殿、悪口禁止令を出すの巻 ―心理的安全性を高めよ!―(上)
朝の評定の間。
先日までの「呼吸で戦を鎮めた」騒ぎも落ち着き、
日向藩には久々に穏やかな空気が流れていた――ように見えた。
「殿、城下の米蔵の件、いかが取り計らいましょう」
「……うむ、焦ることはない。まずは深呼吸して考えよう」
殿のその一言で、家臣たちの顔が引きつる。
宗玄が咳払いをしながら小声で呟く。
「……殿、呼吸はもうよろしいのでは」
「呼吸なくして判断なし。これは日向流である!」
堂々と言い切られ、宗玄は天を仰ぐしかなかった。
そしてその日の午後――。
廊下の片隅。
茶の支度をしていた下級武士が、ひそひそと話し始める。
「なぁ、聞いたか。“呼吸の殿様”って、今では城下の子どもらの遊び歌になってるらしいぞ」
「『すってはいて、すってはいて、戦やめろ~♪』ってやつか!あれ、意外と耳に残るんだよなぁ」
「呼吸で天下泰平とは、まこと平和すぎて退屈な世だ。ふわぁ〜あ」
一人があくびをする。
「そのうち、“寝て治める国”を目指すんじゃないか?」
「いやいや、“あくびで外交”の方が先だろう」
くすくす笑いが広がる。
通りがかった書記が、それを聞いて眉をひそめた。
「…おい、殿のお耳に入れば大事だぞ」
「大丈夫だ。殿はそんな細かい話……」
「今、聞こえたぞ」
背後から静かな声。
全員が固まる。
振り返れば、そこにいたのは――当の殿、小田切安房守。
艶やかな髪を束ね、本日も美しいご尊顔である。
「……呼吸の殿様、寝て治める国、あくびで外交。
……なかなか良い響きではないか」
家臣たちがほっと胸をなでおろす。
だが、殿はそのまま遠くを見つめて続けた。
「良い……が、少し……胸が痛いな……。
褒められておるのか、嘲られておるのか……。
心が……ざわざわとする……」
「殿、今こそ深呼吸を――」
「いや、もう呼吸したくない!」
殿は頭を抱え、ふらりとよろめく。
少し離れた所にいた宗玄が慌てて駆け寄る。
「殿! 落ち着かれませい!」
「宗玄……悪口とは……なぜこうも刺さるのだ……?
刀で斬られるより痛い、悲しい……!」
「殿、それは……心の傷にございます」
「……やはり呼吸では防げぬか……!」
「ひとまず深呼吸の乱用はお控えくだされ!」
殿が半泣きでうなだれていると、廊下の端から足音がした。
宗玄が息をのむ。
「――来たか。かような時は“あやつ”しかおらぬ」
襖が開く。黒羽織が風を切るようにすべり込み、静かな声が落ちた。
「呼吸の刻、再び参上つかまつりました」
長い青黒色の髪は一つにまとめられ、ゆったりと揺れる。遠くの海のような深い青の瞳が主を捉えた。
玄斎である。
前回の騒動から間もなく、再び呼び出された殿の“心の護衛”。
家臣たちは思わず小声で囁き合う。
「おい、また呼ばれみたいだな」「まさか今度は悪口退治か?」「どうやって退治するんだ、言葉を」
玄斎はそれらの声を聞き流し、殿の前に静かに膝をついた。
「殿、また心が痛まれましたな。
――それは“言葉の刃”に当たられたにございます」
「言葉の……刃……?」
「はい。刀の刃は磨けば光りますが、言葉の刃は鈍くとも人を斬る」
殿は唇を噛みしめた。
「……恐ろしい。
ならば人は皆、口の中に刀を隠しておるということか」
「左様にございます。しかも抜刀が早い」
宗玄が小声で漏らす。
「確かに、あやつら抜刀が早かった……」
宗玄がキッと、先ほど口走った家臣を睨む。
該当者たちはビクリと背筋を正した。
玄斎はふっと微笑み、扇を軽く開いた。
「さて殿。呼吸の次は、“言葉”を整える修行でございます。
心を守る道、第二の巻――“悪口の段”。」
殿の目が丸くなる。輝く目は、まるで少年のそれである。
「……!秘伝の巻物でもあるのか?それで修行が始まるのか?」
「はい。巻いて、ほどいて、また巻く――心の呼吸にございます」
「うむ……もはや何を申しておるのか分からぬ……」
宗玄がため息をついた。
*
殿の寝所。
さきほどまでうなだれていた殿は、いま布団の上で正座をしていた。
なぜ寝所に移動したかというと、ここが殿の心の安寧の地だからである。
そして殿は、ヒイヒイッフーッ、ヒイヒイッフーッと一生懸命呼吸をしている。
宗玄が眉をひそめる。
「…殿。いつから、かような呼吸を?それは先日玄斎から聞いた呼吸とは異なるかと」
