近藤杏奈(1)
「杏奈ちゃーん! 三番テーブルのヘルプに入ってー」
黒服が待機部屋にいた私を呼んだ。
私はポータブルゲーム機を机に置いて部屋から出ていく。
「こんにちは〜! 杏奈でーす!」
地声よりツートーンは高い声で挨拶しながらヘルプに入る。
このキャバクラは新宿にある、そこそこ人気店だ。
「杏奈ちゃんか〜可愛いね」
「ありがとうございます♡でも皆に言ってるんでしょ?」
客が喜ぶ話し方をしないといけない。
「そんなことないよ! 今度来た時は杏奈ちゃん指名するからさ〜」
私はそれは止めてくれと思った。このテーブルの嬢は美玲さんだ。彼女の太客だったら恨まれる場合もある。
「ありがとうございます! じゃあ楽しみにしてますね♡ あ、何か飲みませんか?」
飲んで酔っ払って私のことなど忘れればいい。私は誰とも争う気なんてないし、お金さえ稼げればオーケーなのだ。
客に酒を飲ませてると、入り口の方がざわついているのに気付いた。
客と揉めてるのかと思ったが、そうではなかった。
入り口から出てきた人影は背が高く、入り口を潜って入ってきた。
男の人だった。引き締まった体はスーツの上からでも分かった。
肌は病気のような血色の悪さで、目は鋭く冷たい印象だった。
髪は黒色でオールバックにしているが、幾筋か髪の毛が顔にかかっている。
その男は店の中を見回し、誰かを探しているようだった。
明らかにその筋の人間だと分かる男は店内をうろつき始めた。嬢も客も視線を合わせないように俯いている。
私の近くに来た時、男の拳が赤黒く汚れているのに気付いて、私はなんとはなしに話しかけてしまった。
「あの、手が汚れてらっしゃるから、良ければお使いください」
そう言って私はおしぼりを男へ差し出した。
男は私を凝視したあと、黙っておしぼりを掴み取ると手の汚れをキレイに拭いた。そして汚れたおしぼりを私に放り投げつけた。
「お前、この店は長いのか」
男の声は暗いトーンで聞いてると気が滅入りそうな声だった。
「そこそこです」
「そこそこか……」
男はそれ以上何も言わずに入り口へと引き返す。そして黒服に何かを言うと黒服は萎縮しながら何度も頭を下げていた。
男が去ったあと、店にまた活気がポツポツと戻り始める。
先ほどの客から「まったくヒヤヒヤしたよ! 杏奈ちゃん度胸あるねぇ」と言われた。
度胸もなにも、あの時の私は何も考えてはいなかった。男の手が汚れているのが気になったからおしぼりを渡しただけだ。
「杏奈ちゃん! ちょっといいかな?」
私は黒服に呼ばれて待機部屋へと呼ばれた。
黒服は開口一番、私を怒鳴りつけた。
「一体なに考えてんの! あの人の機嫌を損ねたら、この店潰されちゃうんだよ? 分かってる!?」
そう言われても初対面のあの男の人のことなんて私は知らなかったのに理不尽だ。
「いいか? この店は瀬川組のケツ持ちなんだよ!? もし何かあったら即取り潰しなんだからね!」
怒り続ける黒服に辟易した私は「すみませんでした」と言って頭を下げた。
黒服は今度あんなことしたは辞めてもらうからね! と息巻いている。
それは困る。生活ができなくなってしまう。
私は理不尽で身勝手な黒服にその後もネチネチ嫌味を言われたが、ぼうっと聞き流してる間に開放された。
「ねぇ、あなたよくあの人に話しかけられたわね」
待機中の同僚が話しかけてくる。
「普通の人だったよ」
「普通のワケないじゃん! あの人、瀬川組の舎弟らしいわよ? 関わるとヤバイわよ」
そうなのか、としか思わなかった。この職さえ続けられるなら、相手がヤクザだろうが金持ちの醜い豚だろうが、別に何でも良かった。
私は握ったままのおしぼりをゴミ箱に投げ捨てた。