殿、戦報で倒れるの巻 ―はじまりは呼吸法から―(上)
朝の評定の間。
畳の上には家臣たちがずらりと並び、正面の上座には日向藩の齢20の若殿――小田切安房守が座していた。
短めの艶やかな黒髪は高い位置で結ばれ、動きに合わせて小さく揺れる。きめの整った肌、長いまつ毛に守られている黒々とした瞳。服装を変えれば女子と言われても違和感がないだろう。
室内には硯の匂いと紙の擦れる音で満ちていた。障子の向こうを渡る風が、庭の竹林をかすかに鳴らす。静謐――のはずだった。
その静けさを破ったのは、ひとりの侍の報告だった。
「申し上げます! 隣国・鬼島藩が、国境付近で兵を動かしております!」
その一言に、室内の空気がピンと張り詰める。
年嵩の家老・宗玄が眉をひそめ、口を開いた。開け放たれた戸から差し込む光で、混じった白髪がキラキラと光る。
「兵の数は?」
「およそ三百。いずれも軽装にて、威嚇の意図かと……」
「ふむ。三百程度で戦を仕掛けることはあるまい。まずは――」
宗玄の言葉が終わる前に、上座の殿がわずかに震えた。
顔色は、塗りたての障子よりも白い。
「……ひ、兵を……? う、動かした? な、何のために?」
「殿、恐らくは威嚇でございましょう。戦支度までは――」
「戦……!?」
殿の声が裏返った。
そのまま正座のまま後ろにのけぞり、障子の方を見上げたまま、口をぱくぱくと開閉している。
「い、戦……ということは、刀……血……どなたか、灯りを、いや、灯りは眩しい……虫の羽音が……いや、これは耳鳴り……」
「殿、落ち着かれませい!」
宗玄が前へ出る。
しかし殿は首をぶんぶんと振り、「頭が……真っ白……!」と叫んだかと思うと、ガタッと立ち上がり――
そのまま後ろにふらりと倒れた。
畳に響く、控えめな「どすん」。
「殿ッ! まだ開戦しておりませぬぞ!」
「誰か! 殿を!」
「薬湯を!」「水を!」「いや、扇を! 風を送れ!」
「落ち着け! 家臣まで倒れてどうする!」
室内は一瞬で混乱に包まれた。書状が飛び、茶碗が倒れ、誰かが「風が強すぎる!」と叫ぶ。
宗玄はこめかみを押さえ、低くうめく。
「黙れ。――玄斎を呼べ」
宗玄の低い一声が、ざわめきを断ち切った。
*
殿の寝所は薄暗く、障子越しには、昼になりかけの頭上高い陽が淡く差し込んでいる。
畳の上には、未だ気を失ったままの小田切安房守。
その額には濡れ布が置かれ、寝息はかすかに早い。
夢の中でも眉間に皺を寄せ、時折うなされている。
「……た、助けよ……矢が……飛んでくる……血が……!」
その声に呼応するように、襖の外で足音が一つ。
すうっと障子が開き、黒羽織の男が静かに現れた。
玄斎――日向藩随一の剣客にして、殿の“心の護衛”を務める侍。
剣ではなく心を守ることを信条とする、奇妙な男である。
青黒色の長い髪を一つに束ね、片耳には小さな金の耳輪をつけている。瞳の色は、水平線を思わせる深い青。
「殿、夢の中で戦をしてはなりませぬ。心が傷つき申す」
玄斎は寝具のそばに膝をつき、柔らかく声をかけた。
殿の睫毛がぴくりと動き、目がうっすらと開く。
「……玄斎、来てくれたか……。拙者はもう駄目だ……戦と聞くだけで体が震える……」
「それは“心の筋肉痛”にございます」
「……き、筋肉痛……?」
「はい。心も鍛えれば強くなりまするが、急に負荷をかければ悲鳴を上げる。
拙者など、初めて恋文を受けた時にーーー否、それが他者へ送られるはずのものだったことが判明した時は三日寝込んだものです」
「おぬし…哀れだな」宗玄が神妙な顔つきをする。
「弱きを知る者こそ、心を護る道を知るのです。
――今は、深呼吸でございまする」
「……しん、こきゅう?」
