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人魚

作者: 葉沢敬一

毎週日曜日午後11時にショートショート1、2編投稿中。

Kindle Unlimitedでショートショート集を出版中(葉沢敬一で検索)

夏の終わりの海辺で、波のささやきのような音に誘われるように、私は彼女と出会った。夜明け前の靄がかかった浜辺で、朝露に濡れた砂の上に座っていた時のことだ。


「あなた、誰?」


振り返ると、月光を纏ったような銀色の長い髪を持つ少女が、波打ち際に腰を下ろしていた。その声は、潮風に揺られる風鈴のように清らかで、どこか懐かしい響きを持っていた。


「僕は…ただの人間だよ。君は?」


彼女は月の光を浴びて淡く微笑んだ。

「私は人魚。信じられる?」


答えに躊躇う必要はなかった。彼女の瞳は深い海のように青く、その中に無数の星が揺らめいているようだった。嘘をつくには、あまりにも透明すぎる瞳だった。


それから私たちは、毎晩この海岸で会うようになった。彼女は深海の神秘的な景色や、古くから伝わる海の民の物語を、目を輝かせながら語ってくれた。私は街での日々の出来事や、人間の世界の些細な驚きを話した。彼女の存在が、私の何気ない日常に魔法をかけたように思える。


ある満月の夜、彼女が静かに呟いた。

「ねえ、私と一緒に海の中で暮らせたらいいのに。」


「それは無理だよ。」私は優しく微笑んで答えた。

「人間には鰓がないから、水の中では生きていけない。」


彼女の瞳に影が差した。

「そうね…でも、もし私が人間になれたら?」

「それなら、きっと一緒に…」


「約束して。」彼女は突然真剣な表情になった。

「次の満月の夜、ここで待っていて。」


約束の夜、海は銀色の光に包まれていた。波間から現れた彼女は、もう人魚ではなかった。華奢な人間の足で、おぼつかない足取りで砂浜を歩いてきた。


「どうして…」

「古い魔法を使ったの。」彼女の笑顔には、どこか儚さが混じっていた。

「これでずっと一緒にいられるでしょう?」


しかし、喜びは長くは続かなかった。日に日に彼女は痩せていき、肌は透き通るように白く、声は波の泡のように消えそうになっていった。


「病院に行こう。」私は必死に提案した。


彼女は静かに首を振った。

「もう遅いの。海の子が陸で生きるには、代償が大きすぎたみたい。」

「だったら、海に戻ればいい!」

「もう戻れないの。」彼女の透明な瞳から、真珠のような涙がこぼれた。

「これが私の選んだ道だから。」


最後の夜、彼女は私の腕の中で、まるで眠るように静かに息を引き取った。その体は波の泡となって、夜明けの海へと溶けていった。


翌朝、波打ち際に一つの銀色の貝殻が残されていた。それを手に取ると、潮風に乗って彼女の最後の言葉が聞こえた気がした。


「愛してるよ。そして、ごめんね。」


今でも私は、あの銀色の貝殻を大切にしている。それは、儚くも美しい愛の物語が、確かにここにあったという証だから。

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