開戦と思考
最初の取り引きを見届けた群衆はようやく動き始めた。それが終わるまで誰も動こうとはしなかった。『1番最初の重要性』を理解した上で見届けたものもいれば、単純な興味や好奇心で見ていた者もいるだろう。また、その場の雰囲気に流され、動けなかった者もまた、いてもおかしくない。それだけ、あの場は緊張と混乱で汗ばんだ空気を作り出していた。
ふと思いついたことがある。ここに集められた人間は、どういう基準で選ばれたのだろう?完全なランダムか、はたまた何か共通点があるのか。一体何の目的で集められたのか。ルール説明の時に質問しておけば良かった。スピーカーの声は本当に最低限のことしか説明していない。聞くべきことはいくつもあったはずだ。俺は面食らって動けなかった自分を悔やんだ。
それを今さら考えても仕方ない。ここから脱出するために金を集めねばならないという事実は変わらないだろう。
午前11時17分。
まず、金を得るべきか、寿命を貯めるべきか...............
俺はゆっくりと思考を巡らせようとした。壁際に寄り、腕を組み、瞼を下ろす。
しかし物事はそうスムーズには進まない。
「あの、すみません」
若い女が話しかけてきて、俺の思考は妨害された。妙に甲高く、湿り気のある声のせいもあって、思わず苛立ちが顔に出てしまったように思う。
「何ですか?」
ぶっきらぼうな返答。明らかに機嫌の悪そうな声で応えてしまったことに気づいた。この広い密室の中には50人程度しかいない。誰かと関係を悪くすることはできるだけ避けたい。俺は少し過ちを悔やんだ。
「あの、寿命の取引のお話をしたいのですが.........」
「失礼ですが、先にお名前の方をお聞きしてもよろしいですか?」
「あっ、こちらこそ失礼しました。三国果穂と言います。」
「暁月陽平です。まずはあなたのお話からお聴きしましょう。」
俺は深く考えるのをやめた。まずは関係を良く保つこと。今の段階では一気に脱出できるような利益は出せない。同じ人間と再び交渉することにもなるかもしれないし、今後チームや同盟を組むことになるかもしれない。今は無理をして利益をあげるところではない。
「はい、寿命の方を買っていただけないかと.........」
なるほど、金を求めているのか。
「その値段は?」
「1年を1万円で........」
どうしたものか。最初の取り引きでは、1年が8500円。それより少し高い金額ということは、まあ無難なところを突いてきたというところだろう。
彼女も、ドアインザフェイスを使って、最初の取り引き前後の金額での取り引きを狙っているとみた。
利益を度外視して、揺さぶってみよう。
「わかりました。買い取りましょう。」
「えっ?」
「どうしたんですか?」
「いえ、あまりに早かったもので.......つい」
想定していた内容と異なったために、俺の回答に戸惑ったようだ。恐らく、俺が一旦断り、自分の主張をしてくると考えたのだろう。
「いえ、1万円で1年の寿命が購入できるのですから、願ってもない話ですよ。うちのお袋にも買ってプレゼントしたいくらいです。」
俺は顔の筋肉を懸命に使い、笑顔で彼女に答えた。
「は、はぁ.......」
「では、取引成立ということで」
T-phoneとT-watchの操作の後、俺は女と別れた。彼女は間違いなく面食らっていた。
寿命を1万円で買えるというのは、現実世界では安いと判断されると見て間違いない。しかし、ここは隔離され、独自の相場が作られる。特にいい話とは言えないだろう。利益をあげたとは言い難い。
彼女が俺の言い訳を信じているということも、まず無いだろう。変な考え方の男、と思われたのが関の山だ。
が、彼女の優位に立つためにはこれで良かったのだ。交渉相手の男が自信満々に想定外の言動をする。これだけでも十分彼女を揺さぶれた。
まぁ、自信満々というのは最初の苛立った声で失敗しているかもしれない。
まだ戦略が立っていない今、相手の精神的優位に立つのが正解だったと、俺は自分に言い聞かせる。