今日は暑いですね。婚約破棄しましょう
「今日は暑いですね。というわけで婚約破棄いたしましょう」
王宮の庭園には、夏の日差しが容赦なく降り注いでいた。
整えられた生垣の葉は日光を反射し、噴水から飛び散る水滴が、石畳の上で小さく光っている。白いテーブルの上には、銀のポットと、氷を浮かべた果実水が置かれていた。
王太子レオニスは、手にしていたグラスをテーブルに戻した。
「……申し訳ありません。今、何とおっしゃいましたか?」
「婚約破棄です」
「それは聞こえました。聞こえましたが、前半と後半がどうつながったのかを確認したいのです」
「今日は暑いでしょう?」
「ええ。暑いですね」
「ですから、婚約破棄です」
レオニスは空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。庭園の中央に立つ噴水からは涼しげな水音が聞こえてくるが、吹き抜ける風は生ぬるい。
彼は首元の襟を指で少し緩めた。
「暑いことと、私たちの婚約に何か関係があるのでしょうか?」
「大いにありますわ」
「ぜひ、詳しく伺いたいですね」
「では、まず日陰へ移動いたしましょう」
「それは賛成です」
レオニスが椅子から立ち上がり、テーブルの脇に立つ白いパラソルへ手を伸ばした、そのときだった。
「……あら?」
アデリアが彼の手元を見た。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。今、ようやく日陰に移動しようとなさいましたわね」
「ええ。あなたも暑そうですから」
「私が暑いと申し上げる前から、気づいていらしたはずでは?」
「それは、まあ……」
「つまり、私が暑い思いをしていても、婚約破棄を切り出すまでは何もしてくださらなかったということですわね」
レオニスは、パラソルの柄を握ったまま動きを止めた。
「いえ、まだ婚約破棄を切り出す前から、あなたは暑いとおっしゃっていましたよ」
「ですが、日陰に移動する提案をなさったのは今です」
「……確かに」
「私を愛していないのですね」
「そこまで話が飛躍するのですか?」
レオニスはパラソルを開いた。
布地がぱっと広がり、二人の足元に丸い影が落ちる。彼はアデリアの椅子を少し引き、影の中心に入るように位置を調整した。
「これで少しは涼しくなったでしょうか」
「今さらですわ」
「今さらでも、何もしないよりはよいと思いますが……」
「そういうところです」
「そういうところ?」
「私が不満を申し上げてから行動する。つまり、私を幸せにする能力がないのです」
レオニスは椅子に腰を下ろしかけ、また立ち上がった。
「待ってください。日陰を作ることと、あなたを幸せにする能力は、分けて考え
るべきではありませんか?」
「いいえ。日陰を作ることもできない男性に、私の将来を任せるわけにはまいりません」
「今、日陰を作ったばかりなのですが」
「婚約破棄を切り出した後に、ですわ」
レオニスはゆっくりと椅子に座った。
テーブルの上では、果実水のグラスについた水滴が、ひと筋、ガラスを伝って落ちていった。
「……なるほど。では、婚約を続けるためには、あなたが不満を口にする前に行動する必要があるのですね」
「そういうことです」
「今後は気をつけます」
「今後は、ですか?」
「はい」
「つまり、今までの私は、気をつけてもらう価値すらなかったということですね」
「そのようなことは申し上げていません」
「では、婚約破棄ですわ」
「少々お待ちください。今の会話のどこに、婚約破棄へ至る決定的な理由があったのでしょうか?」
「王太子殿下が、私の意思を尊重してくださらないことです」
レオニスは口を閉じた。
噴水の水音が、二人の間に流れた。
やがて彼は、テーブルの上のグラスを手に取り、ひと口だけ果実水を飲んだ。
「……では、婚約破棄を望まれているという、その意思を尊重すべきだと?」
「ええ」
「ですが、私は婚約を続けたいと思っています」
「ご自分の意思ばかりですわね」
「あなたの意思を尊重することと、私の意思を持つことは、両立できると思うのですが」
「では、私の意思を尊重して婚約破棄してくださいませ」
「それは……」
レオニスはグラスを置いた。
そして、アデリアを見て、それからグラスを見た。
「……少し、果実水を飲んでもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
彼はグラスを持ち上げた。
氷が、からん、と音を立てる。
「ところで、アデリア嬢」
「何でしょう?」
「こちらの果実水ですが、あなたの分も用意してありますよ」
「そうですか」
「はい。こちらのポットには、まだ十分に残っています」
「それは結構ですわね」
「……なぜ、そのように冷たい目でご覧になるのですか?」
「殿下は、先ほどから何杯お飲みになりました?」
レオニスはグラスを見下ろした。
「三杯目です」