「はい。吸って、吐いて。腹で呼吸を。戦場もまず呼吸から整えるのです」
玄斎はゆっくりと姿勢を正し、見本を見せるように息を吸い込む。
すう……。はあ……。
その呼吸音に、なぜか床の間の花瓶まで静まり返った気がした。
殿は目を瞬かせながら見ている。
「……そんなもので戦が避けられるか?」
「避けられます。呼吸乱れし者、まず己と戦うのです。
戦の前に、まず心を鎮めよ。それが真の“内敵一刀流”にございます」
殿はしばし黙り、深刻な面持ちで頷いた。
「なるほど……。ええとなんだったか、腹を決め、息を整え、刀を……」
――カチリ。
殿の手が、枕元の短刀に伸びた。
宗玄がそれを見て慌てて叫ぶ。
「殿ッ、それは呼吸ではなく切腹でございますぞ!」
「ち、違うのか!?」
「違いまするッ!!」
玄斎は静かに微笑んだまま、手をかざして制した。
「殿。呼吸とは、死を迎えるものではなく、生を迎えるもの。
腹を切るのではなく、腹で息をするのです」
「……ややこしい……」
「ややこしさの中に悟りがございます」
「悟らずともよい! いいから分かりやすく申せ!」
玄斎は「承知」と言って軽く笑い、今度は殿の背に手を当てがった。
呼吸を合わせるように、静かに言葉を続ける。
「殿、恐れは悪ではございません。
恐れを抑えようとすれば、己が心の内が戦になります。
まずは、吸って――吐いて――己を鎮めるのです」
殿はおそるおそる、見よう見まねで息を吸った。
すう……。
吐く。
はあ……。
「良きかな。肩は上げませぬよう。腹で吸い、腹で吐く。心の刃は、まずは息で研がれる」
殿の肩の上下が徐々に小さくなる。
隣で見守る宗玄も、いつのまにか呼吸を合わせていた――が、途中で気づいてむせる。
「げほっ……わ、わしまで吸うてどうする」
殿が「ふはっ」とかすかに笑った。
「宗玄、吸うて吐くのは生きる者の務めじゃ」
「殿、冗談を言う余裕が戻られましたな」
玄斎が小さく頷く。
「……どうだ、玄斎。拙者、少し落ち着いた気がする」
「それが心の初稽古にございます」
宗玄は呆れ顔で腕を組みながら、ぽつりと呟く。
「……呼吸で戦を鎮める藩など聞いたことがない……」
「ならば、これが日向藩流。戦なき戦の始まりにございます」
玄斎は穏やかに微笑んだ。
殿の肩の震えは、いつの間にか静まっていた。
*
静まり返った寝所に、鳥の声がひとつ。
さきほどまで取り乱していた殿の呼吸は穏やかになり、
その姿勢にもようやく落ち着きが戻っていた。
「……玄斎」
「御前に」
「呼吸をすれば心が静まるのは分かった。だが、恐怖そのものは、まだ消えぬのだ」
「当然にございます。恐れは斬るものではなく、まず名を問い、その形を知るべき存在。
――では殿、拙者に尋ねさせてくだされ。
いつから“戦”という言葉が殿の心を締めつけるようになりましたか」
殿は少し目を伏せた。
畳の上を滑る光が、顔の陰影をやわらかく描く。
「……あれは、まだ七つの頃だった。
夜更けに、父上の家臣たちが語っておられた。『首を取った』『血の匂いが染みた』と……。
皆、誇らしげに笑っていた。だが、拙者はなぜか怖くてたまらなかった。
翌朝には熱を出し、三日眠り続けたと聞く」
宗玄がうなり、腕を組む。
「つまり殿は、生まれながらに平和主義であらせられる」
「……褒めておるのか、それは」
殿がムッとした顔で玄斎を睨む。
「いえ、ただの診断でございます。
では殿。具体的には、その場面を見てどんな風に怖いと感じたのですか?」
「そうだな…同じ人間を傷つけ、それを笑うなど…。幼き拙者にとっては、その笑う顔が化け物のようだったのだ。