「フーッ、これは昨日書物庫で、ヒィッ、生まれ変わりたい緊急時に、ヒィッ、いいとッッッッ医術書にッゲホッ」
「生まれ変わりたい時ではないですからね!?それ、生まれそうな緊急時、の間違いですぞ殿ッ」
ゲホゲホとえずく殿の背中を宗玄がさする。
玄斎は静かに扇を広げた。
「殿、落ち着かれましたか?どうやら近頃の殿は呼吸法に傾倒しすぎて…過度な呼吸法利用つまり“過呼吸”に陥ってますね。」
「な…!そういえば、医術書で“過呼吸”という病も見たぞ!拙者はそのような病に陥っていたのか…。
宗玄、こうしてはいられぬ。今すぐ医師をここに!」
「必要なら脳神経の医者を呼びまするぞ!」
「して、玄斎。此度は何の修行だ?」
玄斎は神妙にうなずいた。
「“言葉の修行”にございます。
悪口とは、心に染み入る毒。その毒を断たねば、いずれ呼吸すら乱れまする」
宗玄が目を細めた。
「……怪しい宗派が開宗しそうな勢いだな」
「心教でございます」
「怪しすぎる!…玄斎、戯言でもそれを他言するでないぞ」
日向藩が怪しい宗派に傾倒していると思われかねん…と宗玄は一人ぼやいた。
玄斎はそのまま、扇を畳の上に置いた。
その所作の静けさ、無駄のなさに、なぜか場の空気がぴんと張る。
「殿、言葉の刃に当たられた心の痛み――
あれは外傷ではなく、“無防備の証”にございます」
「無防備……?」
「はい。刀の稽古では鎧を着ますが、心は裸のまま戦場に立っておられる。
悪口の矢はそこを狙うのです」
「……つまり、心にも鎧が要ると?」
「さよう。心の鎧とは“分別”と“距離”。
言葉をすべて真に受けることなかれ。風に乗せて流すのでございます。
他者から出る言葉というものは、基本的に己の意思では操作できませぬ。ゆえに、流す手段を身につけることは、万人に必要な修行でございます」
「風に乗せて……。『呼吸の殿様』『寝て治める国』『あくびで外交』を風に…風に…」
うっすら涙目になる。
玄斎は少し咳払いして話を戻した。
「…殿。さらに殿は、この城の主人。
悪口の毒が集団を蝕むには段階がございます。上に立つものとして、“悪口五段”も知っておくべきでしょう」
「悪口五段……? またややこしいことを」宗玄が呆れ顔をする。
「1. 聞いて傷つく。
2. 言ってスッとする。
3. 広がって荒れる。
4. 残って腐る。
5. 消えても臭う――」
玄斎は手を一段ずつ上げながら、朗々と唱える。
まるで新手の経文のようだ。
「……これが“悪口五段”にございます」
「……玄斎、おぬし、それをどこで習った?」
「心の声にございます」
「自作か!」
宗玄が額を押さえる。一方で、殿はなぜか感動していた。
「なんと深い言葉だ……消えても臭う……。
その通りなのだ。確かにあの陰口、いつまでも香るのだ……」
宗玄が目を細める。「殿、それはただのトラウマでございます」
玄斎は扇を閉じ、神妙に言葉を続けた。
「毒を断つには薬が要ります。
悪口の毒を中和する薬――それが誉め言葉でございます」
「誉め言葉か! それなら簡単ではないか!」
殿の目がぱっと明るくなる。
宗玄が危険を察知したように一歩前へ。
「殿、あまり早く頷かれませぬように。
その光、“呼吸布令”のときと同じ目ですぞ!」
「いや、よいではないか。誉めれば皆が笑顔になり、毒も消える。
まさに平和の妙薬ではないか!」
「いや、それは――」宗玄が止めかけるが、殿はもう止まらない。
「誉めよ! 褒めて褒めて、悪口を絶て!
今日より城中に“誉め言葉奨励令”を出す!」
玄斎が思案顔で扇を閉じる。
「殿。薬も飲みすぎれば毒にございますが」
「聞こえぬ! これは命令だ!」
宗玄が額を押さえ、低く唸る。
「……また始まった。心の医術、過剰投与だ……」
玄斎がそっとつぶやいた。
「副作用:過度のポジティブ症状。重症化すれば、現実逃避の兆候あり……」
「玄斎お主…存外に殿のことをよくわかっておる。見直したぞ」
二人のつぶやきをよそに、殿は寝所を飛び出す。
そして家臣たちが集まる稽古場にて、胸を張った。
「よいか皆の者! これより悪口は封印!
互いを誉め合い、言葉で藩を照らすのだ!」
あっはっはっはっと高らかに笑うその声は、明るく、堂々と、しかしどこか危うく響いた。
――日向藩、呼吸の次は家臣を含めて言葉を整える段階へ。
そしてこの日を境に、城の空気は急速に甘く、重く、そして……息苦しくなっていくのであった。




