7.ベルギーは道ではない
作業の合間の休憩時間。工房の片隅で、僕は一枚の新聞を広げた。
リエージュで発行されている週刊紙だ。ここシメイに届くまでにちょうど一週間。
つまり、いま手元にあるのは、二週間前のニュースということになる。
紙面はすべてフランス語で書かれている。
この地域――ワロン地方では、それが当たり前だ。
ここはベルギーだが、文化も言葉もほとんどフランスそのもの。
学校でも教会でも、日常の会話でも、オランダ語を耳にすることはまずない。
新聞の一面には、見出しが踊っていた。
――パリ万博、ついに開幕。
開催初日の熱気と、会場の様子、各国の展示館の特徴などが細かく綴られている。
今すぐにでも行ってみたくなるような記事だった。
でも、うちがそこに向かうのは、早くても二ヶ月後になりそうだと聞いている。
フランスの親戚――商人筋の家に挨拶する予定とあわせての旅になるからだ。
万博の朗報に続いて、ページをめくると、途端に空気が変わった。
ーー普仏対立が極限に。
北ドイツ連邦は、アルザス=ロレーヌ地方の返還をフランスに求めているという。
かつての領土をめぐって、普仏両国の関係は再び緊張の色を深めているらしい。
(中立国、か……)
独立以来、ベルギーは一貫して“中立”を掲げてきた。
それはロンドン会議――1839年に列強が取り決めた国際的な約束だった。
新聞の社説欄では、「ドイツが軍事通行権を要求する可能性」を指摘する声もある。
国民の間には不安が広がっているという。
僕の脳裏には、未来の記憶がよみがえる。
(でも、結論から言えば――この戦争では、ベルギーは巻き込まれない)
そう。これは普仏戦争――僕の記憶が正しければ、1870年に起こる戦争の前触れだ。
このときは、ベルギーはあくまで“傍観者”だった。
中立は守られ、戦火がこの国を呑みこむことはなかった。
たとえ国境で睨み合っていようと――
たとえ互いに憎悪の言葉を投げつけていようと――
当時の列強にはまだ、“お上品さ”があったのだろう。
文明国同士の戦争は、名誉と外交の延長だった。
ベルギーの中立も、尊重される“条約”として守られていた。
けれど――未来は、そうではなかった。
第一次世界大戦。
ドイツは、もはや遠慮などしなかった。
ベルギーを“戦場として通過するだけ”と称し、容赦なく侵攻してきた。
――ベルギーは国だ。道ではない。
ドイツ帝国に軍事通行権を求められた当時の王アルベール1世(現在は王太子)がそう述べたことはあまりにも有名だ。
この国が、僕の大好きな国が――
踏みつけられる未来を、僕は知っている。
今は、平穏に見えるかもしれない。
新聞も、家の食卓も、どこか日常の延長にあるかもしれない。
でも、確実にこの国の運命は、大きな分岐点に向かっている。
この街を。
このワロンを。
そして、ベルギーという小さな国を――
(守りたい)
工房の奥で、僕の机の上にはまだ作業途中のシリコン結晶がある。
けれどそれは、ただの鉱石ではない。
僕にとっては“未来”への鍵だ。
ーーーーーーーーーー
午後の工房。
窓の向こうで、春の風が草を揺らしていた。
その静けさを切るように、父さんがメッキ作業を終えた音が響いた。炉の火を落とす金属の音、洗い終えたプレートを台に置く音。
そのタイミングを見計らって、僕は声をかけた。
「父さん、ちょっといい?」
「うん? どうした、また研究か?」
「……あのさ、これ」
僕は作業机から持ってきた布包みを広げた。
中には、何日もかけて錬金術で精製し続けたシリコン結晶がある。
金属光沢のない、淡く鈍い光を宿す灰色の結晶。
「この純度、ここまで上げたんだけど、もっと上げなきゃ駄目なんだ。
このままだとあまりにも時間がかかりすぎる。
効率的なやり方を知らないかな?」
父さんは静かに近づき、結晶を手に取った。
角度を変えて光にかざし、表面の肌理をじっと見る。
「ふむ……お前の手で、ここまで?
……お前に渡した結晶な、10年前、俺が精製したものなんだ。」
父さんは、目を細めたまま数秒沈黙し、それから口を開いた。
「当時は、これ以上ないって思ってた。
錬金術で分離可能な不純物はすべて除去して、透明度、反応率、全て理想値だった。
“完璧だ”と、俺は本気で信じてた」
僕は息を呑んだ。
あの父さんが“完璧”とまで言ったものを、さらに精製して、その上で僕は「まだ足りない」と言ったのだ。
「……でも、ちょっと貸してみろ。今の目と手で、もう一度やってみたい」
父さんはそう言って、結晶を持ったまま奥の作業台へ向かった。
道具を並べ、慎重に術式を展開していく。
光の粒が空気をかすかに揺らし、結晶の奥で魔力が動く。
しばらくの沈黙のあと、父さんは術を止めて息を吐いた。
「……なるほど。確かに、まだ“反応が鈍い”。
ごく微細なレベルで鉄分とアルミニウムが残ってる。当時感知すらできなかったものだ」
「やっぱり……」
「“完璧”なんて、知識の届く範囲でしかないんだな。
こうして自分の手で確かめるとよく分かる」
その声に、僕の胸がじんと熱くなった。
父さんが“間違っていた”ことを認めてくれた――それ以上に、“学び直そう”としてくれていることが嬉しかった。
「……つまり、科学の知識がなかったら、ずっと“完璧”のままだったってことだよね」
「そうだな。錬金術は変化を起こす力だが、化学はその変化を読み解く力かもしれん」
僕は、にこっと笑った。
「化学って、“敵”じゃないんだね。錬金術を殺すもんじゃない。……進化させるものだ」
父さんも、ふっと目を細めて笑った。
「進めるんだよ、錬金術を」
その笑顔は、少しだけ年を取ったけれど、若い頃と変わらない情熱を宿していた。
「そうそう、お前に伝えようと思ってたんだがな。商会から返事が来たぞ」
「え、例のやつ?」
父さんは作業棚からメモを取り出し、読み上げる。
「リンとホウ素、次の定期便で届くってさ。
量は少ないけど、試験には十分だろう。それから、電流計と抵抗器も確保できるって」
「やった……!」
「ただな」
父さんは、少しだけ眉をひそめた。
「電圧計のことは、どうにも理解されてないみたいだった。
“そんなものは扱っていないし、用途も聞いたことがない”って言われたらしい」
「……そっか。やっぱり、あんまり一般的じゃないのかな。
文献を読んでも、電圧計って道具が出てこなかったし……」
父さんは頷きながら言った。
「商会の人間が、“一度、電気器具のメーカーと話してくれませんか”ってさ。
このままだと、こっちで話が通じないかもしれん」
僕は少し考え込んでから、頷いた。
「……今すぐは難しいけど、ブリュッセルに行く必要がありそうだね」
「そうだな。ちょうど仕事も落ち着いてきたし……来週あたり、行ってみるか。
お前もそろそろ外に出た方がいいだろう」
父さんは、茶化すように笑った。