「私は一杯です」
「ええ。あなたがあまり飲まれていなかったので、追加で飲むのを控えていたのですが……」
「私が一杯しか飲んでいないのに、殿下は三杯も」
「暑いので」
「私も暑いのですけれど?」
「それは、もちろん存じています」
「ならば、なぜ私にもっと勧めてくださらなかったのですか?」
レオニスはポットへ目を向けた。
銀の表面には、パラソルの白い布と、青空が歪んで映っている。
「……気が利かなかった、と言わざるを得ませんね」
「ええ。婚約破棄ですわ」
「果実水が原因で?」
「果実水も原因です」
「ほかにも原因があるのですか?」
「もちろんですわ」
アデリアは椅子の背から背筋を離し、テーブルの上に置いた扇子を手に取った。
ぱちん、と扇子を開く。
「殿下と私は、価値観が合いません」
「価値観ですか」
「私は暑いのが嫌いです」
「私も好きではありません」
「では、寒いのはお好きですか?」
「それも、あまり好きではありませんね」
「私は寒いのも嫌いです」
「……なるほど」
「暑いのも寒いのも嫌いな私と、暑いのも寒いのも嫌いな殿下。これは致命的な価値観の不一致ですわ」
レオニスは扇子を持つアデリアと、パラソルの影と、遠くの噴水を順番に見た。
「同じ価値観を持っているのではありませんか?」
「同じだからこそ、問題なのです」
「どういうことでしょう?」
「二人とも暑いのが嫌いなら、暑い日に庭園でお茶をするべきではありません。ですが、殿下は庭園でのお茶会を設定なさいました」
「……それは、庭園の花が見頃だったからです」
「花は暑くありませんものね」
「花も暑いと思いますよ」
「花の話はしておりません」
レオニスは額をハンカチで拭った。
ハンカチを畳み、膝の上に置く。
「では、次からは季節や気温も考慮して、お茶会の場所を決めることにします」
「次から?」
「はい」
「婚約が続く前提ですわね」
「……確かに、そうですね」
「つまり、私の意思を尊重していない」
「その論点に戻るのですか?」
「戻りますわ。婚約破棄です」
レオニスは、しばらく黙っていた。
やがて、パラソルの端から差し込む日差しを見て、ひとつ息を吐いた。
「アデリア嬢」
「はい」
「あなたは、本当に婚約を破棄したいのですね?」
「ええ」
「理由は、暑いから?」
「暑いからです」
「それに加えて、私が日陰を用意するのが遅かったから」
「そうです」
「果実水を三杯飲んだから」
「そうですわ」
「暑いのも寒いのも嫌いだから」
「そのとおりです」
レオニスは指を折りながら理由を数え、最後に自分の手を見下ろした。
「……ほかには?」
「まだ必要ですか?」
「いえ。理由が多いほど、あなたの意思が明確になるというわけでもありませんから」
彼は椅子から立ち上がった。
白いパラソルの影が、彼の足元で揺れた。
「分かりました。婚約破棄を受け入れましょう」
「……よろしいのですか?」
「あなたは婚約を破棄したい。私は婚約を続けたい。ですが、婚約は二人でするものですからね。片方が望んでいないのなら、無理に続けるべきではないのでし
ょう」
レオニスはテーブルの端に置いてあった書類を引き寄せた。
「正式な手続きは必要になりますが、私から父上に話を通します」
「ありがとうございます、殿下」
「いえ。こちらこそ、理由を説明していただきありがとうございました」
彼は書類に目を通し、ペンを手に取った。
さらさらと署名を済ませ、アデリアの前へ差し出す。
アデリアも署名した。
ペン先が紙から離れる。
レオニスは書類を丁寧に揃え、封筒へしまった。
「これで、私たちの婚約は解消ですね」
「ええ」
「……ところで、アデリア嬢」
「何でしょう?」
「このあと、少しお時間はありますか?」
「ございませんわ」
「そうですか。では、最後にひとつだけ」
レオニスはパラソルを畳もうとして、手を止めた。
「来年の夏は、庭園でのお茶会をやめようと思います」
「よろしいのではありませんか?」
「ええ。暑いですからね」
「そのとおりですわ」
レオニスは頷いた。
「では、失礼いたします。日陰から出るのは、もう少し涼しくなってからにしま
しょう」
「……殿下」
「はい?」
「やはり、私たちは価値観が合いませんわね」
「そうですか?」
「ええ。私は、今すぐ帰りたいのです」
レオニスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、パラソルを持ち直し、彼女の椅子の横へ回った。
「それでは、馬車のところまで日陰をお作りしましょう」
「……最初から、そうしてくださればよろしかったのに」
「まったく、そのとおりですね」
レオニスは苦笑しながら、パラソルを差し出した。
庭園の噴水は、変わらず水音を立てている。
白いテーブルの上には、氷の溶けかけた果実水が二つ。
そして、その隣には、婚約解消の書類が入った封筒が置かれていた。




