリと口角を上げた。今までで一番普通の表情に感じた。少し無邪気な笑顔。
「分かった」
先輩はそう言って私にアイスティーの紙パックを差し出した。有無を言わさぬ迫力に気圧されて受け取ったが、アイスティーは冷えていた。冷たい。おぞましい物に感じられて私は息を飲み、止めた。息が止まった、が正しい。中学校のどこを探したら冷えたアイスティーの紙パックが見つかるというのか。やっぱりこの先輩は奇妙で怖すぎる。
***
その日の放課後、私は先輩に待ち伏せされて一緒に下校した。手を握られて先輩は私にあれこれ質問した。好きなもの、嫌いなもの、そしてどうして死にたいか。先輩はさして興味なさそうで無表情だった。でも会話に飢えていた私は名前も知らない先輩に自然と言葉を紡いでいた。
連れていかれたのは図書館。一階の一番入り口から遠いスペースの椅子に先輩が鞄を置いた。
「一時間したら帰っていいよ」
勉強をはじめた先輩はやっぱり無表情だった。
***
先輩との図書室通いは1週間と2日続いた。名前もクラスも知らないまま、校門から歩いて図書室へ向かうという奇妙な関係。味方になるという意味だったのか?相変わらず教室にも家にも居場所はなかったが私は放課後が待ち遠しかった。
***
10日目、先輩は図書館の定位置に着くなり私を置いて壁にある足元の狭い窓から出て行った。一時間程して戻ってきたが先輩は何も言わなかった。この日初めて先輩は満面の笑みを浮かべた。影の強い無理やり絞り出したような笑み。私は何も聞けなかった。
***
次の日登校すると下駄箱に一枚便箋が入っていた。廊下に私をいじめているクラスメートの写真があちこちにばら撒かれていて問題になった。その日は早退させられ、目まぐるしく毎日が過ぎ、私が先輩と会うことは二度と無かった。
***
私に残された便箋には一言「いつも一緒にいてくれてありがとう」とだけ書いてあった。だから先輩は私を助けてくれたのだと信じている。
***
ドラマみたいに私の家に刑事さんがやってきた。それで転校した先輩の名前を知った。刑事さん達は母が出した紅茶を飲まず、あれこれ質問してしれっと帰っていった。全部先輩の様子について。私は聞かれた事に対して一つだけ嘘をついた。
先輩とずっと一緒に居たと。
***
中学三年生の時の担任はいつも紙パックのアイスティーを飲んでいた。まるで中毒みたいに。いつも私を気にかけてくれていた。いや生徒一人一人を良く観察している定年近かった先生。年賀状をやりとりしていたがそれがある年、訃報の黒い葉書に変わった。
***
突然差し出された告別式には似つかわしくない紙パックのアイスティー。無言で去る爽やかな短髪の男性。一瞬だった。
「先生お忙しいのにわざわざありがとうございます」
男性に駆け寄っていったのは年賀状で見たことがある先生の奥さんだった。憔悴しきった土気色の顔。アイスティーの男性は婦人を労わるようにしながら記帳に向かった。先輩に似ているが目が違う。悲しみをたたえているが、生き生きとして明るい。そこいらに存在するなんの変哲もない黒。
「いえいえ僕の恩師ですから」
隣に立ってみる。顔立ちも声もやはり先輩だった。人間らしく笑っている。似ていても先輩では無いかもしれない。
「ずっと自慢していましたよ。生徒が立派な医者になって助けてくれて最後は看取ってくれるって……」
覗き見すると先輩の名前が力強く書かれていた。
「恩は返す。当たり前のことです」
私は会話を聞いていられなくて先輩の隣で急いで記帳すると香典を渡してさっと背を向けた。冷たいアイスティーの紙パックを握りしめて。
***
帰り道、時折検索してしまう未解決事件を自然と探していた。
「強盗殺人の容疑者は加害者。虐待していた悪魔の母親に天罰」
似たようなタイトルのどの記事も内容を読もうとは思えなくて私は指を止めた。
事件ががあった日の先輩の空白時間。
私がついた嘘。
真実は先輩しか知らない。
知りたくない。
***
私は未だに紙パックのアイスティーを買ってはすぐ捨てる。とてもじゃないが飲めない。しかしつい買ってしまう。
あの夏の屋上で受け取ってしまったのは契約のアイスティー。