夏の日
降雪に消音効果があるように、夏の光はその場にそぐわぬ音を揮発させる。
夏の日盛り、藤田良明は、担任教師から学校に呼び出された。
高校に入学後、ひと月で登校しなくなった良明に、担任である男性教諭は熱心に家庭訪問を繰り返した。年配者の粘り強さで足繁く通い、良明との対話を試みてきたが、夏期休暇を目前にした土曜の午後、不登校専門のカウンセラーを同行して良明を訪れた。この柔和で、微笑みを絶やさない専門家の男は、傍らに恭順としている良明の母親に、
「不登校になるお子さんは、感受性が豊かで、優しいお子さんが多いんですよ」
と、なめらかに言った。言葉が笑顔の魅力を増幅させることを確信する、強靱な笑みだった。
父親は仕事で不在であり、一人熱心に謹聴する母親の隣で良明はひとことも話さずに、コンサルタントの袖口にあるカフスボタンを見つめていた。半球状に盛り上がったガラス細工で出来たカフスは、カウンセラーが動くたびにその表面を滑るように光が走った。良明にはそのカフスが、窓外に溢れて淀みはじめた日差しを室内に経由する、精密機器を思わせた。
良明は真夏の光を感じ、屋外の風景を思った。すでに午前中の明るく澄んだ光りではなく、密度の増した、蒸れて行き場を無くしてのしかかる、午後の光であるはずだ。(――強烈な光は事物を浮き彫りにするだけではない……その輪郭を裂き、あふれさせる……。)良明はそう考えていた。はじめに事物を鮮明に固着させていた光は、その眩さと熱でしだいに外殻を犯していく……そして鮮明さの密度が増したあらゆる事物は破裂する――。鮮明な色は沸騰する内容物であり、鮮明な輪郭は――(鮮明な輪郭は深々とした傷だ……破裂するに決まっている……。)それは外科医が皮膚に突き立てるメスのように線を破裂させる……夏の景色が静かに輝いてみえるのは、その予兆だ……。
「藤田君……」
名前を呼ばれて視線を上げた。カウンセラーの微笑みがあった。
八月初旬の午後に良明は登校した。担任教師が学校に呼び出したのは、夏期休暇中の幾分静かな校内の雰囲気から良明を慣れさせようとする思惑があってのことだった。
久しぶりに校門に立ち、校舎を見上げた。正面に時計塔を含んだ三階建ての校舎があり、一階の中央部に玄関があった。これが教員室と教室からなる第一棟であり、その奥に一階を渡り廊下で、二、三階を連絡通路で左右の端を結ばれた第二棟があった。特別教室のみで構成された二棟はグラウンドに面していた。
以前に見た校舎は春の澄んだ陽光の中にあったが、今は群青の空に向かって静かに屹立していた。蝉の鳴き声と蒼い空に包まれて隔離された静けさがあった。校舎の右側にある体育館は、金木犀の木立が取り巻くように植えられており、この位置からは採光のために並んだ二階の窓が見えるだけだった。
良明は玄関に向かって歩きだしたが、濃密で深淵な静寂に呑み込まれる気がして足早になった。玄関のなかに入った瞬間、蝉の鳴き声が背後に引き剥がされるように半減した。そして静寂もまた、半減したように良明には感じられた。
自分の室内履きを見つけた。三ヶ月ぶりに履いてみると他人の物のように感じた。
教員室は校舎一棟の一階にあり、良明が訪れたとき担任教諭の他に数人がいた。笑顔で向かえた担任教諭に比して、他の教諭は一瞥して冷淡に向き直った。進路相談室ではなく、特別教室に促されて、二棟へ向かうための渡り廊下に出た。特別教室は広々として気持ちが良いと担任教諭は良明に話した。
