表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

境界線で夕食を

作者: 園 茉柚伽

 冬は日が暮れるのが早い。まだ五時半だというのに、あたりはもう真っ暗だ。重いトートバッグを肩にかけ、講義の内容を半分も理解していない頭で、今晩の献立を考えながら家路を急ぐ。


 僕の中での、今日の講義のハイライトは「ヨモツへグイ」だ。しかもそれは、物理学の教授の余談に過ぎないものだった。素粒子などもう知らん。


「ヨモツへグイ」--黄泉の国でつくられたものを食べることで、もし一口でも口にすればその世界から出られなくなってしまうらしい。教授は講義も程々に

「死者がくれたものを食べちゃいけないぞ」

などと力説をしていた。


こんなに薄暗い道を歩いているのに、どうして思い出してしまったのだろう。気味が悪い。必死で振り払うかのように観たいテレビ番組のことを考える。疲労と空腹のせいでもうフラフラだ。


突然、何かと衝突したような感覚に襲われた。頭がクラッとした。視界は暗くなり、背中には冷や汗がつたう。しばらくしゃがんでいると落ち着いてきたので立ち上がった。きっと貧血だ。最近、まともな食生活ではなかったせいだな。


早くアパートに帰ろう。築数十年のおんぼろアパートに早く帰りたい。僕の心はなぜか不安に駆られ、いつになく焦っていた。


 今日は随分歩いたように感じた。余程疲れているのだろう。早く寝よう。吸い付くように、103号室のドアを開けようとした。……ありえない。なんだこれは。僕は唖然とした。


この「与謝野」という表札は一体何だろう。友人のイタズラなのだろうか。


そう思った時だった。背後から足音が聞こえた。振り返ると、大根の葉がはみ出す手提げを持ったおばあさんと目があった。


「おやまあ。私に尋ね人かね」

おばあさんは、穏やかな笑みを浮かべた。尋ね人って……僕はここの住人だ。訳が分からない。


立ち尽くす僕をよそに、おばあさんは

「おあがりなさい」

と優しい口調で僕を家に入れた。


玄関のすぐ横にある流し台や、トイレと風呂場のドアに変わりはない。ただ、少しばかり奇麗に感じた。何かが違う。そう思いふと居間に目を向けると、言葉を失った。


なぜ畳なのか。この物件の決め手は、居間が新しいフローリングになっている点だった。


「もうこんな時間でしょ。お夕飯、うちで食べていきなさいな。誰かと一緒に食べるなんて何年振りかねぇ」

僕の様子を見ていないのか、おばあさんは……与謝野さんはそう言った。このままここに居れば元に戻れるのだろうか。それとも、ここから出たほうがよいのか。でも、他に行く場所はない。


疲れ切った頭でそうこう考えていると、トントンと何かを刻む音が聞こえてきた。どこか懐かしさがある。味噌汁を作っているのだろうか。だしのいい匂いが仄かにする。


畳の上を歩く擦れた音、年季の入ったちゃぶ台に置かれる食器の音、僕は目を覚ました。料理から立ち上がる湯気の先には、与謝野さんが座っていた。


「悪いねぇ、待ちくたびれたかい。冷めないうちに召し上がれ」

これはもう、頂くしかない。寝起きのせいなのか、この奇妙な状況に疑問を持たなかった。


大根の味噌汁。ほかほかのご飯。甘辛い醤油ベースのカレイの煮つけ。シンプルだけれど、本当においしかった。料理の温かさと、誰かの手作りという特別感。それが嬉しくて、鼻の奥がツンとした。与謝野さんは何をしゃべるわけでもなく、食事をする僕を見ながら満足そうに箸をすすめた。


「お茶をお出ししましょうかね」

与謝野さんはそう言い、台所へと消えていった。何だか至れり尽くせりだ。


 一体、今は何時なのか。部屋を見渡すが、僕の置時計はもちろん見当たらない。引っ越し祝いに親友から貰ったものだ。コートからスマホを取り出すが、充電がないようだ。電源ボタンを押しても、全く反応しない。


テレビすらないので、ゴロゴロするしかない。それにしても、遅すぎる。与謝野さんはお茶を入れに行ったはずだ。こんなに時間はかからない。茶葉を買いに行ったのだろうか。


恐る恐る台所を覗くと、与謝野さんは天井から吊るされていた。


微かにゆらゆらと揺れていた。静かに時を刻む、振子時計のように。


宙に浮く脚をつたい、床を濡らすはずの体液は、既に水分を失いシミをつくっていた。穏やかな笑みを浮かべていたあの顔も、シワではない、茶色に風化してしている。


全てが恐ろしかった。よく考えてみれば、何もかもがおかしい。僕はこのアパートから逃げ出した。


 震える全身は全速力のために使われている。あの十字路を左に曲がれば、交番がある。早く、早く知らせないと。


その時だった。急にクラッとして、全身の力が抜けていくのが分かった。この感覚には覚えがある。そうか、僕は……。


横転した視界の先には、真っ黒なアスファルト。それから、月の光が反射して鈍く光る赤黒い液体。まるで行き先がるかのように、トロトロと少しずつ地面を這っている。


痛い。全身が痛い。やっとの思いで動かした目には、パトカーや救急車の忙しなく動く赤い光が闇に消えていくのが見える。


あの光はどこへ行くのだろう。


僕はどこへ帰ればいいのだろう。


僕の視界は、光を追うように闇に吸い込まれた。

初めての投稿です。白柚子と申します。

この物語の「僕」は、帰宅途中トラックにはねられてしまいます。

即死ではなく、生死をさまよいます。

そして、死を決定づけたのが与謝野さん(あの世の人)の手作りご飯でした。

ご飯を見て「ヨモツへグイ」を思い出せば、「僕」には違う結末があったかもしれませんね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