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殿のメンタルが弱すぎる件 ―天下一メンタル侍・玄斎、今日も心を斬る―  作者: 大木 雫


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2/8

殿、戦報で倒れるの巻 ―はじまりは呼吸法から―(下)

 昼下がりの評定の間。

 殿は寝所から再び、家臣が集うこの間に佇んでいた。


 すると障子の外から、足早に駆ける音が響く。

 すぐに襖が勢いよく開かれた。


「申し上げますッ! 鬼島藩、ふたたび国境に集結との報せ!」


 場の空気が一瞬で凍る。

 書状を持つ侍の手が止まり、墨が滴った。

 宗玄が慌てて立ち上がる。


「数は!」


「およそ五百! 陣を張り、今にも進軍の構え!」


「な、なんと……!」


 評定の間がざわついた。誰もが口々に叫び、書状が散る。

 その喧噪の中で、殿――小田切安房守の顔色がまたしても真っ白になる。


「五百……? 先ほどの三百より増えておるではないか……ま、待て……息が……吸えぬ…… っひぃぅ」


「殿!」

 宗玄が駆け寄る。しかし、その横を静かにスッと通り抜ける影があった。

 玄斎である。


 彼は一歩、殿の前に進み出て、落ち着いた声で言った。


「殿、今こそ――呼吸の刻にございます」


「玄斎ッ、かような時に呼吸は……!」宗玄が口を挟むが、玄斎が片手を上げてそれを止める。


「戦は外で起きているように見えて、まず内に起こるもの。

 心が乱れれば、刀も鈍る。敵が動いたなら、まずは己の呼吸を整えましょう」


 真剣に見つめる玄斎。それに気押されて殿は深呼吸を始める。

「……吸って……吐いて……」


「そう。吸って、吐いて。殿の胸の内に風を通すのです」


 玄斎の声に導かれるように、殿は震える肩を抑え、深く息を吸った。

 すう……。

 はあ……。

 呼吸の音が静まり返った広間に響く。


 家臣たちが目を丸くして見守り、何人かが釣られて深呼吸をする中、宗玄が小声で呟いた。


「……これは戦の場面か、それとも養生の場面か……?」


 玄斎は微笑んだまま、答える。


「どちらも同じでございます。戦とは、己や己の大切なものを守るために始めるもの。養生も然り。」


 殿はもう一度息を整え、瞼を開いた。

 その眼には、かすかながらも凛とした光が宿っている。そして瞳同様の凜とした声が放たれる。


「……よい。皆の者、慌てるでない。

 戦はまだ始まっておらぬ。まずは、心を鎮めよ」


 宗玄が思わず笑う。


「殿、まさか呼吸で五百を退けるおつもりか」


「笑うでない宗玄。息は力の根なり。

 吸えば勇気が入り、吐けば恐れが出るのだ」


「……理屈はさておき、殿の顔色は戻られましたな」


 その瞬間だった。

 再び足軽が駆け込んでくる。息を切らしながら叫んだ。


「つ、追加の報告! 鬼島の軍、陣を畳み撤退しております!」


「撤退!?なぜだ!」宗玄が目を見開く。


「はっ。敵方に潜り込ませていた密偵の話によれば――」

 足軽はごくりと唾を飲み、声を潜めた。


「『日向藩の者どもは皆、心を一つに整え、怪しき呼吸術で戦う恐ろしい集団』との噂が……

 『ひとたび息を吸えば、二拍目には敵を一掃できる』と。

 かような怪しい術を用いるのであれば、一度撤退して慎重になるべきと命が下ったとのことで」


「……呼吸で戦う藩?」


 宗玄が眉をひそめた。

 殿はぽかんと口を開け、玄斎を見た。


「玄斎、これは……まことか?」


「人は見えぬものを最も恐れまする。

 日向藩の“見えぬ武”――それが呼吸にございましょう」


 宗玄がハッとして玄斎を振り返る。

「……いや、まさかとは思うが、

 玄斎おぬし、どこかでわざと噂を流したのではあるまいな?」


 玄斎は無表情のまま、パラリと扇を開いた。


「武略とは、剣より先に心を制するもの。

 少しばかり“風”を送っただけにございます」


「やはりか……!」


 宗玄が額を押さえる。

 家臣たちは「おおっ」と感嘆の声を上げる。

 

 殿はその場に立ち上がり、静かに頷いた。


「……呼吸で戦を止めるとは、滑稽な話だと思っていた。

 だが、戦が避けられるのなら、笑われても構わぬ!

 無用に血が流れなければよい。笑われることなどどうでもよかったのだな、拙者は」


「見事にございます、殿」


 玄斎が深く頭を下げた。

 その瞳の奥に、ほんの少し誇らしげな光が揺れた。


「殿、これぞ日向流“心戦法”。剣を抜かずして天下泰平、でございますな」


「……勝手に流派を作るでない」

 宗玄がぼやき、部屋に小さな笑いが生まれた。

 戦の報せで始まった緊迫した一日は、いつの間にか、穏やかな風の音に包まれていた。


 *


 翌朝の城の庭。

 まだ霧がうっすらと漂い、松の葉先で露が光っていた。

 殿――小田切安房守は、庭の中央にひとり立ち、静かに目を閉じていた。


 両手を下ろし、背筋をまっすぐに。

 吸って、吐いて。

 また吸って――吐く。


 その呼吸は、昨日の混乱が嘘のように穏やかで、

 まるで庭全体が呼吸に合わせて膨らみ、沈むようであった。


 近くで見守る宗玄が、そっと声をかける。


「殿、もう……恐怖はありませんか?」


 殿は目を開け、にこりと微笑んだ。


「恐怖はある。だが、逃げねばよいと学んだ。

 怖さは消えぬが、拙者、恐れながらも立てるようになった」


 宗玄が安堵の息をつく。その背後から、玄斎が静かに歩み寄った。


「殿、心の刀、見事に抜かれましたな」


 殿は振り返り、少し照れくさそうに笑う。


「……怖くても、抜けるのだな」


「はい。真の勇とは、恐れを抱えながら立つことにございます」


 風が松を揺らし、葉擦れの音が小さく鳴る。

 玄斎の羽織の裾が風に舞った。


「……玄斎。呼吸とは、不思議なものだな。

 昨日まで敵だった心が、今は味方のように思える」


「心を敵にすれば戦となり、友とすれば道となります。

 殿はすでに、道を歩み始めておられまする」


「うむ。ならば今日も歩もう。まずは、ゆっくりとな」


 宗玄が苦笑を浮かべた。


「殿、そのお姿で歩かれる前に、まずはお着替えを……」


「おお、そうであった」


 三人の笑い声が、朝靄の中にゆるやかに溶けていった。


 *


 場面は変わって、城下の茶屋。

 かえでが茶をすすりながら、隣の客の噂話に耳を傾けている。


「聞いたか? 戦を呼吸で終わらせた殿の話」

「日向藩の侍連中は皆、息が合ってるらしいぞ」


 楓は吹き出しかけた茶を飲み込み、ぽつりと呟く。


「戦を呼吸で終わらせた殿……なんかおかしな藩だね」


 店の主人が笑って頷いた。


「ま、平和ならそれでいいじゃないか。呼吸で済むなら安いもんだ」


 茶屋の外では、穏やかな風が通り抜け、のれんをゆらした。


     *


 ――かくして日向藩、今日も平和である。

 戦、呼吸により鎮まる。

 そして、殿の心は折れず。

 次に訪れる嵐もまた、まず呼吸から始まるのであった。

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