5.沈黙の火花
日曜日の午後、礼拝から戻った家の中は、どこか特別な静けさに包まれていた。
昼食を囲んで、兄たちの近況について母と語り合ったあと、父は書斎に、母は縫い物に戻った。
僕は食後のコーヒーの香りが薄れていくのを感じながら、自室の机で読書でもするつもりだった。
だが――そのとき、不意に工房の奥から「カチ」と硬質な音が響いた。
(……父さん?)
今日は仕事は休みのはずだ。工房に火を入れる予定もない。
気になってそっと扉を開けると、ほの暗い室内に、見慣れない機材の影が浮かび上がっていた。
作業台の上には、ガラス容器に入った液体があり、そこから導線が伸びている。
父は銀色のスプーンのような金属片を慎重に液に浸し、しばらくしてゆっくりと持ち上げた。
金属表面がかすかに鈍く光っている。
僕は思わず声を上げた。
「……電気?」
父は振り返り、いつになく興味深げな笑みを浮かべて答えた。
「ああ。これはルクランシェ電池といってな。電信用に開発されたものらしい。通信所ではこれを何十本も並べて、モールス信号を送っているそうだ」
机の上にはもう一つ、同じ形のガラス容器が置かれていた。
液体は濃い褐色で、底には沈殿物がたまり、側面には何やら化学的な反応の痕跡があった。
「これは本物? 父さんが作ったんじゃなくて?」
「ああ、フランスの商会に頼んで取り寄せた。なじみのある商人がいてな。驚いたぞ、これが1セルで1フランしない。それでいて、規格がちゃんと決まっている。手工芸品じゃない。“製品”という雰囲気がある」
父は感心したように、容器に視線を落とした。
「錬金術が競わねばならぬ“敵”を、知っておかねばならんからな。使い方も見ておく必要がある」
工房の片隅には、銀を沈着させたメッキ片が数枚並んでいた。
それらは手作業で磨く必要すらないほどに、均一な輝きを放っている。
父が用意した金属板や液体、それらはたしかに実験的ではあるが、
どこか量産される部品のような統一感があり、手作業の錬金術とはまったく異なる質を感じさせた。
「なあ、レオン」
父は突然、声のトーンを落として言った。
「……無理はするな。お前が苦労して家を継ぐ必要はない。今のうちなら、大学に進む道もまだ残っている。
錬金術という看板だけでどうにか食いつなげているが――この時代の流れは、きっとそれを過去のものにする」
父の言葉には実感がこもっていた。
さっきまで電池に向けていた眼差しの奥にあったのは、敬意と恐れの混ざった感情だったのかもしれない。
ルクランシェ電池。
フランスで開発されたこの新技術は、もはや学者の実験材料ではなく、兵器でも宝飾でもない――
“道具”として、社会の中へと静かに浸透しはじめていた。
それは、産業革命の果てに現れた新たな力。
蒸気と歯車の時代が生んだ電気の波は、やがて錬金術そのものを飲み込んでしまうかもしれない。
父はきっと、そうした「現実」を僕に伝えたかったのかもしれない。
けれど――
僕は、ゆっくりと首を振った。
「父さん……僕は、大学に行きたくない。行かなくていい」
言葉を選ぶのに少し時間がかかった。
心臓の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じながら、僕は続けた。
「僕は、この家を――この街を、継ぎたいと思ってる。
ここで錬金術を続けていきたい。ずっと、そう思ってきた。
子どもの頃からずっと、父さんの背中を見てきた。
メッキの輝きも、地脈の感触も、薬品の匂いも……僕にとっては全部、誇りなんだ」
父は目を伏せ、ゆっくりと作業台に手を置いた。
その手はわずかに動きながらも、何も言わなかった。
「でも……ただ真似するだけじゃ、もう通用しないとも思ってる」
僕は大きく息を吸い込んだ。
ここからが、本当に伝えたかったことだった。
「父さん、あの日……汽車を見たあの日。
あの蒸気と音に飲み込まれそうになったあの瞬間、僕の中に――記憶が、流れ込んできたんだ」
工房の中に、時計の秒針の音がかすかに響いていた。
父の目がゆっくりと、僕の方を見た。
「未来の記憶。僕は、令和という時代に生きていた。そこでは、電気や機械が当たり前にあって、僕は電機メーカーで働いていた。設計をしていた。
あの世界では、蒸気でも電気でもない、“電子”という目に見えない力を使って、世界を動かしていたんだ」
僕は、工房の壁を一瞥した。
かつては溶鉱炉と呼ばれた窯、その上に吊された道具、配線、そしてまだ湿ったメッキ片。
「今、僕の中にはその知識が残ってる。完全じゃない。でも……僕にはわかる。
今のままじゃ、錬金術は電気に飲まれる。
でも、もし――その電気を、錬金術で再定義できたら?」
父の眉が微かに動いた。
「“トランジスタ”っていう装置がある。
それは、電流を増幅させるものなんだ。信号の流れを制御できる。
すごく小さな部品なんだけど、それが世界を変えた。
計算も通信も記憶も、すべてはそこから始まった」
「……増幅?」
父が、初めて声を発した。
「うん。小さな電流を、別の電流で“操る”ことで、何倍にもして出力する。
ただのスイッチじゃない。情報を扱うための、最初の“知能”を持った部品。
僕はそれを、この世界で――錬金術で作れないかって考えてる」
父は、じっと僕を見つめていた。
深く、長く、何も言わずに。
「ゲルマニウムっていう鉱物が、本来は必要なんだけど、今はこの世界にはない。
だから、当時のトランジスタの最初の形式――点接触型――は無理かもしれない。
けど、錬金術の構造に対する操作を使えば、接合型なら……いけるかもしれないと思ってる。
過去に錬金術で行われていた精錬と同じような操作をすれば、理論的には成立するはずなんだ」
しばらくの間、工房の中には沈黙だけがあった。
父はメッキ片に視線を落とし、次に電池を見た。
そしてようやく――低く、静かな声で口を開いた。
「……記憶が、流れ込んできたのか」
「うん」
父は手を組み、作業台の上でしばらくじっと考えていた。
まるで目に見えない問いと格闘するように、唇がかすかに震えた。
「……“電流の増幅”っていうのが、どんな意味なのかは、正直よくわからん。
いや、頭ではわかるような気もするが、実感としては……それが何を変えるのか、までは理解が及ばない」
父は、工房の壁を見つめた。
かつては精錬を行い、合金を作り、そして今ではただメッキを施すだけになったこの場所。
そこに、電気の時代が踏み込もうとしている。
「それでも、お前の話には、未来に踏み出そうとする力を感じた」
父はゆっくりと立ち上がり、僕の肩に手を置いた。
「レオン。俺には、その装置がどんなものかはわからない。
けれど……お前がそれを“作りたい”と思うなら、俺は応援したい。
たとえそれが錬金術の終わりでも、あるいは、新しい始まりでもな」
その手の温かさは、過去のものではなかった。
それは今を生きる父の、たしかな“支え”だった。