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殿のメンタルが弱すぎる件 ―天下一メンタル侍・玄斎、今日も心を斬る―  作者: 大木 雫


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3/8

殿、悪口禁止令を出すの巻 ―心理的安全性を高めよ!―(上)

 朝の評定の間。

 先日までの「呼吸で戦を鎮めた」騒ぎも落ち着き、

 日向藩には久々に穏やかな空気が流れていた――ように見えた。


「殿、城下の米蔵の件、いかが取り計らいましょう」

「……うむ、焦ることはない。まずは深呼吸して考えよう」


 殿のその一言で、家臣たちの顔が引きつる。

 宗玄が咳払いをしながら小声で呟く。


「……殿、呼吸はもうよろしいのでは」

「呼吸なくして判断なし。これは日向流である!」


 堂々と言い切られ、宗玄は天を仰ぐしかなかった。

 そしてその日の午後――。


 廊下の片隅。

 茶の支度をしていた下級武士が、ひそひそと話し始める。


「なぁ、聞いたか。“呼吸の殿様”って、今では城下の子どもらの遊び歌になってるらしいぞ」

「『すってはいて、すってはいて、戦やめろ~♪』ってやつか!あれ、意外と耳に残るんだよなぁ」

「呼吸で天下泰平とは、まこと平和すぎて退屈な世だ。ふわぁ〜あ」

 一人があくびをする。

「そのうち、“寝て治める国”を目指すんじゃないか?」

「いやいや、“あくびで外交”の方が先だろう」


 くすくす笑いが広がる。

 通りがかった書記が、それを聞いて眉をひそめた。


「…おい、殿のお耳に入れば大事だぞ」

「大丈夫だ。殿はそんな細かい話……」


「今、聞こえたぞ」


 背後から静かな声。

 全員が固まる。

 振り返れば、そこにいたのは――当の殿、小田切安房守おだぎり あわのかみ

 艶やかな髪を束ね、本日も美しいご尊顔である。


「……呼吸の殿様、寝て治める国、あくびで外交。

 ……なかなか良い響きではないか」


 家臣たちがほっと胸をなでおろす。

 だが、殿はそのまま遠くを見つめて続けた。


「良い……が、少し……胸が痛いな……。

 褒められておるのか、嘲られておるのか……。

 心が……ざわざわとする……」


「殿、今こそ深呼吸を――」


「いや、もう呼吸したくない!」


 殿は頭を抱え、ふらりとよろめく。

 少し離れた所にいた宗玄が慌てて駆け寄る。


「殿! 落ち着かれませい!」

「宗玄……悪口とは……なぜこうも刺さるのだ……?