人には皆、心がある。拙者にも、玄斎、そなたにも。仮にお主が敵方だったとしても、拙者にとって玄斎は玄斎だ。戦だからといっても、どうして切れようか。それにーーーー」
殿はポツリと呟く。
「拙者はその頃からすでに、自信がなかったのだ。父上のようになれる気がしなかった。それが怖かったのだ」
宗玄は、感慨深そうな顔をして殿を見つめている。
玄斎が微笑しながらうなずいた。
「なるほど、殿らしい。そしてその幼き日の恐怖が、今も殿の心に宿っておるのですね。
では――今こそ、向き合う修行の時でございます」
「……修行?」
「はい。“心の剣稽古”にございます。
木刀で相手を打つ代わりに、自らの中にある“声”を斬る稽古です」
「声を……斬る?」
「さよう。恐怖は無理に切る必要はございませんが、あまりにそのままにしておくと、いつか心の主を奪われます。ならば名乗らせ、恐怖という存在を理解した上で、拙者とともに斬りましょう」
宗玄が思わず口をはさむ。
「……また妙なことを」
「妙は心を整える道にございます」
「妙を極めすぎて迷いそうだ」
「迷うもまた稽古にございます」
「……話が進まん」
玄斎は聞こえぬふりをして、すっと正座の姿勢を正した。
殿もその向かいに座り、少し緊張の面持ち。
「では殿。心の中の声を言葉にしてくだされ。
いかなる言葉が、胸の奥に響いておりますか」
殿はしばし黙し、拳を握った。
「……怖い。戦ったら、負けるかもしれぬ。負けたら、恥ずかしい。
皆が笑う。民が嘆く。父上に顔向けできぬ……」
玄斎はうなずき、低く構えた。
右手の掌が、見えぬ刃を握るかのように静止する。
「よろしい。その声――斬り捨て御免!」
気合とともに、手刀が空を裂いた。
風が小さく動き、殿の髪が揺れる。
「……!」
「どうされました、殿」
「……あ、少しだけ……軽くなった気がする」
「それが“内なる敵”に勝った証にございます」
宗玄が半眼で玄斎を見やる。
「……いや、今のはただの手刀では?」
「いえ、魂を込めております。形なき剣こそ、心の稽古にふさわしい」
「……殿、信じておられるのですか?」
「うむ。確かに軽くなったのだ……。不思議だな、痛みも斬らずに心がほぐれるとは」
玄斎は口角をわずかに上げた。
「心とは、わずかな意識の変化で変わっていくものでございます。恐怖の形を明確に理解し、己が自身それを切り捨てたと“思う”。それだけでも、実際にそうなったかのように感じ、そこから小さく小さく変わっていくのです」
殿が「そうか」と苦笑した。
その笑みに、さきほどまでの怯えの影は薄くなっている。
玄斎は静かに立ち上がり、障子越しの光を見やりながら言った。
「ただし殿。恐れは、無闇に追い払うものではございません。
過度に恐れてばかりでは疲弊してしまいますが、恐れは、殿自身の心や個性でもあります。
ならば、礼を言い、共に歩むのです」
「……恐れと、共に?」
「はい。怖さを抱えながら進む――それこそ、真の勇でございましょう」
殿は深くうなずき、静かに息を吸い込んだ。
「……良きかな」
玄斎が微笑む。宗玄はため息をつきつつ、どこか安心したように呟いた。
「まったく……戦より面倒な稽古だ。だが、殿の顔色が戻ったならよしとしよう」
そのとき、庭の方で小鳥が鳴いた。
新しい風が障子の隙間から入り、布団の端を揺らす。
殿はその風を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「……恐れを、斬らずに済むなら、それがいちばんだな」
玄斎が微かに笑って答える。
「左様にございます。殿、此度の戦はまだ遠く、しかし心の平和はすでに此処に。
…外では臣が待っておりますぞ」
玄斎が殿に手を差し出し、殿はそれに応じた。