渡り廊下は頭上に延びる連絡通路の影を落としていた。良明は渡り廊下に出るとすぐに嬌声に誘われ、先に歩いていた担任教諭から右側に見える体育館に目を移した。正門からは視界を閉ざしていた館内は金木犀の木立をぬけ、ガラス張りの一階から見えた。幾つものバスケットボールの跳躍が見え、一列に並んだ女子生徒たちの掛け声が聞こえた。監督らしき女性教諭の声と、弾かれたボールを追いかける生徒たちの足音が無秩序に鳴り響くなか、ドリブルの刻むリズムが緩くなり、速くなりして、次々シュートする生徒が走り込んでくる――。キュッというシューズの音をのこして、駆けぬけていく。躰をよせ合って笑う女子生徒の声までは聞こえなかった。
担任教諭は体育館とは反対の方向を見て立ち止まっていた。二つの校舎に挟まれた中庭があり、それは良明が春先に見た景観とは異質なものだった。中央にある円形の池まで渡り廊下から煉瓦敷きの歩道が伸び、池を一周するようにして向こうの渡り廊下まで続いている。その池水の煌めきを残して、敷地は咲き乱れた花に埋もれていた。夏の乱光が一瞬で彫り上げ、突然出現させた彫刻を見る思いだった。深紅のサルビアがキバナコスモスの橙色と階調を成して敷きつめられ、対照に夏すみれの紫紺の花が無数に咲き誇っていた。風蝶花の、空にかざした枝葉に蝶が群れとまるような花びらが、艶やかな桃色をして静かに揺れていた。錦鯉の背びれが池水の光の膜を揺らした。花々が濃緑の葉叢に抱かれていた。
酔芙蓉はまだ咲いてないね……担任教諭の独り言を聞いて良明は視線を追った。中庭の一画にあるひときわ高い枝葉の群生を見た。
窓を開け放した三階の音楽教室に、良明は担任教諭と机をはさんで座っていた。良明は渡り廊下からここまでの経路をあまり覚えていなかった。成績や出席日数の記録された用紙を提示して、このままだと進級が難しくなるからと担任教諭は話していた。良明は入り口を背にして座っており、左手の開け放たれた窓の下にはグラウンドが広がっていた。良明の位置から見えるグラウンドの最も遠い一部にダイヤモンドの白線があり、野球部員が集まっているのが見えた。部員たちが走り出すとすぐに、金属バットの澄んだ音色が聞こえてきた。蝉の声が響くなかを金属音がすると、あまり明確でない歓声が聞こえた。
良明は中庭で酔芙蓉と聞くと、入学式での校長の祝辞を思い出していた。朝からひらいた酔芙蓉の八重咲きの花びらは、白色から夕刻には赤みがかった桃色に変わる。校長はその酔芙蓉の変化になぞらえ、この学校で日々成長という変化を遂げて欲しいと結んだ。……成長……と心のなかで呟いた。良明が心に描いた酔芙蓉は破裂をまえに八重咲きの襞をふるわせている姿だ。赤く色づくその可憐さに、良明は隠しきれずに剥き出しにされた内容物の赤を見た。良明は完全な世界を見ていた。そして完全な世界は必ず崩れ去ると信じていた。豊満な匂いと色に誘われた蜜蜂の羽音のする中庭も、跳躍する少女の躰を舐めながら落ちる汗の滴も完全で鮮明だった。群青の空と白球は対照であり、どこまでも世界を二分するかと思われた。蝉の大音声は永遠に静寂と寄り添っている……。良明はそれらの完全な世界が崩壊し破裂するとき、その鮮血を浴びて立っている自分の姿を思った。血ぬれて揺るぎなく、その崩壊を見据えている……その日は必ずくる……。
良明は音楽室の静けさのなかにいた。担任教諭の姿も言葉も室内に溶け込み一個のオブジェになっていた。掛けられた円形の時計は音もなく秒針を進めている。陽光は静かに射し込み、ただ蝉の声と金属バットの澄んだ音色がしていた。 ――(了)――