 刀で斬られるより痛い、悲しい……!」


「殿、それは……心の傷にございます」


「……やはり呼吸では防げぬか……!」


「ひとまず深呼吸の乱用はお控えくだされ!」


 殿が半泣きでうなだれていると、廊下の端から足音がした。

 宗玄が息をのむ。


「――来たか。かような時は“あやつ”しかおらぬ」


 襖が開く。黒羽織が風を切るようにすべり込み、静かな声が落ちた。


「呼吸の刻、再び参上つかまつりました」


 長い青黒色の髪は一つにまとめられ、ゆったりと揺れる。遠くの海のような深い青の瞳が主を捉えた。

 玄斎である。

 前回の騒動から間もなく、再び呼び出された殿の“心の護衛”。

 家臣たちは思わず小声で囁き合う。


「おい、また呼ばれみたいだな」「まさか今度は悪口退治か?」「どうやって退治するんだ、言葉を」


 玄斎はそれらの声を聞き流し、殿の前に静かに膝をついた。


「殿、また心が痛まれましたな。

 ――それは“言葉の刃”に当たられたにございます」


「言葉の……刃……?」


「はい。刀の刃は磨けば光りますが、言葉の刃は鈍くとも人を斬る」


 殿は唇を噛みしめた。


「……恐ろしい。

 ならば人は皆、口の中に刀を隠しておるということか」


「左様にございます。しかも抜刀が早い」


 宗玄が小声で漏らす。


「確かに、あやつら抜刀が早かった……」

 宗玄がキッと、先ほど口走った家臣を睨む。

 該当者たちはビクリと背筋を正した。


 玄斎はふっと微笑み、扇を軽く開いた。


「さて殿。呼吸の次は、“言葉”を整える修行でございます。

 心を守る道、第二の巻――“悪口の段”。」


 殿の目が丸くなる。輝く目は、まるで少年のそれである。


「……!秘伝の巻物でもあるのか?それで修行が始まるのか?」


「はい。巻いて、ほどいて、また巻く――心の呼吸にございます」


「うむ……もはや何を申しておるのか分からぬ……」


 宗玄がため息をついた。




 殿の寝所。

 さきほどまでうなだれていた殿は、いま布団の上で正座をしていた。

 なぜ寝所に移動したかというと、ここが殿の心の安寧の地だからである。


 そして殿は、ヒイヒイッフーッ、ヒイヒイッフーッと一生懸命呼吸をしている。


 宗玄が眉をひそめる。

 「…殿。いつから、かような呼吸を?それは先日玄斎から聞いた呼吸とは異なるかと」

 「フーッ、これは昨日書物庫で、ヒィッ、生まれ変わりたい緊急時に、ヒィッ、いいとッッッッ医術書にッゲホッ」

 「生まれ変わりたい時ではないですからね!?それ、生まれそうな緊急時、の間違いですぞ殿ッ」


 ゲホゲホとえずく殿の背中を宗玄がさする。

 玄斎は静かに扇を広げた。


「殿、落ち着かれましたか?どうやら近頃の殿は呼吸法に傾倒しすぎて…過度な呼吸法利用つまり“過呼吸”に陥ってますね。」


「な…!そういえば、医術書で“過呼吸”という病も見たぞ!拙者はそのような病に陥っていたのか…。

 宗玄、こうしてはいられぬ。今すぐ医師をここに!」


 「必要なら脳神経の医者を呼びまするぞ!」


「して、玄斎。此度は何の修行だ?」


 玄斎は神妙にうなずいた。


「“言葉の修行”にございます。

 悪口とは、心に染み入る毒。その毒を断たねば、いずれ呼吸すら乱れまする」


 宗玄が目を細めた。

「……怪しい宗派が開宗しそうな勢いだな」

「心教でございます」

「怪しすぎる!…玄斎、戯言でもそれを他言するでないぞ」

 日向藩が怪しい宗派に傾倒していると思われかねん…と宗玄は一人ぼやいた。


 玄斎はそのまま、扇を畳の上に置いた。

 その所作の静けさ、無駄のなさに、なぜか場の空気がぴんと張る。


「殿、言葉の刃に当たられた心の痛み――

 あれは外傷ではなく、“無防備の証”にございます」


「無防備……?」


「はい。刀の稽古では鎧を着ますが、心は裸のまま戦場に立っておられる。

 悪口の矢はそこを狙うのです」


「……つまり、心にも鎧が要ると?」


「さよう。心の鎧とは“分別”と“距離”。

 言葉をすべて真に受けることなかれ。風に乗せて流すのでございます。

 他者から出る言葉というものは、基本的に己の意思では操作できませぬ。ゆえに、流す手段を身につけることは、万人に必要な修行でございます」


「風に乗せて……。『呼吸の殿様』『寝て治める国』『あくびで外交』を風に…風に…」

 うっすら涙目になる。


 玄斎は少し咳払いして話を戻した。


「…殿。さらに殿は、この城の主人。

 悪口の毒が集団を蝕むには段階がございます。上に立つものとして、“悪口五段”も知っておくべきでしょう」


「悪口五段……? またややこしいことを」宗玄が呆れ顔をする。


「1. 聞いて傷つく。

 2. 言ってスッとする。

 3. 広がって荒れる。

 4. 残って腐る。

 5. 消えても臭う――」


 玄斎は手を一段ずつ上げながら、朗々と唱える。

 まるで新手の経文のようだ。


「……これが“悪口五段”にございます」

「……玄斎、おぬし、それをどこで習った?」

「心の声にございます」

「自作か!」

 宗玄が額を押さえる。一方で、殿はなぜか感動していた。


「なんと深い言葉だ……消えても臭う……。

 その通りなのだ。確かにあの陰口、いつまでも香るのだ……」


 宗玄が目を細める。「殿、それはただのトラウマでございます」


 玄斎は扇を閉じ、神妙に言葉を続けた。


「毒を断つには薬が要ります。

 悪口の毒を中和する薬――それが誉め言葉でございます」


「誉め言葉か! それなら簡単ではないか!」


 殿の目がぱっと明るくなる。

 宗玄が危険を察知したように一歩前へ。

「殿、あまり早く頷かれませぬように。

 その光、“呼吸布令”のときと同じ目ですぞ!」


「いや、よいではないか。誉めれば皆が笑顔になり、毒も消える。

 まさに平和の妙薬ではないか!」


「いや、それは――」宗玄が止めかけるが、殿はもう止まらない。


「誉めよ! 褒めて褒めて、悪口を絶て!

 今日より城中に“誉め言葉奨励令”を出す!」


 玄斎が思案顔で扇を閉じる。

「殿。薬も飲みすぎれば毒にございますが」


「聞こえぬ! これは命令だ!」


 宗玄が額を押さえ、低く唸る。

「……また始まった。心の医術、過剰投与だ……」


 玄斎がそっとつぶやいた。

「副作用:過度のポジティブ症状。重症化すれば、現実逃避の兆候あり……」

「玄斎お主…存外に殿のことをよくわかっておる。見直したぞ」

 二人のつぶやきをよそに、殿は寝所を飛び出す。


 そして家臣たちが集まる稽古場にて、胸を張った。


「よいか皆の者! これより悪口は封印!

 互いを誉め合い、言葉で藩を照らすのだ!」


 あっはっはっはっと高らかに笑うその声は、明るく、堂々と、しかしどこか危うく響いた。


 ――日向藩、呼吸の次は家臣を含めて言葉を整える段階へ。

 そしてこの日を境に、城の空気は急速に甘く、重く、そして……息苦しくなっていくのであった。

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